エレベーターが4階に到着し、ドアが開いた瞬間、怒鳴り声が聞こえてきた。
「おい、そんなんじゃ100億以上の取引になる長期案件なんてお前に任せられねえよ!」
俺は営業本部長代理の原田と顔を見合わせ、思わず立ち止まった。
声の主は、この日俺たちが訪問する予定だった建築資材メーカー・合憲の営業課長、大西だった。
そして、必死に頭を下げているのは、俺たちの担当である営業の水野君だった。
「なんだあんたら。ここは部外者立ち入り禁止エリアだぞ。なんだよ、その薄汚い服装は。頭に木くずつけやがって。大工らしく犬小屋でも作ってろよ」
俺はこの男の言葉に唖然とした。
確かに俺は今日、現場で上棟式の準備を手伝い、作業服に埃や木くずがついたままだった。
それでも、取引先の前でこの言い草はないだろう。
「あの、ちょっと待ってください。その方は来客の相手を考えてお茶を用意してくれたんでしょ?」
俺が水野君をかばうように口を挟むと、大西はさらにヒートアップした。
「んだ、あんた。部外者はここに来るなって言っただろ!」
次の瞬間、俺の顔に熱いお茶が浴びせられた。
「うわっ、熱い!」
「汚い作業員がうろつくな。さっさと帰れ。水野、床を消毒して掃除しろ」
頬がヒリヒリする。
幸い、水野君が用意してくれたお茶は比較的低めの温度だったようだ。
火傷がひどくならないのが救いだった。
「あなた、お湯をかけましたね」
俺はやっとの思いで声を絞り出した。
「作業服が少しは綺麗になっただろ」
大西はニヤニヤしながら言った。
「水野君、随分自分勝手な上司を持って気の毒だな。申し訳ないが、100億の契約は白紙だと、お前の上司に伝えてくれ」
俺は濡れた髪をそのままに、その場を立ち去ろうとした。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
水野君の悲鳴にも似た声が聞こえたが、俺は振り返らなかった。
だが、ズブ濡れの俺と原田は、3分後、再び4階へと戻ることになる。
合憲の社長・水辺に捕まったのだ。
「こんな格好では商談どころか失礼すぎるので、一度帰ります」
と言ったのだが、「このままお返しすることはできません」と引き止められ、社長室に通された。
水辺社長は事情を聞くと平謝りだった。
「私が外出している間に、なんてことを。本当に申し訳ない」
俺は彼女に告げた。
「謝罪を受けたところで、合憲さんとの取引はありません。同じスペックを提示してくれた会社は他にもあります。今回、水野君の熱意を買って交渉を進めようと思ったんです」
そして、水辺社長が車内電話で水野君と大西課長を社長室へ呼び出した。
入ってきた水野君は顔を涙と鼻水でグシャグシャにしていた。
大西はスーツのジャケットを着替えてネクタイを直している。
「なんでこんな部外者が社長室にいるんですか」
大西がまた口を開く。
「あんたたちはさっきエレベーターホールにいた汚い作業員連中だろ? なんでここにいるんだ」
「大西課長は、ステータスホームズさんとの相談から外してもらったわ」
水辺社長が静かに言った。
「なぜ私が外れるんですか! 100億も動く案件ですよ!」
「あなたがそのお茶をかけてしまったから、もうその話は御破算よ」
そこでようやく大西が俺を凝視した。
俺はタオルを外し、折りたたみながら挨拶をした。
「初めまして。ステータスホームズの代表取締役社長、本清です。トラブルに巻き込まれ、このような格好で申し訳ありません」
大西の顔色が変わる。
「あの、申し訳ありません。一度だけでも話を聞いていただけませんか」
水野君が泣きながら懇願してきた。
「水野君、ごめんな。君とだったらいい仕事ができたと思う。だが、理不尽に君を怒鳴りつけ、取引先の人間にお湯をかけるような上司がいる会社とは取引できないよ」
水野君の顔から血の気が引いた。
「怪我だなんて、ちょっとお湯を浴びただけです。怪我のうちに入りません!」
「いいや。うちの会社は労災事故には人一倍気を使ってるんだ。おかげで俺の顔も原田君も皮膚が赤くなっている。火傷を負ったんだ。一刻も早く病院に行かなくちゃならない」
「そんな火傷にもならない赤みが老害になるはずがない!」
大西が叫ぶ。
「そうだね。老害にはならないだろう。だが、病院で診断書をもらい、労働基準監督署に聞き取りがあれば、俺と原田は全て包み隠さず答えるよ。そうなれば労災事故どころか、傷害事件に発展するだろうね」
水野君はさらに泣き崩れた。
「助かったのは、水野君が俺のために温めすぎないお湯を用意してくれていたからだよ。ポットの中身が大西課長の好みの熱いコーヒーだったらと思うとゾっとするよ」
すると、大西が言い放った。
「作業服が汚れてて、ほこりがついてて、業界第一位の我が社にそんな格好で来るなんて不潔じゃないですか!」
水辺社長がため息をつく。
「本清社長は仕事人間で有名なのよ。現場で自ら作業をして品質を保っているの。それが分かっていないから、あなたを交渉から外したのよ。それに、今回も水野君から手柄を横取りするつもりだったんでしょ?」
大西はさらに食い下がった。
「じゃあ、俺がお茶をかけたっていう証拠はあるのか?」
すると、水野君が涙をぬぐいながら言った。
「ありますよ。僕は一部始終をICレコーダーで音声録音していました。大西課長のパワハラを訴える準備をしていましたから。僕だけでなく、営業部のメンバー全員があなたの理不尽な要求を録音しています」
その時、俺のスマホにニュースの通知が入った。
水辺社長や水野君のスマホも同時に鳴っている。
俺は見出しを読み上げた。
「『ハウスメーカー大手・ゴージャス建築、破産 負債1296億円』」
水辺社長が悲鳴をあげた。
「社長、これって8割以上がうちの未収の売掛金ですよ!」
大西課長が顔を真っ青にしている。
「大西課長、あなたゴージャス建築さんの売掛金回収はどうなっていたのよ? ……言えないわよね。接待ゴルフや営業からの飲み会の誘いで、回収をうやむやにしてきたでしょ」
同業者の間では、ゴージャス建築の経営が傾いているという噂は前からあった。
大西課長が無気力に床へ座り込んだのを見て、噂が真実だったことを悟った。
「では、そういうことなので帰りますね」
俺はそう言って、連鎖倒産の波が合憲に押し寄せる前に、社長室を後にした。
「水野君には悪いが、契約に発展する前で良かったよ」
会社に戻る前に、俺と原田は皮膚科で火傷の診断書をもらってきた。
そして、俺は人事部に依頼した。
「合憲に勤務する水野君を、ヘッドハンティングしてくれないか」
彼だけは、なんとか救い出したいと思ったのだ。
その後、ステータスホームズで開発を進めてきた低価格の注文住宅は、モデルルームを公開すると顧客からの申し込みが増えていった。
水野君は、うちの商品開発に携わってくれている。
合憲は、ゴージャス建築からの負債が大きく、大西課長が壊した複数社との契約撤回が原因となり、破産申請を行うことになった。
「良かったな、水野君。合憲が破産する前に辞められて」
「そうですね。この会社で働くことになって、本当に良かったです。自信がつきました」
大西がその後どうなったのかは分からないが、おそらく取調べを受けていることだろう。
俺たちは、大手ハウスメーカーの倒産の煽りに負けない会社を作るだけだ。
「売上日本一を目指して、頑張ろう」



