会社のパーティー会場で、私はまたあの言葉を浴びせられていた。「あなたはこの会社にとってふさわしくないのよ」。全務の妻・稽古夫人と、その取り巻きたちの嘲笑。中卒の私を見下す彼女たちの前に、私はただ黙って立っていることしかできなかった。「この会社にあなたは必要ないの。解雇という言葉、分かるかしら?」その時、アナウンスが響いた。新社長就任の挨拶の時間だと。私は深く息を吸い、壇上に向かって歩き出した…

会社のパーティー会場で、私はまたあの言葉を浴びせられていた。「あなたはこの会社にとってふさわしくないのよ」。全務の妻・稽古夫人と、その取り巻きたちの嘲笑。中卒の私を見下す彼女たちの前に、私はただ黙って立っていることしかできなかった。「この会社にあなたは必要ないの。解雇という言葉、分かるかしら?」その時、アナウンスが響いた。新社長就任の挨拶の時間だと。私は深く息を吸い、壇上に向かって歩き出した...

会社のパーティー会場で、全務の妻・稽古夫人は相変わらずだった。私のことを見下すように嘲笑い、その取り巻きたちも同調して笑う。

「あなたはこの会社にとってふさわしくないのよ」

そう言って浴びせかける言葉に、私は歯を食いしばって耐えていた。すると、ついに新社長就任の挨拶が始まった。壇上に上がる人物を見た瞬間、稽古夫人は青ざめ、取り巻きたちは一斉に手のひらを返した。

私の名前は神崎徹。幼い頃に両親は離婚し、母はシングルマザーとして必死に私を育ててくれた。収入は決して良くなかったが、なんとか義務教育を卒業できたのは母のおかげだ。本当に感謝している。

ただ、周りの同級生たちのような塾やスポーツなどの余分な教育を受ける経済的余裕は全くなかった。普通に学校に通えるだけで十分だった。

それなのに、中学1年の冬。一度だけ友達が塾の話をしているのを聞いて、「いいなあ」と羨ましさがつい口をついて出てしまったことがある。その3日後、母は夜のコンビニの仕事を一つ増やしていた。この日のことは、今でも私の人生最大の失敗だったと思っている。

母はもともと、私に少しでも何かをしてあげたいと休む間もなく必死に働いていた。それなのに、さらに仕事を増やしたことで、言葉通り母の休む時間はなくなってしまった。

母の必死の思いに応えようと、私も必死に勉強した。部活は道具や遠征費がかかるため、迷わず帰宅部にした。空いた時間と、母が私のために貯めてくれたお金は、すべて勉強や参考書の購入に充てた。

幸い、私は何ごとも地道に努力できるタイプだった。勉強に費やした時間の分だけ成績に反映され、中学3年間は学年上位を常にキープするほど学力が向上した。努力の甲斐あって、地元の進学校に進学することができた。

しかし、私の高校生活は長くは続かなかった。入学して間もなく、母は病気がちとなり、継続的に働くことが体力的に難しくなってしまった。休みなく働いていつか限界が来ることは目に見えていたが、母にはそれ以外の選択肢がなかった。

収入は激減し、ただでさえ厳しい経済状況がさらに悪化した。そして、普通の生活を送ることさえ困難になった。私は母の看病と暮らしを維持するために、高校をやめて就職することにした。母はとても悲しそうな顔をしていたが、私にとって進学や自分の将来のことよりも、大切な母との生活を続けることの方が何倍も大事だった。後悔はなかった。

今度は私が母を支える番だ。とはいえ、中卒での就職はなかなか難しく、正規雇用してくれる職場は見つからなかった。私はアルバイトを始めたが、二人暮らしの生活費と母の医療費を稼ごうと思うと、人一倍の努力が必要だった。かつての母と同じように、働き詰めの日々を送っていた。

そんな生活を4年ほど続けた。さすがに長く働いていると、仕事のノウハウだけでなく、社内事情や人間関係に至るまで様々なことに精通するものだ。得意先の癖まで把握した私は、店長からの信頼を得て、アルバイトながら現場リーダーを任されるまでになっていた。

そんなある日、新人の女性がアルバイトとして入ってきた。千尋といった。大学1年生だという。

「千尋です。今日からよろしくお願いします」

そう自己紹介を終えると、彼女はニコッと優しく微笑んだ。優しい笑顔を湛えた顔立ちは、どこか幼く柔らかさを感じさせる。明るくはきはきとしていて、言葉遣いも丁寧。細やかな気遣いができる繊細さ。すべてが目を引いた。

もちろん接客も迅速かつ丁寧だった。こういうのをホスピタリティというのだろうと、私は自分より年下の彼女を見て初めてそう感じた。

「もしかして、どこかで働いた経験があるのか?」

と聞いてみると、彼女は「バイトは初めてなんです。だからすごく緊張してるんですよ。ちゃんとしなきゃって」と、表情は柔らかいまま真剣な眼差しを向けた。「ご指導よろしくお願いします」と丁寧に頭を下げる彼女を見ながら、これはすごい新人が来たものだと、参ったような嬉しいような気持ちになった。

千尋はすぐにバイト仲間の中でも話題の人物となった。私は現場リーダーとして彼女の指導役を任された。千尋は何でもすぐに吸収していった。指導しながら、その成長速度に感心させられた。

ある日のこと。「お疲れ様。仕事には慣れた?」普段の私は、仕事に関係あること以外にあまり積極的に声をかけない方だ。だが、この日はどういうわけか、バックヤードにいた彼女に自分から声をかけていた。内容はただのフォローアップだ。だが、この日の私は、どちらかと言うと仕事としてではなく、話したくて話し始めたという感じだった。

「お疲れ様です。神崎さんのおかげで、すごく仕事が楽しいですよ」

千尋は人懐っこく微笑む。

「俺のおかげ?」

「そうです。教えるのが上手だし、周りのみんなに気を配って、引っ張っていくんじゃなくて、その人が仕事をスムーズにできるようにガイドしている感じが素敵です」

そう言う千尋の真剣な眼差しは、より熱っぽさを増していた。「神崎さん、すごいです。現場を引っ張っていくリーダーっていうスタイルもあるんだって、すごく勉強になりました」

あまりに褒めてくれるものだから、少し恥ずかしいような、くすぐったいような気持ちになった。

「君にすごいなんて言われてもな。むしろ俺の方が君をすごいって思っていたんだけど」

「え?」

千尋は驚いた。このスペックでまだ大学1年生だ。本当に末恐ろしい。

「君は今俺のことを褒めてくれたけど、ほとんど同じこと思ってるんだよね」

どうやら私と千尋は似たところがあるらしい。感性や言葉遣い、大切にしたいこと。指導者として彼女を傍で見ているうちに、どんどんとその魅力に引き込まれていく自分に気づく。二人で交わす会話の時間は、仕事に追われる私にとって貴重な癒しの時間となっていた。

千尋にとってもそれは同じだったようだ。学業と両立しながらアルバイトをこなしていて、決して暇なわけではない。それなのに、私と話す時間は彼女にとっても楽しいひとときだったようだ。

私たちは次第に仕事仲間以上の信頼を築き、それはやがて恋心へと発展した。千尋が大学在学中の4年間、私たちは両想いだった。

千尋は大学を卒業すると同時に、アルバイトをやめて就職することが決まった。最後の出勤日の後、アルバイト仲間でささやかな送別会を開いた。少し席を外して店の外に出た私を、千尋が追ってきた。

「また明日からも一緒に働くんじゃないかって気がしてならないよ。4年間、短かったけど長かったな」

「そうですね。私は楽しすぎて、あっという間でした」

4年の月日が流れても、千尋の優しい笑顔は全く変わらなかった。もうこの笑顔が見られないのかと思うと、胸が張り裂けそうだった。

「なんか嫌だな」

ぽつりと漏らした私を、千尋がじっと見返す。言葉が自然と口から漏れ出して止まらない。

「もっとずっと、君の隣にいたいと思うんだ」

少し間が開いた。二人の間を、冬の名残りと新しい季節の訪れが混ざり合ったような柔らかな風が吹き抜けた。

「やっぱり」

微笑みながら呟く千尋の瞳が潤んでいる。

「そうじゃないかなって、思ってたんです」

「え、なんで」

「だって」

そう言いながら、彼女は背中で答える。

「私も同じだから」

それは小さな声だったが、はっきりと聞こえる一言だった。似た者同士の私たちは、ようやく新たなステージへと歩みを進めた。今度は二人で手を繋いで。私は千尋と正式に付き合うことになった。

私が母の看病と掛け持ちのアルバイトで忙しくしていることを、千尋はよく理解してくれていた。普通なら、なかなかデートにも行けない状況で、寂しいと怒り出してしまうところだろう。しかし、千尋は寂しがるどころか、私の母の看病を手伝ってくれるようにさえなっていた。

母は体調が悪く家からあまり出なくなっていたが、千尋が話し相手になってくれるようになってから、その表情が随分と明るくなった。「昔はもっと笑う明るい人だったんだよな」と、千尋と楽しそうに語り合う母を見て、少し寂しくもあり、申し訳ない気持ちにもなった。それと同時に、この優しく素敵な女性と巡り合わせてくれた運命のいたずらに、改めて幸せを感じていた。

私たちの仲はますます深まっていった。そんな中、私はある日、千尋の父親に呼び出された。千尋から、私が身寄りもなく地道に働く姿や人柄について聞かされていた彼女の父親は、どうやら私のことを気に入ってくれたらしい。

「うちで働いてみないか」

まるでドラマのような誘いだった。彼の名前は空沢浩。実は千尋の父親は、某大手企業を一代で創業・発展させたやり手の社長だった。中卒の私が履歴書一枚では満足に受けることもできないような会社だ。身分不相応ではないかとも思ったが、こんなチャンスは二度と巡ってこないだろう。

この願ってもない機会に人生をかけ、私はその会社に就職することにした。

この会社は副社長を社長の弟が務めているような家族企業だった。私は入社当時から、与えられた仕事は何でもこなした。どんな小さな仕事でも、理不尽な申し付けであっても、何のそのだった。社長への恩返し。その意識もあり、私は身を粉にして会社に尽くした。

ただ、この会社には古い体質が残っていた。今では珍しい、会社の結束を強めるため家族ぐるみの付き合いをしましょうということで、役員の妻が中心となった「夫人会」が存在していたのだ。夫人たちの中で幅を利かせていたのは、全務の妻である稽古夫人だった。

稽古夫人は極端な学歴主義で有名だった。高学歴である夫の全務こそが次期社長にふさわしいと勝手に思い込み、裏で色々と手を回していた。気が強く、自分の思い通りにならないと気が済まないタイプなのだが、中卒でこの企業に採用された私のことを特によく思っていなかった。何か行事があるごとに、私に嫌味を言って見下してきた。それは年月が経つほどにエスカレートしていった。

私への嫌がらせは、いつしか稽古夫人の単独のものだけではなくなっていた。一人、二人と役員夫人たちを取り込み、稽古夫人の取り巻きたちも一緒になって、複数人での嫌がらせに発展した。稽古夫人だけでも精神的な負担を感じていたが、複数の人間から見下されることがどれだけ人の人格を傷つけるか。

この人たちはコンプライアンスというものを学んでこなかったのだろうか。ふつふつと煮えたぎるような怒りが湧き立った。

そんな中、ある会議の後、偶然にも会社の廊下ですれ違った稽古夫人が、小さな声で話しかけてきた。

「あなたみたいな低学歴の社員が会議なんかに参加して、何の意味があるのかしら?あなたのような能力のない人間を雇ったのは、一体誰なの?」

これにはさすがに眉が寄る。私を雇ってくれたのは社長だ。それを知っているのは社内でもごくわずかな役員のみ。彼女はその事実を知らなかったが、それでも私の大切な人を馬鹿にされ、今までに感じたことのないほどの怒りを覚えた。

「高校も卒業できない人間が、私と同じ会社の廊下を歩いていると思うと、自分の品格まで落ち込んでしまうような気持ちになるわ」

震えで手に汗をかきながら必死に言葉を押し殺す私を、楽しげに観察するように稽古夫人はゆっくりと言葉を続けた。

「理解できるかしら?つまりね、私と同じように思っている人たちが大勢いるってことよ。あなたの存在が、ね。控えに行って雰囲気を乱しているのでわないかと考えている人たちがね。この会社の将来が本当に心配になるわ。やっぱりこの会社を正しく引っ張っていけるのは、私の主人だけだと思うの。そうは思わない?」

私はほとんど青ざめた顔に、笑顔という仮面を必死で貼り付けた。

「会社の将来へのご心配、とどめておきます。教縮ですが、私のような者にもお得意様と商談する機会をいただいておりまして、少々急いでおります。今日はここで失礼いたします」

丁寧に、しかしできる限り素早く、その場を後にした。

会社の外にある喫茶店に駆け込むように入店し、普段は飲まないコーヒーを注文した。苦いブラックを一口含み、慣れない苦味に顔をしかめていると、千尋が入店してきた。私を探しに会社に来ていたらしい。私が浮かない顔をしているのを、彼女は見逃さなかった。

千尋は私の向かいに座った。

「何かあったでしょう?」

「いや」

できるだけ千尋には心配かけたくない。

「なんでもないよ」

私は誤魔化すように肩をすくめて見せた。

「はい。無理しないの?ちゃんと分かるんだからね」

ああ、そうだった。千尋も私も、無理をしている時、いたずらっぽく誤魔化してみせる癖があるようだ。そんなところまで似なくていいのにな、と心の中で呟いた。

「まあ、そうだね。実は……」

私は込み上げる情けなさと悔しさと怒りを抑えながら、一部始終を千尋に話した。一通り話を終えてから、千尋は何も言わずに私の頭を撫でた。

「よく頑張った。偉いよ」

千尋は泣き出しそうに瞳を潤ませながら、どこか誇らしげな顔をしていた。

「人として一番恥ずかしいことは、誰かに恥ずかしい思いをさせること。人として一番愚かしいことは、誰かを愚かだと嘲笑うこと」

千尋は優しく語りかけた。

「お父さんが昔言っていた言葉。人の上に立つものとしての心得だって。でも、誰でもできることじゃないよね」

「本当にそうだね。俺も怒りに任せて言い返してしまいそうになった」

それにしても、さすが社長だ。空沢浩という人物が千尋の父親で良かったと、心からそう思った。

時間はまた瞬く間に過ぎ去り、私は今年38歳になった。勤続年数は18年になっていた。

今日は憂鬱だ。この日は会社の総会と、その後にはパーティーが催されることになっていた。この時期の恒例の、会社にとって大切な行事だが、正直あまり参加したくない。なぜなら、社員と夫人たちが参加する行事で、当然稽古夫人を始めその取り巻きの夫人たちと会わなければならないからだ。私にとってはありがたくない車内行事の一つだった。

しかし、この日の総会では社に関する重大な報告を行うこととなっていた。参加しないわけにはいかない。この日の総会は、現社長の空沢浩が会社の会長となり、新社長が発表される日だった。

稽古夫人は、いかにも意味ありげな笑みを浮かべていた。今まで相当な根回しをしてきたのであろう。私が知っているだけでも、本が一冊書けるほどだ。夫を将来の社長にすべく様々な策を弄する彼女のあり様は、まるで軍師のようだった。

その甲斐あってかどうかは分からないが、全務は今や社員の多くから次期社長候補の筆頭と目されていた。そのため稽古夫人は、自分の夫が今日新社長として名前を呼ばれることは間違いないと思っていたようだ。落ち着きなく夫が登壇するであろう壇上の付近をうろついたり、取り巻きに何か指示をしている。今日という日をいかに楽しみにしていたか伺える光景だった。嫌でも目につく稽古夫人の様子を見ていると、腹立たしさを超えて全務への同情の気持ちすら湧いてきた。

しばらくしてのこと。稽古夫人はこの日も私の姿を認めると、大衆面前であるにも関わらず。いや、だからこそ、いつもと変わらず周囲へアピールするかのように侮辱の限りを尽くした罵声を浴びせかけてくる。それに合わせるように、取り巻きの夫人たちが囃し立てたり、嘲笑ったりして稽古夫人を援護する。この人たちは訓練でもしているのだろうか。稽古夫人の一言一言にぴたりと合うタイミングで、見事な援護射撃を仕掛けてくる。笑ってしまうくらいだ。

稽古夫人はとどめと言わんばかりに、大きな声で言い放った。

「今日、主人は次の社長として名前を呼ばれるでしょう。主人が正式に就任した暁には、会社のさらなる発展のため、社員の人事について再検討します」

一言一言を噛みしめるように、異様にゆっくりと、こちらの反応を確かめるように言葉を紡いでいく。

「あなたのような最低限の能力しかない人材は、我が社にとって足かせにしかなっていません。一流企業として歩み続ける我が社にとって、あなたがどれだけふさわしくないか分かりますか?」

稽古夫人は、怒りに震える私の反応を野蛮な笑みを浮かべながら観察していた。

「分かっていると思うけど、この会社にあなたは必要ないの。解雇という言葉、理解できるかしら?やめさせるということよ。もし恨むなら、生まれも学歴もない自分の境遇を恨むことね」

その時、新社長就任の挨拶の時間が来たことを告げるアナウンスが会場中に響いた。

就任式が始まるようだ。私は深いため息をついた。私くらいは言ってもいいだろうと、自分の良心に反していないことを確認しながら、稽古夫人に別れの挨拶をした。

「私の至らぬところ、大いに反省すべきですね。胸にしまっておきます。それでは私はここで失礼します。ご主人が社長になれるといいですね」

稽古夫人の癇高い声が聞こえたが、それを背中で聞きながら、私は人だかりの中へ足早に消えていった。

大げさなファンファーレが鳴り響き、司会者がもったいぶって会場のみんなの注意を引きつけた。稽古夫人と取り巻きたちは、事前に確認していた壇上から全務が一番よく見えると思われる場所へと移動していた。

壇上には、会長に就任した千尋のお父さんがいた。会長はマイクを手にして社員に向かって簡単な挨拶をした。そして、言った。

「それでは紹介しよう。我が社の新社長、神崎徹じゃ」

おお、というどよめきと拍手を受けながら、私はゆっくりと壇上へと上がった。その中で、確かに稽古夫人の甲高い声が聞こえてきた。

「何をあなたはしているの?」

私は声を張り上げる稽古夫人を見た。

「違うわ。そこに立つべきなのは、どう考えても有能で肩書きのある主人だわ。身の程知らずにもほどがある。さっさとそこをどきなさい」

私はその声を無視して、ゆっくり話し始めた。

「皆さん、この度新社長に就任いたします、神崎徹と申します。まだ未熟者ではありますが、この会社がさらに発展し、この国の経済を引っ張っていけるような一流企業としての責任を果たしていく所存です」

しばらく拍手が続いた。

「そして、社員一人一人を大切にし、共に成長していける企業として、その姿を示せるような会社経営をしていきたいと思います。そのために力を貸していただきたい。よろしくお願いいたします」

稽古夫人は怒りで青ざめていた。今の興奮しきった彼女に現状を理解しろという方が無理な話だった。

私はこの会社に就職した後も、千尋と結婚を前提とする付き合いをしていた。私の昇進と共にどんどん仕事も忙しくなっていった。そのため、なかなか結婚という形を取ることができなかった。今回の社長就任と共に、公の場で私が責任者として選ばれた。

後で空沢会長と話したことだが、一部の長く在籍している社員が必要以上の発言権を持ち、身勝手な行動をしていることを会長も懸念していた。後継者は、誠実に地道に仕事をこなし、権力や会社の名前を笠に着ることなく、能力の如何よりそのあり様の誠実さで人を見られる人物がいい。そして、多様化する社会に対応できる比較的若い社員が適していると、会長は考えていたらしい。会長の理想の後継者として、私は完璧に合致していたそうだ。

新社長の就任式と共に、その流れで私と千尋の結婚も同時に発表する形となった。そして、今後は千尋が夫人会の会長を務めることになった。

それが判明すると同時に、稽古夫人の取り巻きたちは真っ青な顔で慌てふためくように手のひらを返して、千尋に言い寄った。

「ちょっと、あなたたち。恥ずかしくないのか」

と、私もさすがに呆れた。千尋は、今までの稽古夫人とその取り巻きたちの私に対する仕打ちを見てきたため、彼女らのすり寄りを一切取り合わなかった。

その後、発足した会社とその夫人会は、健全な運営を目指すため夫人会のあり方を抜本的に見直すこととなった。稽古夫人はその立場を追われることになり、さらに、行き過ぎたロビー活動がかえって夫である全務の評価を落とし、足を引っ張ったということで全務の怒りを買った。策士、策に溺れるとはこういうことなのだろう。

稽古夫人は離婚を突きつけられ、今ではアルバイトをして生計を立てる始末となった。人として一番恥ずかしいことは、誰かに恥ずかしい思いをさせること。そして、人として一番愚かしいことは、誰かを愚かだと嘲笑うこと。それを学ぶ機会がなかった稽古夫人を、少し哀れに思う。

「人には気づけるタイミングがあるんだと思う。あの人にはまだ、そのタイミングが来てなかったんじゃないかな」

私はいたずらっぽく聞いてみる。

「そのタイミングが来て、今までのことを反省して、会社に戻りたいって言ってきたら、君ならどうする?」

千尋はしばらく考えて、いたずらっぽく答えた。

「考えておくわ」

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