10年間、俺は白衣を着ながら一度もメスを握らなかった。内科医・山田レンジとして、患者の心電図を読み、血圧を測り、誰よりも正確に心臓の異変を見抜く。誰も知らない。俺がかつて「神の手」と呼ばれた外科医だったことを。そして、その手で最愛の女性を亡くしたことを。ある日、空港で大規模な事故が発生し、救急センターは阿鼻叫喚の様子に包まれた。心臓外科医が倒れ、残された手術は一つだけ。瀬戸晴という若い女医が…

10年間、俺は白衣を着ながら一度もメスを握らなかった。内科医・山田レンジとして、患者の心電図を読み、血圧を測り、誰よりも正確に心臓の異変を見抜く。誰も知らない。俺がかつて「神の手」と呼ばれた外科医だったことを。そして、その手で最愛の女性を亡くしたことを。ある日、空港で大規模な事故が発生し、救急センターは阿鼻叫喚の様子に包まれた。心臓外科医が倒れ、残された手術は一つだけ。瀬戸晴という若い女医が...

朝の窓ガラスにまた雪が貼りついている。この町の冬は長い。俺は白衣の袖を直しながら診察室の椅子に腰を下ろした。外来の最初の患者はもう20年通っている女性だ。

「先生、今日もよろしくお願いします。寒くなりましたね」
「膝の具合はどうですか?歩く時に痛みは出ていませんか?」
「ええ、お薬のおかげでなんとか歩けています」

俺は聴診器を当て軽く頷いた。俺の名前は山田レンジ。42歳だ。この総合病院に来てもう10年になる。午前の外来を終え廊下を歩いていると看護師たちが軽く頭を下げてくる。信頼されているという自覚はある。ただ俺は決して3階から上には行かない。3階より上は外科の領域だ。

ナースステーションの前で藤崎洋子主任が振り向いた。

「山田先生、午後の開心術の田中さんから入りますね。あと新しい先生がご挨拶に来てましたよ」
「新しい先生と言うと、例の心臓外科の方ですか?お会いできずに失礼しました」
「ええ、瀬戸先生、若いのにしっかりした方ですよ」

藤崎さんは病院創設からこの場所にいる。俺の過去をどこまで知っているのかはっきりとは分からない。

午後の診察の合間に休憩室へ寄った。そこに白衣の女性が立っていた。背筋を伸ばし、湯気の立つマグカップを両手で包んでいる。

「あ、山田先生ですよね。瀬戸晴と申します。先月から心臓血管科に着任しました。よろしくお願いします」
「山田です。こちらこそよろしくお願いします。寒いところに来られて大変でしょう」
「いえ、雪は嫌いじゃないので。それより先生、先日の72歳の男性、大動脈解離の疑いで先生が即座にCTを指示されたとか。心電図の初見だけで気づかれたと聞きました」
「たまたまですよ。背中の痛みの出方が気になっただけです」

晴はしばらくの間俺をじっと見ていた。何かを探るような目だった。俺は愛想笑いしてその場を離れた。

夕方、院長室に呼ばれた。大原院長は窓際の椅子から立ち上がり、自分でお茶を入れた。

「山田君、もう10年だな。君がここに来て」
「早いものですね。院長には本当にお世話になりました」
「礼はいらんよ。待っているんだ。君がもう一度メスを握る日を」

俺は答えなかった。

夜の病棟は静かなことが多い。ナースコールが2度鳴り、点滴の差し替えに行き、また戻る。詰め所の隅で藤崎さんがカルテをめくっていた。

「山田先生、コーヒー入れましょうか?」
「いただきます。すみません。いつも気を使っていただいて」
「先生は本当に無理をなさらない方ですね。でも、無理をしないのと何かを我慢しているのは別ですよ」

俺はカップを受け取りながら苦笑した。

「先生には昔、特別な過去があったんでしょう。私は詳しいことは存じませんけど、ずっとそう思ってます」

窓の外は雪が降り続いている。ガラスに映る自分の顔を見ながら、俺は10年前のことを思い出していた。

佐々木まみ。俺の恋人だった。東京の大学病院で看護師をしていた。明るくて、笑うと目尻に小さな皺ができる女だった。

「レンジさんって、手術している時が一番優しい顔してるって知ってた?」
「そうかな?自分じゃ分からないよ」
「うん。患者さんに触る時すごく丁寧だから、私好きになっちゃったのかも」

そんな会話をもう何度繰り返したかわからない。まみは重い心疾患を抱えていた。手術に指名されたのは、当時「神の手」と呼ばれていた俺だった。俺は迷わなかった。自分ほどの腕でやらなければ彼女は助からない。そう信じていた。

手術台の上で彼女は俺を見て小さく笑った。

「レンジさん、よろしくお願いします」
「ああ、任せておけ。終わったら祝いに行こう。あの店に」

手術は途中までは完璧だった。予想外の癒着、突然の出血。あらゆる手は尽くした。だが、戻ってこなかった。俺はその日、10年握っていたメスを置いた。

詰め所に戻ると、晴がカルテを抱えて立っていた。夜勤明けの相談だという。

「山田先生、405号の患者さん、午前中の心電図で少しSTが気になりまして。先生のご意見を伺えればと」
「波形を見せてください。ああ、これは経過観察で大丈夫だと思いますよ。利尿剤の調整をかけて、午後にもう一度撮りましょう」
「ありがとうございます。先生、本当に内科の先生ですか?心臓のこと、私より詳しいですよね」
「年の功ですよ。あなたほど若くないですから」
「ごまかさないでください。私、ずっと不思議だったんです」

晴はまっすぐに俺を見ていた。その目がまみに少し似ていた。俺は視線をそらした。

翌日、病院の地下にある古い資料室で晴は1人、過去の資料をめくっていた。症例研究のために10年以上前の心臓外科の論文を探していたのだという。後から藤崎さんが話してくれた。

棚の奥、紐で束ねられた医学雑誌の山。手袋の埃を払い、適当に1冊抜き出した時、ページの間から薄い雑誌が滑り落ちた。それは当時の心臓外科の若手を特集した雑誌だった。表紙には白衣を着た一人の男の写真。腕を組み、まっすぐにカメラを見ている。「神の手、市場最年少教授候補、山田レンジ32歳」。そんな見出しが太い文字で並んでいた。

晴はその場に立ち尽くしたままページを開いた。症例数、手術成績、海外からの招聘論文の数。どれも彼女が今まで読んだどんな外科医の経歴より群を抜いていた。今より少し痩せて目つきが鋭い。晴は雑誌を抱えたまましばらく動けなかった。頭の中でここ1ヶ月の俺の言動が一つずつ繋がっていったのだろう。心電図を一目で読む正確さ。内科にしては妙に細かい知識。3階のフロアに決して足を向けない不自然な距離の取り方。

その夜、俺は夜勤明けで屋上の自販機の前に立っていた。背後で扉が開く音がした。振り向くと晴が立っていた。手には古い雑誌があった。

「山田先生、どうしました?こんなところに。風を引きますよ」
「先生ですよね」

晴は雑誌を差し出した。

「昔の話です。もう別の人間ですよ」
「別の人間って、そんな言い方ずるいです。先生は本当は…」

晴の声が少し震えていた。

「どうしてやめたんですか?」
「人にはそれぞれ事情があります。今夜はもう休んでください」

俺はそれだけ言ってその場を後にした。階段を降りながら、俺は深く息を吐いた。

その朝、町は霧に沈んでいた。視界は20mもなかったろう。俺は外来の準備をしながら窓の外を見ていた。空港はここから車で15分の距離にある。

最初の異変は空気の振動だった。建物がわずかに揺れ、遠くで鈍い音がした。雷ではなかった。廊下を走る足音が増え、電話が一斉になり始めた。藤崎さんが詰め所から飛び出してきた。

「山田先生、空港でエアバスが事故です。着陸に失敗したそうで、重傷者多数。トリアージに搬送が始まります」
「分かりました。軽傷の方はベッドへ回してください。私は救急にいます」
「お願いします。とにかく手が足りません」

俺は白衣のボタンを止めながら階段を駆け降りた。救急センターの自動扉は開きっぱなしになっていた。ストレッチャーが次々と運び込まれてくる。藤崎さんは慌てるでもなく低い声で指示を飛ばしていた。

「重症は第3処置です。廊下にベッドを並べて、赤の方から優先してください。黒タグの確認もう一度、2人で」
「はい、わかりました」

俺は内科医としてまず気道と循環を見ることにした。胸を強く打った中年の男。頭から血を流す若い母親。腕の骨が折れて皮膚を突き破った少年。どれもこれも目を覆う光景だった。

「この方、胸腔ドレーンすぐに。あとレントゲンを頼む」
「はい、了解です」
「お子さんは止血を優先します。お母さんは輸血、大量輸血を先行で」

声を出しながら、頭の片隅で別の感覚が動き出していた。それは10年抑え込んできた感覚だった。脈の質、皮膚の色、目の動き。一つの所見が次の所見と勝手に繋がっていく。俺は外科医の目で患者を見ていた。

晴が廊下の向こうから走ってきた。

「山田先生、こちらの手伝いをお願いできますか?第2手術室で開胸を始めます。胸腔損傷の患者さんが2人続けて入っています」
「わかりました。こちらは引き受けます。高瀬部長はどうしました?」
「今、第1で出頭中です。後から合流されます」

晴は短く頷いて走り去った。事態が動いたのはそれから1時間ほど経った頃だった。第1手術室の扉が内側から乱暴に開いた。看護師が顔を出し、声を絞り出した。

「藤崎主任!高瀬先生が手術中に胸を押さえて倒れられて…」
「血圧と意識はどうなの?」
「意識はありますが、汗がひどくて」

俺は救急の処置を藤崎さんに引き継いだ。階段を登り、第1手術室の前室に駆け込む。高瀬部長は手術着のまま床に座り込んでいた。顔は土色で、唇が紫がかっていた。

「高瀬先生、聞こえますか?胸の痛みはいつから出ていましたか?」
「昨日の夜から少し…だが、こんな日に休めるか?」
「今日はもう休んでください。先生が倒れたら誰も手術できません」

高瀬部長は苦しそうに笑った。そして俺の腕を弱く掴んだ。

「君がやってくれ。第1の患者は私が途中まで開けてある。あとは心臓を縫うだけだ。君ならできるだろう。先生、私は知ってるよ。院長から少しだけ聞いた」

俺は答えられなかった。ストレッチャーに高瀬部長が乗せられ運ばれていく。廊下に残された俺の手はひどく冷たかった。

院長室に呼ばれたのはその直後だった。大原院長は立ったまま俺を待っていた。机の上に一冊の古いファイルが置かれていた。背表紙には俺の名前があった。

「山田君、座っている暇はない。立ったまま聞いてくれ」
「はい」
「外科の手術を取れる人間はもう君しかいない。瀬戸君にはさっき私から全部話した。君のこと、佐々木さんのこと、10年前のことだ」
「院長、それは…」
「責めるなら後で好きなだけ責めればいい。だが、今は時間がない。青年が一人、心臓に金属片を受けてる。あと30分で止まる」

俺は唇を噛んだ。まみの顔が浮かんだ。手術台の上で最後に俺を見て笑った。あの顔だった。

俺は手術室の前の廊下で立ち尽くしていた。扉の向こうから機械の音が漏れてくる。俺の足はそこから一歩も動かなかった。10年前の音が耳の奥で重なっていた。俺はあの音の中でメスを置いたのだ。

足音が近づいてきた。振り向くと晴が立っていた。手術着のまま、マスクを首元まで下ろしていた。

「山田先生」
「瀬戸先生、第2はどうなってる?」
「今、一段落しました。次の患者さんは私一人では無理です。胸骨の裏で金属片が刺さってます。21歳の青年です」

晴は静かに俺の前に立った。そして深く頭を下げた。

「お願いします。先生、手術室に入ってください」

「瀬戸先生、頭を上げてください。私は…私はもう10年もメスを握っていないんです。震えるかもしれない。判断を誤るかもしれない。また失わせるわけにはいかない」
「失わせません。今回は先生は一人じゃありません。私が先生を支えます」

晴は顔を上げた。目に強い光があった。

「先生の手が震えたら私が抑えます。先生が迷ったら私が声をかけます。10年前の先生はお一人で戦われたんだと思います。でも今日は違います」

「瀬戸先生…」
「私、先生のあの雑誌を読んだ夜からずっと考えていました。なぜこの人はこれだけの腕を持って内科の白衣を着ているのか。今、分かりました。先生は責めを受けてらしたんですね。10年間ずっと、胸の奥で」

俺は深く息を吸い込んだ。廊下の天井の蛍光灯がやけに白く見えた。

「瀬戸先生、第一助手お願いします。器械出しは藤崎さんで、麻酔は今入っている先生のまま続けてください。青年の所見、もう一度全部頭から教えてください。歩きながらで結構です」
「はい、わかりました」

俺は更衣室の扉を押した。ロッカーの奥に、10年間一度も袖を通していない手術着があった。布の匂いを深く吸い込んだ。震える指でボタンを止めていく。鏡の中に、10年前と少しだけ違う男が立った。目尻に皺が増えている。だが、目の奥の光はまだ消えていなかった。

扉の外で晴が待っていた。俺は短く頷き、彼女と並んで歩き出した。

手術室の扉が開いた。青い光が廊下に差し込んでくる。俺は一歩足を踏み入れた。消毒液の匂いが奥まで届いた。体がゆっくりと目を覚ましていく感覚があった。隣に立った晴が横目で俺を見ているのが分かった。

「先生、手は?」
「震えていません。大丈夫です。瀬戸先生、第一助手としての動き。私の指示より半歩先を読んでください。あなたならできるはずです」
「はい、やってみます」

手術室に入ると、室内の空気が一瞬止まった。藤崎さんがマスクの上の目をわずかに見開いた。若い看護師たちは、新しく入ってきた外科医が誰なのかまだ理解していなかった。

青年は手術台の上で眠っていた。青いシートの下から胸が覗いていた。モニターの数字はすでに危険な領域に入りかけていた。

「皆さん、手術を引き継ぎます。山田です。よろしくお願いします。手順を簡単に申し上げます。胸骨正中切開、心臓に到達次第、金属片の位置を確認。出血のコントロールを最優先。その後、損傷部位を修復します」
「先生、メスです」
「ありがとうございます」

藤崎さんの差し出したメスを俺は受け取った。最初の切開を入れた時、室内の誰かが小さく息を飲んだ。俺の手は覚えていた。皮膚を切る角度、筋膜に入る深さ、止め方。全てが10年の空白を感じさせない流れで繋がっていった。晴は半歩先を読み、傷口を広げ、視野を作っていく。言葉はほとんどいらなかった。看護師が自分の手が震えそうになるのを必死に抑えながら器械を渡し続けていた。「神の手」という言葉が伝説ではなく目の前にあった。

胸骨を開き、心臓に到達した。俺は晴に視線を送った。

「瀬戸先生、私が金属片を抜きます。同時にあなたが指で出血点を抑えてください。タイミングは私の合図で」
「はい、わかりました」
「藤崎さん、40プロリン、続けて2本用意してください。強めにお願いします」
「了解しました」

俺は一度深く息を吸った。ゆっくり金属片に指をかけた。その時だった。視界が白くぶれた。モニターの音が10年前の記憶に重なった。俺の指先がわずかに止まった。晴がそれに気づいた。

「山田先生、聞いてください。今、目の前にいるのは青年です。母親が廊下で待っています。瀬戸先生、呼吸を合わせてください。私が数えます。1、2、3で」

俺は晴の声に従った。

「1、息を吐く。2、指に力を込める。3」

金属片が抜けた。俺は素早く損傷部位に針をかけていった。1針、2針、3針。モニターの数字がゆっくりと安定していった。室内に誰かの長いため息が漏れた。藤崎さんの頬を涙が伝っている。

手術はそれから2時間ほど続いた。俺はそのまま別の患者の手術にも入った。気がつけば窓の外は白んでいた。雪はいつの間にか止んでいた。

全ての手術が終わった時、俺と晴は手術室の前室で並んで座っていた。二人とも立ち上がる気力すらなかった。晴がぽつりと言った。

「先生、お疲れ様でした。全員助かりました。あの青年ももう大丈夫です」
「ありがとうございました。瀬戸先生がいなければ、私は途中で手を止めていました。本当に助けられました」
「私、何もしていません。先生の手を見ていただけです」

廊下の向こうから大原院長が歩いてきた。何も言わず、ただ俺の肩に手を置いた。

数ヶ月が過ぎた。雪は溶け、町には淡い緑が戻っていた。俺は正式に心臓外科への復帰を願い出た。大原院長はただ一度、深く頷いただけだった。

辞令の紙を受け取った日、俺は院長室を出てすぐにまみの墓へ向かった。墓石は東京の郊外の高台にあった。桜が満開だった。

「まみ、遅くなった。10年ずっとあの日の手術室にいたよ。これからは前を向く。君が好きだったあの優しい顔の自分でもう一度人を救うよ」

風が吹いて、花びらが一枚、墓石の上に落ちた。

病院に戻ると、藤崎さんがニュースを教えてくれた。晴に東京の大学病院から教授候補としての誘いが来ているという話だった。俺は何も言わなかった。彼女の道だ。俺が口を挟むことではない。

その日の夕方、屋上で晴に呼び止められた。夕日が町の屋根を赤く染めていた。

「山田先生、お話があります。私、大学病院のお話、断りました。この病院に残ります」
「瀬戸先生、それはあなたのキャリアのためにも、よく考えた方が…」
「考えました。何度も。それでも私はここで先生と一緒に働きたいんです。先生の手を隣で見ていたいんです」

俺は晴の顔を見た。その目は澄んでいた。

「瀬戸先生…いえ、晴さん。私はずっと自分を許さないで生きてきました。あなたがあの夜、頭を下げてくれた時、初めて誰かにすがってもいいのかもしれないと思った。これから先も、隣にいてくれますか?」
「はい、喜んで」

二人の影が屋上の床に長く伸びた。町の遠くで夕方の鐘が鳴っていた。

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