パーティー会場で、取引先の武蔵コンポーネント営業部長・成瀬が、新社長として出席した俺の胸に料理をぶちまけた。「下請けのくせに何偉そうに歩いてんだよ」と。俺は「数日後が楽しみですね」とだけ返し、静かに笑みを浮かべた。相手はまだ気づいていない。目の前の男が、K&Nグローバルホールディングスの代表取締役社長だということを。
俺、岸本シ太、40歳。父が立ち上げた国際取引を軸とするグループ企業を継いだ。現場を叩き上げ、海外子会社での修羅場も経験した。日本の製造業の構造問題を解決すべく、経営難に陥っていた共栄工業の買収を決断。再建の最中、共栄の社長として出席したパーティーで、成瀬という男の傲慢さが炸裂した。
共栄はかつて精密部品業界で名の知れた中堅メーカーだった。だが、経営陣の高齢化と設備の老朽化で業績は悪化。技術者は残っていたものの、取引先からは安く叩かれ、沈んでいた。俺は全社員と面談し、現場主導の改革を進めた。古い機械を入れ替え、品質管理システムを導入。若手社員の意識も変わり始め、かつて下請けとして受け身だった組織が、少しずつ選ばれる会社へと変わりつつあった。
あのパーティーでも、俺はあくまで「共栄精密工業の社長」として名乗った。背後の看板ではなく、自分の姿勢と行動で信頼を取り戻すべきだと思ったからだ。名刺も共栄のものだけを持っていた。そんな中、成瀬が近づいてきた。
「え、共栄の新社長ってあんた? また随分勇気あるな」
「火の車の会社を拾って再建? 何それ、物好きって言うべきか?」
鼻で笑いながら、俺のグラスを指差す。そして、すれ違いざまに足元をもつれさせるような仕草を見せ、俺の胸に料理をぶちまけた。ソースがたっぷりかかった肉料理が、真っ白なシャツにべっとりと染み込む。
「悪い悪い。手が滑っちまったわ」
「下請けならこれくらいでいちいち怒るなよ。どうせ怒ったところで何にもできねえんだからさ」
「怒る暇あったら見積もりの一枚でも早く出せってんだよ。あんたらそういう立場だろう」
怒りが湧き上がるよりも先に、この男の浅ましさへの嫌悪感が勝った。俺はただ静かに言った。
「数日後が楽しみですね」
成瀬は一瞬ポカンとした顔を浮かべたが、鼻で笑って人混みに消えていった。
翌日、成瀬は本社の会議室に呼び出された。呼んだのは武蔵コンポーネントの代表取締役社長・田渕自身。来週、K&Nグローバルとの新規契約の協議がある。海外展開の重要な第一歩となる大型案件だ。
「今回の主担当は君に任せたい」
田渕の言葉に、成瀬は満面の笑みで応えた。
「任せてください。絶対にまとめて見せますよ」
まさか、あのパーティーで料理をぶちまけた男と、ここで再会するとは夢にも思っていなかった。
数日後、K&Nグローバルホールディングスとの契約協議が開始された。会議室に先に入った成瀬は、新しいスーツに身を包み、準備万端の表情で主導権を握るポジションに座っていた。部下たちも「部長、気合い入ってますね」と声をかける。
だが、その数分後、会議室のドアがゆっくりと開いた。
「失礼します」
その声を聞いた瞬間、成瀬の表情が凍りついた。
「あ、あいつ…なんで?」
俺は淡々と田渕に告げた。
「数日前のパーティーでこちらの成瀬部長にお会いしました。その際、料理を胸にぶちまけられ、『下請けのくせに』と暴言を受けました」
「なんだって」
田渕の顔が凍りつく。成瀬は動揺して声を荒げた。
「ちょ、ちょっと待ってください! 俺は、てっきりただの下請けの社長だと…」
「下請けなら侮辱してもいいという意味かね?」
田渕の重い声。俺は一枚の名刺を静かに差し出した。
「申し遅れました。私はK&Nグローバルホールディングスの代表取締役社長、岸本シ太です。同時に共栄工業の社長も務めています」
成瀬の顔から血の気が引いていく。田渕は厳しい表情で睨みつけた。
「本日は契約の前に、一つ確認させていただきたいことがあります」
俺の言葉に、会議室の緊張はさらに高まった。
成瀬は机を叩いて激高した。
「違う! 俺はそんなつもりじゃなかったんだ!」
「ペンネームなんて分かるわけねえだろ! 名刺も出さなかったし、名乗りもしなかったじゃねえか!」
「あんたが黙ってたからだ! 俺は騙されたんだ!」
田渕の土星が響く。
「責任転嫁するな。君は相手がどんな立場かで態度を変えた。そのことがどれほど恥ずべき行為か、まだ分からんのか?」
成瀬は完全に言葉を失った。俺は静かに、しかし確実に宣言した。
「今回の契約については、申し訳ありません。こちらとしては契約する意思はありません」
一瞬、空気が止まった。
「は? おい、待てよ! 契約しないってどういうことだよ!」
「恩社との信頼関係を築くのは不可能だと判断しました」
「俺は悪くないだろ! あんたの正体を知らなかっただけだ!」
「最初に言えよ!」
「グループの社長です、と言ったとして、あなたの態度は変わりましたか?」
成瀬は言葉に詰まり、口を閉じた。
田渕が頭を下げる。
「岸本社長、お詫びいたします。これは当社の見解とは関係のない個人の軽率な行動です。どうか契約の件はご再考いただけませんか?」
俺は静かに首を振った。
「これは単なる一部社員の言動に留まりません。あの場には他にも恩社の方々がいましたが、誰一人として止めようとはしなかった。つまり、恩社の中には立場の弱い取引先を侮辱しても問題にならない空気があるということです」
成瀬は涙声で懇願した。
「この契約がなくなったら、俺は首になるんだ! 頼む! 一度だけ見逃してくれ!」
だが、俺の感情は一切揺れなかった。
「申し訳ありませんが、恩社とは今後、一切の取引を行うつもりはありません」
「共栄との既存の下請け契約も含めてです」
田渕は確認するように問うた。
「共栄との既存の下請け契約も含めて、ですね?」
「その通りです。今朝の時点で、共栄の現場には取引終了に向けた指示を済ませています。必要な法的手続きを経て、契約は正式に解除いたします」
成瀬は狂乱した。
「あんた一人の感情で、俺を潰す気か! 何億円って契約だぞ! ふざけんな!」
「正気かどうかは、恩社の株主や取引先が判断することでしょう。私は企業の代表として、責任ある判断をしているだけです」
「お前が全部ぶち壊したんだ!」
「違いますよ。あなたは自分で自分を潰したんです」
「私が誰であっても、あの夜あなたがやったことは許されるものではない。立場の弱い者に対して笑いながら暴言を吐き、料理をわざと服にこぼし、『下請けだから黙ってろ』と。そんな振る舞いをした人間が、どうして今になって同席を求めるんですか?」
「うるせぇ! お前が身元を隠してたから、こんなことになったんだろうが!」
「立場を見て判断する人間は、いつかその立場に潰されるだけです」
会議室に悲鳴が響く。成瀬は泣き叫んだ。
「俺の人生終わりだ…!」
俺は鞄を手に取り、静かに席を立った。背後から「お前のせいだ! 全部お前のせいだ!」と叫び声が聞こえてくる。だが、振り返る必要はなかった。重く閉まる扉の音が、全ての終わりを告げていた。
数日後、成瀬が営業部長から外されたと聞いた。名目は人事戦略上の再配置だが、実態は地方子会社への左遷だったらしい。役職名は立派でも、実権は剥奪され、社内でも肩身の狭い立場になっているという。転職活動も始めたようだが、どこの企業も門前払いだった。面接で名前を出した途端、面接官の表情が曇る。業界は狭い。どこで誰が見ているか分かったものではない。
一方、共栄の改革は軌道に乗っていた。K&Nとの連携で品質は安定し、反響も広がり、経営は着実に上向いている。ある日、業界誌に小さな見出しを見つけた。「共栄、信頼回復へ。大手との連携強化を推進」。
あの夜の光景が頭をよぎる。ソースまみれのシャツ、侮辱の言葉。だが、もう思い出しても感情は動かなかった。信頼なき取引に未来はない。それだけを胸に、俺は今日も次の現場へ向かう。



