「太田さん、お願いします。太田さんがいつもデータを見る時の目、本気の目です。あの目をしている人の話なら、きっと誰かに届きます」…

「太田さん、お願いします。太田さんがいつもデータを見る時の目、本気の目です。あの目をしている人の話なら、きっと誰かに届きます」...

朝の光がオフィスの白い壁に差し込む。俺は健康診断の結果データをまとめながら、机の引き出しの奥にしまってある古い財布の存在を意識していた。そこには一枚の色あせたIDカードが入っている。大学病院第2内科、太田守。写真の中の俺はまだ30代で、今より少し痩せていて、目の光が違う。

ここにいる誰も知らない。俺がかつてメスを握っていたことを。

昼休み、同僚の佐藤まゆみが明るく映画の話をする。俺は適当に相槌を打ちながら味噌汁を飲んでいた。彼女はふと「太田さんって、なんかもったいない気がしますけど」と言った。何気ない言葉が胸の奥に小さく刺さる。

7年前の春。俺は大学病院の医師だった。夜の医局で一枚のグラフを見つめていた。心臓弁膜症の新薬に関する研究データ。副作用の数値が明らかに低く書き換えられている。このまま臨床に出れば患者が危ない。俺は資料を抱えて委員長室へ向かった。

サオン寺正は、当時から学会の重鎮だった。メガネの奥の目がゆっくりと俺を捉える。「君、何のようかな?」「委員長、このデータは改ざんされています。元の数値に戻すべきです」サオン寺はペンをくるりと指で回し、笑った。「君はこの病院が大きなプロジェクトを動かしていることを知っているね。組織というのは君が思うほど単純じゃない」

その時の彼の目を俺は今でも忘れない。

俺は内部告発を選んだ。医療倫理委員会に資料を提出し、外部の調査機関にも連絡した。しかし結果は逆だった。サオン寺は巧妙だった。データの改ざんは俺が研究の過程で誤って入力したものだとされた。証拠はすり替えられ、同期の親友だった坂田も沈黙を貫いた。

俺は退職を勧告され、他の病院に移ろうとしてもどこも雇ってくれなかった。妻も出ていった。俺はメスを置き、医療界から姿を消した。

そして今、俺は都内の健康管理会社でただの事務員をしている。昨日の自分とは別人のように。

その日の午後、部長に呼ばれた俺は驚くべき話を聞かされた。明日の医療カンファレンスで登壇予定だった著名な医師が今朝倒れた。会場には数百人の医療関係者が集まる。俺の履歴書に医療知識があると書いてあったことから、代わりに登壇してほしいというのだ。

「私はただの事務です。そんな役立たずにはなれません」

だが佐藤が身を乗り出した。「太田さん、お願いします。太田さんがいつもデータを見る時の目、本気の目です。あの目をしている人の話ならきっと誰かに届きます」

長い沈黙の後、俺は引き受けた。ただし、1社員としてだと条件をつけて。

翌日、都心のホテルの大ホール。数百人の聴衆が席を埋めている。医師、看護師、研究者。俺がかつて生きていた世界の人間たちだ。舞台袖から見る会場は想像より広く、ライトが眩しい。

司会者の声が響く。「続いてのご講演は、本日急遽ご登壇いただくことになりました健康管理会社の社員、太田です」

足が一歩前に出ない。心臓の音が大きくなっている。

「ご紹介に預かりました太田守と申します」

最初の数十秒は手元の資料を読み上げるだけで精一杯だった。しかし症例の話に入った瞬間、何かが変わった。心臓弁膜症の患者データ。俺が現役の頃に何度も見た症例だ。体が勝手に動き出し、言葉が自然と出てくる。会場は静まり返り、聴衆の目がこちらに集まっているのを感じた。

講演が中盤に差しかかった時、最前列の一人の女性が目に入った。スーツを着た30代前半くらいの女性。背筋を伸ばし、メモを取るわけでもなく、ただ俺の言葉を一つ一つ受け止めるように見つめている。後で関係者から聞いた。深山レナ。このカンファレンスを主催する医療系ベンチャー企業の社長だ。

そして、会場の後方に視線を向けた時、俺は息を止めた。

出入り口に近い席。灰色のスーツ、銀縁の眼鏡。ライトを浴びて白く光る髪。サオン寺正だった。7年ぶりに見る顔だ。彼は俺が誰なのか、すぐに気づいたようだった。メガネの奥の目が大きく見開かれ、口元が硬く結ばれる。

逃げ出したい衝動が一瞬胸を突き上げた。ここで話を止めて舞台袖に下がれば、誰も責めない。内役として十分役目は果たした。そう思った。

しかし最前列の深山レナの目がなぜか俺を引き止めた。彼女は何かを待っているような目をしていた。

俺は手元の資料を静かに閉じた。ここからは原稿にないことを話すと決めた。

「医療の現場では、時に難しい判断を迫られることがあります。データを守るのか、組織を守るのか、患者を守るのか。私はかつて、その三つが衝突する場面に立ち合ったことがあります」

会場は水を打ったように静かになった。俺は後方のサオン寺の方を見なかった。

「私はその時、ある選択をしました。その選択によって私は多くのものを失いました。仕事も、仲間も、立場も。今でもあの時の判断が正しかったのかと自問することがあります。しかし、一つだけ変わらず信じていることがあります。医療というものは、組織を守るためにあるのではありません。患者を守るためにあるのです」

7年前、委員長室で口にできなかった言葉。それが今、自分の口から出た。

数秒の沈黙の後、最前列の深山が静かに手を叩き始めた。拍手は波のように広がり、会場全体を包んでいった。立ち上がる者もいる。俺は深く頭を下げた。顔を上げた時、会場の後方の席にもうサオン寺の姿はなかった。

舞台袖に下がると、佐藤が涙を見せていた。「太田さん、すごかったです。本当にすごかったです」

役目は終わった。明日からはまたただの事務員に戻る。それでいいはずだった。しかし、心は晴れなかった。俺はまだ過去に縛られたままだった。

その時、ドアがノックされた。スタッフが緊張した声で告げた。「太田様、深山社長がもう一度壇上へ上がっていただきたいと」

俺は深く息を吸い、再び舞台袖へ歩いた。壇上には紺色のスーツを着た深山レナが立っていた。彼女は会場に向かって静かに口を開いた。

「本日のカンファレンスにご参加いただいた皆様に、主催者として一つだけご紹介させていただきたいことがございます。先ほどご講演いただいた太田先生について、ご紹介の仕方が不十分でした。私の不手際をお詫びいたします」

彼女はこちらを振り向いた。「太田先生、もう一度壇上へお願いいたします」

俺は足が動かなかった。スタッフに背中を押されてようやく一歩踏み出した。壇上に立った俺の隣で、レナは深く息を吸い、はっきりとした声で言った。

「皆様、この方こそ7年前にある大学病院で起きた研究データ改ざんを内部告発し、業界から消された医師、太田守先生です」

会場が一斉にざわついた。俺は立ち尽くしていた。7年間誰にも明かさなかった名前が、今数百人の前で読み上げられた。

「先生、どうかもう少しだけここにいてください」

レナの声は柔らかかったが、強かった。俺は逃げ出したかった。全身が冷たくなっていく。会場の隅で佐藤が両手を口に当ててこちらを見ていた。俺は彼女に何も伝えていなかった。

レナは聴衆の方を向き直り、ゆっくりと話し始めた。

「私が今日このような形で先生をお呼びしたのには、理由がございます。少しだけ、私自身の話をさせてください」

会場は水を打ったように静かになった。

「7年前、私の父は心臓弁膜症を患っておりました。当時、ある大学病院で新しい治療薬の臨床試験が進められていました。父はその候補患者の一人でした。父の主治医は新薬の使用を強く進めておりましたが、その直前に治療方針が変更されたのです。新薬は使われず、従来の治療が選ばれました」

俺は息を飲んだ。彼女が口にした病名と時期。全てがあの夜の資料と重なっていく。

「後で知ったことですが、その新薬のデータには副作用に関する重大な改ざんがあったそうです。父のような基礎疾患のある患者がその新薬を使えば、数ヶ月で命を落とす可能性が高かったと、その後の調査で明らかになりました。治療方針が変更されたのは、ある医師の内部告発があったからです。その方は自らの立場を失ってまで、データの誤りを世に出そうとしました」

レナの声がわずかに揺れた。

「その告発のおかげで、父は正しい治療を受けることができました。父はそれから5年生きることができました。父は数年前に亡くなりましたが、最後まで自分を救ってくれた医師を探しておりました。父はその方に直接お礼を言いたかったのです。しかし、その医師の方は業界から姿を消された後でした」

俺は目の前が滲んでいくのを感じた。7年前、あの夜、俺は何度も問い直した。誰の役にも立たなかったのではないか。ただ自分の立場を失っただけではないか。そう思った夜が数えきれないほどあった。

その答えが今、目の前にあった。

会場の中で一人の男が立ち上がった。灰色のスーツ。見覚えのある顔。坂田新一。かつての親友は、静かに頭を下げた。言葉はなかったが、その姿だけで彼が何を伝えようとしているのかが分かった。

会場の後方でもう一人の男が席を立った。銀縁のメガネのサオン寺正だった。彼は何も言わず、足早に出口へ向かい、扉の向こうに消えていった。俺はその後ろ姿を見ていた。不思議と憎しみは湧かなかった。ただ、長い時間がようやく終わろうとしているのを感じた。

レナが俺の正面に立ち、深く長く頭を下げた。

「太田先生、父を救ってくださって、本当に、本当にありがとうございました」

その声は、一人の娘の声だった。会場がまた拍手に包まれた。立ち上がる者が増えていく。俺は何も言えず、ただゆっくりと頭を下げ返した。顔を上げた時、涙が溢れていた。

壇上から降りると、坂田が静かに歩み寄ってきた。「守、すまなかった。俺はずっと、ずっとお前に謝りたかった」

「坂田、もういいんだ。お前にも守るものがあった。それは俺にも分かっていた」

「それでも俺は、黙ってちゃいけなかったんだ」

俺は坂田の肩に手を置いた。

控え室に戻り、俺は椅子に深く座った。佐藤が温かいお茶を差し出してきた。「太田さん。いえ、太田先生」

「佐藤さん、今日まで黙っていて悪かったね。驚かせてしまっただろう」

「驚きました。でも、なんだか嬉しかったんです。太田さんの目の本当の意味が、やっと分かった気がして」

俺は笑った。7年ぶりに、心の底から笑った気がした。

財布を取り出し、色あせたIDカードを抜き取る。大学病院第2内科、太田守。写真の中の若い自分がこちらを見ている。ずっとこのカードを捨てられなかった。それは過去への未練だったのだろう。俺はもう一度医師に戻りたかった。それを認めるのが怖かっただけなのだ。

しかし、もう隠れる必要はない。俺は太田守だ。

俺はカードを机の上にそっと置いた。窓の外で夕日が高層ビルのガラスを赤く染めている。あの中の一つにかつて俺がいた病院がある。

今日からは、もう遠い景色ではない。

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