「10円くれてやるよ。あれがあんたの退職金だ。」
そう言って、哲夫さんは10円玉を俺に投げつけた。硬貨は床に転がり、どこかへ消えた。俺は60歳を目前にした技術者だ。この町の中小企業の工場で、半世紀近く働いてきた。先代の社長に拾ってもらい、育ててもらった会社だ。
先代は敏腕で、会社を大きく成長させた。しかし、その先代が交通事故で急逝した。残されたのは、息子の哲夫さん。彼は先代とは正反対の男だった。
「お前ら、今の時代に必要なのか? 」
哲夫さんは社長になるとすぐ、社員を見下すような物言いを始めた。あらゆる部署を見て回り、不要と判断した社員に将来の解雇を通告した。固定給を廃止して、完全出来高払いにすると発表した時も、勝ち誇った笑みを浮かべていた。計画は社内の反対で頓挫したが、今度は些細なミスにも罰則を設け始めた。残業代を渋り、戦績を上げない社員を名指しで非難する。会社には退職者が増えていった。
それでも俺は耐えていた。先代への恩返しのつもりだった。だが、ついに俺にも矛先が向いた。
「岡田さん。空気読んで、辞める気はないですかね? 」
「理由をお聞かせください。」
「理由? 年寄りが給料をもらいすぎなんだよ。あんたが一人で人件費を圧迫してるんだ。」
「ならば給料を下げていただいて結構です。私は給料分、働いてきたつもりです。」
「ふん。最後まで使えない男だな。なら、首にしてやるよ。」
哲夫さんは激昂し、10円玉を俺に投げつけた。そして、付け加えた。
「今すぐ出て行け。あんたの痕跡や資料は全部、破棄していけ。」
俺は冷静を装っていたが、その言葉に何かが崩れた。何を言われても会社のためだと耐えてきた精神が、一気に折れた。俺は数時間かけて、会社に残っていた自分の痕跡をすべて消し去った。自分の資料はもちろん、先代の肝いりで開発した工場の製造ラインと生産管理を担うコンピューターシステムまで、すべて削除した。社長の「希望」を叶えただけだ。電話が鳴ったのは、翌日のことだった。
「おい、あんた何しやがった!?

システムを消しやがったな!? 」
「何をおっしゃっているのか。私は社長のご指示に従っただけですが。」
とぼけ続ける俺に、哲夫さんは捨て台詞を吐いて電話を切った。それから3ヶ月後、会社は倒産した。システムが止まり、工場のラインはダウン。業務は完全に中断した。社員は一斉に退職し、信用を失った会社に、最後のとどめが刺された。哲夫さんは親族から絶縁され、今は日雇いの仕事で食いつなぐだけらしい。
一方、俺は転職先を得た。先代の娘さん、裕子さんからの紹介だ。父が俺のことを自慢していたと聞かされ、彼女は知り合いのベンチャー企業を紹介してくれた。今、俺は若い技術者たちに囲まれて、第二の会社人生を歩んでいる。知識を伝え、逆に新しい技術を学ぶ。いくつになっても、学びがあるのは嬉しいことだ。体と頭が動く限り、俺は誰かの期待に応えていきたい。今は心の底から、そう思っている。


