「その首飾りはどこで手に入れたんだ?」
七十二歳の天優グループ会長、鈴木誠一の声は震えていた。
「きれいでしょう。お母さんが、お父さんが亡くなる前にもらったんですって」
十歳の少女が無邪気に笑った。
「お父さんの名前は何と言うんだい?」
「鈴木正斗です」
その瞬間、誠一は足元がふらついた。二十五年前、身分の違いを理由に家から追い出した息子の名前だった。
「おじいちゃん、どこか具合でも悪いんですか?」
この子は、自分がその存在すら知らなかった孫娘だった。滞納した家賃七十六万円を取り立てに来た古いビルで、二十五年ぶりに対面した衝撃的な真実だった。
物語は三週間前、春雨が止んだあの日の午後に遡る。
アスファルトの上の水分が蒸発し、白い湯気が立ちのぼっていた。誠一は黒いベンツから降り、古びた雑居ビルを見上げた。七十二歳という年齢にも関わらず、ちゃんとした姿勢を保っていたが、今日に限って肩が重そうに見えた。
「会長、本当にご自身で入居者の状況を確認なさるのですか?」
後ろから秘書の吉田ミキが慎重に尋ねた。三十八歳の彼女は八年間、誠一のそばで働き、会長の性格を誰よりもよく知っていた。普段ならこんな些細なことは部下に任せるはずなのに、今日は違った。
「家賃が八ヶ月も滞納していると言ったな」
「はい。合計で七十六万円の滞納です。連絡もつきません。法的手続きを踏んではいかがでしょうか」
誠一は建物の外観をゆっくりと眺めた。ペンキが剥げた壁、錆びついた看板、割れた窓ガラスまで。父親の代から受け継いだこの建物が、いつからこんなに見窄らしくなっていたのだろうか。東京銀座のど真ん中にある華やかな本社ビルとはあまりにも対照的だった。
「父の代からある場所だからな。ただ書類だけで処理するには……どうにも」
誠一は言葉を終えずに階段を登った。二階へと続くコンクリートの階段は、古い匂いと湿気で満ちていた。廊下の突き当たり、二〇三号室の前で立ち止まり、ドアプレートを確認した。佐藤ユナという名前が古びたテープで貼り付けられていた。
コンコン。誠一がドアをノックすると、中から小さな足音が聞こえた。慎重に近づいてくる音だった。しばらくしてドアが少し開き、幼い少女が顔を覗かせた。十歳くらいに見える子だった。大きな瞳が印象的だ。
「どなたですか?」 子供の声ははっきりしていたが、警戒の色がにじんでいた。
「この家の大人の人はいるかな?」 誠一はできるだけ優しく尋ねた。
「お母さんは病院に行きました。今日は遅くなるって」
誠一の表情が微かに変わった。八ヶ月も家賃を払えない事情があるのだろうと察した。ミキが一歩前に出た。
「失礼ですが、少し中に入ってもよろしいでしょうか? 大家さんから重要なお話がありまして」
少女は一瞬ためらったが、ドアをさらに開けてくれた。一人でも礼儀をわきまえている子だった。
狭いワンルームに入った誠一は、一瞬言葉を失った。十五畳ほどの空間に生活の全てが詰まっていた。部屋の片隅には様々な薬袋がきちんと整理され、食卓の上には水でふやかしたご飯の入った茶碗が置かれていた。おかずの容器にはキムチと小魚の煮物が少しだけ入っていた。
「一人なのかい?」
「はい、大丈夫です。お母さんがご飯も作って行ってくれました」
少女は当然と答えた。十歳という年齢が信じられないほど落ち着いていた。おそらく厳しい環境の中で、早くに大人になったのだろう。誠一は部屋を見回しながら、胸の片隅が重くなるのを感じた。
しかし、その時だった。誠一の視線が少女の首にかかったネックレスに釘付けになった。小さな貝殻のネックレスが、蛍光灯の光を受けて微かに輝いていたのだ。
「そのネックレスはどこで手に入れたんだ?」
誠一の声はわずかに震えていた。少女は自分の首に触れ、無邪気に笑った。
「きれいでしょう。お母さんが、お父さんが亡くなる前に、もらったんですって。お母さんの宝物なんです」
誠一は一歩後ずさった。心臓が激しく鼓動を始めた。そのネックレスは、三十年前に自分が妻に送ったものだった。結婚十周年を記念して特別に制作した、一つの貝殻を二つに分けたペアのネックレスの片方だ。妻が亡くなる前に嫁に渡したものに違いなかった。
「お父さんの名前は何と言うんだ?」
「鈴木正斗です。素敵な名前でしょう。お母さん、お父さんは本当に偉い人だったって言ってました」
誠一は足がよろめくのを感じた。自分の息子の名前だった。二十五年前。身分の違いを口実に、家から追い出した。まさにその息子だ。家の体面を守るため、事業の邪魔になるからと、情け容赦なく切り捨てた決断だった。
「会長、大丈夫でございますか?」 ミキが心配そうに尋ねたが、誠一は答えることができなかった。頭の中が真っ白になってしまった。
少女は依然として澄んだ瞳で誠一を見つめていた。
「おじいちゃん、どこか具合でも悪いんですか? お水、持ってきますか?」
その一言が誠一の胸を突き刺した。この子は自分の孫娘だったのだ。二十五年間、その存在すら知らなかった家族。
誠一は壁によりかかり、ゆっくりと息を吐いた。
「いつからここに住んでいるんだ?」
「えっと、私が五歳の時から。その前は違うところに住んでたけど、よく覚えてないんです」
五年。誠一は心の中で計算した。その頃に息子が亡くなり、嫁がここへ引っ越してきたのだろう。これまで、こんなに苦しい生活を送ってきたということだった。
「お母さんは具合が悪いのかい?」
少女の表情が少し曇った。
「時々、すごく咳込むんです。病院でお薬ももらってくるんですけど……でもお母さんは、大丈夫だって。私に心配かけたくないみたい」
誠一は食卓の上の紙を見つめた。薬の名前がびっしりと貼られている。廃疾患関連の薬がほとんどだ。かなり深刻な状態である可能性が高かった。
ふと玄関から足音が聞こえた。階段を登ってくる音だ。少女は耳を澄ませ、嬉しそうに叫んだ。
「お母さんだ!」
誠一とミキは顔を見合わせた。いよいよ二十五年ぶりに、嫁と対面する時が来た。果たして佐藤ユナは自分のことを覚えているだろうか。そして、どんな気持ちで受け入れるだろうか。
玄関のドアが開く音がした。廊下から聞こえてくる足音がだんだんと近づいてくる。誠一は無意識に拳を握った。二十五年ぶりに向き合うことになる嫁を思うと、胸が高鳴った。
ドアが開くと同時に、一人の女性が姿を現した。四十六歳の佐藤ユナだった。かつては美しかったであろう顔に、歳月の痕跡が深く刻まれていた。痩せた体と青白い顔色が、彼女がどれほど苦しい時間を過ごしてきたかを物語っていた。
ユナは玄関で靴を脱ぎかけ、リビングにいる誠一に気づいて動きを止めた。しばらく何も言えなかった。時間が止まったかのようだった。
「お母さん、このおじいちゃんが大家さんだって」
娘が無邪気にかけ寄り、ユナの手を握った。ユナは娘の頭を撫でながら、ゆっくりと顔を上げて誠一を見つめた。
「お義父様……」
声が震えていた。二十五年という月日が流れても、なお義を忘れない嫁の姿だった。誠一は喉が詰まり、しばらく言葉を発することができなかった。
「君だったのか。ここに住んでいたのは」
「息子さんが亡くなられて、もう五年になります」
その言葉を聞いた瞬間、誠一の手が震えた。息子が死んだという事実を、今になって確認することになったのだ。二十五年間、連絡を絶っていたため、息子の最期を知らずにいた。
「じゃあ、あの子は……」
「はい。息子さんが残してくださった孫娘です。美緒と言います」
ユナは娘に言った。美緒は素直に返事をし、奥の部屋に入っていった。ドアが閉まると、リビングには重い沈黙が流れた。ユナがお茶を出してくれた。震える手でカップを渡す姿に、緊張がありありと現れていた。
「正斗はいつ亡くなったんだ?」
「五年前の秋です。工事現場の事故でした」
誠一の胸は崩れ落ちた。息子が工事現場で働いていて死んだという話だった。かつて有名大学を出て、将来を嘱望されていた息子が、そんな場所で働かなければならなかったとは。
「なぜ……なぜ連絡しなかったんだ?」
「連絡などできたでしょうか? お義父様が私たちを家から追い出された時、何とおっしゃいましたか?」
ユナの声には、長年抑圧されてきた感情が滲んでいた。誠一は二十五年前のあの日を思い出した。当時、誠一は息子の結婚に猛反対した。ユナは平凡な家庭の出身で、特別な財産も背景もなかった。天優グループの後継者の妻としては不十分だと考えたのだ。
「うちの家柄に、平凡な女を迎え入れるわけにはいかん。家の格式が落ちる」
それが当時、誠一が言った言葉だった。息子が泣きながら懇願したが、聞き入れなかった。結局、息子はユナと共に家を出て、その日以来連絡が途えたのだった。
「二十五年間、こうして生きてきたのか……」
「最初は大変でした。正斗さんもなかなか仕事が見つからなくて。でも、幸せでした。子供が生まれてからは、もっと一生懸命に働きました。正斗さんが昼も夜も働いて、この家も手に入れて……」
ユナは言葉を止めた。夫を失った喪失感が、まだ癒えていないようだった。誠一は胸が苦しくなった。自分の頑固さのせいで、息子がそんなに苦しい人生を送らなければならなかったことが耐えがたかった。そして今、その代償を嫁と孫娘が払っている。
「病院には、なんで通っているんだ?」
「大したことではありません。咳が長引いているだけです」
ユナは何でもないように言ったが、誠一は部屋にあった紙を思い出した。廃疾患の治療薬がほとんどだった。単なる風ではない可能性が高い。
「正確には何が問題なんだ?」
「お義父様にご心配いただくようなことではございません」
ユナの頑なな返事に、誠一はそれ以上問いただすことができなかった。二十五年間、他人も同然だった間柄で、急に心配されても受け入れがたいだろう。
ミキが慎重に口を開いた。
「失礼ですが、家賃の件でお伺いいたしました」
ユナの顔が曇った。
「存じております。八ヶ月……していますね。申し訳ございません。事情が終わり次第、近いうちにお支払いします。もう少しだけお時間をください」
ユナは頭を下げた。プライドの高い人間が頭を下げるというのは、本当に切迫した状況だということだった。
「七十六万円だ。少ない額ではない」
「はい。承知しております」
ユナはさらに小さくなった。誠一は彼女の姿を見て胸が痛んだ。かつて息子があれほど愛した女性が、こんなに見窄らしくなっているとは。
奥の部屋から美緒の声が聞こえた。ユナが立ち上がろうとした時、突然、咳が込み上げてきた。激しい咳がしばらく止まらない。誠一は驚いて立ち上がった。
「大丈夫か?」
「はい、大丈夫です」
しかし、ユナの顔はさらに青白くなっていた。息を整えるのも苦しそうだ。
外に出た誠一とミキは、しばらく無言だった。
「会長、いかがなさいますか?」
ミキの問いに、誠一は答えられなかった。これまで生きてきた全てのものが揺らぐような気分だった。
それから三日が過ぎた。誠一は嫁と孫娘のことが頭から離れなかった。会社でも集中できず、夜も眠れない日が続いた。
「会長、もしやご気分でも……」
吉田ミキが心配そうに尋ねた。いつもより口数が少なく、頻繁に窓の外を眺めていたからだ。
「吉田君、あの家についてもう少し調べてくれ」
「はい。どちらの……大家さんのことでしょうか?」
「二〇三号室の佐藤さんのことだ。正確にどんな状況なのか、把握してくれ」
ミキは意外そうな表情を浮かべた。普段なら家賃滞納者については法的手続きを指示するだけなのに、今回は違った。
二日後、ミキが調査結果を持ってきた。
「佐藤さんは、三年前から廃がんを患っています。現在、かなり進行した状態です。また、消費者金融などからの借入が数件確認されました。合計で約四百五十万から五百万円ほどになります。治療費が重なり、複数の場所からお金を借りたようです。現在の主な債務は三百万円ほどです」
誠一の顔が曇った。
「まだあります。娘の美緒さんも、昨年、心臓の手術を受けたそうです。先天性の疾患で、その時の手術費用のために、さらに大きな借金を背負ったそうです」
誠一は椅子によりかかり、目を閉じた。孫娘まで病気だったとは。これまでこの家族がどれほど大変な時間を過ごしてきたか、想像に難くなかった。
「今すぐあの家に行くぞ」
「はい。急でございますか?」
「今すぐだ」
一時間後、誠一は再び二〇三号室の前に立っていた。ドアをノックすると、美緒が出てきた。
「おじいちゃん、また来てくれたんだね」
少女は嬉しそうに笑ったが、顔は以前より痩せて見えた。
「お母さんはどこだ?」
「ベッドで休んでるの。すごく具合が悪そうで……」
誠一は胸が詰まった。美緒の案内で奥の部屋に入ると、ユナがベッドに横たわっていた。息をするのも苦しそうな様子が見て取れた。
「お義父様、なぜまた……」
ユナは体を起こそうとしたが、力が入らないようだった。
「そのまま寝ていなさい。少し話がしたい」
誠一はベッドの横の椅子に腰かけた。テーブルの上には、病院の請求書と借金の催促状が混在していた。
「美緒の手術費のために、闇金にまで手を出しました。もう何も残っていません。家賃も払えず、治療費も滞納し……」
「いくら必要なんだ?」
「え?」
「金のことだ。正確にいくら必要なのかと聞いている」
「お義父様が、なぜそのような……。治療費が二百万円、借金が三百万円。合わせて五百万円ほどです」
誠一は頷いた。自分にとっては大金ではないが、この家族にとっては到底払えない金額だろう。
「でも、せめて美緒だけは助けたいんです」
ユナは目を閉じた。母親としての最後の切実な願いがこもった言葉だった。
「あの時、俺がお前たちを捨てたんだ。俺が悪かった」
誠一は黙って頭を下げた。二十五年前の過ちが、こうして帰ってきたのだ。自分の頑固さと偏見のせいで家族は離散し、ついには息子が死に、嫁と孫娘がこんな苦しみを味わっている。
「お義父様……すまなかった。本当にすまなかった。二十五年間、こんなに苦労させて」
ユナは涙を流した。長い間抑え込んできた感情が、堰を切ったように溢れ出した。
その夜、誠一は秘書に指示した。
「あの入居者の治療費を全額支援しろ。借金も全て整理してやれ」
「会長、五百万円を超える金額ですが……」
「構わん。私の名前は絶対に出すな。匿名で処理しろ」
「かしこまりました」
誠一は窓の外を見つめ、深いため息をついた。金で全てを解決できるわけではないが、少なくとも命は救えるはずだと思った。
しかし、問題はそれで終わらなかった。二日後、二〇三号室の前で騒ぎが起きていた。誠一が現場に到着した時、借金取りの男二人がユナと言い合っていた。
「金がねえなら、うちの債務は別だぞ」
一人が叫んだ。四十代前半に見える男だった。隣には三十代後半の仲間が立っていた。
「お願いします。もう少しだけ時間をください」
ユナは震える声で懇願した。
「時間だ? もう三ヶ月も遅れてるんだぞ。何が時間だ」
「子供を巻き込まないでください。私に言ってください」
「借金は家族全員で責任を負うもんだろ。うちは別の業者だ。片方返しても、もう片方は別なんだよ」
借金取りがユナを突き飛ばすと、彼女は壁にぶつかって倒れ込んだ。体が弱っている状態では、衝撃は大きかっただろう。
「お母さん!」
美緒が泣きながら駆け寄った。まさにその時だった。誠一が階段を上がってきた。
「ここで何をしている?」
誠一の声には威圧感が漂っていた。借金取りたちが振り返った。
「あんた、誰だ? 首を突っ込むな」
「この建物の大家だ」
誠一の言葉に、借金取りたちの表情が変わった。大家となれば無視できない存在だった。
「まあ、落ち着け。未成年者に対する脅迫発言を全て録音した。直ちに警察に通報する」
誠一はスマートフォンを取り出して見せた。
「玄関の防犯カメラの映像もバックアップ済みです」
ミキが前に出た。借金取りたちの態度が急変した。
「いくらだ? 支払ってやる」
「百五十万円だ」
「今すぐ返してやるから、とっとと消えろ」
誠一は財布からカードを取り出した。ミキがその場で送金手続きを行った。借金取りたちはスマートフォンで入金を確認すると、呆然とした表情で立ち去っていった。
ユナは床に座り込んだまま、涙を流していた。美緒が母親をしっかりと抱きしめていた。
「なぜ……なぜ私たちを助けてくださるのですか?」
ユナの問いに、誠一は答えられなかった。どう言えばいいのか分からなかったのだ。
「治療費もすでに手配済みだ。もう心配するな。匿名の支援者がいると、病院から連絡があったはずだ」
誠一がその場を立ち去ろうとすると、美緒が駆け寄ってきて、彼の服の裾を掴んだ。
「おじいちゃん、ありがとう」
素直な言葉に、誠一の心は揺さぶられた。この瞬間だけは、本当の祖父になったような気がした。
しかし、この全ての出来事を見つめている、もう一つの視線があった。天優建設の田中孝太、専務だった。彼は会長の奇妙な行動を注意深く張っていた。
「会長は、なぜあんな場所に頻繁に通うんだ」
田中は疑問を抱き始めた。そして、その疑問はやがて、より大きな問題へと繋がっていくのだった。
一昨日と違う別の借金取りが押しかけてきた。彼らはより乱暴で暴力的で、ユナを追い詰めた。誠一が駆けつけ、再び支払いを行った。しかし、借金取りは去り際に一言残した。
「じいさんよ。こんな風に払い続けるつもりかい? この女の借金は、一つや二つじゃねえぜ」
ユナは絶望に満ちた声で言った。
「分かりません。病院で急にお金が必要になるたびに、あちこちから借りてしまって……」
「正確に把握する必要があるな。吉田君、専門業者に依頼して、彼女の借金を全て調査してくれ」
美緒が誠一に近づいてきた。
「おじいちゃん、私たちのせいで、大変だよね」
「いいや。全く大変じゃない」
誠一は美緒の頭を撫でた。初めて孫娘に触れた瞬間だった。
その夜、誠一は会社に戻り、重要な決断を下した。
「あのビルの再開発計画を、全面的に中止する」
役員が集まる会議室で、誠一が発表した。全員が驚愕した。
「会長、あのビルは地区再開発の核となる土地です。予想利益は数十億円に上ります」
田中孝太専務が反対した。
「カワンリフォームに方針転換する」
「リフォームですか? それでは利益が十分の一に減ってしまいますが……」
「まず人を救うのが先だ。利益は後回しだ」
誠一の断固たる言葉に、会議室は騒然となった。これまでの経営方針とは全く異なる決定だったからだ。
「会長、何か特別な理由がおありなのでしょうか?」
別の役員が慎重に尋ねた。
「ただ、そうしたくなっただけだ」
誠一はそれ以上説明しなかった。しかし、心の中でははっきりと分かっていた。これは贖罪なのだ。二十五年間、家族を捨てた罪。息子を失わせた罪。嫁と孫娘を苦しませた罪に対する贖罪なのだ。
会議が終わった後、田中が誠一の執務室を尋ねてきた。
「会長、本当に再開発を断念されるのですか?」
「そう言ったはずだ」
「あのビルに、何か特別な意味でも? 急なご決断ですので」
田中の目には疑いの光が宿っていた。誠一の最近の行動が腑に落ちないと考えていたのだ。
「専務が気にすることではない。私は対処する。下がりなさい」
誠一の冷たい命令に、田中は仕方なく引き下がった。しかし、彼の疑念はさらに深まっていた。
その夜、田中の執務室は暗闇に包まれていた。深夜にも関わらず、彼はパソコンの前に座っていた。画面には天優グループの株価チャートと、再開発プロジェクトの損失予想表が表示されていた。
「数十億円だぞ。数十億円を、意図も簡単に不意にするとは」
田中は歯噛みした。十五年、天優建設で働き、築き上げてきた実績と利益が、会長の突然の行動一つで水の泡になろうとしていた。田中は電話を取った。相手は協力会社の社長だった。
「あの女一人のせいで、プロジェクトが止まったんです。我々が損をするのは当然のこと。会長の判断力にも問題があるようです」
翌朝、インターネットのポータルサイトのトップに、衝撃的な記事が掲載された。
「天優グループ 鈴木誠一会長 不正資金で特定の入居者を支援か」
記事の内容は具体的だった。会長が個人的に入居者の借金を肩代わりしたこと、会社の資金を私的に流用した可能性、そして再開発プロジェクトを感情的に中止させたことへの批判まで書かれていた。コメントはまたたく間に数千件に達した。
誠一は朝のニュースを見て、険しい表情を浮かべた。予想していたことではあったが、これほど早く表沙汰になるとは思わなかった。
午後には、四十八時間以内の臨時取締役会の招集通知が届いた。取締役会は殺伐とした雰囲気に包まれていた。
「会長、今朝の記事はご覧になりましたね」
「ああ。事実か? 個人的な感情で会社の資金を……」
誠一はしばらく沈黙した。
「会社の資金ではない。私の個人資産だ」
「では、再開発プロジェクトの中止はどう説明されますか?」
「事業上の判断だ」
「事業上の判断ですか? 数十億円の損失を出すことが?」
「世の中には、金より重要なものがある」
誠一の答えに、取締役たちは顔を見合わせた。これまでの誠一とは全く違う姿だったからだ。その時、誠一のスマートフォンがけたたましく鳴った。発信者は美緒だった。
「おじいちゃん! お母さんが急に倒れたの! 救急車を呼んだけど、今病院に向かってて……」
「どこの病院だ?」
「大学病院です。おじいちゃん、お母さん、息が苦しそうで……」
誠一は電話を切り、席から勢いよく立ち上がった。
「取締役は後で続ける」
「会長! 重要な話の途中ですが!」
しかし、誠一はすでに会議室を出ていっていた。二十五年ぶりに見つけた家族が危険に瀕しているのに、会社の仕事が重要であるはずがなかった。
病院の救急治療室に到着した時、美緒が椅子に座って泣いていた。十歳の子供が一人でこの状況に耐えているとは。誠一の胸は張り裂けそうだった。
「美緒ちゃん」
「おじいちゃん! おじいちゃん!」
美緒は駆け寄って、誠一にしがみついた。小さな体がブルブルと震えていた。
一時間後、医師が出てきた。
「緊急処置は成功しました。当面は集中治療室で、人工呼吸器と炎症を抑える薬の投与が必要です。長期的には、移植リストへの登録をお勧めします」
ユナは酸素マスクをつけ、ベッドに横たわっていた。顔は青白く、全く反応がなかった。
誠一はベッドのそばに立ち、ユナを見つめた。二十五年ぶりに会った時、彼女はどれほど美しく明るかっただろうか。
「ユナさん」
ユナのまぶたが微かに震えた。
「私はまだ許されていないが、どうか生きてくれ」
誠一の声が震えていた。生涯強く生きてきた七十二歳の老人が、初めて誰かに懇願していた。
午前二時頃、担当の医師・山田が現れた。
「患者さんの状態は深刻です。緊急処置と集中治療の一時費用として、約七十二万円が発生します」
「最善を尽くしてください」
誠一は治療費の支払いのために一階へ降りた。窓口の職員にカードを渡した瞬間、後ろから声がした。
「会長!」
振り返ると、吉田ミキが立っていた。夜遅くに病院まで駆けつけたのだ。
「吉田君、どうしてここまで?」
「心配で参りました。それと、会長。会社で大変なことが起きました」
「なんだ?」
「田中専務が、逮捕されました。会社資金の横領容疑です。検察が今夜、緊急逮捕しました」
「横領だと? 金額は?」
「五年間で、総額三億円です。協力会社と共謀し、架空の契約書を作成して資金を横領していました。再開発プロジェクトも、その一部です」
誠一は花で笑った。田中が自分を攻撃した理由が明確になった。再開発プロジェクトが中止になれば、自分の不正が発覚する危険があったのだ。
「会長に罪を着せようとしていたのですね」
「人の欲望は、結局、人を滅ぼすものだ」
午前八時、ついに集中治療室のドアが開いた。山田医師がマスクを外しながら出てきた。
「緊急処置は成功しました。ただし、リハビリと経過観察が必要です。最低でも数週間は入院治療を受けていただくことになります」
誠一は頭を下げ、涙を流した。生涯でほとんど泣いたことのない彼が、病院の廊下で声を上げて泣いていた。
「おじいちゃん、どうして泣いてるの?」
美緒が目を覚まして尋ねた。
「嬉しくてな。お母さんが助かったんだ」
「本当? 本当に?」
「本当だ」
美緒も涙を流した。しかし、今回は喜びの涙だった。
数日後、ユナが意識を取り戻した。
「お義父様……」
「目が覚めたか」
「美緒は、どこにいますか?」
「学校に行ったよ。心配するな」
ユナは酸素マスクの向こうから、誠一を見つめていた。
「なぜ、私たちを助けてくださるのですか?」
誠一はしばらく答えられなかった。二十五年間、抑圧してきた感情が、喉を塞いでいた。
「すまなかった。本当にすまなかった。正斗を失わせてしまって、すまなかった。お前たちを苦労させて、すまなかった。全てが、本当にすまなかった」
ユナの目から涙がこぼれ落ちた。
「今更、すまないと言っても、許してもらえるとは思っていない。そんな資格もない。ただ、残された時間で、お前たちを守りたいんだ」
その夜、誠一は病室の窓を開け、夕焼けを眺めていた。
「正斗よ、私が遅すぎたな。お前が心から愛した人たちを、今頃になって知るとは。本当に遅すぎたが、せめてこれからは見守らせてほしい」
数日後、ミキが病院を訪ねてきた。
「会長、会社の状況が整理されました。田中の件で、全ての疑惑が晴れました。むしろ、会長に対する世論は好転しています。会長が個人資産で困窮した入居者を助けたという事実が知れ渡り、企業の社会的責任として賞賛する記事が出ています」
誠一は気のない表情を浮かべた。世論がどうであろうと、関係なかった。
「そして、再開発プロジェクトの代わりに進めることになったリフォーム計画が、大きな反響を呼んでいます。環境にも良く、既存の住民を追い出すことなく軽視するモデルだとして、政府からも関心が寄せられています」
誠一は意外そうな表情を浮かべた。感情的に下した決断が、却って良い結果をもたらしたのだ。
しかし、まだ全てが終わったわけではなかった。田中は起訴され裁判中だが、その背後にはさらに大きな勢力がいる可能性が高い。そして、誠一が家族を守ろうとする気持ちが強まるほど、彼らを狙う視線もさらに危険なものになるだろう。
ユナが意識を取り戻してから四日が過ぎた。誠一は毎日病院に通い、彼女のそばに付き添っていた。
「お義父様、会社の方はよろしいのですか?」
「会社より、ここが重要だ」
その時、ユナがベッドの横の引き出しを開けた。
「お義父様、これをお渡ししなければ……」
彼女は小さなベルベットの箱を取り出した。指の大きさほどの、古びた箱だった。誠一が箱を受け取って開けると、中には小さな貝殻のネックレスが入っていた。しかし、美緒がつけていたものとは形が違う。まるで、何かの語られのようだった。
「これは、お義母様からいただきました」
ユナの言葉に、誠一の手が震えた。
「お義母様は、亡くなる前に私を尋ねてこられました」
誠一は箱を見つめながら、過去を思い出した。三十年前、結婚十周年を記念して妻に送った特別なネックレスだった。一つの貝殻を二つに分けて作ったペアのネックレス。妻が片方をつけ、自分がもう片方を持っていた。
「お義母様が、私たちの家を訪ねて来られたんです。正斗さんと私が家を出てから、半年ほど経った頃でした」
誠一は、妻がそんなことをしていたとは全く知らなかった。当時、妻は病と闘病中だった。体が辛い中、嫁に会いに行ったのだ。
「何と言っていた?」
「最初は、何もおっしゃらず、しばらく泣いておられました。それから、このネックレスを私の手に握らせて。『誠一さんが、本当の心に気づいたら、これを返してあげて』と……」
誠一は息が詰まった。妻が自分の心をそこまで深く理解していたとは。
「そして、もう一つ。何とおっしゃったか、ご存知ですか?」
ユナの声に温かみがにじんでいた。
「『正斗をよろしくお願いしますね。あの子は、表向きは強く見せているけれど、本当は弱い子だから』と。そして、『いつか誠一さんが、自分の過ちに気づく時が来る』とおっしゃっていました」
誠一の目から涙がこぼれた。妻は死ぬ間際まで、家族を心配していたのだ。
「お義母様は、ネックレスを二つくださったんです。一つは私に、もう一つは美緒に」
ユナは微笑んだ。
「おそらく、ペアのペンダントの他に、いつか会える日のために、同じ貝殻で小さなペンダントをもう一つ、注文しておかれたのだと思います」
誠一は胸が熱くなった。妻は死ぬ前に、すでに全てを計画していたのだ。
「お義母様が、亡くなる直前、正斗さんにも手紙を送っておられました。正斗さんは、その手紙を読んでひどく泣いていました。『お父さんに連絡したかった。でも、勇気が出なかった』と……」
誠一に後悔の念が押し寄せた。息子が連絡したがっていたのに、自分が頑固すぎたのだ。
「その手紙の内容を、知っているか?」
「はい。正斗さんが、私に読んでくれました」
ユナはしばらく目を閉じ、記憶を辿った。
「『息子へ。お父さんは今、怒っていますが、いつか必ず後悔するでしょう。その時まで、ユナさんと幸せに暮らしなさい。そして、子供が生まれたら、必ずお父さんに見せてあげなさい。お父さんは孫を見れば、きっと心が変わるはずだから』と書かれていました」
誠一は、しばらく言葉を発することができなかった。妻が全てを予見していたのだ。
「息子さんも、最後まで私たちのことばかり心配していました。亡くなる前に、『父さんに、すまなかったと伝えてほしい。自分のせいで、家族がバラバラになった』と……」
誠一は首を横に振った。
「違う。間違っていたのは私だ」
その時、病室のドアが開き、美緒が駆け込んできた。
「お母さん! おじいちゃん!」
子供は学校から直接病院に来たようだった。体操服のまま、ランドセルを背負っている。
「それとね、おじいちゃん。先生が、おじいちゃんの話を聞かせてって。おじいちゃんがどんな人なのか知りたいんだって」
誠一に笑みがこぼれた。十歳の子供が、祖父を誇りに思ってくれていることが、これほど嬉しいとは知らなかった。
「美緒、こっちへおいで」
誠一は美緒を呼び寄せ、ネックレスの箱を見せた。
「これは、おばあちゃんがくれたんだ。お前の首にあるのと、対になっているんだよ」
美緒は自分のネックレスに触れ、不思議そうな顔をした。
「本当? じゃあ、おばあちゃんも私たちのこと愛してくれてたの?」
「もちろんだとも。おばあちゃんは、お前たちを一番愛していたよ」
誠一は、ネックレスの二つのかけらを合わせてみた。完全な一つの形が出来上がった。
「これで、完全になったな」
誠一は呟いた。母の思いも、息子の心も、今やっと理解できた。
ユナは誠一を見つめ、涙を流した。
「お義父様、これで本当に、家族になれたのでしょうか?」
「もちろんだ。最初から家族だったんだ。私が気づかなかっただけで」
その夜、誠一は家に戻り、自分のネックレスを持ってきた。書斎の引き出しの奥深くに隠しておいた。それを手に取った瞬間、三十年間の思い出が蘇った。
翌日、病院で三つのネックレスが揃った。誠一のもの、ユナのもの、そして美緒のものだ。
「わあ、本当に一つになった!」
美緒は不思議そうに、ネックレスたちを合わせてみた。誠一はその姿を見ながら悟った。家族とはこういうものなのだ。離れていても心は一つで、時が流れても愛は変わらないものなのだと。
一ヶ月が過ぎた。秋が深まる東京。足立ち区の、その古いビルの前には新しい看板が掲げられていた。白い背景に緑の文字で書かれた「希望の家 地域健康相談所」という文字が、温かい日差しを浴びて輝いていた。
美緒は長いモップを手に、看板を丁寧に拭いていた。十歳の少女はもうすっかり大きくなって見えた。回復した母と共に、相談所の仕事を手伝っていたのだ。
「おじいちゃん! お母さんが、またお医者さんの仕事に戻ったよ!」
美緒は明るく笑いながら、誠一に駆け寄った。相談所は、誠一が建物を改修し、一階を中心にリフォームして作った場所だった。一階は健康相談所、二階はユナと美緒が暮らせる清潔な住居スペースに改装した。
おじいちゃん、今日もお年寄りの人がたくさん来てたよ。美緒が誇らしげに言った。開所以来一ヶ月で、この界隈の人々の間で口コミが広がり始めていた。経験豊富な医療スタッフと温かい相談員が、無料で健康相談に乗ってくれるという噂が広まったのだ。
その時、相談所のドアが開き、ユナが出てきた。清潔な白衣をまとった彼女の姿は、一ヶ月前とは全く違っていた。正気に満ち、自信に溢れていた。
「お義父様、今日もお越しくださったのですね」
ユナは誠一に丁寧に頭を下げた。今では、彼女は自然に「お義父様」と呼ぶようになっていた。
「私の仕事場だからな」
誠一は笑って答えた。彼はこの建物の一階の一角に、小さなオフィスを設けていた。天優グループの社会貢献事業を自ら管理するためだった。
「今日の相談者は、何人だったかね?」
「二十人ほどです。お年寄りの方が多かったのですが、皆さん、とても感謝してくださいました」
ユナの声には誇らしさが滲んでいた。誠一は満足そうな表情を浮かべた。最初は単に嫁と孫娘を助けるために始めたことだったが、今では本当に意義のある事業へと成長していた。
その時、吉田ミキがオフィスから出てきた。彼女もここで誠一の業務を補佐していた。
「会長、本日の新聞はご覧になりましたか?」
ミキが新聞を手渡した。一面に目を引く見出しがあった。
「大家の家賃七十六万円が、一人の財閥の人生を変えた」
誠一は記事を読んだ。自分の物語が詳細に書かれていた。もちろん個人情報は全て匿名で処理されていたが、内容は正確だった。
「良い記事ですね」 ユナが記事を読みながら言った。
「こういう話を読んで、人々が希望を持ってくれたら嬉しいです」
誠一は新聞を畳み、頷いた。重要なのは、他人がどう評価するかではなく、自分が本当に意味のあることをしているかどうかだった。
「おじいちゃん、田中のおじさんはどうなったの?」
美緒が不思議そうに尋ねた。
「今、起訴されて裁判中だ。おそらく、長く刑務所に入ることになるだろう」
誠一は簡潔に答えた。田中は三億円の横領と、会社機密の漏洩などの容疑で裁判を受けていた。貪欲さが招いた結果だった。
「悪いことをしたら、バツが当たるんだね」
「そうだ。だから、いつも正しく生きなければならないんだ」
誠一は孫娘の頭を撫でた。
日が暮れようとしていた。西の空が赤く染まり、美しい夕焼けを作り出していた。誠一はネックレスを指先でなぞりながら呟いた。
「人は失っても、愛は残る」
ユナはその言葉を聞いて、頷いた。
「正斗さんも、きっと喜んでくれているはずです」
「そうだろうな。息子が一番望んでいたのは、きっとこんな光景だったろうから」
誠一は空を見上げた。どこかで、息子が見守ってくれているような気がした。
美緒が二人の間に割って入り、言った。
「私たち、もう本当の家族だよね?」
「当たり前じゃないか。最初から家族だったんだ」
誠一の答えに、美緒はパッと明るく笑った。ユナは一瞬ためらった後、慎重に口を開いた。
「お義父様」
「もう、本当に、お父様と呼んでもよろしいでしょうか?」
誠一は胸が熱くなった。二十五年ぶりに、再び「お父様」という呼び名を聞くことになったのだ。
「ああ、もちろんだ。そう呼んでくれ」
「では、これからは、お父様と呼ばせていただきます」
ユナの声には真心がこもっていた。夕焼けの光が、三人の姿を包み込んでいた。誠一はこの瞬間を、胸の奥深くに刻みつけておきたいと思った。七十二年の人生で、最も幸せな瞬間の一つだった。
「おじいちゃん、明日も来てくれるよね?」
美緒が尋ねた。
「もちろんだとも。ここが、私の家だからな」
誠一の答えに、美緒とユナは笑った。家族はこうして、再び一つになった。失われた二十五年の歳月を取り戻すことはできないが、これからの時間は、共に築いていくことができる。そして、それだけで十分だった。
誠一は最後に建物を見上げた。「希望の家」という看板が、夕焼けに照らされて輝いていた。本当に希望に満ちた家になった。本当の家族としての始まり。新しい始まりだった。



