「あの、失礼ですが、この通帳のお名前をもう一度伺ってもよろしいですか?」——窓口の女性行員は、母の通帳を見た瞬間、顔色を変えて奥へ走っていった。先月、母が突然この世を去った。19歳の俺には、9歳の妹を養う金も、頼れる大人も、何一つなかった。唯一残されたのは、母が「本当に困った時だけ」と書き残した、古い一冊の通帳だけ。金を下ろすために訪れたその信用金庫で、母の名前がなぜか異常な反応を呼び、支店…

「あの、失礼ですが、この通帳のお名前をもう一度伺ってもよろしいですか?」——窓口の女性行員は、母の通帳を見た瞬間、顔色を変えて奥へ走っていった。先月、母が突然この世を去った。19歳の俺には、9歳の妹を養う金も、頼れる大人も、何一つなかった。唯一残されたのは、母が「本当に困った時だけ」と書き残した、古い一冊の通帳だけ。金を下ろすために訪れたその信用金庫で、母の名前がなぜか異常な反応を呼び、支店...

「あの、失礼ですが、この通帳のお名前をもう一度伺ってもよろしいですか?」
窓口の若い女性行員の声が、途中でわずかに揺れた。俺が差し出した古い通帳の色あせた表紙を見つめたまま、その人は顔を上げようとしない。
佐野です。佐野美和子。先日亡くなった母の名義で。
そう答えた瞬間、女性行員は小さく息を飲むと、椅子から立ち上がった。そして「少々お待ちください」とだけ言い残し、奥へ走っていった。
残された俺は、わけも分からず通帳を握りしめたまま立ち尽くすしかなかった。
俺の名前は佐野渡、19歳。半年前までは大学に行くつもりで机に向かっていた、どこにでもいる受験生だった。それが今はコンビニの夜勤と日雇いをかけ持ちして、9歳の妹・咲と二人きりで暮らしている。
父は7年前に病気で亡くなった。そして先月、母が亡くなった。女手一つで俺と咲を育ててくれた母は、44歳の若さであっけなく逝ってしまった。
残ったのは、家賃の払えない古いアパートと、心細そうな顔をした幼い妹と、母が残した数えるほどの古い荷物だけだった。それでも俺がやるべきことは、一つだけはっきりしていた。この妹を、何としても守り抜くこと。
母が倒れたのは、いつもの朝だった。出かけようとして玄関で急に頭を押さえ、うずくまった。気づいた時にはもう返事がなかった。くも膜下出血というものだったらしい。病院に運ばれて2日後、母は静かに息を引き取った。最後まで、何も言い残すことはなかった。
葬儀の席で、親戚たちが口にしたのは慰めの言葉ではなかった。
「全く、今こそ急なことでねえ。お前、これからどうするつもりなんだ?妹の面倒くらい、お前が見るしかないだろう。まあ、母親が残したものなんて、どうせ何もないだろうしね」
俺は膝の上で拳を握ったまま、何も言い返せなかった。頼れる大人は、どこにもいなかった。
葬儀代を母のわずかな貯金から払うと、手元にはほとんど何も残らなかった。家に戻ると、咲が母の使っていた古いエプロンを膝に抱えて、ぽつんと座っていた。
「お兄ちゃん、お母さん、本当にもう帰ってこないの?」
「ああ」
「私、いい子にしてたら、帰ってくるかな?」
「咲はずっといい子だよ。だから、そういうことじゃないんだ」
それが精一杯だった。9歳の妹に、死というものをどう説明すればいいのか、19歳の俺には分からなかった。
生活はその日から、目に見えて苦しくなった。母のわずかな稼ぎで何とか回っていた暮らしは、その稼ぎが途絶えた途端に崩れ始めた。家賃は先月分から滞り、冷蔵庫の中はいつも空に近かった。俺は夜勤を増やし、休みの日には工場へ行った。それでも月末になると、財布の中は心細くなった。妹には「大丈夫」と言った。だが本当のところ、明日の飯をどうするかさえ、俺には見えていなかった。
思えば、母はいつも疲れていた。朝は俺たちがまだ眠っているうちに家を出て、夜は俺たちが寝る頃にようやく帰ってきた。母は自分のためにはほとんど何も買わなかった。洋服はいつも同じものを着回し、たまに俺が「新しいの買えば」と言っても、母は決まって「母さんはこれで十分」と笑うだけだった。
夕飯の時、母がよく「母さん、お腹空いてないから」と言って、自分のおかずを俺と咲の皿に移していたことを、今になって思い出す。あの頃の俺は、その意味をまるで考えようとしなかった。
正直に言えば、俺は母のことを、どこか少し恥ずかしく思っていた時期があった。高校の友達の親が綺麗な服を着て新しい車に乗っているのを見るたびに、いつも疲れた顔をして安売りの食材を袋に詰めて帰ってくる母が、惨めに見えて仕方がなかった。中学の頃には「学校に来ないで欲しい」と、ひどいことを言ったこともある。母はその時も怒らなかった。ただ「そうだね。ごめんね」と、寂しそうに笑っただけだった。その笑顔を思い出すと、今でも胸が締めつけられる。
父が亡くなってから、母は人が変わったように働き詰めになった。昼の仕事だけじゃ足りなくて、夜は内職にまで手を出していた。それでも母は、俺と咲の前では決して辛そうな顔を見せなかった。「大丈夫。母さんがついてるから」が、母の口癖だった。

母が亡くなって一か月半ほどが過ぎた頃、何か金になるものはないかと、情けない理由で母の荷物を整理し始めた。ダンボールの中身は、ほとんどが古いものばかりだった。色あせた俺と咲の写真。幼稚園の頃に書いた母の似顔絵。俺が小学校で書いた下手くそな作文。母はそんなものを、丁寧に大事に取っておいた。
ダンボールの一番下に、古い筆箱があった。その中に、色あせた茶封筒が一つ入っていた。開けると、一冊の通帳が出てきた。表紙はすっかり色あせていて、「大和信用金庫」と書かれていた。母があの、町の反対側にある信用金庫に持っていた口座の通帳だった。
その表紙の余白に、母の字で小さくこう書かれていた。
「本当に困った時だけ」
俺はしばらく、その文字を見つめていた。通帳を開いてみると、細かい入金の記録が何ページにもわたって並んでいた。1000円、2000円、500円、3000円。金額はどれもわずかなものだったけれど、その日付は随分昔から始まっていた。俺がまだ小学校にも上がらないような、遠い昔からだ。母は少ない給料の中から、何年も何年も、コツコツとこの口座にお金を入れ続けていたらしかった。
入金の日付を追ううちに、あることに気づいた。父が亡くなった7年前の辺りだ。あの頃、うちの暮らしはどん底だった。それなのに、その一番苦しかったはずの時期でも、この通帳の入金は止まっていなかった。月に1000円、時には500円と、金額は前よりもさらに小さくなっている。それでも母は、どんなに苦しくてもこの口座にお金を入れることだけは、やめなかったのだ。
一体、母は何のためにここまでして、このお金を貯めていたのか。その時の俺には、まだ分からなかった。ただ、この一冊の通帳に、母の途方もない何かが込められていることだけは伝わってきた。
ふと、ある日付に目を止めた。俺の誕生日だった。毎年、俺の誕生日には決まって、いつもより少し多い額が入金されていた。咲の誕生日にも、同じように。母は自分の誕生日には何もしなかった。ケーキもプレゼントも。それなのに、俺たちの誕生日だけは、こうして密かに祝ってくれていた。
数日後、母が働いていたスーパーから電話がかかってきた。母のロッカーに私物が残っているので、最後の給料と一緒に取りに来てほしいという。俺は学校が休みの咲を連れて、その店へ向かった。
店に着くと、売り場の隅に小さな張り紙があった。手書きで「佐野さん ありがとうございました」と書かれ、その周りにたくさんの寄せ書きが添えられていた。「美和子さんの煮物、また食べたかったです」「いつも助けてくれてありがとう」。
その一つ一つを読むうちに、俺の目はじわりと熱くなった。ここにも、俺の知らない母がいた。
売り場の裏の事務所で、母と同じ売り場で働いていた吉江さんというパートのおばさんに会った。吉江さんは俺と咲の顔を見るなり、目をうるませた。
「あなたたちが美和子さんの……。まあ、こんなに大きくなって。咲ちゃんは写真で何度も見せてもらってたのよ」
吉江さんは、母の思い出をぽつぽつと話してくれた。新しく入ってきたパートさんが仕事を覚えられずに落ち込んでいると、母はそっと横について丁寧に教えていたこと。誰かが体調を崩して休むと、母が黙ってその人の分まで働いていたこと。
「私ね、去年主人が入院して家計が本当に苦しかった時期があったの。そしたら美和子さん、何も言わずに『おかずのあまり、これ捨てるだけだから持って帰って』って、毎日持たせてくれてね。あれでどれだけ助かったか」
俺は俯いたまま聞いていた。うちだってギリギリだったのに、どうして母はそこまで他人のために動けたのだろう。
吉江さんは俺の顔をじっと見て、言った。
「あなた、お母さんのこと、少し責めてるみたいな顔してるね。……美和子さんにとっては、多分それが当たり前だったの。困ってる人がいたら放っておけない。理屈じゃないのよ、あの人は」
「困っている人を見て見ぬふりだけは、母さんにはできないんだよ」。母のあの言葉が、耳の奥で蘇った。
帰り際、思い切って吉江さんに聞いてみた。
「あの、母は『大和信用金庫』っていう信用金庫に口座を持っていたんです。家から結構遠いのに、何か知りませんか?」
吉江さんは少し考えてから答えた。
「詳しくは知らないけどね。美和子さん、昔から桜台の辺りでずっと働いてたのよ。あなたが生まれるよりもっと前から。あの信用金庫の人たちとも、その頃からの長い付き合いみたいだったわ。……行けば、あなたの知らないお母さんのことも、少しは分かるかもしれないわね」
その言葉が、なぜか俺の胸に引っかかって離れなかった。
家に帰ると、咲は母のエプロンをつけた自分の絵を一枚描いていた。拙い絵だったけれど、そのエプロン姿はどこか母によく似ていた。
「お兄ちゃん、この絵、母さんの仏壇に飾ってもいい?」
「ああ、母さん喜ぶよ」
「あのね、私、母さんも絵いっぱい描くの。そしたら、母さんのこと忘れないでしょ」
俺はこの子に、何としても絵を続けさせてやりたいと思った。
だが、思い出に浸っていられる時間は長くは続かなかった。月末が来た。家賃の督促状は、とうとう「これ以上お支払いがない場合は」という、きつい文に変わっていた。電気料金の紙も、赤い字で印刷されていた。俺のわずかな稼ぎでは、二つを同時に払うことはできなかった。結局、電気代を先に払い、大家さんに家賃をもう少し待ってほしいと頭を下げた。
ある夜のことだった。俺が台所で俯いていると、寝ていたはずの咲が起きてきて、隣に立った。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ」
「お兄ちゃんも『大丈夫』っていう。お母さんと同じ」
どきっとした。
「あのね、お母さんもしんどい時、いつも『大丈夫』って言ってたの。でもね、私知ってたよ。お母さん、本当は大丈夫じゃない時もあったって」
俺は言葉に詰まった。
「だから、お兄ちゃんも無理しないでね。しんどい時は、しんどいって言っていいんだよ」
守っているつもりで、俺はこの子に守られていた。
そんなある晩、伯父の剛造さんが家にやってきた。葬儀の日以来だった。あの時、俺たちを見捨てるように帰っていった叔父が、今更何の用だろう。
「よう、どうだ?うまくやってるか?」
「なんとかやってます」
「なんとか、ねえ。無理するなよ。そこらのお前が、妹一人養うなんて、無理な話なんだよ。……なあ、渡。咲は、うちで預かってやろうか。うちなら飯も食わせてやれるし、学校にもちゃんと通わせてやれる。お前も自分一人なら、いくらでも身軽に働けるだろう」
「いえ、咲は俺が育てます」
「強がるな。お前に何ができる?この家賃も払えないようなボロアパートで、妹を飢えさせる気か?なあ、悪いようにはしない。咲をうちで引き取れば、児童手当だってこっちで受け取れる。お前も仕送りの一つもしなくて済むんだ。お互い、その方が楽だろう」
「児童手当」という言葉に、俺はかすかな引っかかりを覚えた。この人は、本当に咲のことを思って言っているのだろうか。
「すみません。でも、咲とは離れません」
「ふっ、まあいい。せいぜい、いつまで持つかな」
叔父は鼻で笑って、帰っていった。
その夜、俺は眠れなかった。俺は本当にこの子を守れるのだろうか。俺一人の力なんて、たかが知れている。それでも、と俺は思った。咲は俺の宝だ。母が命を削って守り抜いた、たった一人の妹だ。この咲を、あんな人たちに渡せば、俺は母に顔向けできなくなる。
翌朝、隣の部屋の大家のおばあさんが、握り飯を届けてくれた。
「渡くん、あんた、ちゃんと食べてるのかい?無理しなさんな。……困った時はお互い様だよ。あんたのお母さんには、随分よくしてもらったからね。あんたのお母さんはね、この辺りでも評判のいい人だったよ。自分だって大変だろうに、うちの前の掃除までしてくれたりね。困ってる人を見ると、ほっとけない人だった。あんたも、あの人の子だ。きっと大丈夫だよ」
その言葉が、じんわりと心に染みた。
俺は仏壇の前に座り、母の写真に語りかけた。
「母さん、俺、どうすればいいのかな?このままじゃ、咲を守ってやれない」
写真の母は、いつものように少し困った顔で笑っているだけだった。答えは帰ってこない。それでも俺は、母に問いかけずにはいられなかった。
その時、ふと母の声が聞こえた気がした。
「本当に困った時だけ」
通帳の、あの字だった。
もう先延ばしにはできなかった。今が、まさにその「本当に困った時」だった。俺は茶封筒から通帳を取り出し、それを握りしめた。
「咲、ちょっと出かけてくる。母さんの通帳のお金を下ろしてくるよ」
「うん。行ってらっしゃい。お母さんに『ありがとう』って言っといてね」
咲のその言葉に、小さく頷いて家を出た。バスに揺られて40分ほどかかった。桜台という町は、古い商店街の残る小さな町だった。
「大和信用金庫 桜台支店」。それは商店街の外れにある、古い二階建ての建物だった。自動ドアをくぐると、こぢんまりとしたロビーに数人の客がいた。俺は番号札を取って、順番を待った。通帳を握る手が、少し汗ばんでいた。
「母さん、今からこれを使わせてもらうよ」。俺は心の中で母に断りを入れた。
ロビーを見回すと、壁には古い写真が何枚も飾られていた。セピア色になった写真の中で、行員たちが地域の祭りに参加していたり、商店街の人たちと笑い合っていたりしている。大きな銀行にはない、人と人との距離の近さがその写真から伝わってきた。
「あそこには、母さんの大事な人たちがいるから」。母のあの言葉が、また頭をよぎった。母にとって、この場所はただお金を預ける場所じゃなかったのかもしれない。ここには、母を「大事な人」だと思ってくれる誰かがいたのかもしれない。
俺の番号が呼ばれた。窓口には、若い女性の行員が座っていた。名札には「立花」と書かれている。柔らかい笑顔の、感じのいい人だった。
「あの、この通帳のお金を下ろしたいんです。それと、解約もお願いできますか?」
俺は母の通帳を窓口に差し出した。立花さんは通帳を受け取り、機械にかけようとして、その手が止まった。表紙の名義の欄を見ている。美和子という、母の名前を。
その瞬間、立花さんの表情が変わった。柔らかかった笑顔がすっと消え、代わりに何かに驚いたような、信じられないような色が浮かんだ。
「あの、失礼ですが、この通帳のお名前をもう一度伺ってもよろしいですか?」
立花さんの声が、途中でわずかに揺れた。俺は少し戸惑いながら答えた。
「佐野です。佐野美和子。先月亡くなった母の名義で」
そう答えた瞬間だった。立花さんは小さく息を飲むと、椅子から立ち上がった。そして「少々お待ちください」とだけ言い残し、奥へ走っていった。
一体、何が起きたのだろう。母の名前を見た途端の、あの反応。まるで見てはいけないものを見てしまったような、あの顔。俺の頭に、嫌な想像が次々と浮かんだ。もしかして、母はこの信用金庫に何か借金でもしていたのだろうか。それとも、この通帳には何か問題があったのか?そう思うと、背筋が冷たくなった。
窓口の奥では、何やらざわめきが起きているようだった。立花さんが年配の行員に何かを必死に伝えている。その行員が目を見開いて、こちらを見た。そしてまた、別の行員へと話が伝わっていく。奥のデスクにいた人たちが、一人また一人と手を止めて、立ち上がっていくのが見えた。一人の年配の行員がこちらを見て、口元を手で覆った。まるで、泣くのをこらえているようだった。
ロビーで順番を待っていた一人のおばあさんの客までもが、事情を察したように、俺の方を見ていた。
何かが、この信用金庫の空気を静かに、そして確かに変えていた。その中心に、俺の差し出した母の通帳があった。
やがて、奥のドアが開いた。先頭に立っていたのは、白髪の混じった、品のいい年配の男性だった。胸には「支店長」という名札をつけている。その後ろから、立花さんと、それに何人もの行員たちが続いて出てきた。
支店長らしきその人は、まっすぐに俺の方へ歩いてきた。そして俺の前に立つと、深々と頭を下げた。釣られるように、後ろの行員たちも一斉に腰を折った。
「あなたが、佐野美和子さんの息子さんですか?」
頭を下げたまま、支店長が絞り出すように言った。その声は震えていた。頭を上げたその人の目は、赤く腫れている。
「はい、佐野渡です。美和子の息子です」
俺が答えると、その人はもう一度深く頭を垂れた。
「篠原と申します。この桜台支店で支店長をしております。……美和子さんがお亡くなりになったと伺いました。私たちはそのことをつい先日知ったばかりで、お参りにも行けず、本当に申し訳ないことをしました」
俺はわけが分からなかった。どうしてこの人たちが、母の死をこんなにも悲しんでいるのだろう。
「あの、母が何か、ご迷惑をおかけしたんじゃ……」
俺が恐る恐るそう聞くと、篠原さんは驚いたように顔を上げた。
「迷惑だなんて、とんでもない。逆です。私たちは、美和子さんに返しても返しきれないほどの恩があるのです。この支店にいる者はみんな、美和子さんに助けられてきました」
「恩」という言葉に、俺は頭が真っ白になった。母が、この人たちを助けた?あの、いつも疲れて貧しくて、弱音一つ吐かなかった母が?
俺の混乱をよそに、行員たちは口々に母のことを話し始めた。
「美和子さんには、本当にお世話になりました」
「あの方がいなかったら、私は今ここにいません」
一人一人の目に、涙が浮かんでいた。その涙は、嘘には見えなかった。
最初に俺に対応した立花さんが、涙を拭いながら前に出た。
「私、この信用金庫に入ってすぐの頃、大きなミスばかりして、もう辞めようって毎日泣いていた時期があったんです。そんな時も、声をかけてくださったのが美和子さんでした。ここに来られるたびに、私におにぎりを一つ握って持ってきてくださって。『大丈夫。あなたならできるから』って。何度も何度も。あの言葉とあのおにぎりがなかったら、私はとっくに辞めていました。今、ここには立っていません」
俺は何も言えなかった。「大丈夫」。それは、母が俺や咲にもいつもかけてくれた言葉だった。おにぎりもそうだ。母が毎朝、多めに握っていたあのおにぎり。母は家の外でも、同じ言葉と同じおにぎりで、こうして誰かを支えていたのだ。
篠原さんが、壁際の棚から一枚の古い写真を持ってきた。
「これを見ていただけますか?」
そこに映っていたのは、20数年前のものだろうか。若い行員たちに囲まれて、一人の女性が笑っていた。エプロン姿で、大きなおにぎりの包みを抱えている。母だった。今よりずっと若いけれど、紛れもなく母の顔だった。俺の知らない、20代の母が、屈託なく笑っている。
「この写真は、ずっとこの支店に飾ってあります。私たちにとって、美和子さんはそれくらい大切な方なのです」
俺はその写真から目が離せなかった。家ではいつも疲れて眉間にしわを寄せていた母が、ここではこんなにも幸せそうに笑っている。喉の奥が詰まった。
篠原さんは、俺を奥の応接室へ案内してくれた。温かいお茶を出してくれ、そして静かに言った。
「美和子さんがこの桜台でどんな風に生きてこられたか、それは一日ではとても話しきれません。改めて、ゆっくりとお話しさせてください。でも、これだけは今日お伝えしておきます」
篠原さんは、母の通帳を両手で俺に返した。
「この通帳は、美和子さんがあなたと妹さんのためだけに残された、大切なものです。中には、あの方が20年近くかけてコツコツと積み立ててこられたお金が、ちゃんと残っています」
20年近く。その言葉に、俺は息を飲んだ。母は、俺が生まれる前から、俺たちのためにこのお金を貯め始めていたというのか。
「それから、美和子さんはこの支店に、あなた宛ての手紙を一通預けておられます。それをいつお渡しするかは、美和子さんから言いつかっていることがありまして、もう少しお待ちいただけますか?」
手紙。母が、俺に残した手紙。
聞きたいことは山ほどあったけれど、その日はそれ以上頭が働かなかった。俺は母の通帳を握りしめ、「また来ます」と約束して、その日は桜台を後にした。
帰りのバスの中で、俺はずっと通帳を握りしめていた。母には、俺の知らないもう一つの人生があった。桜台という町で、たくさんの人に慕われ、慕われるだけの何かをしてきた人生が。
数日後、家に剛造さんがやってきた。今度は、前より機嫌が良さそうだった。その顔を見た瞬間、俺は嫌な予感がした。
「よう。聞いたぞ。美和子さんが通帳を残したんだってな。……大家さんが言ってたぞ。急に滞ってた家賃を、端から端まで払ってくれたってな。随分、羽振りがいいじゃないか」
俺は「しまった」と思った。この人は、金の匂いには恐ろしく敏感だった。
「なあ、いくら入ってたんだ?」
「その通帳には、おじさんには関係ないでしょ」
「関係なくはないさ。俺は、お前らのたった一人の後ろ盾なんだからなあ」
叔父はずかずかと部屋に上がり込み、勝手に腰を下ろした。
「なあ、渡。よく聞け。お前はまだ19だ。世間の右も左も分かっちゃいない。そんなお前に、大金の管理なんてできるわけがない。……それにな、法律ってもんがあるんだよ。咲はまだ未成年だ。親が死んだ未成年には、後見人ってのが必要になる。財産をちゃんと管理する大人がな。俺はな、家庭裁判所に申し立てるつもりだ。咲の後見人に、この俺がなるってな。そうすりゃあ、あの通帳の金も、咲が大人になるまで、この俺がきっちり管理してやる」
「咲は俺が育てます。通帳だって、母さんが俺たちに残してくれたものです」
「ふっ。19の、定職もないガキが何を言う?裁判所が、お前と俺と、どっちを信用すると思う?」
叔父は部屋を見回して、鼻で笑った。
「大体なあ、美和子さんの子供だからって、お前が全部抱え込む必要はないんだよ。俺は親戚だぞ。血のつながったな。この俺が面倒を見てやろうって言ってるんだ。ありがたく思え」
俺には分かっていた。この人が見ているのは、咲ではない。あの通帳だ。咲を引き取りさえすれば、児童手当も、咲が相続した分も、思いのまだ。その上、俺が妹を養えない「不幸な前例」だと裁判所に印象づけられれば、母が残した通帳の管理まで、この人が握ることになる。
葬儀の日、俺たちを見捨てた人間が、金の匂いをかぎつけた途端、血のつながった親戚の顔をして現れた。そのあまりの浅ましさに、腹が煮えくり返る思いだった。それでも俺は、言い返す言葉を持たなかった。定職もなくその日暮らしの俺と、曲がりなりにも家庭のある叔父。裁判所がどちらを選ぶか考えると、足元が崩れていくようだった。
「まあ、せいぜい考えておくんだな。悪いようにはしない。咲も通帳も、俺に任せるのが一番丸く収まるんだよ」
叔父はそう言い残して、帰っていった。
その夜、咲が俺の服の裾をそっと握った。
「お兄ちゃん、私、おじさんのとこに行かなきゃだめなの?」
「聞いてたのか?」
「私、お兄ちゃんといたい。あのおじさん、怖い」
俺は咲を強く抱きしめた。
「大丈夫だ。咲はどこにもやらない。お兄ちゃんが絶対に守るから」
そう言いながら、俺の声は震えていた。本当に守れるのか?俺には、その自信がどこにもなかった。
翌日、俺は思い切って市役所へ行ってみた。無料の法律相談をしていると、大家さんに聞いたからだ。担当の人に事情を打ち明けると、その人は気の毒そうな顔で、けれど正直にこう言った。
「未成年後見人は、家庭裁判所がその子にとって一番いいと思う人を選びます。あなたがお兄さんとして育てたい気持ちは、痛いほど分かります。ただ、正直に申し上げると、あなたがまだ19歳で定職がなくて収入も不安定だと、裁判所は慎重になるかもしれません。……安定した収入や住まい。それに、あなたを支えてくれる大人の存在。それが、どうしても必要になります」
安定した収入。俺を支えてくれる大人。そのどれもが、今の俺にはなかった。俺は礼を言って、役所を出た。足が、鉛のように重かった。
ふと、篠原さんの顔が浮かんだ。あの人になら、相談できるだろうか。いや、と俺は一度は首を振った。会ったばかりの銀行の人に、こんな身内の恥のような話を持ちかけられるわけがない。けれど、もう成り振りなんて構っていられなかった。俺には、頼れる大人が一人もいないのだ。母の恩人だというあの人たちだけが、今の俺に残された細い、細い糸だった。
翌日、俺は再び桜台へと向かった。通帳のことを確かめ、そして、できるなら叔父のことを相談するために。
再び訪れた桜台支店で、篠原さんは俺を温かく迎えてくれた。
「よく来てくださいました。……どうも、あまり眠れていないような顔をしておられますね」
図星だった。俺は曖昧に笑ってごまかした。この人には、こちらの心の内が見透かされているようだった。
篠原さんは、またあの応接室へ俺を通してくれた。そして、何人かの行員を呼んでくれた。みんな、母のことを話したくてうずうずしているようだった。
最初に口を開いたのは、水野さんという融資課長の男の人だった。
「私はね、もう15年も前になりますか。この支店に配属されて、毎日遅くまで一人で残業していた時期がありました。仕事はうまくいかない。上からは叱られる。心も体も、限界でした。……そんな夜のことです。もう日付も変わろうかという頃、支店の裏口に美和子さんが立っていましてね。『こんな時間まで大変だね』って。そう言って、温かい味噌汁の入った水筒を差し入れてくださったんです。あれは、うまかった。冷えた体に、染み渡るようでね。……私はそれをすすりながら、恥ずかしい話、泣きましたよ。誰にも『頑張れ』とは言われなかった。ただ、『大変だね』って。その一言が、どれだけ救いになったか」
年配の女性行員も話してくれた。
「私がこの支店にいた新人の頃ね。家の事情で、お昼ご飯も満足に食べられない時期があったの。そしたら美和子さんが、それに気づいてね。『朝、多く握りすぎちゃったから、もらってくれる?』って、おにぎりを二つも三つも持ってきてくださって。後で知ったんだけど、あれ、多く握りすぎたんじゃなかったのよ。美和子さん、私のために、わざわざ握ってきてくださったの。自分だって、決して楽な暮らしじゃなかったのに」
次に話してくれたのは、まだ若い20代の男の行員だった。
「僕は去年、大きな失敗をして、もうこの仕事向いてないんじゃないかって、辞表を書きかけていたんです。そしたら美和子さんが、窓口の外から僕を呼び止めて、『あなた、この前、おばあちゃんのお客さんにすごく丁寧に道を教えてあげてたでしょ?あれを見て、私、いい子だなって思ったのよ』って。たったそれだけのことを、覚えていてくれて。……ちゃんと見ていてくれた人がいたんだって。それで、僕、辞めるのをやめました」
どの話も、母らしかった。母はいつも、相手が一番弱っている時に、そっと隣にいてくれる人だった。派手なことは何もしない。ただ、温かいものを差し出して、隣にいる。それだけで、人は救われるのだと、母は知っていたのだ。
「美和子さんはね、いつもこうおっしゃっていました」。篠原さんが、静かに言葉をついだ。「『困っている人を見て、見ぬふりだけはできないでしょう』と」
その言葉に、俺ははっとした。それは、母が俺にも言っていた言葉だった。家でも外でも、母は同じ思いで生きていた。母の優しさは、俺の知らないところで、こんなにもたくさんの人を照らしていたのだ。
「美和子さんは、ご自分のことはほとんど話されませんでした」。篠原さんが静かに言った。「でも、一度だけ、こぼされたことがあります。『うちの子たちには、寂しい思いをさせてるの。だから、せめてよそのお子さんや、困ってる人には、優しくありたいの』って」
その言葉に、俺ははっとした。母は、俺たちに寂しい思いをさせていると、気にしていたんだ。だから、あんなに他人に優しかったのか。
その温かさに触れているうちに、俺の中でこらえていたものが緩んでいくのを感じた。気づけば、俺は篠原さんに全てを打ち明けていた。母が残した通帳を、叔父が狙っていること。叔父が咲の後見人になって、財産を管理しようとしていること。俺が19歳で定職もなく、このままでは妹も通帳も奪われかねないこと。
情けなくて、涙が出た。母の恩人の前で、俺はこんな情けない話しかできないのか。けれど篠原さんは、俺の話を最後まで静かに聞いてくれた。そして、聞き終えると、その顔にこれまでとは違う、厳しい色が浮かんだ。
「そうですか。……そういう方が、現れましたか」。篠原さんの声には、静かな怒りがこもっているようだった。「美和子さんがあんなに大事に残されたものを、そんな形で奪おうとする人がいるとは。……渡さん、一つ聞かせてください。あなたは、妹さんをこれからもご自分で育てていきたい。そうお考えですね」
「はい。当たり前です。咲は、母さんが命がけで守った子です。俺が守ります。でも、俺には力がなくて……」
篠原さんは深く頷いた。
「分かりました。それを聞けて、よかった。……実はね、美和子さんは、この通帳をあなた方お二人以外の手に決して渡らないように、ある準備をしておられました。その話も含めて、全てお話しします」
「準備」。母が残した、準備。俺にはまだ、その意味が分からなかった。篠原さんはしばらく何かを考えるように黙っていた。
「渡さん、実はね、美和子さんは、そういうことも見越しておられたのかもしれません。……美和子さんは、この通帳のことで、私たちにいくつか頼んで行かれたことがあるのです。その話をするには、どうしても20年前の、私自身の話を聞いていただかなければなりません。……なぜ美和子さんが、これほどまでにあなた方お二人の未来を案じておられたのか。なぜこの桜台の私たちが、美和子さんに命がけの恩を感じているのか。その全ての、始まりの話です」
俺は、息を飲み込んだ。篠原さんの目は、遠い20年前を見つめているようだった。
篠原さんは、ゆっくりと話し始めた。
「20年前、私はある大きな銀行の本店にいました。融資の担当として、それなりに油の乗った時期でした。……けれど、ある時、私が目をかけていた一つの会社が倒産しましてね。私が『大丈夫だ』と信じて、多額の融資を通した会社でした。その焦げ付きの責任を、私は一身に追わされました」
篠原さんの声は静かだったが、その奥には、20年経っても消えない痛みが滲んでいた。
「役職を外されました。同僚は、塩が引くように私から離れていきました。おまけに、その信用がたたって、妻ともうまくいかなくなり、その頃の私は、家庭も仕事も、何もかも失いかけていました。……毎日が真っ暗でした。生きている意味なんて、これっぽっちも感じられなかった。お恥ずかしい話ですが、私はある日、この桜台の川にかかった橋の上に、立っていました」
俺は、息を飲んだ。こんな立派な支店長が、20年前、死のうとしていた。
「川に手をかけて、もういいだろうと、そう思ったその時でした。後ろから、声をかけられたんです。『お兄さん、そんなところで何してるの?危ないよ』って。振り返ると、若い女の人が立っていました。美和子さんでした」
俺の心臓が、大きく跳ねた。
「あの頃の美和子さんは、まだ随分お若かった。24だったでしょうか。この桜台の小さな定食屋で働いておられました。夜勤明けだったのか、疲れた顔をして。それでも、その目はまっすぐに、私を見ていました。私は『放っておいてくれ』と突き離しました。『あんたに何がわかる』と。それでも美和子さんは、私の腕を離さなかった。『分からない。分からないけど、あなたが今ここで死んだら、明後日、私が絶対に後悔するから』って。……変な人だと思いましたよ。『明後日、後悔するから』なんて。でも、そのめちゃくちゃな理屈が、なぜか私の張り詰めていた何かを、ふっと緩めたんです」
篠原さんは、そこで少し笑った。泣きそうな笑顔だった。
「美和子さんは、私を自分の働く定食屋に連れて行ってくれました。そして、温かいご飯と味噌汁を出してくれた。『とりあえず食べて。辛い話は、お腹がいっぱいになってからでいいから』って。……私は、その湯気の立つご飯を見た瞬間、ぼろぼろ泣きました。何日ぶりかの、まともな食事でした。人の情けというものに触れたのも、何年ぶりか、分からなかった。どうしてこんな見ず知らずの、落ちぶれた男にそこまでしてくれるのかと、私も同じことを聞きました。そうしたら、美和子さんは笑ってこう言ったんです。『放っておけないんだから、しょうがないでしょう。私も昔、困った時に知らない人に助けてもらったことがあるの。だから、順番に返してるだけ』って」
俺は、その言葉に聞き覚えがあった。母が俺に言った、あの言葉。「母さんも昔、そうやって誰かに助けてもらったことがあるから」。母が返し続けていたその「順番」の、一番先にいたのが、この篠原さんだったのだ。
「それから、美和子さんは毎朝、私におにぎりを握ってくれました。仕事を探しに行く私に、『これ食べて、頑張っておいで』って。……あのおにぎりの温かさだけが、あの頃の私の、たった一つの支えでした。半年ほどかかりました。私は少しずつ立ち直って、別の信用金庫に拾ってもらいました。そこから、必死に働きました。もう一度、人に信じてもらえる人間になりたくて」
篠原さんは、俺をまっすぐに見た。
「立ち直った私は、美和子さんに恩を返させてほしいと頼みました。お金でも、何でも、できることは何でもすると。……でも、美和子さんは受け取ってくれませんでした。その代わりに、こう言ったんです」
篠原さんの声が、震えた。
「『じゃあ、一つだけお願いしていい?私、いつか子供を持つの。その子たちが、いつか本当に困る日が来るかもしれない。私がそばにいてやれない日が、来るかもしれない。その日が来たら、その時だけ、この子たちを助けてやってくれませんか』って。……私は、その言葉を一生忘れません。自分のことじゃないんです。まだ生まれてきてもいない、我が子のことを、あの人はその時、もう案じていた。私は約束しました。『必ず』と。その約束が、私に生きる理由をくれたんです。あの人との、たった一つの約束が」
俺は、声も出せなかった。母は、俺たちのために、こんな昔から、こんな立派な人を味方につけていてくれたのか。「本当に困った時だけ」。通帳の表紙の、あの文字が、俺の頭の中で母の声と重なった。
「美和子さんは、この桜台支店に口座を作りました。そして、子供が生まれる前から、その口座にコツコツとお金を貯め始めたんです。いつか生まれてくる我が子が、困った時のために。……私は、美和子さんとのその約束を守るために、何年もかけて希望を出し続けて、この桜台支店に支店長として戻ってきました。美和子さんの、大事な通帳があるこの町に。私が桜台支店に戻ってきた時、美和子さんはそれはもう喜んでくださいました。『まあ、あなた、店長さんになったの?すごいじゃない』って。自分のことのように。それからは、時々朝に顔を出してくださるようになりました。あのおにぎりを持って。私にだけじゃない。新しく入った若い行員たちにも、昔と同じように声をかけて、励まして」
篠原さんは、ふと目を伏せた。
「最後にお会いしたのは、亡くなる一か月ほど前でした。少しお疲れのようでしたが、いつもの笑顔で、『息子がこの春、大学生になるのよ』って、嬉しそうに話しておられました」
俺ははっとした。俺は結局、大学には行けなかった。母は、俺が大学に行くものだと信じて、この人に自慢していてくれたのか。
「あの時、美和子さんは帰り際に、私に言い残されました。『篠原さん、私にもしものことがあったら、あの子たちのこと、その時だけお願いね』って。……まさか、それが本当に最後になるとは」
篠原さんの声が、詰まった。母は、どこかで感じていたのだろうか。自分に残された時間が、もう長くないことを。だから、あんな風に言い残していったのだろうか。
考えても、答えは出なかった。ただ、母が最後の最後まで、俺たちのことを案じてくれていたことだけは、確かだった。
俺は、もう涙を止められなかった。母は、俺が生まれる前から、俺のことを考えていてくれた。まだ顔も知らない我が子のために、自分の身を削って、一円ずつ未来を貯めていた。そして、そのことを母は俺に、一言も言わなかった。恩着せがましいことは何一つ言わずに、ただ黙って、俺たちを守る準備をしていたのだ。
「この支店の人間がみんな美和子さんを慕っているのは、恩があるからだけじゃありません。美和子さんの生き方に、私たちは憧れていたんです。あんな風に、見返りも求めず、人に優しくできる人になりたいと。……あなたのお母さんは、私たちの誇りでした」
俺は顔を手で覆った。これが、恥ずかしいと思っていた母。「学校に来ないで」と突き放した母。その母は、こんなにも立派な人だった。俺なんかより、ずっとずっと、大きな人だった。
「渡さん、あなたがご自分を責める必要はありません。美和子さんは、一度もあなたたちを恨んだことなんて、ありませんでした。それどころか、あなたと妹さんの話をする時、美和子さんはこの世で一番幸せそうな顔をしておられましたよ」
「……そんな資格、俺には」
「いいえ。美和子さんが命を削ってまで守りたかったのは、あなたたち二人です。あなたが自分を責めて、俯いてしまったら、美和子さんのその思いが報われません」
その言葉に、俺は顔を上げた。涙で、篠原さんの顔が歪んで見えた。
「篠原さん、どうして母は、俺たちに何も言わなかったんでしょうか?こんなすごいこと、少しくらい自慢したって、良かったのに」
篠原さんは、少し考えて、こう言った。
「美和子さんは多分、自慢や恩着せがましさとは一番遠いところにいた人です。人に優しくするのは、あの人にとって、息をするのと同じくらい当たり前のことだったんでしょう。それに、きっとあなた方には、そういう自分を見せる必要がなかったんですよ。家では、ただのお母さんでいたかった。それだけで、良かったんだと思います」
俺は、その言葉を噛みしめた。母は外ではたくさんの人を救う、立派な人だった。でも家では、ただ俺たちの母さんでいてくれた。そのどちらも、本当の母だったのだ。
その日、篠原さんは俺にこう言ってくれた。
「渡さん、次は是非、妹さんも一緒に連れてきてください。美和子さんからお預かりしている手紙を、お二人にお渡ししたいのです」
数日後、俺は咲の手を引いて、再び桜台支店を訪れた。咲は、母が愛された場所を、興味深そうに見回していた。行員のみんなが、咲を見て目をうるませた。母の面影を探しているのだろう。
篠原さんが、母から預かったという一通の封筒を持ってきた、その時だった。支店の自動ドアが、乱暴に開いた。
「あ、渡。やっぱりここにいたか」
剛造おじさんだった。俺の跡をつけてきたのだろうか。それとも、通帳がこの信用金庫のものだと、嗅ぎつけたのか。叔父はずかずかとロビーに入ってくると、大声でまくし立てた。
「話は聞いたぞ。ここに美和子さんの通帳があるんだってな。おい、あんたら銀行の人。その通帳の金は、俺が管理する。俺は、この子たちの後見人になる男だ」
ロビーが、静まった。咲が、怯えたように俺の後ろに隠れた。俺はとっさに咲を庇った。
「お前は黙ってろ。まだ若いお前に、金の管理なんかできるわけがないだろう。妹のためにも、大人の俺が預かってやるって言ってるんだ。家族なんだから、当然だろうが」
俺は、体が震えた。またこの人は、咲と、そして母の思いを奪おうとしている。俺は何か言い返さなければと思うのに、言葉が出てこなかった。情けなかった。あれだけ咲を守ると誓ったのに、今の俺は、この叔父一人に言い返すこともできない。19歳の俺には、権威も、金も、後ろ盾も、何もなかった。咲が俺のシャツを握る手に、力がこもった。その小さな震えが、俺にも伝わってきた。
その時だった。篠原さんが、静かに俺と咲の前に進み出た。そして、剛造おじさんとまっすぐに向き合った。
「お客様、少しよろしいですか?」
その声は静かだったが、反論を許さない重みがあった。
「申し訳ございませんが、この通帳は、お母様がこちらのお二人のお子様のためだけに残されたものです。他のどなたにも、お渡しすることはできません」
「なんだと?こっちは親族だぞ。血のつながった伯父だ。その俺が管理するのが筋だろうが」
篠原さんは、表情を変えなかった。
「いいえ。お母様が最後まで守ろうとされたのは、失礼ながら、あなたではありません。このお二人のお子さんです」
その一言に、剛造さんの顔が赤黒く染まった。
「き、貴様、銀行の分際で、俺に指図する気か?」
「指図ではありません。事実を申し上げているだけです」
篠原さんは、一枚の書類を取り出した。
「お母様は、きちんとした遺言を残されています。『遺言書』と言います。財産は全て、渡るさんと咲さんに。そして、そこにはお母様のはっきりとしたお気持ちも書き添えられています。『子供たちのことは、兄である渡に託したい。他の親族の世話にはならせたくない』と」
「そ、そんなの、フェイクだ!」
「フェイクではございません。また、もしあなたが妹さんの未成年後見人になるための申し立てをなさるのであれば、私ども大和信用金庫と、この桜台支店のもの一同が、全力で後ろ盾になります。渡さんには、当金庫で働いていただくお話も進めています。安定した仕事、住まい、そして支えてくれる大人。家庭裁判所が求めるものは、全て私たちが揃えます」
俺は、耳を疑った。仕事。後ろ盾。俺が喉から手が出るほど欲しかったもの。それを、篠原さんは差し出してくれた。俺は言葉を失っていた。
この人は、会ったばかりの俺のために、どうしてここまでしてくれるのか。いや、違う。この人は俺のためじゃない。母のためにしてくれているのだ。20年前に自分を救ってくれた、あの人への恩を、今こうして返そうとしている。母が20年前に蒔いたたった一粒の優しさが、今こんなにも大きな形になって、俺と咲を守ってくれている。
篠原さんは剛造おじさんに深々と頭を下げたけれど、その目は笑っていなかった。
「ですから、どうぞお引き取りください。あなたの出る幕は、ここにはございません」
剛造おじさんは、ぶるぶると震えていた。周りを見渡すと、行員たちがみんな、鋭い目で叔父を見ていた。ロビーの客たちも、事情を察して、叔父を非難するように見ている。
「……覚えてるよ」
叔父は捨て台詞を吐いて、逃げるように支店を出ていった。残されたのは、静けさと、それからじんわりとした温かさだった。
俺は、まだ信じられない思いで篠原さんを見た。
「いいんですか?俺なんかに、こんな仕事まで……」
「何をおっしゃいます。あなたは、美和子さんの息子さんですよ。あの方が命がけで守り、育てたご子息だ。そのあなたを支えることが、私たちの望みなんです。……それに、これは私の勝手な思いですが」
篠原さんは、少しだけ照れたように笑った。
「あなたを見ていると、若い頃の美和子さんに、どこか似ているんです。人の痛みを放っておけない。そういう目をしておられる」
「……いいえ、なりますよ」
その言葉が、俺の胸に温かく染み込んだ。
呆然としていると、篠原さんが優しく微笑んだ。
「お待たせしました。これが、美和子さんからお預かりしていた手紙です」
篠原さんは、あの封筒を俺に手渡した。中には、母のあの丁寧な字で、便箋が数枚入っていた。俺は咲と身を寄せ合って、その手紙を読んだ。
「渡、咲へ。
この手紙をあなたたちが読んでいるということは、母さんはもうそばにいないのですね。ごめんね。もっと長く一緒にいたかった。
母さんは、あなたたちに大きなものは何も残してあげられません。お金も、家も、立派なものは何も。
でも、二人が明日を諦めなくてもいいように、少しずつ、少しずつ貯めてきたものがあります。桜台の信用金庫に。
困った時は、あの通帳を持って、あの町に行きなさい。きっと、母さんのことを覚えていてくれる人がいます。
お母さんは、一人であなたたちを育てたんじゃない。たくさんの人に助けられて、支えられて、ここまで来ました。だから、あなたたちも、一人で抱え込まないで。困ったら、人を頼りなさい。
そしていつか、余裕ができたら、今度はあなたたちが、困っている誰かに手を差し伸べてあげて。それが、母さんのたった一つの願いです。
渡、咲を頼みます。咲、お兄ちゃんを支えてあげてね。
二人が笑って生きていってくれること、それだけが母さんの幸せです。
母より」
読み終えた時、俺の頬は涙でぐしゃぐしゃになっていた。母は死ぬ前から、ずっと考えてくれていた。自分がいなくなった後、俺たちがどうやって生きていくのかを。手紙の一文字一文字が、母の声で聞こえてくるようだった。
「一人で抱え込まないで」。母はいつもたくさんの人を助けていたのに、自分は決して人に頼ろうとしなかった。父が亡くなってからの7年間、母はどんなに苦しくても、弱音一つ吐かなかった。そんな母が、最後に俺たちに残した言葉が、「人を頼りなさい」だった。
咲が、俺の手をぎゅっと握った。
「お兄ちゃん、お母さん、いなくなっても、ずっと私たちのこと守ってくれてたんだね」
「ああ、そうだな」
俺は咲の頭をそっと撫でた。母さんは、最後まで俺たちの母さんだったよ。その言葉を言った瞬間、俺の中で何かが解けた。母を失ってから、たった一人で背負ってきたもの。それが、母の手紙の温かさの中で、静かに緩んでいった。
気づけば、周りの行員たちも、みんな泣いていた。篠原さんも、ハンカチで目を抑えていた。母が繋いだ縁が、今この場所を温かい涙で満たしていた。
篠原さんが、俺と咲の前にしゃがみ込んだ。そして、咲の目を見て、優しく言った。
「咲ちゃん。お母さんはね、この町のみんなの、大切な、大切な人だったんだよ。だから、これからは、私たちみんなが、あなたとお兄ちゃんの味方だからね」
咲はこくりと頷いて、それからぽろぽろと涙をこぼした。
「お母さんの分まで、ありがとうございます」
そのたどたどしいけれど精一杯の言葉に、行員たちはまた涙を溢れさせた。俺は母の手紙を胸に、泣いた。
母さん、あんたはすごい人だったよ。俺はあんたの息子で、本当に良かった。心の中でそう呟いた。

それから、俺と咲の生活は少しずつ変わっていった。篠原さんは約束通り、俺が咲の未成年後見人になるための手続きを手伝ってくれた。母の遺言書、信用金庫の全面的な後ろ盾、そして桜台支店のみんなの証言。家庭裁判所は、俺を咲の後見人として認めてくれた。剛造叔父さんは、あの後、二度と姿を見せなかった。
後見人に認められた日のことを、俺は忘れない。家庭裁判所からの通知を、震える手で開いた。そこには、俺が咲の正式な後見人として認められたと書かれていた。俺はその紙を握りしめて、しばらく動けなかった。これで、誰にも咲を奪われない。母が必死に守った妹を、今度は俺が堂々と守れる。
「お兄ちゃん、どうしたの?泣いてるの?」
「ああ、嬉しいんだ」
「変なの。嬉しいのに泣くの?」
「大人になると、そういうこともあるんだよ」
咲はよくわからないという顔で、それでも俺の手を握ってくれた。その小さな手の温もりが、俺の張り詰めていた心をそっと解いてくれた。
俺は篠原さんの計らいで、その大和信用金庫で働かせてもらえることになった。最初は雑用ばかりだったけれど、生まれて初めての安定した仕事だった。夜勤の掛け持ちでぼろぼろになっていた体に、ようやく人間らしい生活が戻ってきた。信用金庫の仕事は、覚えることばかりで大変だった。それでも、立花さんが俺の教育係になって、丁寧に教えてくれた。
「渡さん、大丈夫。最初はみんなそうですから。……なんて、これも美和子さんが私に言ってくれた言葉なんですけどね」
そう言って、立花さんはいたずらっぽく笑った。母が人を支えたように、今度はその人が母の息子である俺を支えてくれる。母が繋いだ縁が、こんなところにも生きていた。
仕事に慣れてきた頃、俺は窓口であることに気づくようになった。お金の相談に来る人の中には、あの頃の俺のように、追い詰められた顔をした人がいる。そういう人の話を、俺はできるだけ丁寧に聞くようにした。母がそうしていたように。母のあの口癖が、いつの間にか俺の中でも息づき始めていた。
ある日、窓口に一人の若い母親が来た。小さな子供を連れて、疲れきった顔をして。わずかな残高の通帳を見つめて、途方に暮れているようだった。俺は母が俺にしてくれたことを思い出しながら、その人の話を聞いた。そして、使える制度のことや相談できる窓口のことを、一緒に調べた。帰り際、その人は深く頭を下げていった。
「こんなに親身になってくださって、ありがとうございます」
俺は首を振った。特別なことは何もしていない。ただ母がたくさんの人にしてきたことを、ほんの少し真似しただけだ。それでも、その人の少しだけ軽くなった足取りを見送りながら、母がどんな気持ちで人に手を差し伸げていたのか、そのほんの入り口に立てた気がした。
引っ越しもした。桜台に近い、小さなアパート。古いけれど、日当たりのいい二部屋。咲は大喜びだった。
「お兄ちゃん、ここ、日がいっぱい入るね」
「ああ。これで咲も、明るいところで絵が描けるな」
「うん。いっぱい描く」
新しい部屋で迎えた最初の朝。俺は久しぶりにおにぎりを握った。母がいつもそうしていたように、少し多めに。形は不格好だったけれど、咲はそれを美味しそうに頬張ってくれた。
「お兄ちゃんのおにぎり、お母さんのと似てる」
「そうか?」
「うん。あったかい」
その一言が、なんだか無性に嬉しかった。俺は母の味にはまだまだ及ばない。それでも、母が残してくれた温かさを、俺の手でこの子に渡していける。そう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなった。
俺は、母の通帳を大切にしまっておいた。中のお金は、当面の生活のために少しずつ使わせてもらったけれど、母が一円ずつ積み上げてくれたその重みを、俺は決して忘れなかった。母の削った時間、我慢した食事、買わなかった服。その一つ一つが、この通帳の一行に刻まれていた。
ある休みの日、俺は咲を連れて、母の墓を訪れた。
「母さん、俺、桜台の信用金庫で働くことになったよ。咲も、元気に学校に通ってる。……母さんが俺たちのために残してくれたもの、全部受け取ったよ。お金だけじゃない。母さんがどんな風に生きてきたのかも。俺、ずっと母さんのこと、恥ずかしいなんて思ってて、本当にごめん。母さんは、俺の自慢の母さんだ。今は、心からそう思う」
風が、ふっと吹いた。線香の煙が、俺と咲の方へ優しく漂った。
「お兄ちゃん、お母さん、来てくれたのかな?」
「ああ、きっとそうだな」
咲は母の墓に、自分の描いた絵をそっと添えた。母の笑った顔の絵だった。墓前に備えられたその絵を見て、俺はふと思った。母は俺たちに、絵の書き方を教えたわけでも、勉強を見てくれたわけでもない。忙しくて、そんな時間はなかった。それでも母は、俺たちに一番大事なものを残してくれた。困っている人に手を差し伸べる、その生き方を。咲があんなに優しい子に育ったのは、きっと母のその背中をちゃんと見ていたからだ。俺は見ていなかった。でも、これからは、俺もその背中を追いかけていける。
墓参りの帰り道、俺は久しぶりに空を見上げた。よく晴れた、青い空だった。母が亡くなってから、俺は下ばかり向いて生きてきた。目の前の生活に追われて、空を見上げる余裕なんてなかった。
「お兄ちゃん、お空、綺麗だね」
「ああ、綺麗だな」
こんな風に妹と並んで空を見上げられる日が来るなんて、少し前の俺には想像もできなかった。母が残してくれた通帳と、母が繋いでくれた縁が、俺たちをもう一度、前を向かせてくれた。
家に帰ると、咲は早速、新しい部屋で絵を描き始めた。窓から差し込む柔らかい光の中で、鉛筆を動かす横顔。その顔は、母が料理を作っていた頃の、あの真剣な横顔にどこか似ていた。血は争えないものだなと、俺はふっと微笑んだ。
俺は台所に立って、夕飯の支度を始めた。母のように上手には作れない。それでも、俺はこの小さな食卓を守っていく。母が命がけで守ってくれた、この二人の暮らしを。いつか俺も、母のように誰かに温かいものを差し出せる人間になれるだろうか。まだ分からない。でも、その背中を追いかけていこう。母が俺に残してくれた、一番大切なものは、きっとその生き方なのだから。
「母さん、見てる?私、いっぱい描いてるよ。お兄ちゃんも、お仕事頑張ってるの」
その幼い声を聞きながら、俺は思った。母はいなくなったけれど、母が残してくれたものは、こんなにも温かく俺たちの中に生きている。俺はもう、一人じゃなかった。咲がいて、篠原さんがいて、桜台のみんながいる。母が繋いでくれたたくさんの縁の中で、俺たちはこれから生きていく。

それから、数年が過ぎた。咲は中学生になった。母の絵を描いていた小さな女の子は、すっかり背が伸びて、絵の道を本気で目指すようになっていた。学校の絵のコンクールで、賞をもらったこともある。俺はあの信用金庫で、今も働いている。窓口に立つと、時々あの日の自分のような、不安げな顔をした若い客が来る。そんな時、俺は母がしてくれたように、その人の話をじっくりと聞くようにしている。
咲は、「絵本作家になりたい」と言うようになった。
「あのね、私、優しい人が出てくる絵本を書きたいの。困ってる人に、そっと手を差し伸べる人のお話」
それが誰のことを思い描いているのか、俺には聞くまでもなかった。咲の描く絵の中には、いつもどこかに、エプロン姿の優しい女の人がいた。もうその顔をはっきりとは思い出せなくなってきても、咲は母のあの温かさだけは、絵の中に描き続けていた。
母のあの通帳は、今も大切に取ってある。残高はもう、ほとんどない。俺と咲のこれまでの暮らしを支えるために、使わせてもらったからだ。けれど、俺はこの通帳を手放す気はなかった。これは、母が俺たちに残してくれた、一番の宝物だった。
時々、俺はその通帳を開いて、母が書き込んだ無数の数字を眺める。1000円、2000円、500円、3000円。その一つ一つが、母の一日一日だった。料理を作り、人を励まし、俺たちを育て、その合間にコツコツと、この口座に未来を積み立てていった、母の長い、長い時間。
金額の大きさじゃない。この通帳には、母の生きた時間そのものが刻まれている。俺はそれを、世界で一番価値のある宝物だと思っている。
そして、もう一つ、母が残してくれたものがある。それは、俺自身の生き方だ。母を知って、俺は変わった。人の痛みに目を向けられる人間に、少しでもなりたいと思うようになった。
ある年の春だった。俺は咲と二人で、桜台を訪れた。今度は、助けてもらうためではない。篠原さんに、一つ相談したいことがあったのだ。
「篠原さん、俺、母の名前で、小さな基金を作りたいんです」
「基金ですか?」
「はい。母みたいに、困っている子供たちを、少しでも支えられるような。俺たちが母に助けられたみたいに、今度は俺たちが誰かを守る番だと思うんです」
篠原さんは、しばらく俺を見つめていた。それから、大きく頷いて、目をうるませた。
「美和子さんが聞いたら、どんなに喜ばれるか。……分かりました。私も、この支店も、全力でお手伝いします。いえ、手伝わせてください。それが、私たちが美和子さんに恩を返せる、たった一つの方法ですから」
基金のお披露目の日には、たくさんの人が集まってくれた。篠原さんはもちろん、立花さんも、水野さんも、あの日母の思い出を語ってくれた行員たちも。スーパーの吉江さんや、握り飯を届けてくれた大家のおばあさんまで、駆けつけてくれた。みんな、母にどこかで支えられた人たちだった。母がその生涯をかけて、一人また一人と結んできた縁。その縁が、今、母の名前の元に、こうして集まっていた。
「美和子さん、見てるかしらね。あなたの子供たちが、こんな立派なことを始めたのよ」
「見てるに決まってるっさ。あの人が、見逃すわけないよ」
みんなの笑い声と涙が、その場を温かく包んでいた。
会場には、あの母の若い頃の写真を飾らせてもらった。おにぎりの包みを抱えて笑う、20代の母。その隣に、咲が母の似顔絵を添えた。そして、咲がみんなの前で、小さな声で挨拶をした。
「お母さんは、いつも困ってる人に優しくしてました。だから、私たちも、お母さんみたいになりたいです。この基金で、たくさんの人が笑ってくれたら、嬉しいです」
たどたどしい挨拶に、会場から温かい拍手が起こった。俺はその光景を、少し離れたところから見ていた。母が蒔いた種が、こうして花を咲かせている。
母さん、見てるか?あんたの娘は、こんなに立派になったよ。
こうして、母の名前を冠した、小さな小さな基金が生まれた。決して大したものじゃない。困っている子に温かいご飯を食べさせてやったり、進学を少しだけ助けてやったり。それくらいの、ささやかなもの。だけど、俺は知っている。母が俺たちにしてくれたのも、そういうささやかなことの積み重ねだった。おにぎり一つ、味噌汁一杯、何気ない一言。その小さな優しさが、人を救うのだと。
基金が最初に手を差し伸べたのは、母親を病気で亡くしたばかりの、幼い兄弟だった。その俯いた、心細そうな顔を見た時、俺はあの日の自分と咲を見ているようだった。俺はその子たちに、温かいご飯を食べさせてやった。そして、言った。
「一人で抱え込まなくていいんだ。困った時は、頼っていいんだよ」
これは、かつて母が俺たちに残してくれた言葉だった。母から俺へ、そして、俺からこの子たちへ。母の優しさは、確かに次の手へと渡っていく。その連鎖の真ん中に、今、俺は立っていた。
基金のささやかなお披露目の席で、咲が俺の隣に立った。もう俺の背を追い越しそうなほど、大きくなった妹が、笑っていった。
「お兄ちゃん、母さん、きっとどこかで見てるね」
「ああ、見てるさ」
「うん。母さん、見ててね。私たち、ちゃんとやってるよ」
お披露目の帰り道。夕日が桜台の商店街を赤く染めていた。俺は咲と並んで、その道を歩いた。母が若い頃、毎日歩いたかもしれない。困った誰かに声をかけながら、歩いたかもしれない道。
咲が、ふと俺の手を握った。もうあの小さな手ではないけれど、そのぬくもりはあの日と少しも変わらなかった。
「お兄ちゃん、私、お母さんの子供でよかった」
「ああ、俺もだよ。本当にそうだ」
俺は心から、そう思えた。あんなに恥ずかしいと思っていた母が、今は俺の一番の誇りだった。
母はもういないけれど、母の優しさは、桜台のあの人たちの中に残っている。母が残したあの通帳の中に残っている。そして、これから母の名前の基金が救っていく、たくさんの子供たちの中に、これからもずっと残っていく。
母が削った時間、我慢した食事、買わなかった服。その全てが、俺と咲の未来を静かに照らし続けていた。
母さん、ありがとう。俺はあの日言えなかった言葉を、今、まっすぐに伝えられる。母は最後まで、そしてこれからもずっと、俺たちの母さんだ。

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