呼び出された社長室のドアを開けると、社長と、不機嫌そうな顔をした部長がいた。社長は挨拶もそこそこに、焦った声で俺に問いかけてきた。
「なぜ突然退職した?1000億の商談はどうなる?」
その言葉に、部長は何の話か分からないといった様子で困惑していた。
俺は社長の目を見て、ゆっくりと言った。
「俺にしか使えない技術ですが、中卒の無能は首なので、失礼します」
そう言ってその場を去ろうとすると、社長が慌てて俺を呼び止めた。
俺の名前は佐藤涼介。37歳になる会社員だ。務めているのは電子機器メーカーで、業界大手と呼ばれる会社だった。中卒で入社してから20年以上、開発に携わってきた。消費者が求めるニーズは時代とともに変わる。それに合ったものを作り続けるのは難しいが、その分やりがいもあった。
会社が大きくなるにつれて、従業員の数も増え、幅広い年齢層の意見を取り入れられるようになったのはプラスだった。しかし、人が増えたことでマイナス面も生まれた。上層部の目が細部まで行き届かなくなり、部署が増えたことで、経験や能力に疑問がある人間が役職に就くことも増えたのだ。
俺の部署の部長は、谷崎という女性だった。彼女は今年部長に昇進して俺の部署に来たが、開発の経験はほとんどないらしい。そのせいか、彼女が提案する新商品はどれも商品化できるものではなかった。見た目は高級感を漂わせているのに、中身や使い勝手が悪く、安価な資材や技術を使うという、詐欺紛いなものばかりだった。
「物を売るには、見た目重視で低コストに量産するのが基本じゃない。そんなことも分からない人しかここにはいないの?」
部長がそう言って無理やり自分の提案を通そうとするのを、俺たちは毎回必死になって止めていた。何度かそんなことが続いた後、ある時から彼女は突然、新しい提案をしてこなくなった。やっと考えを改めてくれたのかと思ったが、そうではなかった。彼女は自分の案をことごとく却下する俺たちへの嫌がらせにシフトしたのだ。
ある日、俺がパソコンに向かって作業をしていると、部長が現れた。
「佐藤さん、あなたに頼んでおいた資料、明日が締め切りなのにまだ提出されていないみたいだけど、できてるのかしら?」
「え、あの資料は特に納期はないからいつでもいいって、部長が言ってましたよね」
「そんなこと、私は言ってないわよ。明日までにちゃんと終わらせてよね。できなかったら、もちろんあなたの評価は下げさせてもらいますからね」
そう言って、彼女は笑いながら自分のデスクから遠ざかっていった。いい大人がこんな嫌がらせをして恥ずかしくないのかと腹が立ったが、ここでできなかったと報告するのも癪だったので、その日は遅くまで残業してなんとか資料を仕上げた。
翌日、出勤してきた部長に資料を差し出すと、彼女は言った。
「あら、ありがとう。そこの書類棚の1番下に入れておいてくれる?」
「これって、今日締め切りのものなのに1番下でいいんですか?」
俺の質問に、彼女は意地の悪い笑みを浮かべて答えた。
「私、勘違いしてたみたいで、それは急ぎのものではなかったのよ」
昨日あれだけ急かしておいて、今度は急ぎじゃないだと。俺は怒りのあまり固まるしかなかった。彼女は続ける。
「あら、そこに突っ立ってられても邪魔だから、さっさと資料を置いて自分の仕事に戻りなさい。連日残業していては、無能と言われても仕方ないわよ」
言い返したいのを必死にこらえ、拳を握りしめて資料を置き、自分のデスクへと戻った。ここで反抗すれば、彼女に評価を下げる口実を与えるだけだ。提案を却下された怒りで嫌がらせをしているのだろうから、そのうち収まるだろうと思っていた。
しかし、俺の考えは甘かった。この日から彼女の嫌がらせは連日続き、俺だけでなく部署の他の社員にも及んだ。皆が部長の顔色を窺うようになっていった。少しでも反抗すれば評価を下げると脅し、左遷して地方の支社へ飛ばすと言うのだから、誰も逆らえない。
そんな日々が数ヶ月続いた時、俺はとうとう我慢の限界を迎えた。その日はいつも以上に忙しく、机の上に書類を置きっぱなしにしてしまった。後から気付いて慌ててデスクへ引き返したが、書類が見当たらない。
「ああ、さっき部長がデスクから何か持っていった気がするけど」
同僚の言葉に、まさかと思いながら廊下で部長を見つけて尋ねた。
「部長、俺のデスクの上にあった書類、知りませんか?」
すると部長は、ニヤリと笑いながら何でもないことのように言い放った。
「ああ、あれね。ゴミだと思ったから捨てておいてあげたわ」
「ゴミ?部長はあれをゴミだと思ったんですか?」
あの書類は部長には関係のないものだった。中身を確認すれば、ゴミではないと分かるはずだ。俺が驚いていると、彼女はさらに笑みを深めて俺を指さした。
「ちょうど良かったわ。私もあなたを探していたのよ。あなた、全然仕事してないみたいじゃない?そんな人は会社にいらないから、明日からもう来なくていいわ。首よ。首」
「俺はちゃんと自分の仕事をしています」
さすがに反論すると、彼女はますます楽しそうに話し続けた。
「しかもあなた、中卒らしいじゃない?学歴なんて今関係ないと思うんですけど」
「関係あるわよ。無能な上に中卒だなんて、この会社の評価を下げるだけの存在じゃない?そんな人間、いらないのよ」
勝手に無能呼ばわりして、低学歴だと見下してくる彼女に、俺は怒りを通り越して呆れ始めていた。こんな人の下で、これ以上働くことはできないと思った。
「分かりました。今すぐ退職届を書いてきます」
俺の言葉に、彼女は勝ち誇ったように笑い、満足そうに頷いた。
「辞めてくれて嬉しいわ。早く次の就職先が見つかるといいわね。まあ、このご時世、中卒なんて雇ってくれるところないだろうから、清掃員かしらね」
俺は彼女の嫌味を無視して退職届を書き、彼女に手渡すと、荷物をまとめて会社を後にした。心残りはあったが、彼女から与えられるストレスから解放された解放感で、気持ちはすっきりとしていた。
翌日、心にポッカリと穴が開いたような感じがして、何もやる気が起きずボーッとして過ごした。貯蓄もあるから、気持ちの整理ができてから就職活動をしても遅くはないだろう。俺はそのまま3日ほど、何もせずに過ごした。
退職してから3日後、会社から電話がかかってきた。社長専用の電話番号だった。さすがに、今までお世話になった社長からの電話を無視するわけにもいかず、俺は電話に出た。
「佐藤君かい?君の退職届が机の上にあったんだが、これはどういうことかな?」
「谷崎部長に首と言われましたので」
「なんだって?とりあえず今から会社に来て欲しいんだ。説明を聞きたい」
俺は社長にきちんと説明しておくべきだと思い、3日ぶりに会社へ向かった。社長室に足を踏み入れると、そこには社長だけでなく、不機嫌そうな顔をした部長もいた。
「なぜ突然退職した?1000億の商談はどうなる?」
社長の言葉を聞いて、部長は困惑した顔をしている。俺は短く答えた。
「俺にしか使えない技術ですが、中卒の無能は首なので、失礼します」
そう言って立ち去ろうとすると、社長は慌てて俺を引き止めた。
「佐藤君、今のは一体どういう意味なんだ?」
「谷崎部長から、そのように言われましたので」
「谷崎部長、君は本当にそんなことを言ったのか?」
社長の剣幕に彼女は少し驚いていたが、すぐにいつもの調子を取り戻して傲然に口を開いた。
「それよりも社長、1000億の商談とは何の話ですか?」
「君が今の部署の部長になった際に、佐藤君のことも含めて説明したはずだが」
社長の言葉に彼女は考え込む仕草を見せるが、どうやら覚えていないようだ。黙り込む彼女に、社長はため息をつきながら説明し始めた。
「佐藤君が今作っている試作品は、キーホルダー型のスマホ急速充電器だ。彼が考案した技術で生産すれば、100円から300円で市場に売り出せる。小型でかつ低コストに仕上げる技術は、一朝一夕で習得できるものではない。だがこれが完成したら、1000億規模の商談になると私は見込んで、彼にお願いしていたんだ」
俺はその言葉に続けて、彼女を見ながら言った。
「その商品の完成までの工程を記した書類を、谷崎部長はゴミだと言って捨ててしまいましたけどね」
「な、なんだって?部長、それは本当なのか?」
「ま、まさか私がそんなことするはずないじゃないですか。嘘を言わないでちょうだい」
彼女は慌てて俺に詰め寄ったが、俺は冷静に言い放った。
「あれは社外秘の書類だったので、適切な処置が必要なものです。それがゴミ箱にあったので、清掃担当者が拾って届けてくれました。その人に、どこのゴミ箱にあったのか聞いてみましょうか」
俺の言葉に、彼女の顔は蒼白になった。書類は彼女のデスクのゴミ箱にあったからだ。俺は清掃担当者に場所をしっかり確認していて、いざとなったら証言して欲しいと頼んであった。
「社長、佐藤君が頼まれていたものを完成させていなかったのなら、彼が辞めても何も問題はないじゃないですか。我が社に中卒がいるなんて、ふさわしくありませんし。そもそも彼がちゃんと仕事をしていないから、私は彼を必要ないと判断したのです」
彼女は自分のしたことを正当化しようと、社長に言い寄る。しかし社長は、彼女を睨みながら告げた。
「さっき説明した通り、難しい技術を必要とするこの案件に携わるにあたり、彼に極力他の業務をやらせなくていいと私が言ったのだ。それも君には説明しておいたはずなんだがね。それに、この商品の完成だけでなく、他の社員にもその技術を教えて大量生産できるようにすることまでが、佐藤君に頼んだことだ。まだ最後の仕事が終わっていないのに、君が勝手に解雇したというわけだ」
社長の言葉に、彼女は視線を漂わせながら冷や汗を流し続けている。俺に嫌がらせをして首にしたいあまり、社長から受けていた説明を失念し、1000億の商談をダメにしかけたのだから、彼女の様子も当然のものだろう。
俺はここぞとばかりに、今までの彼女の嫌がらせの数々を社長に説明した。彼女は遮ろうとしたが、社長が手を上げてそれを制し、俺の話を促してくれた。数々の無茶ぶり、見下した発言、部下を自分の小遣いのように扱い、反抗すれば評価を下げる、左遷するなどと言って脅してくる。それら全てを俺は社長にぶちまけた。
「俺だけじゃない。部署の他の社員も彼女の嫌がらせを受けています。こんな環境では、いい仕事などできるはずがありません」
「社長、彼の言ってることは真実じゃありません。自分が首にされたから、その鬱憤のために嘘を言っています」
「嘘じゃないですよ。なんなら今から俺の部署に戻って、みんなに聞いてみましょう。きっとみんな話してくれると思いますよ」
俺の提案に、彼女は勢いをなくして俺を睨みつけてくる。
「部署の全員があなたとグルで、私を嵌めようとしてるかもしれないじゃない」
「俺は今日社長に呼ばれて、まっすぐにここに来ました。みんなと口裏を合わせる時間なんてなかったですよ。どうする?部長。彼が嘘を言っているなら、みんなに話を聞けば分かることだと思うが」
社長に問われ、彼女は何かを言おうと何度も口を開きかけるが、どうやらいい打開策が見い出せないようだ。自分がみんなに嫌がらせをしていたのは事実なのだから、みんなが自分を庇うことなんてあるはずがないと分かっているのだろう。
「部長、今の話が本当なら、決着は明々白々だ。それなりの処分が下ることは覚悟しなさい」
「そ、そんな」
「自分のしたことを思い返して、それでも処分されるのが間違いだと思うのか」
社長が静かに一括すると、彼女は涙目になりながら黙り込み、静かに社長室から出ていった。
「佐藤君、君を首にした部長は、もう君に関わることはないだろう。退職届はなかったことにして、会社に戻ってくれないか?」
彼女が社長室から出ていくのを見届けた後、社長は俺に向き直り問いかけてきた。俺だって、自分が今まで努力してやっとここまで来た案件を投げ出すことなんてしたくない。それに、両親を亡くし、中卒で働く選択肢しかなかった俺を拾ってくれた社長には、まだその時の恩を返しきれていないのだ。
「はい。仕事を続けさせていただきたいです」
俺が社長の目を見てはっきりと答えると、社長は微笑みながら、俺が書いた退職届を目の前で破り捨てた。
「君が忠実ながらにこれまで努力を惜しまず、高学歴なものにも引けを取らない知識や技術を身につけていったことを、僕はちゃんと知っている。これからも君の力を我が社で存分に発揮してくれ」
俺は感謝で涙腺が崩壊しそうになるのを必死にこらえて、深々と社長に頭を下げたのだった。
その後、部長は調査の結果、俺の言った通りの多数の嫌がらせなどが明るみになり、部長職を解かれ地方の支社へと移動となった。社員へと降格しての移動となった彼女は、その傲慢な性格が災いして周りとの人間関係がうまくいかず、そのまま辞めてしまったらしい。次の職場を探すも、彼女のプライドが邪魔をしてなかなか次の職場が決まらないようだ。どこかで彼女自身が自分の態度を反省して、謙虚な気持ちになってくれたらと思う。
俺はと言うと、職場に復帰して新品商品の商品化を進めるため日々奮闘している。自分の技術を人に教えるというのはなかなか難しいが、それだけにやりがいも感じている。早く商品化に漕ぎ着けて、消費者の元に届けられるように、俺は努力を続けていく。



