俺は時期社長として決めたからな。この工場との契約は終了するってよ。
得意先の社長の息子にそう宣言されて、俺の頭は一瞬フリーズした。契約終了だと?突然そんなことを言われても、借金まみれで危ないところにお金を借りている工場とは付き合ってられないんだよ。危ない人たちにうちの会社まで目をつけられたらたまらないからな。
勝手に決めつけ、好き放題言われて、開いた口が塞がらない。いくら否定しても、彼は俺の言うことを信じようとはしなかった。うちとの取引がなくなれば、こんな工場は終わりだろうな。まあ、せいぜい頑張ってよ。最後に侮辱して、彼は帰ろうとする。
去っていく背中を眺め、俺の中で張っていた糸がプツンと切れた。先代からの付き合いを考えて多めに見てきたが、もう見放してもバチは当たらないだろう。契約を終了して終わるのがどっちか、試してやろうじゃないか。
俺の名前は元也。高城町で工場の社長をしている。俺の実家は、俺が幼い頃から貧しい家庭だった。父親が幼い頃に亡くなり、母さんが一人で働きながら俺を育ててくれたからだ。母さんは俺に不自由をさせたくないと、大学進学もしていいと言ってくれていた。しかし俺は早く働いて母さんを助けたいという思いがあり、高校を卒業後、すぐに就職する道を選んだ。親戚の紹介を受けて、この町に工員として入社した。
俺は周りの人たちに早く一人前の姿を見せたいと、必死に仕事に熱中した。がむしゃらに仕事を頑張っていたこともあってか、社長にすごく可愛がってもらえるようになり、何かあると気にかけてくれ、いつも俺を応援してくれた。そして俺も、一社員のことを気にかけてくれる社長のことを尊敬し、恩に報いるようさらに精進した。その結果、次第に社長から仕事ぶりを評価してもらえるようになった。いつしか「将来はお前に会社をついでもらおうかな」と言われるように。笑いながらそう言っていたため、俺は全く本気にはしていなかった。
ところが、そんなある日、社長が病に倒れて、仕事に復帰できなくなってしまった。そして病床の社長に、「後継がいないから」と、工場をついでくれと頼まれたのだ。本当にそんなことを言われると思わなかったため、すごく驚いたし、戸惑いもした。しかし、尊敬する社長と大好きな工場のため、工場を継ぐことを決意。それから俺は社長の期待に答えるため、さらに必死に頑張った。他の社員たちも俺が社長になることに賛成してくれて、社長になってからも不慣れな俺をいつも支えてくれた。そのおかげもあり、なんとか現在もこの工場を守り続けることができている。
また、取引先にも恵まれていたと思う。特に工場の大口取引先である大手部品メーカーには大変助けられた。この会社とは長年取引を続けており、良好な関係を築いている。先代社長の頃からの付き合いだったが、俺が社長になってからも変わらずに取引してくれていた。突然社長になった俺の相談にも乗ってくれるなど、本当によくしてくれていた。だからこそ、これからも期待を裏切らないよう、真摯に向き合って仕事をこなしている。
そんな時、その大手部品メーカーから、社長が引退し、長男の若松周一さんが後を継ぐとの案内が届いた。社長に息子がいることは知っていたが、実際に会ったこともなければ面識もない。どんな人なのかも、社長からは何も聞いていなかった。そんな俺に、社員が大手部品メーカーの社員から周一さんについての噂を聞いたと教えてくれた。何でも、父親の前ではいい顔をしているけど、下の人間にはすごく冷たい人らしくて、あんまり評判が良くないらしい。社員たちも、社長の後を周一さんが継ぐことになって、不安を抱いているそうだ。そんな話を聞いて、俺も今後うまくやっていけるのだろうかと不安になってしまった。
それから数日後の昼過ぎ、午後の作業を始めたばかりのところに見知らぬ男性が工場を尋ねてきた。どうやらこの人が大手部品メーカーの時期社長である周一さんのようだ。周一さんは、たまたま近くを通りかかったから来たという。突然のことに驚きながらも、俺は挨拶をした。すると周一さんは不機嫌そうにそう言うと、俺を上から下まで見定めるように見る。あまり感じがいいとは言えない視線に、俺も少し戸惑ってしまった。
周一さんは時期社長として工場を見たいというので、俺が案内をすることに。ここでいつも製品の製造を行っています。へえ、ここでね。周一さんは工場内を見渡し、少しバカにしたように鼻で笑っている。俺はなぜだかわからず周一さんを見る。すると俺の視線から気持ちを察したようで、周一さんは笑いながら口を開いた。いや、随分と薄汚い工場だなと思ってさ。まあ、工場ですからね。綺麗ではないですね。
初対面で取引のある工場に、いくら何でも薄汚いは失礼だと少し気分が悪くなったが、俺は愛想笑いでごまかしてこらえる。しかし、周一さんの失礼な発言はこれだけでは終わらなかった。本ぼうですぐにでも壊れそうだな。まあ、あなたにはお似合いの工場ですね。俺をちらりと見ながら、周一さんはそう言ってきた。俺のことも工場のことも馬鹿にしているのだと確信する。確かに綺麗で大きな工場ではないが、どうしてそこまで言われないといけないのか。それに気がつけば、周一さんはため口で話してきていた。やはり噂で聞いた通りの人のようだ。この日はそれだけ言って、忙しいからと周一さんは足早に帰ってしまった。
帰った後も周一さんの言葉を思い出し、気分が悪くなる。まだ社長の交代は少し先だが、今後うまくやっていけるのか不安が大きくなるばかりであったが、その日の夕方、社長から俺の元に電話がかかってきた。元也さん、今日、息子がそちらに挨拶に行ったと聞きました。急な訪問をいただき、ありがとうございました。いえいえ、近くを通りかかったと言って来ていただいて…。もっとたくさん色々な話をして盛り上がったと言って喜んでましたよ。これからいい関係を築けそうだと言ってました。
俺は社長の言葉に耳を疑ってしまった。色々な話をしたわけでもなければ、盛り上がったわけでもない。ただ暴言を吐かれて、俺は不快な思いをしていたのに、社長から聞く話は全然違っている。やはり社長の前ではいい息子を演じているのだろうと思ってしまった。言っていることが違うのにはますます不審感を抱いてしまうが、その一方で、周一さんの言葉を俺が気にしなければいいのかもしれないと感じた。きっと父親の前で良い息子を演じる周一さんなら、長い付き合いのうちの工場を邪険に扱うことはないだろうと思ったからだ。社長も、周一さんが俺と仲良くなったという嘘を聞いて喜んでいるようだったし、俺の口からそれは嘘だなんていうことはできない。そんなことをしても、退任する社長を不安にさせるだけだ。今までよくしてもらった恩もあるのだから、社長のためにもこれから頑張って周一さんと良い関係を作っていこうと思った。しかし、そう簡単にはいかなかった。
それからも周一さんは、近くを通りかかったからと言って、何度かうちに足を運んだ。正直、何の用事があるのかと思ってしまうほどだ。しかも、周一さんは来るたびに一方的に好き勝手に暴言を吐いて帰っていく。決して俺といい関係を築こうとしている人の対応だとは思えない。それでも俺は、社長のため、そして取引のためにと、周一さんの暴言を黙って聞いているしかできなかった。
そんなある日、事件が起きてしまう。この日も周一さんが暇を潰すかのようにうちの工場にやってきた。はあ、相変わらずきったない工場だなあ。ここに来ると元気がなくなるわ。今日も周一さんの暴言を黙って聞かなければいけないのかと、俺も元気をなくしてしまう。すると周一さんは、何か思い出したかのように「ずっと言いたかったんだけど」と言って口を開いた。この工場って、ドラマとかでよく見かける、危ないところに借金して返済に迫られている貧乏工場とそっくりだよな。ここも危ないところに借金して大変なんだろうなって思ってたんだよ。
突然何を言い出すのかと思えば、そんなことを言って、勝手に借金をしていると決めつけられた。これには俺も黙っていることができず、やんわり否定する。そんなうちは、そんなところに借金なんて知っていませんよ。そうかな。どう見たって今にも潰れそうだし。本当は借金とか来てるんでしょ。俺が否定をしても、周一さんは自分の勝手な考えを本当なんだろうと言ってくる。怪しいから、俺この工場を見張ってたんだよ。どういうことですか?見張ってたって?取り立てに来られてないか、ちゃんと俺がチェックしようと思ってさ。先週の金曜日、いかにも悪そうな人が来てたじゃないか。その日だけじゃない。別の日も来客があったし。
用もないのにうちの工場に来ていた理由はそれだったのかと呆れてしまう。先週の金曜日に来てたのは取引先の方です。人の見た目を悪く言うようなことはやめてください。ふうん。どうせうちとの取引くらいしかないくせに、下手な嘘つかなくていいから。周一さんの次々と出る言葉に、俺は驚きが止まらない。勝手な妄想でどんどんうちの工場を貶めていく。しまいには取引先の方の見た目に文句をつけるなんて、どんどん腹が立ってきた。まあでももういいよ。俺は時期社長として決めたから。決めたって、何をですか?こんなおんぼろ工場との契約を終了することだよ。契約を終了ですか?突然そんなことを言われましても。
周一さんの突然の言葉に驚き、俺も口調が思わず強くなってしまう。こんな汚いところで作ってゴミのついたものを納品されたら困るし。そんなことは絶対にありません。今までもそんなこと一度もありませんよね。それに危ない人たちにうちの会社まで目をつけられたらたまらないからな。勝手に決めつけ、好き放題に言う周一さんに、開いた口が塞がらない。うちとの取引がなくなれば、こんな工場は終わりだろうな。まあ、せいぜい頑張ってよ。周一さんは最後に侮辱して帰ろうとした。去っていく背中を眺め、俺の中で張っていた糸がプツンと切れる。
その瞬間、ついに我慢ができなくなり、深呼吸した後、まっすぐ周一さんを見て口を開いた。終わるのはあんたの方だ。うちの最新技術は他社に譲ると、社長に今すぐ伝えろ。怒りに思わず声が強まってしまい、周一さんも一瞬驚いた表情をして振り返った。しかし、すぐに周一さんはいつもの馬鹿にしたような見下した表情になる。何をバカなこと言ってるんだ。さすが嘘つきは言うことがおかしくて面白いよ。すると、ちょうどその時、周一さんのスマホが鳴った。お疲れ様です、父さん。どうやら相手は周一さんの父親である社長のようだ。周一さんはいつもとは全然違う愛想のいい感じで電話に出た。どうやら仕事のことで話があったらしく、周一さんは「できる男」といった風体で真剣に仕事の話を始めた。いつもこんな感じで社長と接しているのかと思うと、自分との対応の差に怖くも思ってしまうほどだ。
ひとしきり話した後、周一さんが俺を見てにやりと笑った。父さん、僕からも取引先についてお話がありまして。そうして切り出し、社長に対して俺の工場との取引を終わらせる許可を求めた。何と言うか、こんなおんぼろ工場より何倍もいい工場ですよ。俺の方をチラチラと見て笑いながら話し、社長にはうちの代わりとなる最先端の工場を見つけてあると話す。ところが、次の瞬間。何を言っているんだ!いい加減にしろ!電話越しにも聞こえる社長の怒声が響いた。それに驚いた顔をした周一さんだったが、その後、何やら社長の話を聞くにつれて、周一さんの顔が青ざめていく。先ほどまでの優越感に満ちた笑顔はどこへやら、今は下を向き始めてしまった。
そして電話を切った周一さんが、ぼそぼそと聞いたこともないような小さな声で話し始めた。まさか、こんなおんぼろ工場が…。周一さんはそれだけ言うと言葉を失い、顔を俯かせたまま上げない。俺には聞こえていなくても、電話越しに周一さんが社長に何を言われたかは検討がついていた。俺はこの工場で研究を重ね、特許技術をいくつも作り出していた。特に最新の技術は蓄電池に関するもので、小型で安価でありながら、蓄電容量は大幅にアップを可能にするというものだ。それは従来のものとは比べ物にならないほど性能を向上させられる。その技術を、長年の付き合いのある周一さんの会社が独占的に利用できる契約となっていた。その技術のおかげで、俺の工場は周一さんの会社の経営を支える柱となっている。どうやら時期社長となるにも関わらず、そのことを周一さんは知らなかったようだ。
周一さんはうなだれたように俯いていた顔を上げて、謝罪を始める。本当に申し訳ございませんでした。先ほどのお話は忘れてください。忘れてください、だと?忘れることなんてできませんよ。契約を終了すると言ったのは周一さんです。軽い謝罪で簡単に許されると思っている周一さんに驚くも、俺ははっきりと拒否する。いや、まさかそんな技術があったなんて知らなくて。まあ、確かにうちはおんぼろ工場ですからね。それは事実なので、契約終了で結構ですよ。いや、その、ですから…。言葉に詰まっている周一さんへの攻撃を、俺はもう止められない。それに、周一さんは代わりの工場を見つけてあると言っていましたもんね。残念ですが、そちらでお取引をされればいいと思いますよ。そんな、周一さんが代わりになるといった工場も、工場の綺麗さなどの見た目から判断しただけなのだろう。事実を述べる俺に何も言い返せないのか、いつもの勢いを全く感じられない。
もう用はないので、お帰りください。俺はそれだけ言ってその場を立ち去ろうとすると、周一さんに腕を掴まれ、泣きつかれるようにして土下座をされる。本当に申し訳ございませんでした。今までのひどい発言も全て謝罪します。もう、何を言われてもそちらと取引するつもりはありませんよ。今まで父といい付き合いをしていたって言ってたじゃないですか。長い付き合いなんですよね。そうですね。こちらもこんなことになってしまい、残念ですよ。周一さんが必死に土下座をして謝罪をしてきたが、何を言われても俺は顔色を変えず、淡々と突き離す。これには周一さんも、もうどうすることもできないと感じたのか、膝をついたまま脱力してしまった。ずっとここにいられても困ると思い、俺は社員たちと工場の外に周一さんを追い出した。
その後、俺は周一さんの発言を侮辱行為として、契約を正式に打ち切った。そして代わりに、周一さんの会社のライバル社と契約を交わす。周一さんが勝手に取り立てだと勘違いしていた方は、うちと契約をして欲しいと言ってきている会社だった。以前から契約をして欲しいという会社はあったが、周一さんの会社と長い付き合いをしていることは有名で、いつも断っていた。しかし、社長が周一さんに変わるということが業界内で噂され、これを機に契約をお願いに来る会社が増えていたのだ。いつもはあまり話も聞かずに断っていたが、周一さんの態度に悩んでいた俺は、いつかこんなこともあろうかと、条件など詳しい話を聞いていた。周一さんの会社とは価格を変更することなくずっと取引をしていたため、他のどの会社も周一さんの会社より好条件だった。社長にお世話になったこともあり、それでも取引を続けようとは思っていたが、もう周一さんと仕事をしていく気にはなれなかったのだ。
俺が新しく契約したライバル社は、契約後、株価が急上昇し、業績も飛躍的に向上。対照的に、周一さんの会社は業績が急激に悪化してしまった。うちの工場が支えていたのだから、こうなってしまうのも当然だろう。社長は今回の件を機に、周一さんのことをしっかり問い詰めたそうだ。そして、他の社員からも周一さんの話を聞いたそうで、社長の前だけ良い息子を演じていたことがバレてしまったらしいと風の噂で聞いた。社長は周一さんに激怒し、「時期社長にはさせない」と決めたそうだ。その後の行方は誰も知らないとライバル社の担当者から伝え聞いたが、まあ、俺にはもう関係ないことだ。
そんな人のことを気にする余裕はない。俺には目の前の仕事があり、守らなければいけない会社がある。俺は今回の件で、改めて謙虚な姿勢が大切だと身にしみた。周りの人たちに支えてもらえている環境にも感謝し、地道にこの工場のために仕事をしていこうと改めて決意している。
***
こいつ、俺の小魚じゃ要らないからな。
自分が社長を務める工務店の得意先、大手企業の担当と偶然バーで出会った俺は、彼の取り巻きたちにそう紹介された。やだ、ウケる。取り巻きたちの反応にご満悦な様子を見せる担当は、「なあ、小魚社長、もっと仕事が欲しいなら、この100万のシャンパン奢ってくれよ」そう言いながら彼がバーのメニュー表を指さした。さらに取り巻きに下卑た顔で話を振る。「なあ、お前らも飲みたいだろ。100万のシャンパン。飲みたい、飲みたい。小魚社長さん、俺らも飲みたい!」ついでに酔っ払っているのか、彼の言葉に周囲もわーと騒ぎ始めた。
お店や他の客への迷惑も考えない姿に、俺は呆れてしまう。それでこの場が収まるのであれば、彼らの言う通り払ってやってもいいのだが。俺は薄く笑みを浮かべる。「別に構いませんよ。ですが…」俺の言葉に、顔を真っ赤にして怒り出した担当だったが、数日後、俺の正体を理解し、担当と彼の会社は地獄を見るはめに陥るのだった。
俺の名前は岡井了介。祖父の代から続く工務店の社長をしている。社長と言っても小さな店で、仕事は主にハウスメーカーの下請けだ。苦学して社会人となってからしばらくは、他の工務店などの営業として働いていたのだが、1年前に父から実家の工務店を受け継いだ。ちなみに父は今も現役で働いているのだが、父はどちらかといえば職人肌で、もっと現場に出たいという人だ。それまでは社長業との兼ね合いもあり、現場仕事は減らしていたらしいのだが、晴れて俺に社長の座を譲ってからは、毎日それこそ鬼のように現場を駆け回っている。そんな父の姿を見ながら、俺は心機一転、社長として今日も自分の仕事に励むのであった。
とある日、見慣れてはいるがあまり会いたくはない人物が工務店を訪れた。祖父の代から付き合いのある得意先の大手ハウスメーカーの担当である。名前は平松さん。なんと彼は、その大手ハウスメーカーの社長の息子でもあった。彼は高そうなスーツとピカピカに磨かれた靴で今日もばっちり決めていたが、古くて小汚いこの工務店においては、いささか場違いな存在でもある。「どうも。もう本当に、ここはいつ来ても埃っぽいな。ねえ、了介社長。ここ、ただでさえ狭くて古くて汚いんだから、たまには掃除でもしたらどう?」自慢のブランドが汚れたのが気に入らないらしく、平松さんはこれ見せがしにハンカチで靴を磨くと、ため息混じりでそう言った。
もちろん、言われなくても掃除は毎日しているのだが、建設に直接関わる大工や現場監督もしょっちゅう出入りするため、どうしても土埃りは溜まってしまう。汚れるのが嫌なら、そんなにピカピカとした靴を履いてこなければいいのにと内心思いながらも、彼がこの工務店や俺のことを馬鹿にするのはいつものことなので、笑顔を浮かべてさらりと本題に入った。「これは失礼しました。以後気をつけますね。ところで平松さん、今日は?」「ああ、ああ、今日はこの件でな。納期が早まったから、一応連絡しといてやるよ」そう言って平松さんは鞄の中から書類を取り出すと、ほとんど投げるようにして俺と渡してくる。しかし、その書面を見て俺は思わず声をあげた。「平松さん、これは、さすがに納期が当初より1週間も早いだなんて。工期もきついのに」「ああ?うるさい」すると俺の抗議を面倒くさそうに遮り、平松さんが嫌味な仕草で肩をすくめる。「仕方ないだろうが、それが先方の要望なんだから。休みなしで行けば余裕で間に合うだろ」当たり前の顔してひどいことを言う彼に、俺は呆けに取られてしまう。
そもそも、彼の父が社長を務める大手からの発注は、不当な金額のものや無理なスケジュールが組まれている案件が多いのだ。それでもこちらの足元を見ているかのような依頼を受けるのはなぜかと言えば、話は祖父の代に遡る。祖父がこの工務店を始めた際、大手ハウスメーカーの当時の社長であった平松さんの祖父がその仕事ぶりを気に入ってくれ、この工務店へ優先的に仕事を回してくれたのである。祖父はもう亡くなってはいるが、最後までそのことを大変恩義に思っており、息子、つまり俺の父や孫の俺にも「恩義に報いるように」とよく言い聞かせていた。そのこともあり、どんなに無茶な依頼であっても、父も俺もできるだけ求められた仕事はこなしてきたつもりだ。だが、それが帰って会社側の要求をエスカレートさせたのか。担当がこの平松さんになって以降、回ってくる仕事内容が特に酷くなっているのだった。
人を人とも思っていないような平松さんの発言に、無言ながらも俺が納得していないのは伝わったのだろう。彼は一度睨むようにして俺を見やると、口の端を吊り上げてせせら笑った。「了介さんよ、あんたはいいから黙ってうちからの依頼をこなせばいいんだよ。というか、こんなパッとしない工務店、うちからの発注がなければすぐにでも潰れるだろう。仕事を回してもらえることに感謝しないと」そして平松さんは「あんたはせいぜい俺のご機嫌取りをしてください」と締めくくり、話は終わりとばかりに立ち上がると、さっさと帰って行ってしまう。彼の鳴らす近所迷惑な車のエンジン音に、俺はため息をつきながら、仕方なく工事スケジュールの組み直しを検討するのだった。
平松さんに振り回されながら忙しく過ごしていたある日のこと。俺は高級ホテルのバーで一人グラスを傾けていた。先ほどまで一緒に飲んでいた相手がいたのだが、急な用事ができてしまい、早々に帰って行ってしまったのである。それに合わせて俺も帰ろうかと思ったものの、明日は工務店も休みだ。このところバタバタしていてゆっくりする機会もなかったから、あと1杯だけ飲んでいこうと、久しぶりに一人でくつろいでいた。その矢先だ。洗練されたバーの雰囲気にそぐわない、騒がしい集団がどやどやと入転してくる。俺は思わず眉を寄せて集団を見やった。すると、その中心になんとあの平松さんの姿を見つけてしまったのである。彼の他には2人の男性、そして3人の女性がいたが見た感じ、その誰もが平松さんにあからさまな媚を売っていて、彼が何かを言うたびに大げさなほどキャッキャと盛り上がっていた。
せっかくのひと時だったが、ここで見つかっては絶対に面倒なことになる。俺はそう思い、今のうちに席を立つべく、さっさと立ち上がろうとした。しかし、こういうことには目ざとい平松さんが、そんな俺の後ろ姿を見つけてしまったらしい。「誰かと思えば、そこにいるのは了介社長じゃないですか」店の迷惑も何のその、バー全体に響き渡るような声で平松さんが俺を呼んだ。気づかなかったふりをして帰ってしまいたい気持ちは十分にあったが、こんな大声で呼ばれてしまえばさすがに無視するわけにもいかない。俺はせいぜい愛想笑いを浮かべつつ振り返り、「ああ、これは平松さん」などとしじらしく挨拶する。すると彼は、まるで子犬でも呼ぶようにしてちょいちょいと手で招く。仕方なく近づいてきた俺を、連れの女性たちに紹介した。「こいつ、俺の小魚じゃあないからな」そのあんまりな紹介に、瞬間、彼の隣に座っていた女性が甲高い笑い声をあげる。「え、何それ?でも信吾さん、さっきこの人のこと社長って呼んでたでしょ?それにこんないいスーツ着てるし」「へ、初めまして。社長さんはどんな会社を経営してらっしゃるの?」
しかし、その女性が上目遣いで俺を見てくれるものだから、おざなりにされた平松さんはと言えば、嫉妬深げに俺のことを睨んでふんと鼻を鳴らした。「まあ確かに、あんなボロい工務店でも社長は社長だよな。でも実際は、俺の親父の会社の下請けでなんとか食いついてる。肩書きだけの社長だけどな」そうだ。あんた、今日から“社長”って名前にしろよ。「あ、はあ」「そしたらみんなに“社長”って呼んでもらえるぜ」平松さんが笑えば、周囲の男女もそれに追従するように笑った。「やだ、信吾さんたらウケる」お気に入りの女性に褒められたためか、平松さんは得意げに胸を張り、ニヤニヤと嫌な笑いを浮かべてさらに言い募る。「ってことで、こいつ、俺に頭が上がんねえのよ。だから“小魚社長”」あんたもなんだよ。そんなスーツなんか着ちゃって。「ああ、こういうホテルのバーにでも憧れてた口か。はっ、貧乏人はこれだから」その目が、俺を完全に見下すようにして細められた。「なあ、小魚社長くん、もっと仕事が欲しいなら、この100万のシャンパン奢ってくれよ」そう言いながら、彼がバーのメニュー表を指さした。そして、平松さんは隣の女性に顔で話を振る。「なあ、お前らも飲みたいだろ?100万のシャンパン」「飲みたい、飲みたい。小魚社長さん、俺らも飲みたい!」すでに酔っ払っているのか、平松さんの言葉に周囲もわーと騒ぎ始めた。
そのうるささに俺は呆れてしまう。それでこの場が収まるのであれば、彼らの言う通り払ってやってもいいのだが。俺は薄く笑みを浮かべながらも、静かに口を開いた。「皆さんがどうしてもおっしゃるのなら、ここで奢ることも吝かではありません。ですが…」俺の冷静な視線に、平松さんがわずかにタジロぐ。そんな彼をまっすぐに見ながら、俺は続けた。「“小魚社長”というその呼び方はお控えください。私はあなたの“小魚社長”ではないので」撥ねるようにされて、ポカンと口を開けていた平松さんだが、やがてその顔を真っ赤にさせて立ち上がる。「お前、高が下請けの癖して、そんな口聞いていいと思ってんのか?いいか?俺が親父に一言言えば、あんなボロ工務店なんてすぐに吹っ飛ばせるんだぞ」そうして、彼は俺の胸ぐらを強く掴んでくる。さすがにこれには周囲も慌てて、そのうち店員が割って入ってくれた。「他のお客様のご迷惑になりますので」「そうそう。ねえ、別のとこで飲み直そうよ、信吾さん」「あ、俺、いいとこ知ってますよ」周囲の言葉に、平松さんはちっと舌打ちを落とし、俺の胸ぐらを掴んでいたその手をようやく話す。だが、怒りは収まらない様子で、彼は俺を睨みつけながら「覚えてろよ」とお決まりの文句を口にしたのだった。
そんなバーでの騒動から数日経った頃、俺は平松さんに呼び出されて、彼の会社を訪れていた。応接室には、先に平松さんと、それから彼の父であるこの会社の社長が二人して俺を待ち構えていた。しかし、二人ともどこか顔色がさえない。そして俺が席に着いた瞬間、平松さんが1枚の書類を俺に見せてきた。「どういうことだ?」差し出されたその書面には、「今後この会社とは取引しない」という旨が記載されていた。見覚えのあるそれに、俺は感情をなくして返す。「ですから、書面通りの意味です。今月で当社との契約は打ち切りということで」実はその書類は、俺が平松さんに宛てたものだった。すると、その横でイライラした様子を見せていた平松社長が、たまらず割って入ってくる。「銀行から受けられる予定だった100億の融資が白紙になったんだぞ!これは一体どういうことなんだ!」その融資の件も把握している。この会社は近々事業拡大をする予定であり、そのため大手銀行と高額の融資契約を交わしていた。だが、平松社長の弁では、その契約がどうやら白紙撤回されてしまったようである。「なぜかは知らんが、銀行が提示してきた契約内容には、お前のとこの工務店への継続的な発注が必須となっていたんだ。それを、お前がこんなことをするから!」
察するに、うちの工務店との契約が切れるのであれば融資はできないと言われたのであろう。父の言葉に、息子も焦ったようにして身を乗り出す。「なんでだ?なぜあんな大手の銀行が、お前のボロ工務店にこだわる?」「信吾、そんなことは後でいい。とりあえず今は契約継続が先だ。お前のとこだって、うちから仕事が来なくなったら困るだろうが。今なら何も言わず元に戻してやるから、さっさとこれを破棄しろ」平松社長が、俺を脅すかのごとく、対面からずいっと迫ってくる。そして息子も負けじと俺を睨んできた。「そうだ。なんだよ。この前のこと怒ってんのか?じゃあ、お前がうちと契約を続けるのなら、謝ってやる。だからお前は黙って俺たちの言うことを聞いてればいいんだ」そんな2人の言葉に、俺は失笑を禁じなかった。
俺は昔から、父の開発した家作りの技術はもっと高く評価されていいと考えていた。そこで、実家の工務店を継ぐと決まってから、俺は父の元で勉強する傍ら、地道な営業を重ねていたのである。こうしてその取り組みが実り、このところ複数の大口取引が立て続けに決まったのだった。ちなみに、この前バーにいたのも、取引先の担当との打ち合わせをした帰りだった。残念ながら、相手は車内でトラブルがあったようで戻ることとなり、だから一人で飲んでいたのであるが。
ごく小さなため息を漏らした俺は、あくまで淡々と答える。「私の意思は変わりません。御社からの不当な金額や無茶なスケジュールでの発注を、これ以上受ける理由もないので、書面通り契約は終了にします」見もない俺の返答に、目の前の親子はぐっと息をつまらせた。やがて、平松社長が声を上げる。「この恩知らずが!おい、わしの父がいなかったら、あんな工務店などとっくに潰れておったくせに!くそう、うちと契約したいという工務店なら、他にいくらでもあるんだぞ!」祖父の昔話には、当時の社長と一緒に酒を酌み交わしたという思い出もよく出てきていた。父も俺も、そのように平松親子と確かな絆を結ぶことへ密かに憧れていた時期もあるけれど…。「父ちゃん、ごめんな」俺は心の中でそう呟く。「今までお世話になりました。立ち上がって彼ら親子に一礼し、俺はそれ以上何も言わず、ただ静かに退出したのだった。
それから数ヶ月が経った。あれから平松親子の会社がどうなったかと言えば、結局融資は白紙になったままで、事業拡大も頓挫してしまったのだという。また、それどころか、彼らの手がける物件はどれも急激に質が落ちたと噂になり、業績は下がり続ける一方だとか。そのニュースを聞きながら、俺は当然だと思った。父の職人としての技術を生かした、高断熱・高気密の家作りは、そう簡単に真似できるものではない。融資先の銀行がうちの工務店との継続契約を条件に入れたのも、その技術を銀行側が高く買ってくれていたからだ。平松親子は知らなかったのだろうが、実はその大手銀行とうちは、それこそ祖父の代から続く長い付き合いなのである。
その後、俺は一度だけ平松親子と話す機会があった。業績悪化で追い詰められた2人が、この工務店へと押しかけてきて、取引再開を持ちかけてきたからだ。だが、それほどになっても彼らの高飛車な様子は全く変わらず、またそのしつこさにうんざりしてしまった俺は、「次からは警察を呼ぶ」と告げて、なんとか彼らを追い出したのである。
一方、おかげ様で、複数の取引先に父の技術は高く評価され、業界外にも広く認知されるようになった。そして工務店にも注文がひっきりなしに入り、今はありがたくも嬉しい悲鳴をあげている。俺は思う。もちろん過去は大切だけれど、そこに立ち止まってばかりいては成長がないのもまた事実。「まさしく恩義こそ、自信」。俺はこれからもその信念を胸に、日々の仕事へと励んでいこうと誓ったのだった。


