吹雪を避けて山奥の薬草庵にたどり着いた晴道は、いろりの日もとに座る一人の女を見た。女は幼い子を追い、何も語らず黙々と薬草を刻んでいた。その横顔を見た瞬間、晴道の足は凍りついた。二年前、雪の峠で命を落としたと思っていた妻、千代であった。
晴道は声をかけることもできなかった。けれど千代は彼の顔を見ても取り乱さなかった。知らぬふりではない。本当に何も覚えていないまなこをしていた。千代は温かい煎じ薬を差し出し、ただの旅人に向けるように静かに頭を下げた。晴道は丼を両手で受け取った。その指先を見た瞬間、胸の奥が痛んだ。かつて自分の前に箸と椀をまっすぐ並べてくれた手であった。
なぜ千代は生きていたのか。なぜ夫である自分だけを忘れてしまったのか。吹雪の夜、止まっていた二年の時が静かに動き出そうとしていた。
物語はそこから遡る。
とある藩の浄化代官を務める大和家の名を知らぬものはないほどであった。昼は客が出入りし、奥では女たちの茶のみ話の声が絶えなかった。晴道は客間の書棚に積まれた書物を整理しながら静かに座っていた。重く分厚い書物を一冊ずつ取り出しては誇りを払い、また丁寧に並べ直す。誰に命じられたわけでもないのに自ら進んでするのを好んだ仕事であった。
そこへ客の障子がそっと開き、一人の娘がためらいがちに入ってきた。それが晴道と千代の初めての出会いであった。
千代は大和家に出入りしては書物の整理を手伝う娘だった。父は清化外れの窯場で障害壺を焼いて過ごしてきた職人で、身分こそ高くはなかったが心根は誰にも劣らぬほどまっすぐな人であった。千代が幼い頃、父は仕事の合間に木片を削り小さな神師を一つ彫って娘に持たせた。飾り気のないただ木目だけが美しいその神師を千代はずっと肌身離さず持っていた。
母を早くになくし、女手のないまま育った千代であったが、父の不器用な優しさに包まれてまっすぐに育っていった。学問を収める畑には恵まれなかったが、父が暇な時に枝で文字を書いて教えてくれたのを頼りに、いつしか書物を読み整えることができるようになっていた。
大和家に初めて足を踏み入れた日、千代は古びて重い書物をためらいなく持ち上げて丁寧に並べ、誇りの積もった書棚を静かに拭き上げていった。晴道はその日、千代が書棚に本を納める様を眺めているうちに、我が知らず視線が止まっていた。派手でもなければ騒がしくもないその静かな一つ一つの所作に、言いようのない深みとぬくもりが宿っていた。
晴道はその夜、一人客間に座り、しばらくぼんやりとその娘の後ろ姿を思い返していた。それは二十四年の生涯で一度も感じたことのない、不慣れでそれでいて温かい感情であった。
父の十蔵は、晴道が千代に心を寄せていると知るときっぱりと首を横に振った。いかに心根がまっすぐで文字を知っていようとも、窯焼きの娘を大和の家の嫁に迎え入れることなどあってはならぬことだと言った。奥向きを取り仕切る家老の沢は声を荒げて決してならぬことだと釘を刺した。けれど晴道は引き下がらなかった。父の前に膝をつき三日三晩耐え忍びながら懇願し、二度と役目には手をつけぬとまで言い放った。
十蔵は怒りと哀れみの入り混じった顔で晴道を見つめていたが、ついには長いため息をつき、縁談を許した。その夜、晴道は一人客間に座り、千代の手を取って共に生きていく日々を静かに思い描きながら、初めて声を殺して笑った。
婚儀を控えたある日、千代と晴道は連れ立って産土の社へ参った。参道には春の日差しが差し込み、二人が並んで手を合わせる姿を通りすがりの町の者たちが微笑ましく見守った。婚礼は春の空高く陽が昇った日にひっそりと取り行われた。年長者の半ばは最後まで面白くない表情を隠さなかったが、いざ式の場で千代の姿を見た者たちは揃って一瞬言葉を失った。華やかな飾り一つなくとも、清素な白無垢の中で光を宿す千代の顔には、自然の中で育ったものだけが持ちうる精悍で淡い美しさがあった。
父の福兵衛は婚礼の日、屋敷の裏手にある勝手口から中へ通された。表門をくぐることは許されぬ身分であったが、それでも娘の晴れ姿を一目拝もうと朝早くから足を運んできたのであった。式が終わりに近づいた折りを見計らって、福兵衛はようやく娘のそばによることを許された。福兵衛は娘の手を取って涙を流した。生涯壺を焼き続けて固くなった両手で娘の柔らかな手を握り、母もおらぬのによくぞこんなに美しく育ってくれたと低く語りかけた。その言葉に千代のまぶたが赤く染まった。晴道はその間中千代の顔から目を離せなかった。この世の何者にも代えがたいものを今まさに手にしたという実感が足の先からじわりと込み上げてくるようであった。
新居を構え、二人が初めて共に灯り明かりの下に並んで座ったその夜は、晴道の記憶の中に生涯消えぬ最も美しい夜として刻まれた。
新婚の日々は静かでありながら深い幸せに満ちていた。千代は毎朝早く起きて客の間を掃き読め、夫の膳を自ら整え、箸と椀を丁寧に並べた。その並べ方には少しの手抜きもなかった。ある日晴道がその理由を尋ねると、千代は静かに答えた。
「父は生涯壺を焼きながら一度も歪んだものを作ったことがございません。土を扱う手でも心がまっすぐでなければ器もまっすぐにならぬと申しておりました。私もそのようにありたいのです」
晴道はその言葉を聞いてしばらく言葉を失った。それは華やかな弁説ではなかった。しかし晴道が大和家のどの書物からも読み取れなかった、暮らしそのもので綴られた最も深い教えであった。それ以来、晴道は膳の前に座るたび、箸と椀を見下ろし、それを並べた人の心を思いながら、静かに手を合わせる思いで食事を取るようになった。
嫁いで後、初めて窯焼きの父が大和家を訪ねてきた日は、晩秋の霜の降りる明け方であった。福兵衛は勝手口の外で長らくためらった末に、通りかかった女中に恐る恐る声をかけ、取りついでもらってようやく中へ通された。父は窯から焼き上げたばかりの小さな亀を風呂敷に包んで持参していた。千代は父を見るなり駆け寄り、その両手を取った。父の手は相変わらず赤土の色に染まり、あちこちにひびが入り、霜の下で冷え切っていた。千代は父の手を自分の両手で包み込み、長く温め続けた。
「これで味噌でも醤油でも入れて食べよう。父の手でこさえたもの故な、そなたの膳に似合うと思うてな」
その言葉に千代は笑って頷いた。晴道は少し離れたところに立ち、その光景を見つめていた。それは何か華やかでも仰々しくもない光景であった。しかし晴道の胸のうちには長く温かく残り続け、後に全てが崩れ去った後も真っ先に思い出す記憶となった。
晴道は夕暮れになると千代と共に客間に座って書物を読む時間を楽しみにしていた。千代は初め難しい書物を前に気おくれしていたが、晴道が傍らに座って一文字ずつゆっくりと読み聞かせると、目を輝かせながらついてきた。千代は覚えが早かった。ある日、千代が初めて一人で書物の一ページを滞りなく読み終えた日、二人は書物を閉じて長く語り合った。明日はどの書物を読もうか、子が生まれたらどんな名をつけようか。そうしたささやかな話が客間を満たしたその夜は、二人が共に過ごした日々の中でも最も穏やかで最も満ち足りた夜であった。
千代の優しい心根は大和家の中で少しずつ知られていった。家人の子供たちにも目を合わせて話しかけ、水を運ぶ女中たちの思い荷物を見れば駆け寄って共に運んだ。奥向きの下女が病に倒れて起き上がれずにいた時には、薬を自らが炊いて運び口に含ませてやった。大和家の中でそれは前例のないことであった。家人たちの間では、この家の若嫁は違う、心根の優しい人だという噂が広まった。初めは面白く思っていなかった十蔵も、そうした嫁の姿を傍らで見るにつれ次第に心が柔らいでいく様子であった。
ただ一人、沢だけがその様子を見るたびに唇を強く噛みしめていた。沢は初めから千代に反感を持っていたわけではなかった。ただ千代が笑うたび、自分の居場所が少しずつ奪われていくように思えてならなかった。この家に嫁いで長い年月が過ぎても子宝に授からず、家中での立場が年々心細くなっていく中、窯焼きの娘が家の外でも内でも褒め称えられる様子を見るにつけ、沢の胸のうちではいつか自分の座がすっかり奪われてしまうのではないかという恐れが少しずつ育っていった。それは千代という一人の若い女への嫉妬へと、やがて憎しみへと変わっていった。
新婚の日々が過ぎ、初めての春が巡ってきた。春雨が庭の木々から静かに落ちるある夜、千代が晴道の部屋へ遠慮がちに入りを尋ねて座った。晴道が何かと問うと、千代は長く答えられずにいたが、やがて低く口を開いた。
「旦那様、私はおそらく子を宿ったようでございます」
晴道はその言葉を聞いた瞬間、胸がいっぱいになり何も言葉が出なかった。春雨の音だけが庭先で静かに続く中、晴道はゆっくりと手を伸ばし千代の両手を包み込んだ。それが全てであった。言葉はいらなかった。二人はその夜、春雨の音を聞きながら長く並んで座っていた。
千代が子を宿ったことが家中に知れわたった日、奥向きから台所まで小さな祝いの声が広がった。しかし奥の一室では沢の顔から血の気が引いていた。表向きは祝いの言葉を述べながらも、その夜沢は眠れずにいた。この屋敷の中に自分よりも慕われる者がいる。その者の血筋がやがてこの家の中心になっていく。そう思うだけで沢の胸の奥が冷たく締めつけられた。その夜から沢は、千代を追い落とす手段を密かに練り始めた。夏が深まるにつれ沢の脳裏の奥で暗い企みが少しずつ形をなしていった。幸せが最も熟したその瞬間に、嵐の種はすでに静かに芽生えていたのである。
沢は表向き、家の内紛のない女中頭であった。言葉はいつも整い、物言いは柔らかく、十蔵の前ではこの上なく丁寧に振る舞った。十蔵が用で外へ出たり書見に長く時を費やしたりする際には、沢が奥向きと台所を一手に取り仕切り家中を切り盛りしているように見えた。しかしそれは表向きに作り上げられた顔であった。沢の本性の顔は、十蔵が寝静まった深夜や妻戸の締まった一室で、蔵人の権と向かい合う時にこそ現れた。
権は大和家の蔵人で、庫の鍵を預かり倉の出入りを取り仕切る者であった。数年前、権が御用金の一部を使途に流用し、それが露見しかけたことがあった。とりことを大きくすれば家全体の恥になると沢が言葉巧みに取りなし、この件は密かに揉み消された。以来、権は沢に大きな負い目を負うこととなり、沢は断るごとにその弱みをちらつかせては権を意のままに動かしていた。権自身、沢の企みに深く関わることに後ろめたさを覚えたが、過去の負い目に縛られ抗うことができずにいた。夜更けに一人床についても、自分のしていることの是非を思い眠れぬ夜も少なくなかった。しかしその度に、沢の口から漏れる「あの蔵の不始末を誰かに漏らそうか」という一言が権の口を封じた。
二人はすでに長い間、蔵の米を少しずつ抜き取っては別に溜め込んでおり、それを売り払っていた金は、清化外れの二人だけが知る場所に隠されていた。
初めに異変を感じたのはごくささやかなことからであった。ある日、台所の女中が味噌を仕込もうと蔵へ行き、去年確かにあったはずの俵がなくなっていると首をかしげていた。千代はその話を聞き流していたが、数日後、ある夜のこと、蔵の方から低い話し声が漏れているのに気づいた。千代はそっと足音を忍ばせて近づいたが、隠れる間もなく権がふいに顔を出しかけた。千代は慌てて戸口の暗がりへ身を引き、息を殺してその場をやり過ごした。心臓の鼓動が激しくなり、しばらくその場を動けなかった。その夜は結局何も確かめられぬまま自室へ戻った。
しかしその後もいくつも不審な出来事が続いた。蔵の米の量が減っていた。冬に備えて積んでおいた薪が例年に比べて明らかに少なかった。買い求めた品の勘定が合わない日が続いた。千代はしばらく一人でそれらを胸のうちに止めておいた。しかし、ある夜、千代が薬を取りに蔵の方へ足を運んだおり、沢と権が蔵の前で低く囁きながら何かを受け渡している場面を、今度こそはっきりと目撃してしまった。月明かりの下で二人が交わしていたのは、明らかに大和家の蔵の包みであった。沢に見られたと悟った瞬間、沢の顔色は冷たく凍りついた。千代は何の表情も見せずにその場を静かに離れたが、沢はその夜から眠れなくなった。
沢は権を屋敷の奥まった一室に呼び寄せ、夜を徹して策を練った。二人が出した結論は先手を打つことであった。沢は自ら筆を取り、偽の密書を仕立てた。内容は、千代が屋敷の外の男と密かに心を通じ、その男と共謀して家の宝を横領しているというものであった。密書には千代の筆跡を巧みに真似た字で、あたかも千代がその男に宛てて書いたかのように装われていた。筆跡を真ねるのは権の得意とするところであった。若い頃に寺小屋で少しばかり手習いをしたことがあり、他人の筆跡を移す際があったのである。
沢は晴道が客間にいない時を見計らい、密書を書物の間に挟んでおいた。そして、夕方晴道が客間に戻ってきた時、沢はわざと困った顔をして切り出した。
「お伝えしておりましたが、家のことを思うともこれ以上黙っておれませぬ」
そして書物の間から密書を取り出し、晴道の手に握らせた。晴道は密書を読むうちに顔色が次第に変わっていった。手が震えた。晴道の胸には千代を信じたい思いが残っていたけれど、沢が幾日も前から吹き込んでいた言葉と目の前の筆跡が、その思いを少しずつ押し潰していった。密書にはその男と会う場所まで具体的に記されていた。沢はその傍らで静かに涙を拭いながら「私の思い違いであれば良いのですが」と付け加えた。その言葉が、かえって晴道の疑いを深める種となった。
晴道は夜、千代を呼び寄せ密書を突きつけた。千代は密書を見た瞬間、顔から血の気が引いた。
「旦那様、私の目を見てくださいませ。これは私が書いたものではございません。私は決してそのようなことをした覚えはございません。旦那様を裏切ったことなどございません」
しかし晴道の目にはすでに疑いの影が差していた。沢があらかじめ植えつけていた言葉が晴道の耳にこびりつき、密書の筆跡は拭い消せぬ証のように目の前に置かれていた。千代は膝をつき両手を合わせて懇願した。涙が止めどなく溢れた。
「旦那様、どうか信じてくださいませ。私は決してその様なことは……」
しかし晴道は顔を背けた。それがその屋敷で千代の言葉が晴道に届いた最後の瞬間であった。
翌日、晴道は父十蔵に密書を持って行った。十蔵は密書を長く見つめた末に沢を呼び、沢は涙を流しながらあらかじめ用意していた偽の証言を並べ立てた。権もあらかじめ口裏を合わした言葉で沢の証言を裏付けた。二人の話は微塵も食い違わなかった。千代は十蔵の前でも膝をつき無実を訴えた。腹を宿した身で涙しながら一言一言自らの潔白を語った。しかし十蔵の目に移ったのは証拠として突きつけられた密書であり、沢と権の一致した証言であった。十蔵は長く沈黙した末に、重い処分を告げた。千代はさらに何も言わなかった。ゆっくりと立ち上がり、背筋を伸ばして妻戸へと歩みを進めた。
沢は千代がこの屋敷から追い出されるだけでは足りぬと感じた。生きている限り、千代が真実を胸に戻ってくる恐れがあった。沢は権に低く命じた。
「二度と戻ってこぬように」
権は一瞬ためらいを見せたが、沢のまなざしの冷たさにおじけづき頷いた。彼は自らが使した二人を呼び、千代が実家へ向かう道筋にあらかじめ潜ませておくよう指示した。
千代が大和家の門を出た日は真冬の宵であった。雪が降っていた。初めは軽く舞っていた雪が、千代が歩を進めるにつれ次第に激しくなっていった。千代は荷物をほとんど持たなかった。ただ、父が彫ってくれた木の神師一つを懐に差し、父が持たせてくれた小さな亀を風呂敷に包んで胸に抱いた。それらだけは決して手放すまいと心に決めていた。
雪は止まなかった。腹の中で子が足を蹴るのが感じられた。千代は歩みを止め、片手を腹に当てた。
「すまぬな。母が愚かでこのような目に合わせてしまった」
しかし涙は流さなかった。無念ではあるが崩れまいと心に決めていた。
峠道の半ばまで登った頃であった。吹雪の中に二人の男が突然現れた。千代はその瞬間、直感でこれが誰の差し金であるかを悟った。千代は後ずりし、足を取られて峠道の崖っぷちで身体が傾いた。男たちが飛びかかり、千代はそれを避けようとして斜面の下へ転げ落ちていった。何かに強く頭をぶつけた。目の前が白くなり、やがてすべてが闇に沈んでいった。
男たちは崖下を覗き込んだが、雪があまりに深く舞い、何も見えなかった。二人は顔を見合わせ、生きてはいまいと結論付けてその場を去った。
崖の下で千代の息は途えることなく細く温かく続いていた。真冬の吹雪の中、腹の子が先に世へ向けて合図を送り始めた。千代は消えゆく意識の中で子を生み落とした。この鳴き声が雪の降り積もる峠道の下で細く響き始めた。その時、近くの山中で薬草籠を背負って戻る途中であった老女が、遠くにその鳴き声を聞きつけた。それがお徳であった。
お徳は声を頼りに雪の中を懸命に足を進めた。吹雪の中に倒れている若い女と、その傍らで震える赤子を見つけた瞬間、お徳は一瞬たりとも迷わなかった。赤子を懐に抱き入れ、肩を貸して千代の身体を支えながら、刺すような吹雪を背に受けて庵りへ向かった。山道は険しく暗く、千代はじれて足に力を込めて歩みを進めたが意識が定かでないため一歩ごとに崩れそうになった。その度に、お徳は自らの体で千代を支え続けた。
庵りの戸を開けて中に入るなり、お徳がまず言ったのはいろりに火を起こすことであった。千代の身体が氷のように冷え切っていたからである。お徳は薬棚の引き出しを一つ一つ開けながら、必要な薬剤を次々に取り出した。止血のための薬、体温を戻すための薬、ねじれた関節を沈めるための薬を次々に調合しては手当てをした。千代の息が消えかけてはまた細く続くということを、その夜のうちに何度も繰り返した。夜が明け始める頃、千代の息が少しずつ安定してきた。お徳はそこでようやくいろりの前に崩れ落ちるように座り、しばし目を閉じた。
二日が過ぎてようやく千代の目が開いた。千代は天井を見つめたまま長く瞬きもせずにいたが、お徳が顔を近づけると、まるで見知らぬものを見るようなまなざしでお徳を見上げた。
「ここはどこでございますか」
それが千代が初めて発した言葉であった。お徳は薬草庵だと答えた。千代は視線を移し、部屋の中を見回すうちに、枕元に置かれた赤子を見つけた。
「あの赤子はどなたの子でございますか」
お徳はその言葉に胸が凍りついた。千代のまなざしには、赤子に向ける母の本能というものが微塵も宿っていなかった。ただ見知らぬものを見る目であった。お徳は静かに「それはお前の子だ」と言った。千代はその言葉を聞きながら、また天井を見つめた。
「私には自分の名すらわかりませぬ」
お徳はその言葉を聞き、千代の状態が単なる身体の傷ではないと悟った。お徳は長年この山奥で暮らし、あらゆる病を診てきたものであった。村人も医者もいない山里で、お徳の手を経て命を拾ったものは数えきれなかった。お徳は千代の瞳を覗き込み頭を手で確かめ、あれこれと問いを重ねた末に、静かに見立てを下した。これは頭を強く打った衝撃が脳の働きを乱し麻痺させたものであった。極度の恐怖と痛みが重なり、魂が大きく驚いたことで、記憶を司る脳の部分が一時傷ついてしまったのである。こうした症状は頭を強く打ったものに稀に見られるものであった。
お徳は千代に無理に記憶を引き出させようとはしなかった。それはかえって傷を深くする恐れがあった。代わりに、まず身体が完全に回復するよう見守ることを優先した。
記憶のないものには名前がいる。お徳は数日思案した末に、千代に「朝」という名をつけた。かつて自分が産んで幼いうちになくした娘の名が朝であったからである。お徳は千代に「わしの名はお徳。これからここでわしと共に暮らそう」と告げた。千代はその名を聞きながらしばし目を閉じた。自ら名を呼んでみる声は不慣れであったが、拒む気持ちはなかった。赤子にも「小春」という名がつけられた。小さくとも、遠くまで育つようにという意味を込めたものであった。
千代はその日から朝という名で新たな暮らしを始めた。過去が何であったか、どこから来たのか、なぜこのような目にあったのか、何も分からぬままに。しかし不思議なことに、どこか胸の奥深くで、何かを失ってしまったという居心地の悪い感覚だけは消えなかった。
昼間の千代は静かで穏やかに見えた。お徳が言いつける薬草仕事を黙々とこなし、幼子を世話し、飯を食い、木枯らしと共に眠りに着いた。しかし夜になると違った。床について間もなく身体を震わせ始め、息が荒くなり、やがて涙を流しながらうわごとを口にするようになった。初めはお徳もそれをただの夢だと思いそっとしておいた。しかしうわごとの内容がお徳の耳に届くにつれ胸が締めつけられていった。お徳は千代のうわごとを聞きながら、この娘は単なる事故にあったのではなかろうと察した。記憶はなくとも魂は覚えている。無念にも断ち切られた何かが水底で絶えず浮かび上ろうといていた。
千代は昼にも理由の分からぬ感覚にたびたび襲われた。懐に差した神師に触れる度、訳もなく胸が苦しくなった。薬草を調合せながら皿を手にすると、訳もなく箸と椸を真っすぐに並べたい衝動に駆られた。父から譲られた亀を目にすると胸が高鳴った。しかしそれらが何を意味するのかは分からなかった。
お徳はそんな千代の姿を見ながら、静かに心のうちで祈った。この娘の滞った気血がいつか必ず開くように。失われた記憶が必ず戻ってくるように。そしてその祈りは、長年薬草と共に生きてきたお徳の目に、一つの薬草を思い起こさせた。
冬が終わり春が訪れると、庵りの周りにも生気が戻り始めた。軒に吊された星薬草が風に揺れ、雪の消えた土から名も知らぬ草が青く顔を出した。千代は本格的にお徳の薬草仕事を手伝い始めた。お徳は千代に薬草の名前を教え、それぞれの効能、調合の仕方と乾かし方を一つ一つ丁寧に教えていった。千代は初めはぎこちなく真ねていたが、十日も立たぬうちに、どの薬草をどの火加減で煎じるべきかを、まるで直感で分かるようになっていった。お徳はそれを見ながら、この娘は前にも薬草を扱う仕事をしていたのではないかと一人思った。
小春は日ごとに育っていった。首が座り、目を合わせて笑うようになっていった。ある日、小春が初めて千代を見て笑った日、千代はその笑顔に涙が込み上げた。理由は分からなかったが、その子の笑顔が胸の奥のどこかに溜まっていた何かに触れたようであった。
その年の夏、深い山中にある村で流行病が広まった。高熱を発し咳の止まらぬ病人が村に次々と出て、村人たちは恐れをなした。麓の宿場から呼ばれた若い医者は病の見立てがつかず、とまどっていたが、お徳は長年の経験からこれは山間部の湿気の多い季節に稀に見られる流行病であると見抜き、下痢止めと解熱の薬草を組み合わせた煎じ薬を次々に処方していった。千代もその傍らで、昼夜を分かたず薬を煎じ村人の世話を手伝った。十日ほどが過ぎる頃には病人の多くが快方に向かい、若い医者もお徳の見立てと腕前に深く頭を下げた。この一件でお徳の評判は麓の村にまで広く知れ渡ることとなった。お徳はしかしそれを誇るでもなく、いつものように黙々と薬草を刻み続けた。
季節は巡っていった。秋のある夜、村では盆の送り火がたかれ、川には小さな灯ろがいくつも流された。千代は小春を抱いて川辺に立ち、水面を漂う明りをじっと見つめていた。理由も分からぬまま、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。誰かを見送っているような、あるいは誰かに見送られているような、名付け用のない感覚であった。お徳はその横顔を見て何も言わずに、そっと肩に手を置いた。
深まる秋のある夕べ、お徳は薬棚の奥の引き出しを開けた。その中からお徳が両手でそっと取り出したのは、固く滑らかな根の形をしたものであった。表面が滑らかで硬く、独特の冷たく深い香りが部屋一ぱいに広がった。千代はその香りをかぎながら顔を上げた。他のどの薬草とも異なる香りであった。お徳が言った。
「これが天魔じゃ。天が授けたもうた薬とされ、塞がった脳の気血を開き、乱れた心を目覚めさせるにはこれに勝るものはない」
千代はその根を手に取ってしばらし見つめた。お徳はそれを千代の前に置き、静かに言った。
「明日の朝からこれを毎日煎じて飲むが良い。時はかかろうが、急がずとも良い」
翌朝早く、千代はお徳の見守る中、初めて天魔の煎じ薬を口にした。碗の中の薬湯は淡い褐色で、香りは搗いた時よりもさらに深く冷たかった。苦くはなかった。むしろ口の中に広がるのは、深い山の朝の冷気と、その底に潜むぬくもりが同時に感じられる不思議な味わいであった。薬湯が喉を伝って降りていくにつれ、胸のどこかが少し緩むような気がした。こうして天魔を毎朝飲むことが始まった。
半月ほどで、朝からの頭の重さや痛みが少しずつ和らいでいった。痛みが収まった後は、胸の内が変わっていった。ある日、山で薬草を摘みながら開けた丘に登った時、千代は初めて胸がその景色と同じほどすがすがしく開ける気がした。千代はその場に立ち、しばらし山の下を見下ろした。涙が溢れた。悲しいのではなかった。塞がっていたものがゆっくりと溶けていいく。その途中に流れる涙であた。
それから幾日かが過ぎる頃には、千代の夢に一人の男の顔が現れるようになった。初めは輪郭だけがぼんやりと浮かんでいたが、日を重ねるごとに目鼻立ちが少しずつはっきりとしていった。千代はその夢を見るたび目覚め際、涙を必死にこらえた。あの顔が誰であるのか、どうしても知りたかった。
やがて千代は自ら天魔の煎じ薬を作り始めた。お徳から作り方を教わり、毎朝水を汲み、かまどの前に座って、じっくりと火加減を見ながら煎じるようになった。天魔の香りが鼻先に届くたびに、頭の奥で古い場面が少しずつ回っていくような感覚を覚えた。
ある朝、皿を膳に並べようとした手が止まった。箸と椸をまっすぐに揃えねばならぬという感覚があまりに強く胸に迫った。千代はゆっくりと箸と椸の向きを整えながら、ふとかすんだ記憶が一つ、妻戸のように目の前をよぎるのを感じた。それが何であるかを掴もうとすればすぐに散ってしまったが、確かに見えたものであった。
ある日、小春を背負って山道を歩いていた。小春が背の上で初めて「母さん」と口にした。幼い声が発したその一言に、千代は思わず足を止めた。胸の最も深いところが大きく響いた。記憶があろうがなかろうが、その一言が自分に向けられたものであることを千代は全身で悟った。千代は小春を背から下ろして前に抱き直し、小さな瞳を見つめた。
「小春や、私が分かるのですね」
小春は両手を伸ばして千代の頬を掴み、無邪気に笑った。千代の目から涙がこぼれた。
そうしていくつかの月日が流れていった。天魔の煎薬を毎日飲み続けるうちに、千代の変化は誰の目にも明らかになった。荒息は消え、胸の痛みは消え、夢の中の男の顔は次第にはっきりとしていった。しかしまだ全てが一つにつながることはなかった。一つの決定的なかけらが抜け落ちたまま、記憶は完成することなく漂い続けていた。
お徳はそれを知っていた。天魔は塞がった脳の気血を開き、心を目覚めさせる役目を果たしたが、記憶を完全に呼び覚ますには、血のつながりの気がいる。自分を真に見知る者。自分と血で結ばれたものが目の前に現れて初めて、すべてのかけらが合わさるのであった。お徳はそれを静かに待ち続けていた。
その頃、晴道は氷業見習いとしていくつにも及んだ騒動をようやく鎮め、藩へ帰る途上にあった。帰りの日限はすでに定められていたが、まだ十日ほどの猶予があり、その間に真実を掴まねばならぬ立場であた。あの夜、千代を疑い追い出してしまったことがあってから、晴道は御用に一層深くのめり込んでいった。それが自らの犯した過ちから逃れる方法でもあり、同時にその過ちを忘れようとする努力でもあった。しかし忘れられるものではなかった。地方の訴えを聞くたびに、無実を訴える者たちの声が、あの夜の千代の声のように聞こえてならなかった。
晴道は旅の途中、目を閉じ歯を食い縛った。藩へ戻る道は遠く、空からは雪が降り始めた。道を急ぐ一行が吹雪に見舞われたのは、深い山中の峠道であた。供のものものが周囲を探るうちに、山に明りが一つ見えると告げた。晴道はそちらへ足を向けた。軒に星薬草がいくつも吊された清素な家であた。いろりから煙が立ちのぼり、その中から煎じ薬の匂いが漏れていた。山奥の薬草庵であた。
晴道が戸を叩き、お徳が招き入れた。晴道は供のものを外に残し、一人の中へ足を踏み入れた。部屋の奥、赤く燃えるいろりの前で一人の女が薬草を丁寧に整理していた。それが冒頭の場面であた。長い歳月が過ぎ、頬は痩せこけ、髪は乱れ、手は荒れていた。しかし晴道には分かった。その手が箸と椸を丁寧に並べていた手であること。死んだと思っていた。あの吹雪の夜、千代が峠道で行方知れずになったと聞かされ、雪の中をいくら探しても見つからぬ故え。誰もがあの世ったものと思い込んでいた。それがここに生きて座っていた。千代のまなざしには、晴道を知る気配が微塵もなかった。それが晴道の胸を再び打ち崩した。
晴道はその夜、その場を去らなかった。供のものには旅の疲れを癒すため一日止まると告げた。しかし胸のうちでは、藩へ戻るまでの猶予が決して多くはないことを、自分が誰よりもよく分かっていた。焦げる心を必死に抑えながら、晴道は翌日もその翌日も様々な口実を作っては庵りを訪れた。ある日は旅の疲れによる頭痛、また別の日は峠道で冷えた足首が痛むと言った。千代は晴道をただの見知らぬ旅人として丁寧に、しかし特別な感情のないまなざしで扱った。それが晴道には胸が引き裂かれるほど辛かった。自分を知らぬということが、記憶から消えたということが、しかし同時に、ここで生きて息をしているということが、晴道に今すく全てを打ち明けるよりも先に成すべきことがあることを気づかせていた。限られた日数のうちに真実を明らかにせねば、千代の無実は晴れぬまま時が過ぎてしまう。晴道は総覚悟を決めた。
晴道は供のものを通じ、藩の目付方に密かに調べを進めるよう書状を送った。大和家の蔵の水揚記録を全て確かめ、権の周辺の人物を洗って調べるよう命じるものであった。また、二年前、沢が千代に着せた濡れ衣の根拠となった密書が、果たして偽造されたものであるかどうかを確かめる作業も指示した。
目付方の調べは初め思うように進まなかった。かつて大和家に仕えていたある元家人が権の不正について何か知っているらしいという噂を頼りに調べを進めたところ、その元家人は一度は口を開きかけたものの、翌日には態度を一変させ、何も存じませぬとだけ答えて口を閉ざしてしまった。後で分かったことだが、その者は権の息のかかった者から家族に累が及ぶと脅されていたのであった。この一件で調べは行き詰まってしまい、晴道は焦りに苛まれた。残された猶予は決して多くなかった。
晴道は諦めず、別の道を探らせることにした。清化外れの商人たちを一人ずつ当たらせ、蔵から流れた米がどこの誰に売り渡されたかを、金の流れから遡って調べさせたのである。この地道な追跡が実を結び、ある古手の元から権が持ち込んだと見られる米の売買記録が見つかった。そこから権の周辺の事情が一つずつ明るみに出始めた。晴道はその結菓を待つ間も、日に日に気を揉みながら庵りへ通い続けた。調べが進むにつれ、権が蔵の鍵を利用して米や金を横流ししていた証拠が次々と見つかった。清化外れの商へ売り渡した記録、隠していた品のゆくえ、そして二年前、千代に着せられた密書に関連して、当時権が夜更けに書斎へ密かに入り込んでいたという証言も出てきた。筆跡を鑑定した役人からも、その密書の筆跡が千代のものとは微妙に異なるという結論が出された。晴道はその報告を読みながら拳を握った。すでに薄うす察していたことが一つずつ事実として確かめられていく瞬間であった。同時に、あの夜、千代の涙を知り解けてしまった自分がどれほど愚かであったかが、改めて胸をえぐった。
権の罪状が露見すると、今度は沢のそれも明るみに出た。二人が交わした密書が、権の住まいから見つかった。その書の中には、蔵を横領する具体的な手はずと、千代に濡れ衣を着せるための策謀とが、細かに記されていた。峠道の刺客へ差しずったことも、間接的に確かめられた。峠道で千代を襲おうとした者たちが権の手の者であたという証言も出てきた。
全ての罪状が明らかになった後、晴道は父十蔵に集めた証拠のすべてを突きつけた。十蔵は沢を呼び出して問いただし、沢は初めは口を閉ざして否定していたが、証拠が一つまた一つと積み重なるにつれ、ついに言葉を失った。権も同様に観念した。十蔵は長い沈黙の末、二人に処分を下すことを決めた。
しかし、その裁きが正式に言い渡される前に、思わぬことが起きた。沢が捕えられる寸前、屋敷を出入りする者の口から、山奥の庵りに、二年前に姿を消した若嫁によく似た女がいるらしいという噂が、沢の耳に密かに届いていたのである。
「まさか生きていようとは」
沢は初め耳を疑った。しかし調べれば調べるほど、その女の年格好が千代のものと重なる。千代が生きており庵りにいることを知った沢は、己れの罪がもはや逃れらぬところまで来ていることを悟りながらも、なおも往生際悪く最後の悪あがきに出た。
「権、生きて戻られては元も子もない。山奥のあの女を今すく始末せよ」
震える声で命じたのである。権はすでに追い詰められた身であたが、この期に及んでなお沢の言いなりになるほかなかった。使した二人を夜のうちに山奥へ走らせた。しかし、その屋敷を見張っていた目付方のものが、その不審な動きを掴んでいた。目付方はすくに二隊を差し向け、その手下たちを山道の途中で取り押さえた。後半時遅れていれば、千代の身に再び刃が及んでいたであろう。この一件によって、沢の罪状はもはや動かしがたいものとなった。
十蔵は長い沈黙の末、正式に処分を下した。蔵の宝を横領した罪、密告して千代に無実の罪を着せた罪、刺客を放とうとした罪、そして生きていると知りながらなおも再び刺客を放とうとした罪。すべてを数え上げた後、沢と権は遠島に処されることとなった。護送の道筋は、二年前、千代が追われて雪の中を歩んだあの峠道であた。縄を打たれた二人が、かつて千代を突き落とした崖のそばを、手鎖りされたまま通り過ぎていく様子を、道橋の村人たちが黙って見送った。
十蔵はその日客間に一人座り、長らく頭を垂れていた。子の望みを阻み、嫁を疑い、菓として一人の人の一生を大きく損なわせるのに自らも加担してしまったということが、その老いた背をさらに深く曲げさせた。
晴道は悪人たちの処分が決まった翌日、お徳を尋ねてすべてを打ち明けた。自分が千代の夫であるということ、愚かにも騙され、彼女を追い出してしまったこと、真実を明らかにし、今こそ彼女を迎えに参りたいということ。お徳は晴道の話を最後まで聞いた。
「あの子に記憶がないことは知っておろうな」
晴道は頷いた。自分が初めてこの庵りに足を踏み入れた日、千代が自分を見知らぬ者として扱った時から、すでに気づいていた。
お徳が再び言った。
「記憶のない者に無理に過去を突きつけてはならぬ。今、天魔で気血が開きつつあるゆえ。時が来れば、おのずと戻ってこよう。ただし、血の縁の者がいる」
晴道はゆっくりと顔を上げた。
「千代の父上をお連れすることができまする」
お徳は頷いた。
「それが良い。血の縁が触れれば、記憶の戸が開こう」
晴道はすくに人を使わし、窯焼きの父を探し出させた。千代が追われた後、その父が娘を探していとどなく足を運んでいたということはすでに知っていた。しかし見つからぬまま二年を過ごしていたということも、福兵衛は年老いていっそう背が曲がっていた。娘を失った悲しみが、その顔とその曲がった腰にありありと刻まれていた。使いのものが晴道の言葉を伝えた時、福兵衛は初め信じられなかった。娘が生きているということを。しかし話が進むにつれ、お徳の目からは涙が止めどなく溢れた。
晴道は福兵衛を自ら伴い、庵りへ向かう道を急がせた。空は珍しく晴れて高かった。
その朝、お徳はいつにも増して念入りに天魔の煎じ薬を作り始めた。冬が終わりかけた頃で、冷たいながらもどこか春の気配の混じった空気が庵りの庭を漂っていた。千代は普段の通り明け方に起きて火を起した。小春はまだ眠っていた。お徳はすでに台所の前に座って何かを待っていた。千代が入ってくると、お徳は言った。
「今朝は私が煎じよう」
声がいつもと違い静かで慎重であた。釜の中で天魔の薬湯が次第に色を深めながら湯気を立ち始めた。その香りがいつもより一段と深く庵りの中に広がっていった。お徳はその朝、生涯煎できた薬湯の中で最も念を込めて天魔の湯を煎じた。薬湯が出来上がると、お徳はそれを碗に丁寧に注ぎ、千代の前に差し出した。その朝の薬湯には、お徳の長い祈りが込められていた。
千代は丼を両手で受け取り、ゆっくりと口をつけた。それが喉を伝って降りていく瞬間、頭の奥の何かが大きく動くのが感じられた。夢の中で行く度も見たあの男の顔が、いつになく鮮明に浮かび上がった。千代は目を開けぬまま両手で丼をしっかりと握った。胸が大く高鳴っていた。何かが今にも開こうとしていた。
まさにその瞬間、庵りの外で足音が聞こえた。いく人もの足音であた。庭に人が降りる音、そして聞きなれた声のする音が聞こえた。千代の指が丼を強く握ったまま固まった。庵りの戸が開いた。冷たい風が入ってきた。千代は目を開けた。戸口の前に、白髪の老人が立っていた。曲がった腰、赤土に染まった両手。その手に千代の目が止まった。老人の視線は、千代の胸に刺された小さな木の神師へと移っていった。老人が震える声で言った。
「その神師は、わしがこさえたもの」
その一言と、赤色に染まった手の記憶とが、千代の頭の中で同時に弾けた。
老人が娘の名を呼んだ。
「千代」
それだけであった。しかしその二文字が、千代の全身を貫いて通り過ぎた。朝という名で二年を生きてきたが、その名こそが自分の本名であることを、骨の髄まで悟った。千代は丼を取り落とした。丼が床に落ちて粉々に砕けた。天魔の煎じ薬が床に静かに広がっていった。頭の中で散らばっていたかけらが、すべて一斉に所を得た。大和家の客間、書物の香り、春雨の音、丁寧に並べた箸と椀、婚礼の夜の月明かり、産土の参道、吹雪の峠道、そして無念に追われたあの夜。すべてが一度に押し寄せた。
千代は駆け出した。
「父上! 千代が戻ってまいりました! 父上!」
福兵衛は駆け寄ってくる娘を、その老いた腕でしっかりと受け止めた。曲がった腰で、赤土色の両手で娘を抱きしめ、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。二人はその場で共に泣き崩れた。福兵衛は声を上げて泣いた。生涯他人の前で泣いたことのない人であった。しかしその日ばかりは、込み上げる涙を止めることができなかった。娘の名を呼びながら「生きていたのか、生きていたのか」と幾度も繰り返しながら泣いた。
お徳はその様子を見て、そっと顔を背けた。まぶたに滲むものを隠すために。その場にいた誰もが言葉なく立ち尽くし、二人の嗚咽が十分に流れるまで静かに待ち続けた。
その後ろから、晴道がの中へ入ってきた。役目の小袖を身にまとってはいたが、そこに氷業見習いとしての威厳のようなものは感じられなかった。ただ一人の男がそこに立っていた。千代は父の腕の中から顔を上げ、晴道を見た。すべての記憶がすでに戻っていた。晴道は千代と目があった瞬間、言葉を失い、ただその場に膝を折り、床に額をつけた。肩だけが小さく震えていた。しばしの沈黙の後、晴道は震える声で言った。
「償えるとは思っておりませぬ。沢の術中に惑わされて、千代の潔白を信じられなかったこと。そして、その根には沢自身の抱えていた深い恐れがあったこと。沢と権の罪状がすべて明らかになり、千代を再び害そうと差し向けたことまで発覚し、遠島に処されたことも、お伝えいたします」
千代の濡れ衣は、これで完全に晴れたのだ。千代はその言葉を聞きながら目を閉じた。無念であったという思いが先に立ち、その次には深い疲れが訪れた。二年という月日がどれほど長く、記憶さえ失ったまま過ごしたその時がどれほど重いものであったか。
「すぐにすべてを忘れることはできませぬ。けれど、小春のためにも、これからのあなた様を見てまいります」
それが千代が晴道にかけた最初の言葉であた。
すべてが片付き、庵りのの中が少し静かになった頃、お徳は隅に座っていた。手は新しい天魔の根を握りしめていた。千代がその傍らにより添い、お徳の手を握った。
「ばあ様、泣いておられますか?」
お徳は首を横に振った。しかしまぶたには確かに涙が滲んでいた。しばらしの後、お徳が言った。
「助けた時は、こんな日が来ようとは思うてもなかった。ただ助けねばと、それだけを思うておった」
千代はお徳の手を強く握った。
「助けてくださってありがとうございます、ばあ様。そして、見つけ出してくださって、ありがとうございます」
その言葉が、お徳の中に長く沈んでいた古い悲しみを、静かに溶かしていった。
千代が大和家へ戻るのに先立ち、十蔵が自ら庵を尋ねてきた。十蔵は庵の庭で千代を見るなり、しばし足を止めた。老人の顔には、長く生きてきたものだけが持つ複雑な、慚るような表情が浮かんでいた。千代は十蔵の前で静かに頭を下げた。十蔵が先に口を開いた。
「この通り、わしが誤まった。心からすまぬ」
その言葉は短かった。しかし、あの十蔵が誰かの前で詫びの言葉を口にしたのは、それが最初で最後であったろう。千代は顔を上げ、十蔵を見つめた。老人は老いていた。その顔に、千代は自分の父に似た何かを見た気がした。
「父上、もう過ぎたことでございます。どうぞお気になさらぬよう」
すべてが片付いた後、千代は小春を抱いて大和家へと戻っていった。十蔵は小春を正式に自らの孫として認めた。家人たちは口々に外へ出てきて千代を迎えた。二年もどこにいたのか、生きていたのか、と涙する者もいた。以前の大和家が冷たく堅苦しいものであったとすれば、今では何か温かく、人の暮らしの匂いのす場所へと変がっていった。それが千代がこの家にもたらした最も大きな変化であた。
晴道もまた変わった。以前の晴道は、物事の善悪は見分けられても、自らの感情には正直になれぬところがあった。それが結局、沢の術中に欺かれる決定的な弱みとなった。しかし、千代を失い、探し、再び迎え入れるまでの長い道のりを経て、晴道は確かに変わった。今では疑いが生じれば、早計に決めつけず、問い確かめ、そして待つようになった。先に疑うより先に、耳を傾けることを覚えた。それは千代を通して学んだことであった。
十蔵は、それから一年ほどが過ぎた春にこの世を去った。息を引き取る前日、十蔵は千代を呼び寄せた。人払いをして二人だけになった時、十蔵は長らく千代の手を握っていた。十蔵はただ一言、
「初めから良き嫁であった。すまなかったな」
とだけ言った。千代はその言葉に涙が込み上げた。葬儀は母屋で取り行われ、僧の読経の声が長く境内に響いた。
十蔵が亡くなった後、その部屋から一つの引き出しが見つかった。中には、千代が初めてこの家に来た時に持ってきて、追われた日に置いていったものが、そのまま収められていた。十蔵がそれらを捨てずに、ずっと大切にしまっていたのであった。千代はその引き出しを開けてしばらく見つめていたが、やがて静かに閉じた。それだけで十分であった。
そうして日々が積み重なっていった。毎朝、箸と椀を丁寧に並べること。小春が新しい言葉を覚えるたびに、共に笑うこと。毎週、山奥の庵りを尋ねて、お徳ばあさんの薬草仕事を手伝うこと。夕べに父の家に立ち寄って、土をいじる姿を眺めること。それらが千代の日々を満たしていった。
千代は時折り、夕べに小春を寝かしつけながら思った。記憶を失ったあの二年が、ただ無駄に費やされた時ではなかったのだと。山奥の庵りで薬草を煎じ、お徳に寄り添って生きたあの時こそが、自分という人間を新たに作り直す時であったのだと。
千代は小春に、箸と椀を並べる作法を教え始めた。
「心がまっすぐでなければ、椀もまっすぐに置けませぬ。おじい様が壺を焼かれる時に教えてくださった言葉です」
小春はその言葉を理解しているのかいないのか、「まっすぐ」という言葉だけを何度も真ねた。その姿があまりに愛らしく、千代は思わず笑みをこぼした。
箸一本が、代々受け継いできたものがあった。父から千代へ、千代から小春へ。それは教えであると同時に、深い愛情でもあった。
千代はお徳の許しを得て、庵りの庭の一角に天魔を育て始めた。土を選び、根を植え、天魔の根をその傍らに丁寧に埋める作業を、三人で共に行った。父もその傍らで土を整えるのを手伝った。
「土を扱うことなら、わしの得意とするところじゃ」
窯焼きである父の手が、土を柔らかく整えていった。それを見ながら、千代とお徳が同時に笑った。
ある日、お徳は、若い頃、娘の朝に文字を教えようと用意しておきながら、娘を失ってから一度も手にすることのなかった古い筆を受け取った。
「いつか、記憶が戻ったら、それを書き記しておくが良い。書き記しておけば、忘れずに住む」
以前、お徳が語った言葉の通りであった。千代は机の上に紙と硯を置き、ゆっくりと墨を磨り始めた。父が傍らに座り、その様子を静かに見守っていた。千代は墨が十分に磨れたと思う頃、筆を手に取った。紙を開いた。最初のページであた。千代は一度大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。そして静かに筆を下ろした。
千代が記した最初の一文はこうであった。
「天魔の香りに導かれて、失った己を取り戻した。故に、今日もまた穏やかであり、明日もまた長く安らかであろう」
筆が震えた。長らく書いていなかったとあって、初めの数文字は歪みもした。しかし書き進めるにつれて、筆は次第に落ち着いていった。最後の一文字を引き終え、筆を置いた時、千代は目に涙が滲むのを感じた。
父がその傍らで、娘の書いた字をじっと見つめながら、低く一言だけ言葉をかけた。その一言は字を褒めているのではなかった。生き抜いてきたことそのものを、褒めているのであった。
その後も千代はいくつものかけて、その紙に出来事を綴っていった。お徳が自分を助けてくれた日の記憶。朝という名で呼ばれて過ごした日々。天魔の煎じ薬を初めて口にした日の味わい。夢の中で少しずつ鮮明になっていったあの男の顔。そして、父の一言に記憶が弾けたあの瞬間。それらを一字一字丁寧に書いていった。
千代は書き物に自らの物語だけでなく、お徳の物語も記していった。お徳が娘の朝を生み育てたこと、流行病でその娘を失ったこと、それでも庵りの戸を再び開いて人々を世話し続けたこと。晴道はそんなことをわざわざ書き留める必要があるのかと言ったが、「ばあ様の物語がなければ、私の物語もございませぬ」という千代の言葉に、静かに頷いた。
その日も軒下では星薬草が風に揺れていた。千代は白い紙にゆっくりと筆を下ろした。
「天魔の香りに導かれ、失った己を取り戻した。今日も穏やかに、明日もまた家族と共に生きていきます」
湯気の煙は春の空へ細く立ちのぼっていた。少し離れたところでは、晴道が小春と共に庭を歩いていた。小春が花をつもうとするたびに、晴道が「摘んではならぬ」と言って止める声が聞こえていた。
物語はその穏やかな一日のうちに、静かに幕を閉じた。



