私は35歳の看護師。夫の裕介は40歳の会社員。4歳の娘がいる。少し前まで3人で幸せに暮らしていたのに、立て続けに起きた出来事で人生がめちゃくちゃになった。
出会いは10年近く前。大学進学で故郷を離れ、都会で就職した私たちは友人に紹介されて知り合った。同じ出身だと分かって意気投合し、間もなく交際が始まった。結婚を意識し始めた頃、「いずれ地元に帰りたい」という思いが互いにあると判明。じゃあ地元で新婚生活を始めよう、ということになった。
裕介は勤務先の地元支社への異動が決まり、私は勤めていた病院を辞めて一緒に引っ越した。今暮らしている家で新生活が始まった。勤務先と夫の実家までは車で30分以内、私の実家へは1時間ほど。幸い私もすぐに転職先が見つかり、看護師を続けられた。忙しくも充実した日々だった。
結婚後はなかなか子どもに恵まれず、周囲のプレッシャーや焦りを感じることもあったが、夫婦関係は穏やかだった。3年が過ぎた頃、ついに娘が生まれた。夫は涙を流して喜んだ。「まき、本当にありがとう。お疲れ様。これから賑やかになるね」と。
私たちは大学時代の友人に別れを告げて引っ越してきたが、実はここは厳密には夫の地元ではない。夫が生まれ育ったのは隣県で、義実家は夫が大学に合格した後に今の場所へ引っ越してきたそうだ。以前住んでいた町までは車で片道3時間以上。気軽に同級生に会える距離ではない。さらに夫の趣味のサッカーも仲間が見つからず、やめたままだ。
夫のストレスについて理解はしていたが、十分な気遣いができていたか自信はない。看護師としての激務と家事のほとんどを私がこなしていたからだ。妊娠中も含めて、私には余裕がなかった。夫婦でゆっくり過ごす時間も取れていなかった。
私は夫と今後のことについて話し合った。すると、私がよかれと思ってやっていたことが裏目に出ていたと分かった。夫の負担を減らそうと家事を頑張っていたのだが、夫は一緒にやりたかったらしい。夫は社交的なタイプで、価値があるからと勤務時間外の付き合いを断り続けていたら、友人はできにくいのではと思った。夫が家事を手伝うと言ってくれても、迷惑をかけたくないからと断っていた。落ち着いて考えれば、迷惑だなんておかしいのだけれど。
私は上司にしばらく夜勤を免除してもらえないか相談した。夫婦で過ごし、会話する時間を確保するためだ。もし無理なら転職する覚悟だったが、あっさり受け入れられた。田舎の古い考えで、入用児がいる母親は夜勤を求められないらしい。うんざりするけど、気にしないようにしよう。
娘がすくすく育ち、できることが増えていくのを夫婦で一緒に喜び、幸せな毎日を過ごすうちに4年が経った。でも最近、気がかりなことがある。夫の様子がおかしいというか、よそよそしくなったのだ。私が話しかけても無視されるか、愛想程度の返事。娘にもあまり関心がないように見える。娘を連れて義実家に行く回数は増えているのに、自覚で外遊びをさせることはなくなった。
初めは気のせいかと思ったが、どんどんひどくなり、家事も育児も全くしなくなった。平日に遅く帰ったり、週末にふらりと出かけたりすることも増えた。相手にされないので、娘の方も夫に話しかけなくなっている。このままでは娘にとって良くない。でも夫は話し合いに応じそうにない。
私は悩んだ末、勤務時間を減らして家事育児を頑張ることにした。夫は疲れて何もできない状態かもしれないと思ったのだ。娘が成長するにつれて勤務時間を増やしていたが、今は準金もしている。以前のように早く帰宅して毎日家族で食卓を囲み、一家団欒の時間を持つようにしなくては。私は無理を言って昼間のみの勤務に戻してもらった。夕飯も材料を避けて自分で作るなど努力したが、夫が変わる様子はない。自分からは口を聞かず、私が話しかけても部愛そうに返事をするだけ。こちらを見ようともしないのだ。
「つねているのか、何か気に入らないことがあるのか」と聞いても「別に」と言うだけなので、私も必要最低限のことしか言わなくなった。
このままではいけないと思いつつも解決策が見つからないまま、夫がまとまった休みを取る時期になった。夫の会社では半ば勤続を過ぎると交代で1週間前後の休暇を取り、有給を消化するのだ。本当は娘も聞き分けが良くなったし、旅行やレジャーをしたいが、家族サービスを要求して夫の負担になってはいけないので断念した。代わりに夫のストレス解消の提案をする。
「今度の休みだけど、何か予定はあるの?」
「別に」
「じゃあ同級生に会いに行ったら? お父さんお母さんと旅行に行ってもいいし」
「ああ、そうだな」
当日、夫は何も言わずに出かけた。1週間後に帰宅したが、どこで誰と過ごしていたかは分からない。それでも夫の表情が柔らかかったので、ほっとした。
それからの夫は、泊まりがけで出かけることが増えた。金曜日の夜から帰宅せず、月曜日は出先から直接出社しているようだ。相変わらずどこで何をしているのか分からないけれど、同級生に会っているか、新しい趣味でも見つけたのだろう。夫婦の会話はないままだが、夫のストレスになってはいけないし、機嫌は悪くないので様子を見よう。
しばらくして、私は体調を崩して勤務先の病院で検査を受けた。血液検査の結果が良くなかったそうで、精密検査を受けるように言われた。結果、悪性腫瘍が見つかったのだ。念のためと検査してくれたおかげで初期のうちに発見できた。手術も内視鏡で済みそうだ。でも、やっぱりものすごく落ち込んだ。
夫に病気が見つかったことと、入院して手術することを告げた。夫はスマホをじっと見ながら顔もあげずに一言。
「そうなんだ」
あまりに悲しくて、私は言葉を失った。
入院前日まで家事をこなし、持ち物の準備をする。夫は娘を連れて実家に帰ってしまった。「実家から出勤するので当分帰らない」という。
実は昨日、夫に離婚を切り出された。手術で悪いところを切って終わりというわけではなく、その後の治療もあるからだそうだ。
「面倒っていうか、俺と娘とうちの親にまで迷惑かけるだろ。それは困るから、もう別れよ」
迷惑? 心に突き刺さる言葉に、言い返す気力はなかった。
義実家に電話すると、義父母にも離婚を迫られる。
「こみはこちらで引き取るから、養育費を払ってちょうだい。さっさと離婚してね。離婚届は送るそうだ。着いたらすぐに出すように」
本当は娘を連れて帰ってきてもらおうと思っていたのに、2人は返さないと断られる。夫はいるのかいないのか、電話口にも出ない。
呆然としたまま家事をしていたが、どうも違和感がある。留守だったにしては散らかっているのだ。夫は戻っていたのか。そしてついに証拠を見つけてしまった。夫の部屋を掃除していると、女性用の部屋着があったのだ。
「はあ、やっぱり」
私は物置きに隠しておいた書類を取り出し、震える手で中身を確認した。夫がおかしいと思い始めて調査事務所に依頼した時の報告書だ。先日受け取って内容が悪いことは聞いていたが、怖くて見ていなかった。
結果は真っ黒。しかも自宅に不倫相手を連れ込むなんて最悪だ。気持ち悪くてたまらず、手術後もないことも忘れて家中を徹底的に掃除した。
やがて私は職場復帰し、体への負担が少ない外来に回らせてもらえた。そしてある日、決定的な事件が起きる。夫が交通事故に巻き込まれて、私の勤務先の病院に搬送されてきたのだ。
グリーンデート中の事故だったため、相手の女性も一緒に救急車に乗ってきたらしい。私は処置室に飛び込んだ。
「裕介の妻です。夫はこちらでしょうか?」
私を見て、室内がざわついた。病院関係者は運び込まれた2人は不倫関係ではなく夫婦だと思っていたからだ。
「え、旦那さんじゃ… さっきの女性は?」
「あれ、いない。すり傷だから帰ったらしいよ」
などとみんながさやき合いながら処置をしている。すると、突然夫が「見るな!」と叫び始めた。
「大丈夫ですよ。数命の看護師に抑えられながらも、夫はYシャツを脱がされ、肌着も脱がされて… 私は思わず声を漏らした。夫の胸にタトゥーが入っていたからだ。ハートマークに矢が刺さっている絵と、女性の名前がローマ字で掘られている。
信じられない。何か騒いでいる夫を残し、私は処置室を飛び出した。命の危険がないのは確認したし、これ以上恥を書きたくない。
夫は鎖骨と肋骨の骨折のため入院することになった。私は許可をもらって夫の着替えを取りに帰宅。数時間後、荷物を持って病室に入ると、処置を終えた夫がベッドに横たわっていた。義父母と娘も来ている。
「ママ、こみ元気にしてた?」
「うん。ママは病気直った?」
「そうだね。良くなってきてるよ」
私の体を気遣ってくれる娘に力をもらう。夫と義父母に話があると告げ、娘を同僚にお願いした。
「私と裕介さんと離婚することにしました」
「ちょっとなんなの、こんな時に」
「いいんだ。早い方がいい」
「こみは私が育てますから」
「なんだと? 勝手なことを言うな。こみはうちで引き取る」
「じゃあ聞くけど、裕介はこみが1番食べたがってるところ知ってる? 頑張って食べれるようになった野菜は何? 好きなキャラクターは?」
「うわ、答えられないよね。この相手なんてしてないんでしょ。お父さんお母さんに丸投げしてるのよね」
義父母に書類を渡す。中身を見た義父母は無言で青ざめている。しかし取り乱しはしない。義父母も夫の不倫を知っているのだろう。
「親権は私が取ります。あなた方には2度と娘に関わらせません」
「そんなことできるわけないわ」
「裕介さんはよその女性の名前とハートマークのタトゥーが胸元にあるんですよ。父親としてふさわしいと思いますか?」
タトゥーについては義父母も知らなかったようで大騒ぎしている。私は構わず言い返した。自宅が散らかり乱れたベッドに女性用の部屋着があったこと。妻が病気で入院している時に自宅に不倫相手を連れ込むなど絶対に許せない行為であること。夫が娘の面倒も見ないで不倫相手と会っているのに、それを是認している義父母も夫と同じであること。娘の親権及び養育費を要求すること。夫と相手の女性に慰謝料を請求すること。
「娘を放り出して不倫に走る父親に、娘を任せるわけにはいきません」
義母が何か言おうとした。おそらく「娘の世話は自分たちがちゃんとしている」というアピールだろう。無視して畳みかける。
「調停や裁判がしたいならどうぞ。裕介さんの不倫が原因だって、みんなにもバレるかもしれませんけど」
間もなく離婚が成立し、親権も取れたので、私は娘と2人で引っ越しをした。元夫はダブル不倫だったそうで、相手のご主人からも慰謝料を請求されている。田舎なので結局噂が広まってしまい、元夫は会社で針のむしろだが、慰謝料と養育費の支払いもあるからやめるわけにはいかない。ちなみに元夫は事故の後遺症か、仕事ができずに義父が定年延長。義母がパートに出て助けるようだ。
「明日お休みだから、お出かけしよう。こみはどこ行きたい?」
「そさん見に行きたい」
「じゃあ動物園に行って、帰りに美味しいもの食べよう」
「やった!」
私は体調も良くなり、娘と平和に暮らしている。



