居酒屋の騒がしい空気の中で、ふと目に留まった顔があった。中学時代に散々俺を馬鹿にしてきた野村覇斗。その顔を見た瞬間、嫌な記憶が一気に蘇ってきた。
「あれ?その顔、もしかして裕二か?」
相手も俺に気づき、ニヤリとした表情を向けてきた。酒の匂いが異様に強い。どうやら相当飲んでいるようだ。
「中学以来だよな。元気にしてたか?」
「ああ、まあな」
俺は引き気味に答えたが、覇斗は一切気にしていない。逆に「こんなとこで会ったのも何かの縁だし、一緒に飲もうぜ」と誘ってくる。会社の飲み会に来ていると断っても、彼は引き下がらなかった。
「会社?お前が会社の人と飲みに来てるって言うのか?中卒で雇ってくれるところなんてあるわけないだろ」
覇斗は俺を自分のテーブルまで引っ張り、ジョッキを押し付けてきた。中学の頃と変わらない、見下すような態度。俺の心の中の嫌な記憶が再びよみがえってくる。
「いや、本当にいいから。もう戻らないと」
「なんだよ。ちょっとくらい待たせたっていいだろ。俺と裕二の仲だろうが」
「俺たち、そんなに仲良くなかっただろ」
そう言うと、覇斗の表情が歪んだ。
「なんだ、まさかまだ気にしてんのか?あの頃のことか?お前だけ体操着がぼろぼろで、サイズも合ってなかったもんな。ぶっかぶかだったよなあ」
大声で笑いながら、中学時代の俺を馬鹿にした話をまくしたてる。俺は「やめろ」と何度も止めたが、彼は止まらない。
「そういえばお前、携帯も持ってなかったよな。今も持ってないのか?中卒じゃ頑張っても買えないのか?悪い悪い」
ついに俺の肩を掴んで注意すると、覇斗は怒り出した。
「うるせえな。調子に乗るな。俺は社長なんだぞ。中卒のお前とは格が違うんだよ」
そう言って俺を突き飛ばした。尻餅をついた俺を、見下すように笑う。
「これは傑作だな。中卒にはお似合いの姿だぜ」
俺を指さして笑う彼の姿を見て、ついに俺の中の何かが切れた。中学の頃とは違う。もうあの頃の俺じゃない。俺は立ち上がり、静かに言い放った。
「じゃあ、契約は中止ね」
覇斗が固まる。一瞬の沈黙の後、彼はまた吹き出して笑い出した。
「どうした?裕二?急にそんなこと言い出して。まさか今ので頭がおかしくなっちまったのか」
説明しようとしたその時、別の声が割って入った。
「本当のことだよ」
振り返ると、そこには俺の会社の社長、小林祥三さんが立っていた。覇斗は慌てて椅子から足を下ろし、腰を低くして媚びるように挨拶をする。
「小林社長、いらっしゃったんですか?気づかず大変申し訳ございません。騒がしくしてしまい、お許しください」
「気にしなくていい。それより、さっきの松田君の発言だが」
「そうでした。私の耳が正しければ、『本当のことだ』とおっしゃいましたか?」
「その通りだよ、野村君」
覇斗は俺と社長の顔を交互に見た。顔の赤みが引いていくのがわかる。
「そ、それは一体どういうことでしょうか?」
社長は穏やかな笑みを浮かべたまま言った。
「松田君は私の娘の旦那で、うちの会社の次期社長なんだよ」
覇斗の表情が凍りつく。
「だから、契約中止の権限も持ち合わせているんだ。先ほど裕二君が言ったようにね」
「い、いや、そんなバカな。中卒の彼が社長?そんなわけないでしょう。ご冗談もほどにしてくださいよ」
覇斗は信じようとしなかったが、社長の無言の微笑みを見て、徐々に事実だと理解し始めたようだ。絶望的な表情で「そんなわけない。こんな中卒が社長なわけがない」と呟いている。
さらに追撃が入った。入り口に立っていた妻の祥子が近づいてきた。覇斗を見て、少し暗い表情を浮かべている。
「迎えに来たんだけど…彼が見えて。前に話した、何度も言い寄ってくる人なの」
俺はこの日初めて、本当の怒りを持って覇斗を睨んだ。彼は酒で赤かった顔が青ざめていくのが見えた。
「そ、そんな嘘だ…」
ガクガクと震えながらそう呟き、彼は力なく近くの椅子に座り込んだ。
なぜこんなことになったのか。実は、覇斗の会社は俺の勤める会社の下請けだったのだ。長い間取引を続けてきたが、彼が社長になってからは評判が悪くなっていた。顧客への対応が雑になり、反対意見を言った社員を自主退職に追い込むなど、やりたい放題だった。
社長は「今回の件で十分君のことは理解できたよ。何か弁明することはあるか?」と覇斗に問いかけた。覇斗は震えながら言い訳を並べた。
「違うんです。これは酒が入って気が緩んでいただけで…。社員の自主退職も本人が希望したことであって、私のせいじゃないんです」
わかりやすい言い訳に、俺と社長はため息をついた。
「野村君、君の会社との契約については全て裕二君に任せることにする」
そう言って社長はその場を去っていった。覇斗は今にも泣き出しそうな顔で俺を見る。
「ゆ、裕二社長、どうかお情けをいただけないでしょうか?今後はこんなことは一切しません。酒もやめますから。どうか」
中学の頃、散々俺と母を馬鹿にし、今日も笑いものにした。それに、妻にしつこく言い寄っていたことも許せなかった。
「お前が社長でいる限り、もう契約は無理だ」
冷たく言い放つと、覇斗はうなだれた。
後日、俺は正式に契約の中止を伝えた。覇斗の会社の役員たちは、契約を失うことを恐れてすぐに覇斗を解任することを決定した。平社員まで降格された彼だったが、態度は改善されることはなく、結局は首になってしまったらしい。
再就職先を探していたようだが、今回の件は業界に広まり、悪評のせいでどこにも雇ってもらえなかった。現在はアルバイトで日々を凌いでいるという噂だ。
一方、覇斗の後に社長職を継いだ新社長は優秀な人物で、会社の評判も徐々に良い方向へ向かっている。うちとの契約もこれまで通り継続されている。
これで一件落着、と言いたいところだが、実は最近別の悩みができてしまった。
「孫はまだできないのかね?」
社長、つまり義父からの電話だ。
「いや、なんというか…」
「まだまだ長生きするつもりではあるが、早いところ見たいものだなあ」
そう言って、社長は電話を切った。最近、義父からの孫の催促がすごいのだ。妻の祥子にはそれとなく話してはいるが、俺たちはまだ二人の時間を大切にしていたい。義父には申し訳ないが、もう少しだけ待ってもらいたいものだ。



