窓を開けると、霧が谷を覆っていた。午前七時半。診察開始までまだ三十分ある。
俺は佐藤正文、四十二歳。この村でただ一人の医者だ。五年ほど前、この山あいの集落に流れ着いた。それまでは東京の大学病院で心臓血管外科をやっていた。将来を嘱望されている、などと言われたこともある。今となっては、まるで他人の話のようだ。
「先生、おはようございます」
裏口から中原マリが入ってきた。両手に、近所の農家からもらったらしい大根を抱えている。村で生まれ育った看護師で、明るくてよく動く。彼女がいなければ、この診療所は回らなかっただろう。
「今日は三十人くらい来そうですね。あ、それと、藤井のおじいちゃんがまた血圧の薬を飲み忘れたって電話がありました」
「またか。あとで往診に行こう」
「私が運転しますね。この前みたいに山道で脱輪したら大変ですから」
俺は苦笑した。マリには敵わない。
診察が始まると、いつもの顔ぶれが順番にやってくる。派手な手術も奇跡もない。ただ毎日、同じ顔と話し、同じ冗談を交わす。それだけの日々だった。
大学病院にいた頃、俺はメスを握ることに人生を懸けていた。若手の中では、それなりに名前も出始めていた。だが、ある出来事を境に、すべてが終わった。
一人の女性患者がいた。顔と頚部に大きな腫瘍を抱えていた。手術は難しく、術後の経過も読めない症例だった。病院の幹部からは、別の患者を優先するよう、暗に圧力がかかった。有力者の親族の手術が同じ日に組まれていたからだ。
俺はその指示を無視した。命に順番はない。そう信じていた。
結果、彼女の手術は成功した。だが、俺は半年後、大学病院を追われた。当時の副院長・塔野の清という男が、笑顔で自筆の辞表を差し出してきたのを今でも覚えている。
その後、いくつかの病院を転々として、最後にたどり着いたのがこの村だった。
昼過ぎ、診察が一息ついた頃だった。診療所の前に、見慣れない黒い車が止まった。
「先生、なんだか高そうな車ですよ。この村でこんなの見たの初めてです」
スーツ姿の男が降りてきて、深く一礼した。四十代半ばだろうか。黒縁の眼鏡をかけていた。
「失礼いたします。三山医療グループで秘書を務めております、石田と申します」
三山医療グループ。全国に病院と介護施設を展開する巨大法人だ。かつて創業者の不正疑惑が週刊誌を賑わせたこともある。
「弊社代表の三山洋子が、佐藤先生に直接お会いしたいと申しております。一度お時間をいただけないかと」
「うちのような小さな診療所に、何の御用だ?」
「先生のお名前は、先方で確認させていただいております。佐藤正文先生。元・桐生会大学病院、血管外科」
こちらのことは調べ尽くしているようだ。
「失礼だが、なぜ俺なんだ。人違いじゃないのか」
「人違いではございません。代表がどうしても先生にお会いしたいと申しております。ご都合のよろしい日に、こちらから車をお回しいたします」
俺は少し考えて、土曜の午後ならいいと答えた。
男はもう一度深く一礼し、車に戻っていった。黒い車は谷の方へと消えていった。
「先生、大丈夫なんですか? なんだか、ろくな話じゃない気がします」
「俺もよくわからないが、断る理由もないだろう」
「私、心配です。先生、東京で嫌な思いをされたんですよね。また、そういう人たちなんじゃないですか?」
俺には答えられなかった。
その夜、診療所の二階にある俺の住まいで、古い電話が鳴った。壁掛けの黒電話だ。受話器を取ると、聞き覚えのある声がした。五年も経っているのに、すぐにわかった。
「やあ、佐藤君。久しぶりだね。元気にしてるかい?」
「…塔野先生ですか」
「覚えていてくれたか。光栄だな。担当直入に言うよ。今日、君のところに三山医療グループの人間が来たそうじゃないか」
「なぜ、それを」
「私もあの法人とは古い付き合いでね。情報は入ってくるんだよ。それで、忠告しておきたい。あの会社には関わらない方がいい。創業者が亡くなってから、内部はだいぶ揉めている。今の社長は若い女性でね、何を考えているか読めないところがある。君のような真面目な医者が巻き込まれていい話じゃない」
「ご忠告ありがとうございます。ただ、約束はもうしてしまいましたので」
電話の向こうで、ため息が聞こえた。そして、通話は切れた。
土曜の十三時、約束通り黒い車が診療所の前に止まった。車は山道を下り、高速道路へと入っていった。五年ぶりに東京方面へ向かう道だ。
しばらく走ったところで、助手席の石田が口を開いた。
「佐藤先生。ひとつだけ、先にお伝えしておきたいことがございます」
「何でしょう?」
「代表は、五年前に先生に命を救われた患者の一人です。代表があの日生きて、ここまで歩いて来られたのは、先生のおかげです」
俺は何も言えなかった。五年前のあの手術。顔と頚部の腫瘍。病院の幹部から後回しにしろと言われた患者。名前は確か、別の名前だったはずだ。
車は都心のビル街に入り、地下駐車場へと滑り込んだ。エレベーターを降りると、重厚な扉が開いた。窓際に、一人の女性が立っていた。
「お待ちしておりました。三山洋子と申します」
「佐藤です。本日はお招きいただいて」
俺は名乗りながら、思わず相手の顔を見つめてしまった。整った顔立ちだが、左の頬から首にかけて、わずかに皮膚の質が違う部分があった。何度かの再建手術の痕だと、すぐにわかった。
洋子は俺の視線に気づき、小さく微笑んだ。
「五年前、大学病院で私の頚部の腫瘍を取ってくださったのは先生です。あの手術がなければ、私は今ここに立っていません」
俺はソファに腰を下ろした。
「あの日、病院の幹部が先生にどんな圧力をかけたか、私は後から知りました。私の手術を後回しにしろと言われたのに、先生は引き受けてくださった。『命に順番はない』と。覚えています」
「頭を上げてください。あれは俺が自分で決めたことです。あなたに詫びてもらう筋合いはありません」
「今日、先生にお越しいただいたのは、お礼だけのためではありません。ひとつ、お願いがあって参りました」
「お願い?」
「来年、開院する新しい病院の、医療責任者を引き受けていただきたいのです」
俺は手に持っていた湯呑みを置いた。
「父の三山剛一が築いた三山医療グループは、長く不正の疑惑にまといつかれてきました。利益優先、利権、政治家との癒着。週刊誌に書かれたことの大半は、残念ながら事実です。父が亡くなった後、私は社長を引き継ぎました。父の血を引いた私が、父の作った歪みを正さなければならない。そう思って、五年やってきました」
洋子は窓の外に視線をやった。
「新しく開く病院は、私のけじめです。利益ではなく、患者の命を最優先にする。そういう病院をゼロから作りたい。そのためには、その理念を本気で貫ける意志が、責任者の席に座らなければなりません」
「俺は、ただの田舎医者です。心臓血管外科の現場からも、五年離れています」
「先生は、ただの田舎の医者ではありません。五年前、地位も将来も投げ捨てて、『命に順番はない』と言い切った人です。私が探していたのは、技術ではなく、その信念を持った人です」
言葉が、すぐには出てこなかった。
「返事は、少し待ってもらえますか?」
「もちろんです。一週間でも、一ヶ月でも、お待ちします」
村に戻ったのは、その日の深夜だった。
「先生、お帰りなさい。遅かったから、心配で」
「マリさん、まだ起きてたのか」
「だって、気になって眠れませんでした。どうだったんですか?」
俺は濡れたコートのまま、長椅子に腰を下ろした。
「来年開院する新しい病院の、医療責任者をやってほしいと言われた」
「先生、行くんですか?」
「まだ、決めていない」
「正直に言ってもいいですか? 私は先生に、ここにいてほしいです。村のみんなも、絶対にそう言います」
マリは俯いた。声が震えていた。
「先生は、東京で本当はもっと大きな仕事ができる人なんでしょう。それを、無理やり奪われたんですよね」
その時、机の上の黒電話が鳴った。夜中の十一時を過ぎている。
「佐藤君、会ってきたんだろう。あの女社長の話に乗れば、君は今度こそ医者として終わる。父親の代から敵が多い会社だ。君のような世間知らずが責任者の椅子に座って、無事で済むと思うのか。もう一度言う。村で大人しく、じいさんばあさんの血圧を測っていなさい。それが君に一番合っている」
通話は、一方的に切れた。
決めなければならなかった。誰の声でもない、自分の声で。
決断したのは、それから三日後の朝だった。
「先生、決まったんですね」
「ああ、決めた」
「どっちですか?」
「両方だ」
マリは、意味がわからないという顔をした。
「東京の病院は引き受ける。だが、この村も捨てない。週の半分はこっちに通う。それを条件に出すつもりだ」
「先生、それ無茶ですよ。体がいくつあっても足りません」
「無茶を承知で言う。後を継いでくれる若い医者を、新病院から派遣してもらう。俺が育てて、この村に根付かせる。それまでは、俺がここに戻る」
「先生、嬉しいです。本当に嬉しいです」
「君が三日前に言ってくれた言葉で、俺は決められた」
朝の八時、最初の患者が入ってきた。田所のじいさんだった。
「先生、また血圧の薬、忘れてしもうて」
「飲み忘れがないように、今日からカレンダーに丸をつける方式に変えよう。マリさんに表を作ってもらう」
田所は笑って、ありがとうの代わりに、袋に入れた里芋を机に置いていった。
一週間後、俺は再び三山医療グループの本社にいた。
「条件を申し上げてもよろしいですか?」
「どうぞ」
「週の半分を村に置きたい。村の診療所を畳むつもりはありません。それと、新病院の若手医師を一人、村の担当として育てさせてください。三年計画で、その医師に村を引き継がせたい」
洋子は静かに頷いた。
「了承します」
「それともうひとつ。経営判断で患者を選ぶことは、決してしないでいただきたい。それが守れないなら、俺は辞めます」
「承知しました。契約書に盛り込んでください」
石田が書類を持ち、すぐに席を立った。部屋には、洋子と俺だけが残った。
「先生、お引き受けくださって、ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早いと思います。ここからが長い」
その時、部屋のドアがノックされた。返事を待たずに、扉が開いた。入ってきたのは、見覚えのある男だった。
「やあ、佐藤君。ここで会うことになるとはな」
「塔野先生」
塔野は微笑を浮かべたまま、勝手にソファに腰を下ろした。
「三社長。古い友人として口出しに来ただけだよ。佐藤君は君の会社で務まる人間じゃない。世間知らずでね、すぐ潰れる」
「先生、俺はこちらと契約をしているんです」
「佐藤君。君がこの椅子に座れば、五年前の話を蒸し返す連中が出てくる。私の名前も、当然出てくる。私を敵に回して、君に何ができる?」
洋子が静かに立ち上がった。
「塔野先生。五年前、あなたが佐藤先生に何をおっしゃったか、私は全部覚えています。私が手術台に運ばれる前、『他の人を先にしろ』と言われたと。佐藤先生がそれを知って、引き受けてくださった」
「何の話だ?」
「私です。その、後回しにされかけた患者は」
塔野の顔から、笑みが消えた。
「私の父、三山剛一があなたと何をやってきたかも、すべて書類で残っています。父の罪は、娘の私が背負います。あなたの分まで背負うつもりはありません。お引き取りください」
塔野はしばらく動かなかった。それからゆっくり立ち上がり、何も言わずに部屋を出ていった。
俺は契約書に、サインをした。
村に戻ったのは、土曜の夕方だった。
「先生、お帰りなさい。お茶、入れておきました」
「ただいま。今週もよろしく頼む」
「東京はどうでしたか?」
「押し切ってきた。条件は全部飲んでもらったよ。来月から、若い医師がここに研修に来る」
「そうですか。じゃあ、私もその先生にお茶の入れ方を教えないと」
「頼むよ。君の淹れる茶は、一番うまい」
マリは声を出して笑った。待合室の長椅子に、田所のじいさんが座っていた。往診の予定はなかったはずだ。
「先生が帰ってくるって聞いたら、わざわざ歩いてきたんですよ。顔だけ見たかったって」
「先生、東京の話、本当か?」
「本当です。ただし、半分はここにいます。あんたの里芋、ちゃんと食べに戻ってきます」
「そうか。なら、いい」
じいさんはそれだけ言って、ゆっくり立ち上がり、杖をついて帰っていった。
俺は玄関先に立ち、谷を見下ろした。山の稜線が、夕日の中にくっきりと浮かんでいた。
「マリさん。ひとつだけ約束する」
「何ですか?」
「ここを、絶対に閉めない。俺がどこにいても、この診療所の明かりは消さない」
「はい。待ってます。村のみんなと、待ってます」
俺はもう一度、谷を見た。五年前、東京を追われた日の自分が、もうここにはいない気がした。
マリが、何か鼻歌を歌い始めていた。俺は白衣の袖口を、もう一度まくり直した。


