三十五年、会社のために技術を捧げてきた。なのに新しい部長は、俺の顔を見るなりこう言った。「中卒は雑用係だ。嫌ならやめろ」。俺が作った結合部の技術が、今や会社の全製品に使われていると知らずに。引き継ぎを命じられたのは、工業大学出のIQ153の男。手順書が出来上がった翌日、俺は資材倉庫へ飛ばされた。退職届を出したのは、それからすぐのことだ。もちろん、付け加えた。契約は俺の退職で切れる、と。翌日か…

三十五年、会社のために技術を捧げてきた。なのに新しい部長は、俺の顔を見るなりこう言った。「中卒は雑用係だ。嫌ならやめろ」。俺が作った結合部の技術が、今や会社の全製品に使われていると知らずに。引き継ぎを命じられたのは、工業大学出のIQ153の男。手順書が出来上がった翌日、俺は資材倉庫へ飛ばされた。退職届を出したのは、それからすぐのことだ。もちろん、付け加えた。契約は俺の退職で切れる、と。翌日か...

「中卒は雑用係だ。嫌ならやめろ」

新人の製造部長・潮見は、俺の学歴だけを見てそう言い放った。俺の仕事は、大卒でIQ153の男が引き継ぐのだという。仕事は引き継げても、俺にしかできないことが一つだけある。それをこの部長は確かめようともしなかった。

俺は五十歳。仮設機材メーカーの工場で、建築現場で使う足場の結合部分を担当している。中学を出てこの会社に入り、もう三十五年が経つ。

十八歳の頃、俺は楔を打ち込んで部材を繋ぐ仕組みを作った。これによって、足場をハンマー一本で簡単に組み立てられるようになった。当時の会社に技術開発の部署などなかった。父が近所で鉄工所を営んでいて、俺は休日、その作業場を借りて、全て自力で試作品を作った。未成年だったから、出願の書類には父の署名を借りた。

俺の仕事は部材を作ることで、仕組みを作ったことは職務発明には当たらない。だからこの特許は会社のものにならず、俺個人と会社が使用契約を結び、更新してきた。その特許が出願から二十年で切れた年、俺は楔を二段階でかけて結合を強化する仕組みを考えた。これは俺の名前で出願し、特許権は今も生きている。

毎年五月、契約の更新書面が知的財産部から回ってくる。製造部長の決裁を経て、例年、資材部の羽田が現場へ署名を持ってきてくれた。俺が署名すれば、そこからまた一年、契約が伸びる。さらにこの契約にはもう一つの定めがある。俺がこの会社をやめた時点で、この契約は効力を失うということだ。特許使用料は年に三十万円。最初に決めた額のまま、現在まで更新されている。

結合部の仕上げは俺一人が担当している。数値に落としきれない感覚的な部分があり、それを体で覚えているのは俺だけだからだ。人を付けてほしいと何度も申し出てきたが、人が足りない、来年に検討するという回答が返るだけだった。その申し出を受けてきた製造部長も、今年の三月いっぱいで工場を離れることになった。

そして迎えた四月一日、潮見という名の新しい製造部長が着任した。同じ敷地に立つ本社の生産管理部門から来たという。

作業員たちを前に、潮見は方針を語り始めた。

「去年、私は別の工場の立て直しに入っておりました。そこでは一人の作業員が抱えていた工程が、その方が急に入院したことで三週間止まりました。後始末をしたのは私です。百人規模で調べましたが、この工場にも同じ工程がある」

潮見はそこで言葉を切り、俺に視線を合わせてから言った。

「属人化した工程は会社にとってリスクです。手順に書き起こせる仕事は必ず代わりが効く。社長の大阪からも、一人に頼るような工程をなくすように言われています」

具体的な方法を説明した。まず知能の高い者をこの工程に入れ、その者に作業の全てを標準書へ落とし込ませる。その上で、作業員三人が交代で担当できる体制に移すのだという。そして潮見は隣に立つ若い男を紹介した。

「ここにいるクルスは工業大学で機械工学を収め、社内の技術でIQ153という数値を記録しています」

潮見はそう言って、クルスの肩に手を置いた。このクルスという男が、俺の手順を聞き取り、標準書にまとめる担当とのことだ。人手が増えること自体は、俺が望んでいたことだ。ただ、あの感覚部分を標準書だけで伝えられるのか、正直なところ分からない。

朝礼が終わり、持ち場に戻ると、潮見が俺の元に歩み寄ってきた。

「徳倉さんの経歴を拝見しました。中学卒業後に入社し、以来三十五年、同じ工程ですね。この工程について体系的に学ばれたことは。学校では学んでいません。自分で調べ、試作を重ねて、この工程を作りました。その時の仕組みが私の名前で特許になっています。工程をクルスさんに移すという話がすでに出た以上、この契約のことも早めにお伝えしておくべきだと思います。この特許の件なんですが、五月中に契約の更新署名が必要です」

潮見は表情を変えずに返してくる。

「存じております。着任前にこの工場の全体を見ました。特許使用料、年に三十万円ですね。上では雑費と同じ欄に乗る額です」

上の扱いを持ち出したのは、大した額ではないと言いたいのだろう。そして大した技術でないと。これまでは決裁さえ通れば、自動的に更新されてきた。だが、一人に頼る工程をなくすと言ったばかりの部長が、その決裁を素通りさせるとは思えない。

「額の話ではありません。五月中に署名がなければ、そこで契約が切れます」

潮見は俺の後ろの作業台へ目をやる。

「徳倉さんはこの工程を長く一人で抱え込んでこられた。誰にも渡さず、ご自分だけのものにしてきた。そうやって、やめられない立場を作ってこられたのではありませんか」

人を付けてほしいと言い続けてきたのは、他でもない俺だ。そう言い返したところで、この部長の耳には届かないだろう。潮見は続けた。

「徳倉さんの工程はクルスに引き継いでいただきます。その上で、その特許を使わない形に切り替えればいい。何せ中卒の方が独学で作られたものでしょ。工業大学を出てIQ153のクルスなら、大体の仕組みを考えるのは簡単なことでしょう」

俺は作業台の上の受け口を手に取った。

「これに変わるものは簡単には作れません。受け口の形は、現場に出ている数十万本の支柱の規格で決まっています。そこへ入る形にすれば、楔のかかり方まで同じものになる。結局、この特許技術を使うことになるんです」

潮見の口元から、それまでの笑みが消えた。

「またそれですか。現場に出ているものに合わないだの、特許の中に入るだの。どの工場に行っても、そうやって話が終わる。やってもいないうちから、できない理由だけが出てくる」

潮見は俺の手にある受け口を一瞥すると、顎を上げた。その口から初めて、敬語が抜けた。

「中卒は雑用係だ。お前の工程は、IQ153の大卒が引き継ぐ。嫌ならやめろ」

周りの作業員たちが息を飲んだ。一瞬静まり返った後、ざわざわと騒がしくなった。

「徳倉さんは、長年ここで頑張ってきた人です」

近くにいた若い作業員が声をあげてくれた。潮見はそちらへ鋭い一瞥をくれる。

「口を挟むな。関係のない者は黙っていろ。お前もやめさせられたいか」

その言葉に、若い作業員は口をつぐんで下を向いた。

俺は翌朝からクルスに工程を説明し、引き継ぎが終わり次第、資材倉庫の整理をするようにと言い渡された。

初日、クルスは道具を並べる前に頭を下げた。

「昨日は部長があんな言い方をしてすみません」

IQ153の男がまず口にしたのは、詫びの言葉だった。

「お前が謝ることじゃない」

そう返すと、クルスは道具箱に目を落とした。

「工業大学を出たと言っても、現場のことは何も分かりません。徳倉さんに教わる立場です」

その謙虚さは、潮見には聞こえなかった。楔を打ち込む手元を見せると、クルスは食い入るように覗き込んだ。

「この角度、図面には出てこない情報ですね。ちょっと面倒ですけど、これを測定して数値化できれば」

一つ一つの動きに素直に驚いている。クルスへの見方は、その日のうちに変わっていった。

クルスの飲み込みは早く、三週間目にもなると、クルスの仕上げた部材は俺のものと見分けがつかなくなっていた。クルスがまとめた作業標準書には、俺が伝えた手順が細かく記されている。

作業標準書ができた翌日から、俺の持ち場は資材倉庫に移った。部材を並べ替え、届いた鋼材を種類ごとに積む。クルスは何度か俺のところへ来た。標準書作りとは別に、潮見はクルスに特許を使わない新しい機構の設計を命じたという。俺は聞かれたことに、その都度答えた。若い技術者が新たな設計に挑もうとしているのだ。応援してやろうという気持ちだった。

しかし数日後、落ち込んだ様子のクルスが図面を持ってきた。

「やっぱりできません。徳倉さんの言われた通りでした」

何枚も図を引いたが、どれも形にならなかったという。クルスはやるせない顔で図面を鋼材の上に置く。

「図面を引けば引くほど、この特許の形にしかならないと分かりました」

その週の朝礼で、潮見はできたばかりの標準書を掲げた。

「この一冊があれば、誰でも作業ができます。本社にもそう報告しました。これで来月から、三人の交代制に移ります」

潮見は列の端に立つ俺を見ながら、聞こえよがしに言い放つ。

「これで、中卒の作業員一人に頼る工程はなくなりました」

朝礼終了後、クルスが事務所の方へ歩き出した。顔が強張り、眉間に深い皺が刻まれている。俺は駆け寄り、その腕を掴んだ。

「どこに行くつもりだ」

「あの言い方はないでしょう。徳倉さんがこれまで何をしてきたか、知らないくせに。はっきり言ってきます」

俺は腕を掴んだまま答えた。

「言っても、決まったことは変わらん。言うべきことは、俺の口から言う」

クルスは俺の手を振りほどき、何も言わずに持ち場へ戻っていく。その背中は納得したものではなかった。

俺は潮見のいる部屋へ向かった。机の上に見覚えのある書式の書類が置かれている。資材部から回ってきただろう、特許の更新書面だ。

「先日申し上げた契約更新の件です。書面はまだ私に回ってきていません」

「その件でしたら保留です。クルスから新しい設計についての報告は受けておられますね」

「何枚も設計図面を書いて、どれも形にならなかったと聞いています」

潮見は書類を机に置き、背もたれに体を預けた。

「クルスの図面は見ました。でしたら、形になるまで標準書通りの手順で行えばいいんです」

「いいえ、期限を過ぎれば更新ではなく結び直しになります。一度切れた契約は、同じ条件では戻りません。決裁も金も、一から話が要ります」

資材部からはこれまでも何度か見直しの打診があった。金額を上げる余地があるという話だったが、俺は金にも、名前が出ることにも興味はなかった。話し合いが長引けば、その間、現場が止まりかねない。面倒な手続きより、毎年同じ書面に判を押す方が気楽だった。俺はその都度断ってきた。

「高々年に三十万円程度の話です。必要になった時に話せばいいことでしょう」

「必要になった時には、もう出荷が止まっています。それを止めたくて申し上げているんです」

潮見は書類に目を戻した。それきり、何も帰ってこない。

潮見に届く紙は全て、潮見の机で止まる。クルスの図面も、契約更新の書面も、そこから先へ動いていない。羽田に直接事情を話すことも頭をよぎった。だが順番を飛ばせば、羽田の立場を悪くするだけだ。標準書はすでに出来上がり、俺の持ち場は資材倉庫に移った。この工場に、俺の居場所はもうない。

「今月いっぱいでやめさせていただきます。三十五年間、お世話になりました」

潮見は一瞬顔をあげたが、俺を引き留めるでもなく、すぐ書類に視線を落とした。あっけないものだ。廊下を歩きながら、自嘲した。

俺は自分の机に戻り、退職届を書き、もう一枚、書面を添えて総務に提出した。書面には、特許使用契約は俺の退職を持って効力を失うこと。続ける意思があるなら、今月中に申し出てほしいこと。やめる者の義理として、それだけは正直に書き添えた。担当者は二枚受け取ると、ついさっき製造部長から聞いたと言った。潮見から、引き継ぐ工程はもうないと伝えられたという。

担当者は退職日の欄に今日の日付を書き入れ、俺に印を押すように求めた。俺は言われた通りに印をした。もう一枚は製造部長の決裁を経て、資材部へ回るという。受付印のある二枚の控えを鞄に入れ、俺は三十五年働いた会社を後にした。

退職した翌日、俺は健康保険の手続きで市役所にいた。番号を呼ばれて外に出ると、着信の履歴が画面を埋めている。全て潮見の名前だった。昨日まで話をしようとしても書類から顔をあげなかった男だ。本社の誰かに何か言われたのか、他に何かあったのか。一日で何が変わったのかを知らないまま、出ても答えようがない。着信は家に戻ってからも鬼電のように続いた。夕方、ようやく俺は応答した。

「徳倉さん、潮見です」

その声に、昨日までの余裕はなかった。

「総務から渡された書面の件で確認したいことが」

「退職の通知でしたら、書いた通りです」

「契約が切れると書いてありましたが」

「その通りです。私がやめた時点で切れます」

「総務が資材部に確認したところ、出荷している製品は全てあなたの特許によるものだと言うんです」

「そうです。先日申し上げた通りですが」

「クルスの新しい設計はまだ間に合っていません」

「存じています」

「今からでも署名をいただけませんか」

「切れたものに署名のしようがありません」

向こうで椅子か何かが動く音がした。

「詳しいことは総務と資材部にお尋ねください」

俺はそう言って電話を切った。

その翌日、玄関の呼び鈴が鳴った。ドアを開けると、羽田が封筒を抱えて立っている。家へ通すと、羽田は座る前に要件を口にした。

「社長の大阪から、徳倉さんに契約をお願いしてこいと言われました。その前に、謝らせてください」

羽田は深く頭を下げた。

「更新の書面は四月の末に製造部へ回してありました。毎年、決裁の連絡を待って現場へ伺っていましたが、今年はその連絡が来ないまま止まっていたんです」

卓の上に、決裁の欄が白いままの書面と契約書が並べられる。退職を持って効力を失うという条項に、羽田の指が当てられた。

「新しく結ぶには徳倉さんの側にその意思が要ります。会社が決められることではないので、こうして伺いました。今の製品は一本残らず、新しい特許の仕組みが入っています」

羽田は厚い綴りの一番下の行を指した。

「一千二百億円です。最初の特許が出た年からの、この技術による売上です。それを年三十万円でお借りしてきました。正直、額が見合っていなかったと思います。クルス君からも何度も言われていました。徳倉さんの技術を、あの金額のままにしていいのかと。新しく結んでいただけるなら、金額は見直します。徳倉さんの技術がなければ、うちは立ちません。社長もそれは痛いほど分かっています」

六月に公共工事向けの大口受注が控えており、取引先から使用権を示す書類を求められたのだという。今年はその契約がない。図面も設備も材料も、作るものは全て揃っている。揃っていないのは、俺の署名した紙一枚だ。

羽田は帰り際、近く本社の名前の入った依頼書が届くと言い残し、帰っていった。

依頼書が届いたのは退職から三日後だ。社名と社長印の入った一枚で、契約更新の協議への出席を求めていた。

指定された日、俺は本社の会議室へ通される。長机に白髪の男と潮見が並んで座っていた。羽田とクルスはこちら側にいる。白髪の男が立ち上がり、大阪と名乗って深く頭を下げた。一人に頼る工程をなくせと指示を出した社長だ。

「この度は当社の落ち度で、多大なご迷惑をおかけしました。申し訳ございません」

大阪は詫びから、社内で検討した中身に触れた。代替品への切り替えも、特許を避けた設計も、道はなかったという。徳倉さんにもう一度、お力添えをいただきたいのだと。出荷は俺が会社を出た翌朝から止まっているという。俺は鞄から、退職届に添えた通知書を出した。受付印の日付を読み上げ、卓に置いた。羽田がその隣へ更新書面を並べる。いつとも、決裁の欄が白いままだ。潮見が目を伏せたまま口を開いた。

「保留は私の判断です。大した金額でもないですし、そこまで価値があるとは考えていなくて。必要になった時に結び直せばいいと思っていました」

「結び直すというのは、新しく結ぶということです。そこにある更新の書面は、もう使えません」

羽田が静かに正した。だが、潮見はまだ引かない。

「ですが、工程そのものは回っております。標準書はできており、クルスが同じものを仕上げております」

名前を出されたクルスが、そこで口を開いた。

「潮見部長、それは違います。同じものは作れますが、一本も出せません。契約がない以上、作れば作るだけ在庫が増えるだけです」

「私だけがやっていた工程はなくせても、契約に署名する私の名前はなくせなかった。ということです」

俺は静かに言った。潮見の顔から血の気が引いていく。

「退職の条項までは、正直、目を通していませんでした」

声が初めて小さくなった。

「読んでいなかったではすみません」

大阪の声が静かに、しかし鋭く飛んだ。潮見は何も言い返せず、卓の一点を見つめている。

俺は潮見を見据えていった。

「学歴で人を分けたのは部長です。分けた先に何があるかを、最後まで見ようとされなかった」

潮見はしばらく黙っていたが、やがて絞り出すように言った。

「申し訳ございませんでした」

頭を下げるまでに長い間があった。しかし確かに謝罪したのだ。クルスが身を乗り出した。

「徳倉さん、また一緒に働かせてください。教わりたいことが、まだ山ほどあります」

羽田も小さく頷いて見せる。大阪が椅子を引いて立ち上がった。

「徳倉さん、会社として改めてお願い申し上げます。契約の更新と、それに、もしよろしければ、また現場に戻っていただけないでしょうか」

白髪の頭が卓の上へ深く下がった。俺は静かに答える。

「お話は承りました。要件を含めて、書面でいただけますか」

大阪が総務へ手配すると答え、羽田が小さく頷いた。俺は潮見を一瞥し、大阪たちに一礼してから部屋を後にした。

数日後、条件を記した書面が届く。特許使用契約とは別に、雇用条件の欄がある。役職も月々の額も、やめる前と同じだ。使用料の欄だけが、年三十万円から年五百万円に書き換わっていた。俺が求めたことではない。羽田が算定をやり直したのだと聞いた。

俺はその欄には触れず、一つだけ書き添えて返した。結合部の仕上げに二人を付け、育てる時間をもらいたい、と。これは、何度も申し出てその都度見送られてきたことだ。クルスの標準書はあるが、そこに書き漏れている、言語化しにくい部分もあるのだ。会社はこれを受けた。また大阪を通じて、潮見が製造部長を解かれたと聞いた。

今、俺の下にはクルスがついている。クルスと意見を交わしながら、日々、技術が受け継がれていく確かな手応えを、俺は感じている。

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