クライアントが大勢いる会議室で、課長が突然、俺に向かって怒鳴った。「おい、平社員のくせに、なんでこの席に座ろうとしてるんだ。お前は端っこのパイプ椅子で十分だ。お情けで言ってるんだぞ。」俺はただ、営業部の一員としてプレゼンをするためにそこにいた。なのに、課長は俺が作った資料を回収し、自分が作ったプレゼンを勝手に始めた。クライアントの社長が俺を見て、こう言った。「部下に上座を譲るとは、素敵な会社…

クライアントが大勢いる会議室で、課長が突然、俺に向かって怒鳴った。「おい、平社員のくせに、なんでこの席に座ろうとしてるんだ。お前は端っこのパイプ椅子で十分だ。お情けで言ってるんだぞ。」俺はただ、営業部の一員としてプレゼンをするためにそこにいた。なのに、課長は俺が作った資料を回収し、自分が作ったプレゼンを勝手に始めた。クライアントの社長が俺を見て、こう言った。「部下に上座を譲るとは、素敵な会社...

「おい、平社員のくせに、なんでこの席に座ろうとしているんだ。」

クライアントが大勢いる会議室で、課長の川北が俺に向かって怒鳴った。

「お前みたいな中卒のおっさんは、端っこのパイプ椅子で十分だ。お情けで言ってるんだぞ。本来なら、お前の分際でこの会社の資金に触れることだってできねえんだ。分かったか?」

は?何を言ってるんだ、この課長は。

俺はあからさまにそんな表情を浮かべていたと思う。

俺、山根健二、46歳。バツイチの自由人だ。

30歳の時、結婚して2年で、どちらからともなく離婚を切り出した。

浮気をしたとか、価値観が合わないとか、そういう理由じゃない。

俺も元妻も、自分は結婚に向いていなかった。ただそれだけの理由だった。

「あまりにもカジュアルすぎる理由だし、だったらなんで結婚したの?」と聞かれることもある。

好きだったし、夫婦喧嘩もなかった。

互いに過去の病気が理由で子供を望めないことも、承知の上で結婚した。

一緒に暮らしていて、全く不自由はなかった。それなのに、「結婚生活というもの」に、互いに窮屈さを感じてしまったのだ。

助け合うことはあっても、互いに干渉しない。それぞれが自由に生活できる。

それはそれで良好な関係だったが、だったら別に婚姻関係を続けなくてもいいよね、という話になって離婚した。

もちろん、それなりの夫婦らしい生活もあった。誕生日にプレゼントを渡したり、旅行に出かけたりもした。愛があったのは事実だ。

結婚生活にメリットを見出せず、それぞれが独身に戻っても同じ生活を続けられるよね、って話になっただけ。

離婚後も、元妻とは友達以上夫婦未満の関係で、生活の拠点は別だが、離婚前と全く変わらない生活が続いている。

周りの人間はこの関係を「変な案件」と言うが、意味を見失ってしまった以上、離婚して正解だったとしか言いようがない。

まあ、話を戻そう。

俺は38歳の時、転職を成功させ、今の職場で働くようになった。

今の職場は美容品の総合商社で、ヘアサロンやエステサロンへ様々な製品を提供している。

昔ながらのポマードから最新のカラー剤、サロン用の椅子やシャンプー台など、どんなものでも取り寄せて提供できる。

全国主要都市に拠点があるので、全国各地のお店から引き合いが来る。

俺の仕事は、引き合いの段階で見込み客のところへ出向き、契約に至るまでの営業だ。得意先に対しては新製品の売り込みをかけることもある。

営業職といえばギラギラした奴が会社での業績を上げるために何でもかんでも売り込む仕事、というイメージを持たれるが、俺はどんな時も「出力80%」という省エネモードで仕事をしている。

引き合いがなければ顧客の元へ行かない。見込みがなければ売り込みに行かない。そんな感じだ。

納品の際には取り扱い方法などを丁寧にレクチャーし、アフターフォローも欠かさない。このくらいで全然構わないと思っている。

あまりギラギラ食いつかないので、俺のような営業担当者となら付き合ってもいい、という会社も少なくない。

そしてこの会社へ転職してから、ノー残業、ノー休日出勤を貫いている。これも出力80%の一環だ。

日本だとどうしても残業や休日出勤が美徳とされる。

サロンなどのリビオ協会は、仕事終わりの18時以降はもちろん、土日祝日だって仕事をしている。休日を納品日時に指定されることもあるが、その時は「ああ、すみません。弊社カレンダーでは休日に当たりますので、宅配もしくは平日オンタイムでの納品になります」と答える。

もちろん取引先はそれで納得してくれるし、どうしても休日に納品して欲しいというのであれば、他の担当者を当てるだけだ。

俺はワークライフバランスを取るために、出力80%の仕事を心がけている。

転職する前まで仕事人間だったが、それに虚しさを感じ始めたからだ。そこまでしてクライアントや自分の会社の人間は利益を得たいのか?そもそも俺がこの会社で仕事をする理由は何だ?そんな疑問が湧き出てしまったので転職した。

転職先となった今の会社だが、本当は営業職で入社したわけではない。前職の経歴だけを見て、是非とも営業部へと引き抜かれたのだ。

だから俺は改めてネクタイを締め直しながら、面接で言ってやった。

「残業も休日出勤もしませんよ。それでもいいなら。」

それでもいいと、面接担当の社長と人事部長が言ってくれたので、営業部に席を置くことになっただけだった。

出力80%ながらも契約はしっかり取ってくるし、長期契約の顧客も多いので、業績はそれなりに上げている。

今回、営業部全員に大きなミッションが与えられた。

大手アパレルメーカーがエステ業界に参入するという。内装から重機、備品や消耗品など、全てをこの会社に任せたいというのだ。

初回契約は80億円の見込み。そこから事業展開に応じて都度売上を立てられる。

しかも、単純にクライアントの希望を叶える受動的なものではなく、「我が社ならこんな事業展開ができる」「同業他社と差別化を測りたいならこうすればいい」といった能動的な意見が欲しいという。

もちろん我が社は美容系の総合商社だが、こんな仕事をしたことがない。

「新商品です。今のところ他の会社さんには納品実績はありません」っていうような売り文句を使ったりはするが、他社の事業計画に参画するようなことはしたことがない。

そこで、営業部社員が各々プレゼンを作り、社内でコンペを行おうという流れになった。

週明けにプレゼンできた人材の案を採用したり、ブラッシュアップするための土台にできるという考え方なのだろう。

俺は既存の顧客が大事だからという理由で、プレゼンには参加しないつもりだった。

だが、そんなことを許さないのが会社というコミュニティだ。

「山根君の本領発揮じゃないか。」社長がははっと笑いながら俺の肩をとんと叩く。

「おい、お前、サボって無断欠勤だったら、今度こそ査定ゼロだからな。」

この人は課長の川北さん。性格は良く豪快な人だが、どこか詰めが甘い人だ。

他人の手柄を我が物にしてここまでのし上がってきた、という噂があるが、それは事実のようだった。

俺は直面したことがないが、高額の案件や特定の顧客の案件について課長に取られたという同僚もいるからだ。

なぜそれなりに契約を取ってくる俺が横取りに直面していないかといえば、俺の取ってくる契約が100万円クラスだからだろう。

「お前はそんなんだから、100万クラスの契約しか取ってこれないんだぞ。どうせなら、片手(500万)案件取ってこいよ。」

俺の出力80%が気に入らないらしい。

「ああ、定時退社かよ。こっちは残務処理で忙しいってのに。」

俺は出力80%でもきっちり仕事をこなし、明日に持ち越さないようにしている。この人は残業をしてまでも仕事を持ち越し、後で部下に丸投げするから困ったものだ。

それなのに、課長からすれば俺は「仕事をしない、できない、意欲なし」とレッテルを押す対象となっているようだ。

まあ、そう見られても構わない。俺は俺だし、100万クラスの契約を年間200件以上取ってくるのだから、他の奴らが500万クラスの契約を年間40件程度取ってくるのと、結果は同じじゃないか。

そんな中、社内コンペが行われた。

営業部の社員たちはそれぞれのノウハウを生かしてたくさんのアイデアを出していた。その中で、正式な交渉役として選ばれたのがこの俺。

弊社の商品を導入したいという顧客に対するコンサルなどを一切したことがないため、クライアントに対する視点がバラバラで、簡単に言えば「論点がずれている」ものばかりだったのだ。

「うん。昔取った杵柄(きねづか)ってよく言うよね。」

社長がまた笑って俺の肩を叩くが、出力80%どころか、それ以上の力を使わないと仕事ができなくなって困った。

話し合いを行った結果、今回は「プロジェクト」という形を取り、営業部全員で取り組むこととした。

しかし、この会社に入社して初めて残業をすることになった。

以降、俺の時間が取れずに、大きなストレスが溜まった。

初回取引80億の正式な交渉だ。俺だってことの大きさはよくわかる。

ストレスで怒りやイライラと戦いながら、交渉の日を迎えた。

「え?社長は来ないんですか?」

交渉では、プレゼンターが俺で、対外的な交渉担当として社長が当たると言っていた。

それなのに、川北が同行すると言っているのだ。

「ちょっと待ってください。80億よりも大事な来客って誰ですか?」

俺が川北さんに聞いたが、「さあ?」と欧米人もびっくりの大げさなポーズを取る。

こいつが仕組んだのか。ボールは投げられた。

「早く行こう。他の社員への挨拶はいらんよ。」

せかすように川北が、俺を会社の外に連れて行く。そして会社の車を出して、クライアントの会社へ向かった。

川北がハンドルを握り、逃げるように会社を後にする。なんか嫌な予感がする。

国道に出てやっと安心した表情になった川北を見て、小さく舌打ちした。

クライアントの会社に到着。受付にアポイントを入れていると伝え、会議室へ案内してもらう。

席に案内されて、資料を机にセットしたり、パソコンやスクリーンなどの準備を行う。

一通り準備を終えて、俺が座ろうとしたら、川北が突然、目を吊り上げて俺を睨んだ。

「おい、平社員のくせに、なんでこの席に座ろうとしてるんだよ。お前みたいな中卒のおっさんは、端っこのパイプ椅子で十分だ。お情けで言ってるんだぞ。本来なら、お前の分際でこの会社の資金に触れることだってできねえんだ。分かったか?」

は?何考えてるんだ、この課長は?

俺はあからさまにそんな表情をしていたと思う。

様子のおかしさに、俺は反論しようとした。それと同時に、クライアント側の担当者がぞろぞろと会議室へ集合した。

川北と俺は頭を深く下げながら、それぞれと名刺を交換した。

「社長は間もなく来ると言い、着座の上待ってほしい」と言われたので、席に座ろうとした。

「おい、お前の座る場所はここじゃねえ。」

クライアントが大勢いる前で、川北が怒鳴り声を立てる。

発表者は俺なのに。

ああ、手柄の横取りとはこういうことか。

俺はにっこりと笑い、軽く会釈をして会議室の一番奥へ移動する。机すらないすみっこにパイプ椅子を出して座った。

そんな時、一人の女性が事務員を連れて会議室へ現れた。そして俺と目が合い、立ち止まる。

「部下に上座を譲るとは、素敵な会社ですね。」

え?

上司は課長の川北なのに、海野社長は俺を見てこう言ったのだ。

彼女は前職のクライアントで、旧知の存在だ。何か勘違いしているのだと思われる。

「本日はよろしくお願いいたします。」

ここで否定をすれば時間の無駄になってしまう。ビジネスマナーの教科書があったら採用されそうなほど正しい角度でお辞儀をして、海野社長を上座の席へ促した。

早速プレゼンが始まった。

俺が立ち上がろうとしたら、先に川北が立ち上がり、大きく咳払いをする。

「この席はいいか。山、座ってろよ」というメッセージだ。

俺は会議室のすみっこで黙って、その様子を見守ることにした。まあ、プレゼンするにしても、俺が作った資料を読むだけだ。

ところが、この男は机の上に置いた俺が作った資料をすでに回収していた。

自分が準備していた資料を配り始め、俺がパソコンにセットしていたプレゼンソフトのファイルを閉じ、自分が作ったファイルをプロジェクターに投影し、そして、ろくに演説をぶちかまし始めた。

もちろん、俺のプレゼン資料の出来ではない。

営業部課長・川北正司オリジナルのプレゼンだ。

だが、プレゼンを聞くまでもなく、資料を先に読み終えてしまったクライアントが手を挙げて、川北の話を制する。

「それって、あなたの主観ですよね。売上が5倍に伸びたっていう根拠やデータは?」

「そんな話を聞くために、我々を呼んだのではありません。ていうか、あなたがしている話は、うちにしてみたら大前提なんですよ。」

「私たちはこの話の先を見せて欲しいんですよ。それに、同行者を侮辱するような社員がいる会社は、うちのポリシーと合わない。」

川北には辛辣に聞こえたろうが、これらの意見はとても当たり前のことだった。

海野社長が俺を見て言う。

「がっかりです。今回は中止といたしましょう。」

「ちょっと待ってください。もう1つご提案があるんです。」

もう1つのご提案とは、多分俺のプレゼンのことだと思われるが、聞くことをやめてしまったクライアントに話をしたところで、響くはずがない。

「川北課長、今日のところは帰りましょう。」

俺は潔く立ち上がり、礼をして、資料を片付け、会議室を後にしようとした。

川北は海野社長にすがるように、「話を聞いてくれ」と懇願している。

「川北課長、今回は失敗したんです。チャンスはありません。それを認めてください。」

俺が厳しく鋭い口調で伝えても、受け入れようとはしなかった。

「こちらが課長さん。では、あなたは部長さんあたりになられたのかしら?」

「いえ、私は今の会社では、平社員ですよ。」

「え?こいつをご存知なのですか?」

「知ってるも何も。以前はビジネスコンサルタントとして、何社も会社経営を立て直してきた逸材よ。うちの会社だって、経営不振に陥った時に助けてくれたのが山根さんで、ここまで事業拡大するに至ったんだから。」

「いえ、そこから先は海野社長の経営判断力の高さですよ。」

俺の前職は経営コンサルタントだった。

何社もクライアントを股にかけて、きっちり働いてきた。

その結果、子供の時に患った病気の再発リスクが高まったことも、転職の理由の1つだった。

出力80%をキープして健康を保つことを意識してきたのだ。同じ病気と戦っている元妻のためにも、俺は生き延びる必要がある。

その時、慌てて谷崎社長が会議室へ現れた。

「どうして川北君、来客があったから出発を15分遅らせると山根君に伝えてくれと言ったじゃないか。」

俺が社長にこれまでの顛末と交渉失敗した旨をメールで送信していたので、顔面蒼白の状態でやってきたのだ。

川北は自分の手柄を立てようと、俺を拉致するかのように慌てて会社の外へ出て、自分の資料でプレゼンを始めた。

もちろん、川北の資料にあった「弊社の製品で売上が5倍になる」とか「貴社の事業発展をもたらす」という文言は、社内コンペの後に行った企画会議で使用禁止と決めたはずだ。

彼は一切そんな話を聞かずに、自分のことだけを考えていたようだ。

谷崎社長はクライアント側の社員へ平謝りしている。

「海野社長、申し訳ありません。本日はこれにて失礼いたします。」

「ところで、あの方が言っていたもう1つのご提案って?」

俺は川北が回収した俺のプレゼン資料を海野社長へ提示した。

「大変おこがましいのですが、もう一度チャンスをいただけたら、こちらの内容でご提案させていただきたいのです。是非一度お目通しいただくことは可能でしょうか?」

海野はふむふむと頷きながら、俺の資料を一読した。

「改めて場を設けるよう、私の方から働きかけます。ただし、あの社員さんは抜きで。」

あの社員とは、言わずもがな川北のことだ。

俺と谷崎社長は深く頭を下げ、チャンスをもらえることに感謝を伝えた。

谷崎社長は帰りの車の中で激怒していた。それもそうだろう。あんなに入念に準備をしてきたプレゼンをないがしろにし、クライアント側の社員を呆れさせてしまったのだから。

言い訳は「80億円に目が眩んだ」とか川北は言うけれど、仮に成立したとしてもインセンティブは1人占めできない。

今回は営業部の総意であり、会社起点にある案件だ。成立時のインセンティブ0. 5%は、営業部員で均等分配にする取り決めをしたからだ。

川北課長を含め8人で山分けしても、相当な金額だ。

そんなことも全く考えていなかったとは、呆れてしまう。

もちろん、今回の交渉プロジェクトから川北課長は外された。

海野社長からの垂れ込みで、川北が「中卒のおっさんは端っこのパイプ椅子で十分だ」などとクライアント企業の会議室で俺に罵声を浴びせたことも、谷崎社長は把握済みだ。

これは減給処分で済む問題ではない。

事態を重く見た社長は、川北に対して解雇を通達したようだ。

川北課長について、誰も興味を持たなかった。その結果、解雇された後のことに関しては知らないままだ。

俺は持病をカミングアウトし、「出力80%のままで」という条件付きで営業課長へ就任。

改めて海野社長のアパレル会社とも交渉を進めるチャンスをもらい、初回契約80億の契約を無事成立させることができた。

4000万のインセンティブを7人で山分けすることができ、俺は部下に感謝された。

部下を大切にすることは一番大事だ。部下に対して罵声を見せるなんて、愚の骨頂だと思う。

これからは一歩踏み込んだ営業ができるよう、人材を育てることを目指しながら、もう少しこの会社で頑張る所存だ。

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