「キャンセルって、そんな300個全部ですか?」
縦石生午は、旅館のロビーで聞いた言葉に耳を疑った。地元の和菓子屋を巡っていた休日のことだ。公園で出会った小さな姉妹に案内され、たどり着いたのは「風堂」という小さな店。そこで作られていたイチゴ大福は、今まで食べたどの和菓子よりも絶品だった。
店主の真奈は、祖父の跡を継いだばかりの和菓子職人。結婚と出産でブランクはあったが、ようやく店を再開したところだった。子供たちもいるシングルマザーで、経営は厳しいながらも懸命に働いていた。大口の注文が入ったと、嬉しそうに微笑んだのを覚えている。
そこへ、着物を着た二人の女性が現れた。弟子の竹下が連れてきた、日高という女性。彼女は真奈の顔を見るなり、鼻で笑った。
「あなたみたいな若い方が、美味しい和菓子なんて作れるのかしら?」
そして、こう言い放った。
「でね、イチゴ大福だけどキャンセルってことでよろしく。じゃあ帰るわよ。」
日高は、家元が出席するお茶会のために300個のイチゴ大福を注文していたのだ。それを、「こんな汚い店のお菓子をお出しするのが恥ずかしい」という理由で、一方的にキャンセルしたのだ。
真奈は立ち尽くし、今にも泣きそうだった。店の奥には、すでに用意されたイチゴの箱が高く積まれている。あれが全部、無駄になってしまう。子供たちも、母親を心配そうに見つめていた。
「あの、俺が全部買います。」
生午は思わず口にしていた。旅館では、ちょうど翌日、300人の宴会が予定されている。デザートを急遽、真奈のイチゴ大福に変更すればいい。
「銀月郎の若旦那様…?」
真奈は信じられないといった表情で、名刺を見つめた。生午の家は、従業員約100人を抱える老舗旅館。地元では有名だった。
「何よりも、是非この美味しい大福をうちの客にも食べていただきたい。お願いできますか?」
真奈は深く頭を下げ、涙声で「ありがとうございます」と言った。こうして、300個のイチゴ大福は、銀月郎の宴会で振る舞われることになった。評判は上場で、お土産に買って帰りたいという客が続出したほどだ。
これを機に、生午は真奈の店へ通い始めた。和菓子フェアへの出展を打診し、打ち合わせを重ねるうちに、彼女の人柄に惹かれていった。子供たちとも仲良くなり、気づけば真奈のことが頭から離れなくなっていた。
しかし、真奈は人妻だ。好きになってはいけない。そう自分に言い聞かせていたが、ある日、娘のアカちゃんがぽつりと言った。
「お兄ちゃんが、アカのパパになってくれたらいいのに。」
驚いて真奈に尋ねると、彼女は夫の浮気が原因で離婚したことを打ち明けた。生午は、抑えていた気持ちを伝えてもいいのかもしれない、と思い始めた。
フェア当日、真奈の店は完売した。片付けを手伝おうと近づくと、彼女は見覚えのある女性と話していた。母と親しい、佐藤家元の星野先生だ。星野先生は真奈の祖父の時代からの常連で、店のファンだという。
「ついに、同じく真奈ちゃんの店の常連だっていう、この日高さんに頼んだのよ。お茶会のお菓子をこの店に頼むようにって。」
生午と真奈は顔を見合わせた。あのキャンセルされた300個のイチゴ大福のことを、星野先生は知らなかったのだ。日高は気まずそうに身を小さくしていたが、真奈はすべての成り行きを話し始めた。竹下が「こんな汚い店の菓子を家元に食べさせられない」と止めたこと。星野先生には、他の予約が入っていてダメだったと伝えてしまったこと。
それを聞いた星野先生は、静かに言った。
「そうだったの。私が直接頼んでいれば、こんなことにはならなかったのに。ごめんなさいね。」
そして、1週間後。星野先生のお茶会に、生午と真奈は招かれた。真奈は、頼まれた桜餅を人数分持参した。
すると、また竹下が現れた。真奈を見るなり、金切り声を上げた。
「ちょっと、またあなたなの? 日高有名に頼むって言ったでしょ! あんな汚い店の、こんな小娘の作ったお菓子を家元に食べさせるわけにはいかないって言ったわよね! それに何? 神聖なお茶会の場に、こんなガキを連れてきて非常識でしょ!」
竹下に睨みつけられたアカちゃんたちは、今にも泣きそうだった。
「子供に当たらないでください。」
生午がかばうと、竹下はさらにヒートアップした。
「はあ? あなたは関係ないでしょ! 私を誰だと思ってるの? 星の龍の市販よ! 家元の一番弟子なの! こんな小娘の店なんて、家元にお願いすればすぐに潰せるんだからね!」
その時、奥の部屋から星野先生が現れた。冷たい声が響く。
「竹下、いい加減にしなさい。あなたは強制的に、私の弟子をやめてもらう。破門よ。」
竹下は腰を抜かし、その場に座り込んだ。
「マナちゃんの店はね、私の行きつけの店なの。あなたが汚いって罵った店が、私は大好きなのよ。」
「そんなわけ…家元ともあろう先生が、あんな汚い店に行くわけがないわ…。」
「お菓子を食べもせず、お店の外観だけで判断するのね。軽蔑するわ。マナちゃんは、心を込めて丁寧なお菓子作りができる子なの。そんな人をけなし、貶めるような真似をする人は、うちの流派には必要ないわ。」
竹下は何も言い返せず、やがてとぼとぼと部屋を出ていった。お弟子さんたちも、ホッとした様子だった。
「竹下さんがいなくなって、やっと安心しました。高圧的で短気な人だったから、いつもビクビクしてたんです。」
「そう、そう。何かと言えば『私は家元の一番弟子なのよ』が口癖だったわよね。」
その日のお茶会は、とても楽しいものになった。アカちゃんたちも礼儀正しく、先生のお茶を飲み、素直な感想を言って場を和ませた。
生午はその後も真奈の店に通い続け、ある日ついに決意した。スーツを着込んで、店を訪れた。
「マナさん、俺と結婚を前提に付き合ってもらえませんか?」
差し出した手は、小刻みに震えていた。沈黙が長く感じられる。
「私…私も、生午さんのことが好きです。」
胸が踊った。しかし、真奈は続けた。
「でも…でも、私、この店をずっと続けたいんです。経営もギリギリで、一人で子供たちを育てていくのも不安しかありません。でも、祖父の宝物だったこの店を、一生守っていきたいんです。だから、生午さんとは結婚できません。ごめんなさい。」
「俺と結婚したら、店を続けられないと思ってる? もしかして、女将にならなきゃいけないって思ってるとか?」
「だって、生午さんはあの有名な銀月郎の若旦那様でしょ。」
生午は、大学時代に同じ理由で振られたことを思い出していた。旅館の女将になりたくない、と去っていった元カノ。
「それなら大丈夫だよ。女将であるうちの母さんが言ってたんだ。『女将の後継者は、希望者の中から私が選んで育てる』って。だからお前は、うちのことは気にせず自由に恋愛しなさいって。」
生午の母自身、後継者である父と結婚し、夢を諦めて女将になった過去がある。だからこそ、息子の嫁には同じ思いをさせたくない、と言うのだ。
「そうなの? じゃあ、私…生午さんと結婚しても、お店続けられる?」
潤んだ瞳で見つめられ、生午は思わず真奈を抱き寄せた。
「こんな私でよかったら、よろしくお願いします。」
こうして、二人は結婚を前提に付き合うことになった。アカちゃんたちは大喜びで、生午を「お父さん」と呼ぶようになった。母も、真奈と子供たちを気に入った。
付き合って1年後、二人は結婚した。披露宴は銀月郎で開かれ、ケーキカットならぬ大福カットが行われた。星野先生も出席し、温かく見守ってくれた。
そして今、真奈の店「風堂」は銀月郎の中にある。店を移転させ、生午の家の和菓子担当として毎日お菓子を作っている。真奈の作るお菓子を目当てに泊まりに来る客もいるほどだ。
真奈のお腹には、新しい命が宿っている。5人家族になる未来が、楽しみで仕方がない。



