高校以来の同級生に、格式高い店で「ネズミ」と呼ばれて公然と侮辱された。彼女の夫は有名企業の次期営業部長候補らしく、「あんたはこの店に来るなんて一生無理よ」と嘲笑された。でも、彼女が知らないことがある。俺がその会社の社長だということを。彼女の夫のリストラを正式に決めた後、俺は彼女に最後の言葉をかけようとした。すると、スマホのスピーカーから彼女の声が漏れてきた。「あんな陰キャに社長なんて勤まるわ…

高校以来の同級生に、格式高い店で「ネズミ」と呼ばれて公然と侮辱された。彼女の夫は有名企業の次期営業部長候補らしく、「あんたはこの店に来るなんて一生無理よ」と嘲笑された。でも、彼女が知らないことがある。俺がその会社の社長だということを。彼女の夫のリストラを正式に決めた後、俺は彼女に最後の言葉をかけようとした。すると、スマホのスピーカーから彼女の声が漏れてきた。「あんな陰キャに社長なんて勤まるわ...

俺はカウンター席から立ち上がった。

「また来ますね。お作り、うまかったよ。大将によろしく伝えて」

すると、隣にいた女が嘲るように笑った。

「何、格好つけてるの? 次に来る約束なんてできっこないじゃない。有名大企業の次期営業部長候補の旦那と違って、あんたはこの店に来るなんて一生無理よ」

夫らしき男が笑い転げる。

「坂上ミチルさん。ここが格式の高い店だと分かっているなら、言ってはいけない言葉くらいわきまえるべきだったね」

俺はそう言って、店を後にした。

俺は岩渕孝太、45歳。今はエ通という大企業で働いている。俺の楽しみは、行きつけの「両手」という店のカウンターの片隅で、刺身をつまみに日本酒をちびちび飲むことだ。

このところ事情があってなかなか店に来ることができなかったが、数ヶ月ぶりにようやく足を運ぶことができた。大将は俺のことを心配して、カウンター越しに話を聞いてくれた。今日は店に行くことを伝えていたので、珍しい魚を用意してくれている。それに、倉本から酒が入ってきたということで、酒まで振る舞ってもらえた。

大将が料理人に呼ばれて奥の厨房へ向かった時だった。

「あら、岩渕? ねえ、あんた岩渕でしょ」

「ああ、マジもので岩渕だわ。相変わらずネズミみたいな貧相さね」

思い出したくもない過去が蘇る。俺は高校時代、「ネズ」という不名誉なあだ名があった。クラス内でそういう立場だったのだ。校内で美女と持て囃されていたミチルが、ただ一人俺にあだ名をつけていただけだが。

「あんた、何様? ネズミのくせに、なんでこの店にいるの? あんたみたいな客がいるのは、似つかわしくないわ」

俺はだまりを決め込んだ。ミチルは男性と一緒にいて、下品な香水の香りを振りまいていた。

「本当にこいつ、高校時代と変わらないのね。結婚なんてしてないでしょ? ていうか、あんたみたいなネズミがこの店に入る資格あったの?」

「なんだそれ。こいつ、貧困家庭育ちのくせに、金持ちしか通えない私立高校にいたのよ」

「ええ? ってことは頭良かったのか」

「さあね。私、こいつには興味なかったし、もっと頭がいいと思ってたわ」

「だよね。面食いのミチルがこんなネズミに興味を持つわけがない。行けてないっていうか、今で言う陰キャっていうの。本当に教室のすみっこでネズミみたいに潜んでるのよ」

「そりゃ受けるな。卒業後就職したみたいだけど、その私立高校で進路が就職って言ったら、ドロップアウトでしかないのよ」

ミチルは指輪をしているので、連れの男性は夫のようだ。

「ねえ、この店の格式分かってる? あんたみたいな中太郎が来れるような店じゃないの」

「ネズミだから中太郎か」

「私の旦那様、今期確定で次期営業部長候補なの。有名大企業の営業部長候補名簿に記載されたんですって。だからお祝いにこの店に来たのよ」

ミチルは格差自慢をしたいようだが、裏を返せば営業部長に推挙されなければこの店に足を踏み入れることはなかったということだ。

その証拠に、女将がミチル夫婦の元にやってきて「あいにく予約がいっぱいでして」と入店を断っていた。ミチルは俺の隣のカウンター席でもいいと言っていたが、女将は「本日は予約でございます」と断ってくれた。これは俺が一人でいることに対する店の心遣いだった。

「なんだよ、ネズミがこの店で酒を飲んで、俺らは門前払いかよ。この店、今に潰れるぞ」

俺はため息をついた。ミチルも夫も、同類だ。

「女将さん、悪いけど、会計ができたからお勘定頼んでいいかな」

「あれ? 逃げるの? ネズミちゃん。俺らのために席を開けてくれたのか? 悪いねえ、ネズミくん」

女将は俺が気分を害したのではと、偉く恐縮していた。大将と二人で詫びを入れようとしてくれたが、俺は「本当に用事ができたから気にしないで」と精一杯フォローした。

「また来ますね。お作りおいしかったよ。大将によろしく伝えて」

「何、格好つけてるの? 次に来る約束なんてできっこないじゃない。有名大企業の次期営業部長候補の旦那と違って、あんたはこの店に来るなんて一生無理よ。坂上ミチルさん。ここが格式の高い店だと分かっているなら、言ってはいけない言葉くらいわきまえるべきだったね」

俺はそう言って店を後にした。

実は、俺が急に店を後にしたのは、書類を見直すためだった。明後日の会議に必要な書類を、どうしても見直したかったのだ。夜遅い時間で申し訳なかったが、俺はとある人物へ電話をして、ちょっとした頼み事をした。相手からはすぐに詳細な書類がメールで送られてきた。追加で取り寄せた書類を見て、俺は確信した。

そして翌朝、俺の元へ両手の大将から詫びの電話が入った。もっとゆっくりして欲しかったのに申し訳ないという内容だった。

「ああ、いや、いいんですよ、大将。もう少し酒を堪能したかったというのが本音ですがね。今週は会議などがあってそちらに伺えませんが、来週末に時間が取れるので必ず伺いますよ」

俺は丁寧に応えた。その後、大将が昨夜の夫婦の話をしてくれた。

「その後、この夫婦は両手で食事をさせろと粘ったが、女将や板場の従業員が他の客の迷惑になるから帰れと追い出したという。他の客からも苦情があって困ったらしい」

「そうだったんですか。お気遣いありがとうございます」

俺は女将に礼を行って電話を切った。

それからほどなく、どんどんと無遠慮なノックが聞こえた。俺がそれに答える間もなく、一人の男性が入ってきた。

「社長、失礼します。次期営業部長候補の私めに、なんなりとおっしゃってください」

「異性がいいね。営業部ではそれは大きな武器になるだろうね」

「え?」

「ていうか、あんた、坂上太郎さん?」

「口を慎んでください。ここをどこだと思んですか」

「ていうかなんで社長室にお前がいるんだよ。ここは私の部屋だからですよ」

「嘘は寝てから言えよ。ここは5900人もの社員が働く大企業、家電メーカーのエ通だろ。高卒だって言ってたじゃないか」

「噂に振り回されるのは良くない傾向ですね。私が働きながら通信制の大学を卒業したと言ったら?」

「は?」

「大学院で論文を書いて、工学博士の称号を持ってるとしたら?」

「信じねえ。俺は信じねえからな」

「ええ、信じていただく必要はありません。それと引き換えに、私どももあなたを信頼することはいたしません」

「え? だってあんた、名前岩渕孝太って妻が言ってたぞ。それに、じじいが何十年も社長を続けてるんだろう」

「で、何年働いてるんですか、この会社で。社長は代々、エ通正義を名乗るんですよ。私で6代目のエ通正義です」

「マジかよ。これなんかのドッキリとかじゃないだろうな」

「そういうことは一切ございません」

「そういうあんたは誰だよ」

「私、エ通人事部長の高田彩佳です。ほら、次期人事部長昇格の話だろ、坂上さん」

「あなたは我が社の状況を把握していますか?」

「と言いますと?」

ミチルの異様なまでの受かれように、俺はため息をつきながら言った。

「世界的な経済不況や新型ウイルスの蔓延で、今期は赤字の見通しであることが1つ。そして海外から部品などの輸入量が減ったため、工場が1つ閉鎖されている」

「ええ、それは知ってますよ。工場の閉鎖で100名の正社員と300名の委託社員を解雇しました。それで生き残れたんだからいいじゃないですか。天下の家電メーカーエ通ですよ」

「我々は工場勤務の社員をこれ以上失うわけにはいきません。そのため社内の早期退職制度で退職希望者を50名募りました」

「早期退職すれば1. 5倍退職金くれるってやつだろ。天下のエ通をやめるってもったいない。そんな話に乗るやついるかよ」

「黙って聞きなさい。この制度は、自分のスキルやキャリアを他社で活かせる人が20名利用しました。があと30名足りません。そこで自己転身を推進するための人材をピックアップしました。営業部からはあなたの名が名簿に記載されました」

「は? そのことをお伝えするためにお呼びしたのです」

「次期営業部長候補の名簿って噂で聞いたぞ」

「さっきも言いましたよ。噂に振り回されるのは良くない傾向です、って。ぶっちゃけ言ってしまえば、リストラ候補者名簿ってことですよ」

「れ、リストラ?」

「今回お伝えしたことによって、自己転身として競合他社以外の企業へ転職される場合は、特別に上乗せしてお支払いいたします。しかし、自己転身を断られるのならば、弊社といたしましては解雇を伝えざるを得ない状況です」

「なんで俺なんだよ。俺は有名私立を出て、モデルの嫁がいて、エ通で主任職だぞ。なんで次期じゃないんだよ」

「失礼ですが、昇進の仕組みご存知ですか?」

ミノルは首を横に振った。

「株式会社では2年に1度の昇進制度を取っています。試験に合格し研修を終了した者だけが係長以上の役職につけます。ただし最低ラインとして28歳でチームリーダーになり、30歳までに主任に昇進することが大前提です。そして35歳までに昇進試験を受ける必要があります。坂上さんは一度も昇進試験を受けておりませんので、正社員のキャリアパスからは外れております。そのため今回の対象者としてピックアップしております」

「そ、そんな。先月社内報で告知したはずだけどね。大事な話だから全員のメールボックスに通知を入れているよ。おそらくあなたの周りの社員が名簿記載を予測して、昇進候補者だと煽ったんでしょうね」

「ちょっとどうしてくれるんだよ。俺、首なのか。首じゃないよな」

「いや、君は首確定でしょ」

「私は闇雲に名簿記載者を解雇することはありません」

「どういうことだよ。首確定って。有能な俺様に限ってあるわけないだろう」

「そういうところですね。解雇のポイントは、あなた自身の評価は『有能な俺様』ですが、営業部での実績も成績も0に近いところじゃないですか」

「だって、ウイルスのせいで営業先にのきなみ訪問を断られてきたんだよ」

「その中でも他の社員たちは、大口のパソコンの納入など契約を取り付けてきましたよ」

認めようとしないミノルに少々腹が立ったが、まあ泣き出すのも時間の問題かもしれないとも思った。

「それに、パワハラの情報も入っております。あなたは新入社員に雑務を押し付けたり、飲酒を強要したりしていたそうじゃないですか」

「あれはパワハラじゃなく教育です」

「あなたがパワハラだと認めなくても、被害を被った方がパワハラだと感じれば、それは立派なパワハラなんですよ」

「なんだよそれ」

「それに昨日の夜もそうでした。あなたは水商売の相手をネズミ呼ばわりして、奥様と一緒に指を刺して笑った。それに格式高い店で、お店が断るのにも関わらず居座って、酒を飲ませろと夫婦で大騒ぎしたそうじゃないですか。追い出されてしまったけどな」

「あの店、客単価がいくらくらいの店か知っていて入店されたんですか? 居酒屋のようにお2人で飲食したら8万円以上はしますよ。え? あの店はまだ良心的なお店ですがね。私が注文したお作りは、私の分だけで1万円です」

ミノは顔が青ざめていた。金が出せなかったからだろう。両手の大将はうるさい客だから追い出したのではない。金を払ってもらえそうになかったから、予約があると断ったのだ。

「ただし、昨日のことはリストラ対象となった直接の原因ではありません。あなたの営業成績や業務態度を見て、解雇相当が適当であると判断した。それだけです。私はそれにプラスして、あなたのお人柄を見てしまっただけです」

「くそ、くそ」

「ただし、今なら油面食という形にもできます。自己転身をするのならば、我が社の関連会社である天職エージェントを紹介しましょう。ただしエ通の関連会社やエ通の同業他社には入社できません」

そう伝えたところで、ミノはジャケットに入れていたスマホでどこかに電話をかけ始めた。非常識なやつだと思ったが、俺はどこかでミノルの形相を楽しんでいることに気づいた。この男がどこに電話をかけるのか、誰とどんな会話をするのか、ちょっとだけ観察させてもらおうと思ったのだ。

人事部長の彩佳がミノルを静止しようとするが、俺はそれを止めた。

「もしもし、ミチルか? お前、昨日ネズミと会っただろ?」

「なんだよ、まだ酔っ払ってんのかよ」

「高卒の金相な中太郎だよ。ああ、そうだ、岩渕な。それがどうしたって言うのよ」

単純にミノルの会話だけを観察しようと思ったのだが、スマホはなぜかスピーカー設定で、ミチルの声が漏れている。ミノルはそれに気づかず、スマホを耳に押し当てたまま話をしている。

「あいつ、会社の社長やってたんだよ。俺が勤めるエ通の社長だよ」

「あんな陰キャに社長なんて勤まるわけないでしょ。あんた騙されてんのよ」

「やっぱり騙されてんのかな」

そこまで言って、ミノはこちらをちらりと見やる。彩佳がものすごい形相で睨みつけているので、空気を読んだようだ。

「お前が中太郎だの貧相だの似つかわしくない店に居座るだの言うから、俺今リストラされかかってんだよ」

「はあ? 嘘でしょ」

「あいつ、女にも持てないし、なんせ陰キャよ。なんでそんなやつにリストラ宣告受けてんのよ」

「ふざけるな。お前、土下座して謝れ。社長に中太郎とか貧相とか、上がらないボケ社長とか、営業のことが全然分かってない経営センス皆無の社長とか、散々言ってきたこと謝れよ」

「あら、あなたでしたか? 取引先の社員に『エ通には経営センス皆無の社長がいて困ってる』と言いふらして回っていたのは」

俺は少し大きな声で伝えた。スピーカー放送だから、当然ミチルにも聞こえたはずだ。ミノルは最大のボケを繰り出し、スマホを落としてしまった。

俺はミチルにも聞こえるように、そのまま話を続けた。

「取引先や他の会社から苦情が寄せられていたんですよ。エ通の社員が社長のことを悪く言っているとね。これで契約が更新されずに終了した損害は数億単位だ」

「すまないが、自己転身の話はなしだ。本日付けで解雇にさせてもらう。ミチルさんもそれでいいですね」

「ちょっと、給料が入ってこないじゃないのよ。どうすんのよ。先月からクレジットカードの支払いもできてないのよ」

この夫婦は、クレジットカードの支払いもできないまま、昨夜あのお店で飲食をしようとしていたのか。俺はこの夫婦の無計画さに頭を抱えたが、ここから先はエ通が何かを言えるわけではない。油を売って自ら退職届を出してもらえたら退職金もわずかながら出せた。リストラで首宣告をしてしまえば、退職金すらも出せない。ミノルはさらに窮地に追い込まれるだろう。

「お前とは離婚だ。財産分与でお前の金とマンションを半分もらうからな」

「マンションは半分にできないじゃないの。それに、夫がエ通社員ってだけでモデルやらせてもらってても、もう仕事が来なくなるじゃないの」

「さ、離婚に応じるわよ。でもマンションは私のパパの名義だから、出てってよね」

「話を続けるなら、この部屋を出てからにしてくれ。離婚に関する書類は追って送付する」

それから少しの時間が経過した。

ミノとミチルは離婚したようだが、財産分与がどうとか借金がどうとか揉めているようだ。ミノは職探しを始めたようだが、エ通の本社営業部にいた男が会社都合で退職したとなれば、どの会社も引き受けたくないらしい。次の仕事が決まらず、いよいよ立場が危うくなってきた。それは俺の知ったことではない。

ある日、ミチルが会社に電話を入れてきた。

「謝るから、ミノルを会社に戻してほしいの。ねえ、高校時代は仲良くしてきたじゃない」

「都合のいい記憶のすり替えはやめませんか」

そう言って俺は電話を切り、以後ミチルからの取り次ぎがないよう電話交換に伝えた。そう、仲良くもなかったし、ミチルのせいで俺は高校3年間ネズのまま過ごさなきゃいけなかったのだ。今だから言うが、俺は貧困家庭の暮らしではない。親父は5代目のエ通正義だ。俺が通った高校では親父は本名で寄付を行っていたから、俺がエ通の御曹司だってことは誰にも知られていなかっただけだ。

俺はスマホを取り出し、電話をかけた。

「あ、大将。すみませんが、今夜、いつもの席開いてますか? ああ、大丈夫ですね。じゃあ19時頃に伺いますね」

最後までご視聴ありがとうございます。もしよければチャンネル登録よろしくお願いいたします。また次の動画でお会いしましょう。

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