居酒屋のカウンターで、俺は一人で酒を飲んでいた。祖父が病で倒れた。仕事を終えて、急いで実家に帰ってきたところだった。母と交代で、祖父の見舞いに行く日々。その夜も、病院の帰りに何となく立ち寄った店だった。
「おい、耕也じゃねえか。何しみじみ飲んでんだ。どうせ高卒で、ろくな仕事についてないんだろ? 町の方へ行ったと聞いたが、ママにでも頼って帰ってきたのか?」
後ろからいきなり背中を叩かれて振り返ると、そこには高校時代の同級生、誠治が立っていた。こいつは家が金持ちで、高校の頃からずっと俺を見下し、パシリにしていた男だ。長屋暮らしの貧乏人と、いつも馬鹿にしていた。
「俺なんてこの年でもう課長だぜ。今日は部下たちと飲みに来たんだ。おい、お前ら。こいつは俺の高校時代のパシリだよ」
誠治は、その場にいた自分の部下たちにそう言って笑った。俺は何も言い返さず、ペコっと頭を下げて、再び酒を飲み続けた。こんなところで一番会いたくない相手に会ってしまった。
誠治は俺に名刺を差し出してきた。俺はそれを見て驚いた。そこに書かれていたのは、なんと俺が働いている会社の名前だった。同じ会社に、よりによってこいつがいるなんて。
「あいつ、高校の時も暗くてよ、家も長屋で母子家庭で、見窄らしいものだったんだよ。おい、耕也、お前もこっちへ来いよ。みんなで相手してやるからさ」
誠治は部下たちに、俺の過去を面白おかしく話し始めた。俺は「遠慮しとく」とだけ言って、その場を離れた。お互い三十歳になっても、誠治はちっとも変わっていなかった。
あの日から、誠治とは時々顔を合わせることになった。タイムで働く母の家事を手伝うため、昼間にスーパーへ買い物に行くと、誠治が相撲イベントの弁当を買っているところに出くわした。
「おい、耕也じゃん。なんだお前、こんな時間に。さては無職で家事手伝いか?」
俺は無言でその場を去った。すると、しばらくした頃、社長から電話がかかってきた。俺が勤める会社の部長が病気で退職することになり、後任として新しく部署の部長を任せたいという話だった。
「え、俺が部長? それは…」
そうなると、俺はまた誠治と会わなければならなくなる。新部長を迎えるための親睦会が開かれるらしい。俺はそれまでリモートワークで過ごし、親睦会の日を待った。
そして親睦会当日、俺はスーツに着替え、居酒屋へ向かった。部署の社員たちが続々と入ってくる。誠治の部下たちは、あの日かなり飲んでいたらしく、俺のことを全く覚えていない様子だった。
そこへ誠治が現れた。俺はここで、この男に反撃することを決めた。
「よ。なんでお前がこんなところに? さては俺の名刺を見て羨ましくなって、中途入社か? よく高卒の分際で入社できたもんだな。俺は旧帝大のエリートだ。また俺のパシリをしに来たのか?」
「誠治、もう学生じゃないんだよ。いい加減落ち着いたらどうだ?」
「はあ? 何を偉そうに? フリーターか無職だったお前が」
「俺はフリーターでも無職でもないよ。みんながいるからって、恥ずかしがらなくたっていいんだ」
「ずっと貧乏で、今も長屋暮らしなんだろう」
「長屋暮らしの何が悪いんだ? 俺がどこに住もうが俺の自由だろ。もういい大人なんだからさ」
「はあ。今もママに助けてもらってる分際で、何がいい大人だよ。おい、みんな聞いたか? 長屋暮らしの貧乏人が俺に逆らってきたぞ」
誠治は、俺のことを必死に貶めようとする。すると、部下らしき二十代の若者が誠治に言った。
「課長、今日は部長を迎える大切な日なんです。知り合いかもしれませんが、少し落ち着いてください」
「んだと、三山まで俺に立てつくのか?」
「いや、そういうわけではないのですが、僕も一応高卒ですし」
「ああ、お前は高卒でもいいんだよ。愛想がいいしな。それに比べてこの耕や、全く高校時代から不愛想でさ、顔を見ているだけでもむかつくんだよ」
俺は静かにため息をついた。そして、親睦会が始まった。冷たいビールと食事が運ばれてくる。
「今、社長から電話があった。少し遅くなりそうだ。先に食事を頂いておいて欲しいとのことだ。じゃあ、部長もまだだし、俺が乾杯の音頭を取るよ。ではとりあえず、俺と俺の元同級生の出会いに乾杯」
そう言って、早速ビールを飲み出した誠治。しばらくすると、誠治が俺に言った。
「おい、耕也。お前、なんでそんなとこに座ってんだ。お前は下座に移動だ。すぐに移動しろよ。全く、貧乏人のバカはこういうことも知らないんだからな。ほら、耕也。下っ端は下座がマナーだろ」
俺は一口だけ飲んだコップを置いて、立ち上がった。
「誠治、じゃあ席を変わってくれ。お前が上座へどうぞ」
「は? お前、頭がおかしくなったのか?」
「いや、正常だ。席を変えよう。上座へどうぞ」
俺が低い声でそう言った時、社長が息を切らして駆けつけてきた。
「金本君、遅くなって申し訳ない。突然弟が倒れてしまって、朝から病院へ」
「平野社長」
「いえ、とんでもないです。初めまして。私が金本です。これからお世話になります」
「よく来てくれた。金本君の活躍は本社の社長から聞いておるよ」
「ありがとうございます。まだまだ未熟者ですが、よろしくお願いいたします。それで、弟様は大丈夫なのですか?」
「ああ、ありがとう。なんとか今はよく眠っておるよ」
「そのような大変な時に、わざわざこのような席を設けていただき、申し訳ございません」
「おい、晴田。金本君と席を変わりたまえ」
「え? あ、はい」
「金本君、すまないね。紹介が遅くなってしまって」
「いえいえ」
「では、本日は皆さんにご紹介します。こちらの金本君が新しい部長です」
そう言われて、俺は席を立って挨拶をした。
「ただいまご紹介に預かりました金本です。皆さん、これから精一杯頑張ってまいりますので、よろしくお願いします」
俺が社員全員に挨拶をすると、誠治は慌てて俺の席を移動させていた。
「それでは、みんなで新体制として乾杯」
「乾杯!」
全員が再び乾杯した。俺の横から、誠治がブツブツと言ってくる。
「なんでお前が部長なんだ…。俺は本社でもう十年以上働いてきたんだぞ…」
「本社の社長からの任命だよ」
「はあ…。なんでお前なんかが…」
誠治の顔は、アルコールのせいか、それとも驚いたせいか、真っ赤になっていた。俺は少し笑えてきた。俺のことを知らない他の社員や部下たちが、俺にビールを注いでくれる。俺は礼を言って、少しずつ食事をいただいた。誠治は何か不機嫌そうに食事をしていた。
翌日、俺はオフィスへ向かい、平野社長にお礼と挨拶をした。そして、専務に挨拶をして、事務所の部長の席に着く。すると、平野社長がやってきて、全員に話し始めた。
「ちょっと全員聞いてくれないかな。これからは、この部署でも海外との取引が増えてくる。是非、英語を鍛えておいてほしい。分からないことは、金本部長に尋ねるように。それでは、今日も頼んだぞ」
そう言って、平野社長は事務所を出ていった。すると、課長の席に座っていた誠治が立ち上がり、言い放った。
「高卒の英語なんて知れてるだろう。分からないことは、反対に俺に聞けよな」
誠治は、まだ俺を見下してくる。俺はまた大きくため息をついて、パソコンへ向かった。すると、昨日の親睦会で愛想が良かった三山という若者が、俺の席に書類を持ってきた。
「部長、こちらの書類の確認をお願いします」
「はい」
俺は三山が持ってきた書類に目を通す。すると、その書類を誠治が取り上げた。
「今まで書類の確認は俺の仕事だったんだ。お前に任せると不安で仕方がない」
「晴田君、ここは職場です。もう少し言葉遣いに気をつけてください」
「は? なんだと?」
「それでは、晴田君にこの書類をお任せしますので、後でこちらへ提出してください」
俺が誠治にそう言うと、小さく舌打ちが聞こえた。その後、誠治から書類を預かるが、俺はその書類のミスに気づいた。
「晴田君、こちらは漢字のミスがありますね。エリートの晴田君が気づかないとは」
「うっ、部長、申し訳ございません。僕のミスです」
「しっかり書類を作ってください。やはり高卒は…」
「晴田君、誰にでもミスはありますよ。そのミスに気づかなかったのは、高卒だからですか? それとも、有名大卒の君の実力ですか?」
俺がそう言ってやると、誠治は黙って俯き出した。俺は続きのプログラミングに集中する。それと、誠治は三山に雑用を任せているようだった。
「おい、三山。ちょっとこのコピーを取ってこい」
「はい、課長。かしこまりました」
三山は高卒で入社したようだ。誠治の頭の中から、学歴という価値観は消えない様子だ。
そして春になり、新入社員が入ってきた。三名とも高卒のようだ。俺は窓の外に散る桜を見ていた。父を亡くした時も、祖父の時も、こんな桜が舞う春だったな…。そう一人で思っていた。
誠治は、新入社員に「お前はどこの大学なんだ」と一人ずつ聞いて回り、自分は旧帝大卒だと自慢した後で、「高卒の集まりかよ。無能の集まりじゃねえか」と言い放った。新入社員たちは、小さくなってデスクに座る。
俺はスマホに、誠治の言葉を録音しておくことにした。
「おい、新入社員たち。今から全員で、この階のトイレ掃除をしてこい」
誠治の指示で、新入社員たちがトイレに向かおうとする。俺は彼らを制した。
「清掃は、清掃業者の方がやってくださっています。どうぞ席について、業務を開始してください」
俺がそう言うと、誠治は舌打ちをした。
そんな時、三山から社内メールが入り、食事に誘われた。俺は夜、居酒屋の個室を予約して、三山と会った。
「三山君、珍しいね。何かあったの?」
「部長、ご相談があったのです」
そう言って、三山はスマホにSDカードを差し込んだ。
「これ、今までの晴田課長からの暴言と嫌がらせの音声です。ある程度集めてから、以前いらっしゃった部長に相談しようかと思っていたんですが」
そう言ってスマホを差し出してきた三山。その音声はすごいものだった。三山は入社してからずっと、誠治に「高卒の無能だ」と言われ続けているらしい。
「僕、最初の頃はトイレ掃除もさせられていました…」
「なるほどね。これはひどいね。ちょっとこのカード、貸してもらえるかな? 社長に相談してみるよ」
「社長にですか? 晴田課長は、社長の甥っ子さんらしいです」
「そうか。でも、これはパワハラに間違いはない。きちんと僕は社長に話をしておくから、少し待ってて」
「よろしくお願いします。俺、元気なふりしてますが、毎朝胃の辺りが痛くて…。部長が来てくれてから、少し収まってきてるんですよ。正直、晴田課長は苦手なんですが、よく飲みにも誘われまして、『経費だからどんどん飲め』と飲まされるんですよ」
「え? それは不当な経費じゃないか。経理担当にも話をしてみるよ」
「はい。早めの方がいいと思います」
「分かった。今日は僕のポケットマネーからのおごりだよ。だから安心して、美味しいものを食べて元気出してくれよな」
「部長、ありがとうございます」
そうして俺と三山が話しているうちに、ふとこの町の話題になり、なんと三山は俺と同じ小学校だったことが分かった。彼は三つ下で、俺が三年の時に日本を離れていたため、全く知らなかった。だけど、担任の話などを教えてくれて、懐かしい思いがした。
その翌日、俺は三山から預かったSDカードを自分のスマホに差し込み、出勤した。そして、社長の部屋のドアをノックする。
「どうぞ」
「失礼します」
「金本君、何かあったのかな?」
「ええ、ちょっと聞いていただきたいものがあります」
俺はそう言って、平野社長に誠治から三山への暴言の数々を聞いてもらった。あと、経理に不当な領収書がないか調べて欲しいと、誠治のことを告げた。
「これは金本君、よく知らせてくれた。晴田は僕の甥なんだよ…。少し甘やかしすぎたな。この件は、経理のことが判明次第、君に任せる。僕も高卒だよ。うちの業界では学歴は関係ないのでな」
そう笑っていた平野社長だった。
その後、平野社長から不当な経費の書類が見つかったというメールが、俺のパソコンに届いた。俺は誠治に声をかけた。
「晴田君、今少しいいかな?」
「は? な、何ですか?」
そう言った誠治に、俺はスマホの録音を聞かせた。事務所内は静まり返り、みんなが聞いている。誠治が「なんで…」と言いかけた時、事務所に平野社長が現れた。
「おい、晴田。この今までの経費は一体何だ?」
「おじさん、それはあの社員との親睦で…」
「そんなもの、経費では使えない。もう何年分にもなるな。かなりの金額だ。損害賠償してもらう。あと、お前からの社員へのパワハラの音声も俺も聞いたが、俺も高卒だが、文句があるか?」
「おじさん…。え? そんな…」
「お前はもう首だ。後のことは金本君に任せる」
そう言って、平野社長は事務所を出ていった。
「晴田君、そういうことなので、君は今すぐ荷物を片付けて、事務所から出ていってください」
「は…そんな…」
反論もできず、真っ青になった誠治は、デスクを片付けて、事務所を去った。俺は、はっきり言ってすっきりした。
その後、誠治は再就職先もなく、貯金もなかったらしく、親からも見放されたようだ。そして、金融街から借金をして会社への損害賠償を支払いながら、昼も夜もアルバイト生活をしているらしい。
一方で俺は、海外との契約もスムーズに進み、部署内で本部長として昇格した。その後、総務にいた可愛い事務さんから告白されて、今は結婚前提でお付き合いをし、充実した毎日を送っている。



