「その子、もういらないから、あんたにあげるわ」…

「その子、もういらないから、あんたにあげるわ」...

リカ子です。36歳、在宅で仕事をしています。夫の裕介とは3年前に結婚しました。当時すでに33歳で、子供が欲しかった私たちは不妊治療も視野に入れて病院に行きました。検査結果に問題はなく安心したものの、いくら待っても子供はできません。

そろそろ諦めないといけないかなと思い、夫に相談すると、夫の口から出た言葉はこうでした。
「でも母さんが、絶対に後継ぎは産むようにって」
戸惑いながら言う夫に、私は言葉を失いました。

裕介は基本的にいい夫ですが、マザコン気質で、母親の言うことは絶対という節があります。私はこのお母さんが苦手でした。

裕介は長男で、下に妹がいますが、お母さんは裕介を過剰に可愛がっていました。義理の妹はそれが気に入らないらしく、早くに実家を出たそうです。

夫は転勤が多い仕事ですが、結婚した時は義実家の近くで働いていました。結婚する時に転勤があるかもしれないと言われましたが、この人と一緒ならどこでもいいと思って結婚しました。

ところが、義実家の近くに家を借りたら、夫が休みの日にはお母さんがよく家に遊びに来るようになりました。私が在宅で仕事をしている時も、なんだかんだと理由をつけて家に上がり込み、仕事の邪魔をするし、洗、洗濯物の畳み方や掃除の仕方が下手だとケチをつけてきます。はっきり言って迷惑でした。

おまけに、顔を合わせるたびに「孫はまだか」と言ってきます。
「もちろん生むのは男の子よ。女の子はいらないから」
この人の存在が私にはストレスで仕方ありませんでした。

夫に事情を説明して話をしてもらおうと思いましたが、何度言っても、
「母さんはリカと仲良くしたいだけだよ」
と楽観的なことしか言いません。仲良くしたい相手にストレスを与えてどうするのでしょう。

元々考え込むタイプの私と楽観主義の夫。私にない部分に惹かれたし、色々なところでバランスが取れていると思っていましたが、この溝だけは埋まりませんでした。

しかし、半年前に夫の転勤が決まり、義実家から離れることができました。今度は私の実家の方が近い場所です。私の実家の周りには畑ばかりですが、夫の移動先は比較的電車も通っている地方都市といったところ。実家までは車で1時間もかかりません。

引っ越しをすると、私のストレスはほとんどなくなり、仕事もはかどり快適な生活になりました。すると、なんとつい先日、妊娠していることが判明したのです。私と夫は抱き合って喜びました。高齢出産に不安はありますが、念願の妊娠です。

義実家にも報告すると、お母さんの第一声はこうでした。
「当然男の子よね」
夫がまだ性別が分かっていないと言っても、「男の子じゃないとダメだ」と言い張っています。

しかし、その後分かった性別は女の子。それを知ったお母さんは、夫がいない間に私に電話をかけてきて、
「あなた本当に役立たずね。何のために嫁に来たのかしら」
と言いました。ホルモンバランスのせいか情緒不安定だった私は、一人で泣いてしまいました。

その姿を帰ってきた夫に見られ、事情を話したのに、
「母さんが悪いって言うのか」
と怒鳴られ、余計に泣いてしまいました。とはいえ、夫は私の体を気遣ってくれたし、家事もしてくれました。母さんが絡まなければいい夫だと思います。

だから私は無事に出産することができました。退院して家に帰ってきたのは、出産から1ヶ月後のことです。迎えに来てくれた夫の車に乗り、久しぶりに我が家に帰ってきました。

すると、そこにはお母さんがいました。娘の顔なんて見に来ないだろうと思っていたのに、わざわざ来たのか。私は嫌な予感しかしませんでした。だけど、夫は上機嫌で「母さんが手伝いに来てくれたよ」と言っています。

夫が別室で娘をあやしている時、お母さんが冷蔵庫からケーキの箱を取り出しました。
「出産祝いよ。里帰り出産で美味しいものなんて食べてないでしょ」
その言い方にカチンと来ましたが、なんとか聞き流します。
「このケーキ、5万円もするのよ」
そう言って、私にケーキの箱を渡してきました。5万円。そんなケーキは聞いたことがありません。私は思わず声に出してしまいました。

お母さんは頷いて、私に開けるように促します。5万円のケーキってどんなのだろう?ワクワクしてテーブルに置き、箱を開けました。でも、その時のお母さんのニヤニヤとした顔が気になりました。

箱を開けると、5万円とはとても思えないケーキが出てきました。生クリームはボソボソ。フルーツは乗っているけど、どう見ても缶詰みかんです。どこのケーキ屋がこんな粗末なものを5万円で売るんだろう。

私は甘いものが大好きだし、大抵のケーキは値段に関わらず美味しく食べられます。それなのに、開けた瞬間にこんなに残念な気持ちになったのはこれが初めてです。しかし、お母さんのケーキはこれだけではありません。私は目を疑いました。

ケーキから視線をあげると、やっぱりお母さんがニヤニヤと笑っています。
「どう?5万円のケーキは?」
そう言われ、私は一気に頭に血が上り、ケーキを箱ごとゴミ箱に捨てました。
「帰ってください」
声をあげると、それに驚いたのか、夫がリビングにやってきました。私が口を開くより先に、お母さんが夫に泣きつきます。
「リカ子さん、ひどいのよ」
そしてゴミ箱を指さしました。

夫はそれを見て激怒します。
「お前、何てことしてくれたんだよ。あれは母さんがせっかく作ってきてくれたんだぞ」
え、5万円のケーキって?と私が言う機会を失っていると、お母さんが言いました。
「そうよ。この私があなたのために作ってきたんだから、5万円相当の高級ケーキなのよ」

ああ、そういうことか。そりゃあんなケーキが5万円もするはずはない。例え5千円でも、いや、5百円でも買わないと思います。これで謎が溶けました。あんな失礼なプレートをケーキ屋さんが許すはずないでしょう。

私が一人で納得していると、夫は言いました。
「リカ、母さんに謝れよ」
夫はやはり無条件でお母さんの味方のようです。

私が呆然としていると、先ほど夫が寝かしつけたはずの娘の声が聞こえてきたので、私は娘の元に飛んでいきました。何やら扉の向こうでバタバタと音がしましたが、今は娘の方が大事です。

ようやく娘が落ち着いて寝てくれたので、リビングに戻ると、「外で食事をしてくるから、反省しておけ」という書き置きがあり、私は愕然としました。このままここで夫と一緒に暮らしていけるのか。でも、実家に泣きついてもいいものか。行く当ては他にありません。

そんなことを考えながら、私はふと気になって、さっきケーキを捨てたゴミ箱を見ました。開けた跡もなく、そのままです。私は思い立って、その様子を写真に収めました。

そして実家に電話をして一部始終を話すと、父がすぐに迎えに来てくれるというのです。生まれたばかりの娘には申し訳ないが、また移動しなくてはいけません。でも、私にとっても娘にとっても、ここにいるよりはいいでしょう。

食事をしてくると出ていったはずの夫はなかなか帰って来ず、父の到着の方が早かった。父が荷物を車に積み込んでくれていると、ようやく夫とお母さんが帰ってきました。

父がいることに驚いた様子でしたが、私の荷物を運んでいることに怒り始めました。
「どこに行くんだよ。また実家に頼るつもりか。いい年して、何かあればすぐ実家に泣きつくんだな」
いつもより言葉がきつい。どうやらお酒も飲んでいたようで、顔も赤いしお酒の匂いもします。その様子に私は怒りが爆発してしまいました。
「生まれたばかりの娘を連れて帰ってきたのに、私たちを放っておいてお酒を飲んでくるってどういうこと?今はとにかく、あなたたちと同じ空間にいたくないから、実家を頼らせてもらうことにしたのよ」

すると、同じくお酒の匂いをさせているお母さんが口を挟みました。
「うー、怖い。こんな鬼嫁、いなくなって正解ね」
この人はいちいち勘に触ります。
「そうですね。お母さんの望み通り娘を連れて行きますので、どうぞ裕介と親子水入らずで過ごしてください」
そう言うと、夫は少し冷静になった顔をしましたが、私は無視して父の車に乗り込みました。父は感情を抑えて、口を挟まないでいてくれたようです。

翌日、夫から連絡が来ました。
「どこにいるの?起きたらいないからびっくりしちゃって」
そうだった。普段はあまり飲まないから忘れていましたが、夫はお酒を飲むと記憶をなくす人でした。私はため息をつきます。
「はぁ。覚えてないの?昨日、産後の妻と娘を置いて、自分の母親とだけ外食をして、しかもお酒まで飲んで帰ってきたこと。あんなことされて、あんなこと言われて、私はそこにはいられない」

すると夫は驚き慌てていましたが、後ろから聞こえてくるお母さんの声に、私は昨日の怒りが蘇りました。
「お母さん、怒ってるのね。あんな非常識な人がいる家になんて、私は戻らないから」
「どういう意味だよ」夫の声が低くなります。
「あなたにとっては母親だけど、私にとっては他人なの。産後で疲れているし、他人に気を使っている余裕なんてないの。誰のせいでなかなか子供ができなかったと思ってるの。お母さんがしょっちゅう家に来て、そのストレスで妊娠できなかったのよ。じゃなければ、引っ越ししてお母さんが来なくなってすぐに妊娠するわけないでしょ。お母さんの顔を見なくて済んでいたのに、娘を連れて家に帰ったらお母さんがいるなんて、本当に無理」

今までのうっぷんも積もった恨みもあり、自分がどんなに失礼なことを言っているか分かっていても止められませんでした。そして夫が電話越しで怒鳴ります。
「最低な女だな。今すぐ帰ってきて、母さんに土下座して謝れ」
そう言われて、私は一瞬時が止まりました。次に出てきた言葉は、夫を馬鹿にするようなものでした。
「あなたは、お母さんの所有物じゃないのよ」
私は続けます。
「私があの子を連れてここにいるのは、お母さんの要望よ」
冷たく言い放つと、夫は混乱したような声を出しました。
「ど、どういうことだよ」
「お母さんは、娘はいらないって言ったのよ。そうよ、前から散々言ってたじゃない。男の子を産めって。まあ、どこまで本気か分からなかったけど、あのケーキを見て確信したわ」
「ケーキ?」
「あなた、プレート見てないの?」
「は?」
「ケーキのプレートよ。ていうか、ケーキ自体見てないんじゃないの?」

私は呆れました。昨日ケーキを捨てたゴミ箱には他に何も入っていませんでした。だからまだ昨日の状態だろう。そう思って、夫にキッチンのゴミ箱を見に行くように指示します。
「何も入ってないけど」
まさか、夜中にでも証拠隠滅をしたのだろうか。
「じゃあお母さんに、ケーキのプレートに何て書いてあったのか、どこに捨てたのか聞いてみなさいよ」

すると電話口で二人のやり取りが聞こえます。
「プレートなんか知らない。何の被害妄想なの?」
「どこに捨てたかは全く答えない」
さあ、夫はどう出るのか。
「プレートなんて知らないって言ってるけど」
さすがに夫もどことなく弱気になっているようです。
「そうよね。あの旦那様に見られたら大変だものね。どんなに大変でも、見られる前に処分するわよ。証拠を消すためにね」

夫の声が曇っていくのが分かります。困惑している夫の後ろで、お母さんの声がしました。
「さっさと帰ってきて、私をもてなすようにでも言ったら、本当に使えない嫁ね」
その言葉に、夫もさすがにお母さんを止めています。
「一度電話を切って、メールを送るわ。なんならお母さんにも一緒に見てもらったら?話がついたらまた連絡して」
そう言って電話を切ると、私はケーキやプレートの写真を全て夫に送り付けました。

30分もしないうちに夫から電話があり、すぐにこちらに向かうというのです。私はそれを制しました。
「お父さんがそろそろ着く頃だから、まだそこにいて」
それだけ言って電話を切ります。

実は、私の父が昨日の夫の態度に腹を立てて、義実家の義父に報告していたのです。そんなことを知らなかった義父は平謝りし、夫のところに行き話をすると言ったそうです。

夕方になり、夫と義両親が実家に来ました。来るなり、夫は私に向かって土下座をしてきます。
「今回のことも、今までのことも全然知らなかったんだ。まさか母さんがリカ子にそんなことを言っているなんて」
反省したような夫を見ても、私は自分が冷めているのを感じました。今更知らなかったで済むと思うのでしょうか。
「前の家に住んでいた時にも相談したよね。それなのに、母さんはリカと仲良くしたいんだって言って、何もしてくれなかったよね」
私の言葉に夫は青ざめていきます。
「それに、母さんが『絶対に後継ぎを産め』って言ったことも言ってたわよ」
「何それ?」
「何でも母親の言いなり。妻よりも母親を取るんだから、私なんていらないよね」

夫は青い顔で私にすがりついてきました。
「う、違うんだ。本当にごめん。そんなつもりじゃ」
「だったら、どんなつもりだったの?」
そう言い返すと、夫は言葉に詰まり、下を向いて沈黙しました。やっぱり裕介は、自分の妻や娘より自分の母親を取るのね。過保護な母親に、マザコンの息子。もっと早く気づけばよかった。妹さんが早くに家を出たのも頷けます。

ため息混じりに言うと、夫は反論してきました。
「マザコンなんかじゃないよ。リカ子のことも大事だし」
「じゃあ、この際だからお母さんと縁を切れるの?」
すると夫は沈黙しました。私がため息をつくと、後ろで義父に無理やり連れて来られたお母さんが口を開きました。
「何てこと言うの?私と裕介は親子なのよ。縁なんて切るわけないじゃない」
義父はそれを嗜めますが、止まりません。
「大体、あなたのことは気に入らなかったのよ。裕介にはもっと若いお嫁さんが欲しかったわ」
「はあ。だったら今すぐ縁を切りますよ。離婚届も用意してありますし。離婚すれば、あなたと私は他人ですから」
そう言うと、夫は顔を青くして私の顔を見ました。
「わざわざケーキを作って、プレートにこんなことを書くような人との縁なんて、今すぐ切りたいですから」

私はそう言ってスマホを出し、「娘を連れて出ていけ」と書かれたプレートの写真を、その場にいる全員に見せつけました。義父は詳しく聞いていなかったのか、それを見て真っ青な顔でお母さんを怒鳴りつけました。
「お前は、自分の娘にしたことをお嫁さんにもしたのか」

私はそれを聞いて驚きました。お母さんは昔、妹さんの誕生日のプレートに「娘はいらない」と書いて出したことがあったらしく、おかげで妹さんは疎遠になったそうです。どれだけ女が嫌いなのか。身近な女を排除することで、自分がちやほやされるとでも思ったのでしょう。現に、息子である裕介はその思惑通りになっています。

私が夫に離婚届を差し出すと、夫は言い訳を始めます。
「ああ、せっかく子供も生まれたのに、離婚なんてするもんじゃないだろ。母さんだって、今回はちょっと行きすぎただけだ。リカ子のことが羨ましかったんだよ。分かってやってよ」
「そんな話をしに来たの?私はてっきり、お母さんとは親子の縁を切るから、家に戻ってきてくらい言うのかと思ってたわ。私があの家に戻ることは、もう二度とないわ」

すると、青い顔をして黙っていた義父が口を開きました。
「裕介、離婚届に判を押しなさい。うちの家族はもう終わりだ。帰ったら、私もお母さんと離婚する」
「え?」
思いがけない言葉に、お母さんが振り返ります。
「今まで何度か考えたけど、今更離婚なんてと思っていたし、私が我慢すればいいと思っていた。でも、よそのお嬢さんにまでこんなことをしているなんて、もう我慢の限界だ。離婚して、あの家を出て行ってくれ」

夫は義父に言われて、渋々離婚届に判を押しました。私は迷惑料として、義父から100万円ほど頂きました。最初は断ったものの、それはお母さんの財産分与から差し引くと言われたので、ありがたくいただくことにしました。

元義両親は本当に離婚し、お母さんは裕介を頼ったみたいですが、今回のことをお母さんのせいにしている裕介は受け入れず、まさに鬼の首を取った様子でした。結婚してから働いていなかったお母さんは、いかに楽に働くかを考えた結果、誰に勧められたのか仮想通貨に手を出し、財産分与で手に入れたお金を全て失ったらしいです。

私は裕介から毎月きちんと養育費をもらい、今は両親に協力してもらいながら娘を育てています。娘がすくすく育っているのがとても嬉しいです。

あゆみ、33歳です。2歳年上の夫カイトと二人で暮らしています。私は過去に大きな病気をしたことがあり、それが原因で子供を授かることができません。それでも夫は気にしないと言ってくれました。私たちは結婚して2年で不妊検査に行き、そのことを知ったのです。

子供ができないと知った私は一瞬落ち込んだ時期もありましたが、決心をして夫にある提案をしました。私は音大を卒業していて、有名音楽教室で講師をしていたことがあります。結婚して妊活に励もうと仕事を辞めて専業主婦になったのですが、その必要もなくなりパートに出ようと思ったこともあります。しかし、外に働きに行くのではなく、自宅で子供相手のピアノ教室をしたいと夫に懇願しました。

教室を開くにも、それまでマンションの一室で暮らしていたので、このままではできません。一軒家に引っ越さなければならないのでかなりの出費になってしまうため、一人では決められませんでした。夫には反対されるかなと思いながらお願いすると、
「いいんじゃない?このマンション、ペット禁止だし。家を建てたら犬も買おうよ」
とノリノリでOKしてくれたのです。

引っ越し資金はかなりかかりましたが、近所に住む私の両親が頭金を出してくれました。実は実家は地主で、ここら辺の土地をいくつか所有していて、父は会社の経営もしています。その会社で兄は専務として働いていました。そのうちの一つを私たちに譲ってくれ、その土地に完全フルオーダーの一軒家を購入したのです。玄関を二つに分けて、家の中から教室に行けるようにしました。そしてペットに白いトイプードルも迎えました。名前はもこです。

最初は細々とやっていたピアノ教室でしたが、ありがたいことに口コミで広まり、教室を開いてから3年目の今では、週に30人ほどの生徒さんを受け持っています。犬が好きな生徒さんは帰り際にもこで遊んでくれます。もこはとても可愛がられていて、人懐こい犬に育ってくれました。

私のピアノ教室が軌道に乗ってきた時に、不幸が訪れました。私の両親が宿泊先のホテルで火災に巻き込まれて亡くなってしまったのです。その両親の葬儀に、兄が婚約者を呼んでいました。親族一同誰も見たことのない女性と、小学生くらいの男の子が通夜の席に現れたのです。

通夜が終わり、会場の隅でその女性が誰かを探しています。兄を見つけるや、女性は男の子を置いて兄に駆け寄っていきました。
「今日は私を御家族に紹介してくれるのよね」
その女は、この場にふさわしくない言葉を話しました。その言葉を聞いてしまった私と夫は顔を見合わせました。この時にはすでに数名の親族しか残っていませんでしたが、この言葉を聞いたのは私たち夫婦だけ。

そんな私たちに気づいた兄が、
「この人は俺の婚約者の夢さんだ」
と突然紹介してきました。
「は?え?どういうこと?」
思わず声を荒げてしまいます。
「本当は来月、両親も揃って紹介しようと思ってたんだけど、今回こんなことがあっただろう。だからこの機会に紹介しようと思ってさ」
と、暢気なことを言うではないですか。

紹介してもらい上機嫌な夢さんは、
「初めまして。あなたのお兄さんと結婚する夢です」
と、葬儀ではありえない話し方で自己紹介をしていました。私は「はあ。どうも」としか言葉が出ません。そんなことは気にも止めてないようで、
「じゃあ、また明日来るわね」
と息子の手を引き、嵐のように帰って行ったのです。

「お兄ちゃん、こんな時に何なの、あの人?明日はあの人たち呼ばないよね」
私は両親との最後のお別れの場に、夢さんには来て欲しくありませんでした。兄は渋々夢さんに連絡をし、明日は来ないでくれと伝えていました。

兄は昔から自分の意見を持たない人です。人に言われるがままに動きます。私はそんな兄のことが昔から嫌いで、仲も良くありませんでした。
「明日はあいつ来ないって言ってたよ」
と兄が言った通り、翌日の葬儀には来ませんでした。安心してきちんと両親を見送ることができたことは嬉しかった。

全てが終わった後、両親の四十九日法要まで遺骨の管理を私たちが任されたので、兄が家に来て準備を手伝うというのです。兄が自分の意思で動くことは珍しいなと不思議に思いました。その不思議に思っていたことが、家に着いた瞬間に分かりました。

なぜか玄関前に、夢さんとその息子君が座っていたのです。
「遅かったのね。待ちくたびれたわよ」
と夢さんが苛立っていたので、私は睨みながら聞きました。
「なんであなたがここにいるんですか?」
すると、
「だって、あなたたちに来るなって言われたから、葬儀会場に行けなかったんじゃない」
と夢さん。そして、夢さんはとんでもないことを言ってきました。
「そうだ。その子、もういらないから、あんたにあげるわ」

この言葉に、私の思考が一瞬止まってしまいます。
「ええ?どういうことですか?」
私の言葉に、
「あんた、子供できないって聞いたわよ。だからあげる」
と言い出しました。兄から私の不妊について聞いていたようです。

困惑している私に、夢さんは耳元で言いました。
「リクは前の旦那との子なのよ。実は今、お腹の中にあなたのお兄さんの子供がいるんだから、この子いらないのよ」
必要事項を記入した児童養護施設の書類を手渡されました。自分の子供でしょ、と言ってやりたかったのですが、リクという男の子をよくよく見ると、今は夏なのに長袖で長ズボン姿。何かがおかしいと思って黙っていると、
「じゃあよろしくね」
といつの間にか兄と車に乗り込み、まだ何も答えていない私たちに押し付けるように置いて行ってしまいました。

リクは何も言わず、俯いたままです。夫はリクの頭を撫でて、
「大丈夫だよ」
と言っています。私は何度も兄に電話をするも、運転中だからなのか出てくれません。仕方ないので、私はリクに向き直り話しかけました。
「リク君、今日はおばちゃんの家にお泊まりしていってくれるかな?」
するとリクはこちらを見て、うんと頷いてくれたのです。
「これからお風呂に行って、わんこを迎えに行くんだけど、リク君一緒に行こう。そして買い替えのお洋服ある?」

お風呂というのは、私と夫がよく行くスーパー銭湯です。ペットホテルにもこを迎えに行く前に、疲れを取りたくて元々行く予定でした。リクは子供用リュックから荷物を取り出しました。洋服は、ボロボロのTシャツ3枚とズボン1着のみです。

驚いた私たちは、まずリクの洋服を買いに行くところから始めました。上下を購入し、そのままお風呂に行き、夫とリクは男湯へ。その後、葬儀中ペットホテルに預けていたもこを迎えに行ったのですが、リクはもこを見て目をキラキラ輝かせていました。それまで笑顔を見せなかったリクの笑顔を、初めて見ました。

家に帰るまでの間も、車の中でずっともこを抱いていたリク。
「リク君、わんこ好き?」
家に到着してからリクに話しかけてみました。
「あ、うん。僕、犬大好き。この子、もこって言うんだね。もこは何件なの?」
リクは楽しそうに質問してくれました。リクからの質問はこれが初めてです。
「もこはね、トイプードルだよ」
教えてあげると、
「そうなんだ。可愛いね」
とずっと撫でていました。もこも色んな子供たちと触れ合ってきたからか、大人しくリクに撫でられて、気持ち良さそうな顔をしています。

その日はリクはもこと一緒に寝ていました。幸せそうな寝顔を見ていると、昼間の兄と夢さんの態度に怒りが込み上げてきました。リクが寝た後、再度兄に電話をかけたが、着信拒否をされていました。一応メッセージは送りましたが、きっとこれも見ないでしょう。

夫が見たところ、リクの体にはあざなどはなかったものの、体がガリガリで頭もふけがすごかったようです。また、話を聞く限りでは、年中同じ洋服を着せられていたらしい。持っている服は全て長袖で長ズボンだったせいで、リクは小学校で同級生に避けられ、友人はいなかったらしいのです。

夢さんは自分の未熟児を優先して、子供に対しては何もしていなかったことがよく分かります。そんな女と結婚する兄も気の毒だなと思いましたが、選んだのは兄本人です。無責任な二人にリクを任せることはしたくありません。夫と相談して、施設に連れて行こうかとも考えましたが、もこでいる時の幸せそうな顔を見ると、そんなことはできませんでした。

兄に再度メールで、リクを引き取るので手続きをしたいと言ったらすぐ連絡が来て、なんとかリクの学校に関する手続きなどを終えることができたのです。リクをこちらで保護することを決めていたのはいいのですが、本人に何て言おうかだけ悩んでいました。

リクの夏休みということもあり、しばらくリクはお泊まりという形でずっと家にいました。私がピアノ教室で生徒さんを教えている間は、もこと一緒に家で留守番をしてくれています。私たちも一緒に暮らすうちに、リクのことを大切な家族だと思うようになっていきました。そんな気持ちが強くなるほど、リクにとって何が一番幸せなんだろうと思い始めたのです。

本当は兄のところで実の母と一緒に暮らす方がいいのではとも悩みましたが、リクを置いていった兄嫁の態度を思い出し、返すのは良くないと決心しました。そして、いつ本当のことをリクに話そうか悩んでいるうちに、夏休みも残り1週間ほどとなってしまいました。学校の手続きなどもあるので、覚悟を決めてリクに話をすることにしました。

「リク君、大事な話があるの。お母さんのことなんだけど」
と切り出した私に向かい、リクは下を向きながら話し出しました。
「僕、知ってるよ。ママ、僕を置いていなくなったんだよね。僕はもう8歳だよ。理解できる年だよ、おばちゃん」
「え、そ、そうだよね。もう8歳なんだもんね。おばちゃん、子供いないから、そこら辺ちゃんと分かってなかった。ごめんね」
私がそう言うと、リクは首を横に振りました。
「リク君さえよければ、このままここで一緒に暮らして欲しいんだけど、どうかな」
私が続けて聞くと、下を向いていたリクがこちらを見て、
「僕、ここにいてもいいの?おじちゃんもおばちゃんも優しいから好き。本当の子供じゃないから、追い出されるかと思ってた。それにもこもいるから楽しいよ。僕、ここにいたい」
と懇願してきたのです。

私と夫はリクを抱きしめて、
「あなたはもう私たちの家族よ。もう大丈夫だよ。何も心配することはない」
と言いながら、三人で泣きました。

その後、リクの転校手続きを進め、こちらの学校に通い始めました。そしてピアノにも興味を持ち始めたので、リクにも教えてみると、みるみる上達し、ピアノコンクールに出るまでになったのです。リクが我が家に来てから7年後、ピアノコンクールでの成績も良く、メディアに天才ピアニストとして取材されることになりました。その頃にはYouTubeでも配信しており、かなりの再生回数で、今注目のYouTuberとしてテレビ出演が決まったのです。

放送されてから1週間ほど経った頃、突然家に兄と夢さんがやってきました。
「やっぱり、リクを返してもらいに来たわ」
と夢さんが言い出しました。それを聞いた私は吹き出してしまい、夢さんは激昂しました。
「何笑ってるのよ。いいから早くリクを出しなさい。テレビ見たわよ。YouTubeもやってるんだってね。あんたたちだけリクのおこぼれをもらってるなんて、許さないわ」
とヒステリック気味に怒鳴り散らしています。

しかし、それは無理なお願いでした。
「残念ながら、1日遅かったですね」
笑いながら言う私に、夢さんは声を荒げています。
「は?どういうこと?いいから出しなさいよ」
そんなことを言われても、無理なものは無理なので、私もはっきり断りました。
「リクは昨日、あなたの元旦那さんに引き取られていったのよ」

「何それ?なんであんな男に渡すのよ?」
夢さんは取り乱していますが、私は事実を伝えているだけです。しかし、元旦那という言葉を聞いた兄が、突然言葉を発して怒り出しました。
「なんでアイツに渡したんだよ。あいつの金がないと、俺はこの先どうしたらいいんだ」
兄の発言に、私は怒りを露わにしました。
「兄さん、ちょっといい加減にしなさいよ。あんたね、今までと関わったことないでしょ。それが何?自分の会社が危ないからって、あの子のお金を当てにするのはやめて」

私が兄にここまで噛み付いたことがなかったので、兄も少し驚いていましたが、兄は続けます。
「ま、まあ、兄貴に向かって『あんた』とは何なんだ?それよりも、金も少しはそうだけど、前の旦那は外で女作って、家でもリクにひどいことしてたんだぞ。そんな奴に引き渡したら、この先どうなるか分からないじゃないか」
「あら、私が聞いた話とは真逆のようだけど、どっちが正しいのかしらね、夢さん」
兄の言葉を聞いた私は、夢さんの方に向かい問いかけました。すると、夢さんの顔がみるみる青くなっていきました。

「夢さん、どうしたんですか?顔色悪いですけど」
私が問いかけると、夢さんは話をそらしてきました。
「そ、それより、どうしたのよ、あの人がリクを引き取るなんて。あの人も金目当てでリクを引き取っていったってこと?」
「そんなわけないじゃない。夢さん、元旦那さんの仕事を知らないんですか?作曲家のかず彦さんって知らない?」
「え?嘘?あの人、私と一緒にいた時、全然売れてなかったのよ」
「それなのに、今はアイドルとかの曲を作ってるあのかず彦?」
「そうよ。そのかず彦さんが、リクのことを知って、会いに来てくれたのよ。そしてリクが自分の意思でかず彦さんの元に行ったのよ」

実は、YouTubeにリクの動画を配信するきっかけとなったのが、リクの父親を探すためでした。リクは私たちと暮らすようになってから、よく父の話をするようになりました。リクは父と暮らしたいんだなと考えた私は、リクに「お父さんに会いたい?」と聞くと、笑顔で頷いていたのです。なので、リクの父の名前を聞いてSNSなどで探し、同じ名前の人にYouTubeを見てもらえないかコンタクトを取り、かず彦さんがそのYouTubeを見て返信をくれたのです。かず彦さんもリクを探していたようで、リクが大事にしているペンダントが映った動画を見て、かず彦さんは確信したらしい。

何はともあれ、夢さんたちが来る前にリクのことをかず彦さんに引き渡せてよかったと思います。夢さんはその場で泣き崩れていました。それと同時に、兄が「金貸してくれ」と私に土下座をしてきたのです。やっぱり、会社はそこまでやばくなってるんだ。さっきは軽く見積もったけど、まさかそんなに危ないとは。情けない。
「お父さんたちから引き継いだ遺産はどうしたのよ」

兄は両親がいなくなるまで実家で暮らしており、いい年をして親の脛をかじっていました。就職も親の会社にコネで入社していたのです。ろくに仕事もしていなかったが、専務として働いていました。私は親の会社に興味がなかったのでどうでも良かったが、兄は父の会社を引き継ぎ、そのまま会社の社長になったのです。しかし、兄の経営は杜撰で、この7年で倒産寸前まで追い込まれていると聞きました。ちなみに、両親の遺産は高級車やタワマンの購入費に消えたらしい。その後も、会社のためにと危ない投資話に乗り、資金を全て巻き上げられてしまったというのです。そんな時にリクのテレビ出演を偶然見て、夢さんと共に取り戻しに来たということでした。

「人のお金を当てにしないで、自分で何とかしなさいよ」
私はそう告げ、玄関から二人を追い出しました。その後も玄関の前で夢さんと兄が騒いでいて、近所迷惑になると思った夫が警察に電話をしてくれました。到着した警察に、二人は連行されていったのです。

その後、二人の間に生まれていた子供へのネグレクトも発覚したようで、子供は児童養護施設へ引き取られ、二人は刑務所の中へ仲良く入ったそうです。一方で、リクは父の元で作曲を勉強し、高校生とピアニストの二足のわらじで頑張っています。リクと離れると決めた時は悲しかったのですが、毎月欠かさずに手紙で近況を教えてくれます。たまにもこにも会いに来てくれるので、ちっとも寂しくありません。

リクが家を出る時には、
「僕はおじちゃんとおばちゃんのことを、ずっと本当の親だと思ってたよ。僕のことを引き取ってくれてありがとう」
と泣きながら言われました。そんな言葉をもらった私たちもしばらく涙が止まりませんでした。今はリクが演奏する曲を子供たちからもリクエストされ、私もリクの曲を練習中です。これからもたくさんの子供たちの成長を見届けていきたいと思います。

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