私の職場のレセプションで、部長がマイクを握って私を指名した。「お前、履歴にピアノって書いてたよな。ほら、弾けよ。」150人の取引先と海外バイヤーの前で、私は派遣社歴の一番下っ端だった。中学卒業で、派手なネイルと茶髪の私を見て、彼は嘲笑を隠さなかった。「中卒の底辺ギャルに品格のある音なんて期待してねえよ。」弾けなかったら、笑いを取れと。私は鍵盤に指を置いた。5年間、一切触れなかったピアノ。あの…

私の職場のレセプションで、部長がマイクを握って私を指名した。「お前、履歴にピアノって書いてたよな。ほら、弾けよ。」150人の取引先と海外バイヤーの前で、私は派遣社歴の一番下っ端だった。中学卒業で、派手なネイルと茶髪の私を見て、彼は嘲笑を隠さなかった。「中卒の底辺ギャルに品格のある音なんて期待してねえよ。」弾けなかったら、笑いを取れと。私は鍵盤に指を置いた。5年間、一切触れなかったピアノ。あの...

「お前、履歴にピアノって書いてたよな。ほら、引けよ。」

営業推進部長の片桐がマイクを握り、グランドピアノの前で立ち尽くす派遣社員を指さした。北浜の創立記念レセプション。丸ノ内のタワーホテル最上階に、取引先と海外バイヤー約150名が集まる場だった。

茶髪の女性、総務派遣の松本カナは、黒いスカートの裾を直し、長いネイルの指先を鍵盤の上に置いた。中学卒業の20歳。派手めのメイクと安物のパンプスが照明の下でやけに目立つ。名札だけが派遣会社の色をしていた。

「中卒の底辺ギャルに品格のある音なんて期待してねえよ。失敗しても文句言うなよ。笑いが取れたら儲けもんだ。さっさとやって終わらせろ。」

カナの声は静かだった。「わかりました。引きます。」指先だけが震え、言い訳は口から出なかった。背筋を伸ばし、呼吸を浅くするだけで精一杯だった。

「当然だろ。客前で体面を崩すな。派遣のくせに恥をかくのか。」

前列の重役はグラスを置き、目だけをステージへ向けた。後方では笑いが噛み殺されていた。止める声は誰も上げなかった。ただ一人、総務の新入社員・伊藤美緒だけが椅子を蹴って立ち上がった。

「伊藤、黙ってろ。式次第は俺が握ってんだ。侵入のくせに指図するな。もう一つ喋ったら総務の評価に悪いこと書くぞ。」

カナは美緒を見て、ゆっくり小さく首を振った。言い返さないで。私がなんとかする。

当日の朝、午前7時50分。誰もいないフロアで、カナはいつものようにコピー機の電源を入れ、ゴミ箱を替え、ブラインドの位置を同じ順番で合わせた。誰もいない「練習」みたいなものだった。音は出せないけど、指だけは動かす。指先で小さく一拍を叩き、声に出さず数えた。

窓際の机には、名札とチョコレートとメモ帳だけが置かれていた。メモ帳には、亡くなった父が生前に書いた「音は嘘をつかない」という付箋が貼ってあった。同じクリップには、更新提出用の自分の履歴書コピーが挟まれていた。趣味の欄だけが薄く潰れて読みにくい。「趣味 ピアノ(現在休止中)」と書いたはずだった。だがコピーが薄く、「休止中」の「止」の字が潰れ、「ピアノ」だけが残っていた。

なんでわざわざこんなこと履歴書に書いたんだろう。まあ、やめた現実だけは消せない。

カナのチャームには、妹の美緒が中学生の時に作った小さな雪の飾りが揺れていた。父が倒れるまで、父は工場の夜勤と休日出勤を続け、母は笑って台所を支えた。カナも黙って家計を支えた。中学3年の冬、父は脳梗塞で倒れ、家の収入は一気に細った。母は薬の説明書を読み直し、泣かないように声を殺して笑った。カナは高校の案内書を封筒から出し、レターケースにしまった。

ピアノ教室の先生に、カナは言った。「先生、すみません。お父さんが倒れて、家計が成り立たないんです。レッスン代ももう無理で、指が震えて課題も終えません。だから、ごめんなさい。教室にはもう来られません。」

先生は頷けず、肩を抱き、譜面だけを鞄に押し込んだ。その楽譜は今も棚の奥で日焼けしていた。

その後は母の通院を重ねる日々だった。月4回のタクシー代を足すと給与の残りがすぐ赤くなる。進路の説明会に付き添い、帰り道で美緒がカナの袖を引いた。

「お姉ちゃん、中学校出たら私も働く。」

「そんな苦労はさせない。私がなんとかする。」

午前8時半、美緒だけが派遣の名札に名前をつけて呼んだ。他の社員は資料を抱えてカナの横を通り過ぎた。総務の先輩が消耗品発注をしながら、機嫌だけを厳しく言った。「派遣さんだからってサボらないでよ。」

「承知しました。」

片桐が営業推進部の部下を連れてフロアを通り、カナの机の前で足を止めた。「おい、爪短くしろよ。百貨店の担当が見に来るんだ。」

「申し訳ございません。契約上、業務に支障がなければ…」

「見た目が支障なんだよ。ブランドは雰囲気で売れるんだ。」片桐は名札を一瞥し、鼻で笑って去った。期待されないのは楽だった。カナは左手の親指で手のひらをなぞった。誰にも見えない癖だった。

昼休み、丸ノ内のホテル最上階に入ると、グランドピアノの蓋が照明に照らされ、足が一歩止まった。「搬入経路でよろしいでしょうか? 」「はい、問題ございません。」

カナは誘導テープの角を確認し、グランドピアノの黒い曲線に視線が止まった。5年触ってない。触ったら戻れなくなる。

「グランドピアノは搬入済みで、鍵はフロントに預かっています。」

「ありがとうございます。鍵の受け渡し記録にサインします。」

ステージ袖には楽譜台が置かれていたが、楽譜は誰の名前も書かれていなかった。触らない。触ったら戻れなくなる。

夕方、本社に戻ったカナに、美緒が小さな紙袋に入ったチョコレートを差し出した。「松本さん、これ…いつも黙って動いてるの見てました。今日頑張ってください。」

「ありがとうございます。」カナは紙袋を両手で受け取り、指先が少し震えた。誰かに見られていた事実が胸に残り、レセプションの夜への不安が少しだけ薄れた。

午後6時半、レセプションが始まった。カナは受付の端で名札を渡していた。スーツの客が次々と入り、香水とワインの香りが混ざった。

「松本、もっと早く。」

「申し訳ございません。」片桐は笑顔のまま、重役の列へ戻っていった。カナは唇を噛み、名札の角を指で押し直した。

社長代行の挨拶と乾杯の後、片桐はタイムテーブルばかり見ながら重役の隣へ寄った。「今夜は特別な一夜にしたいので。」

予定では、英国からのゲスト着席後、同行ピアニストの小演奏が続く段取りだった。しかし、フライトの遅延でオリバー・グレン氏の到着が遅れ、同行ピアニストは演奏開始までにステージに上がれなかった。

「直前のご報告で恐縮です。本日のピアニストは便の遅延のため、演奏に間に合いませんでした。お招き予定だったピアニストは、幼少期に日本のコンクールで受賞された方なんです。緊急で、当社経営企画の渡辺部リサさんにお願いいたします。」

受付のカナはその名を聞き、一瞬だけ吐息を飲んだ。渡辺部は裾を整え、震える手で鍵盤に座った。32歳の幹部補は額に汗を浮かべ、前列を見渡した。

「ショパンのノクターン第2番を弾かせていただきます。やれる。私ならこれで評価上げるんだから。」

最初の数小節は丁寧に流れた。しかし中盤でリズムが崩れ、音がずれ、手が止まった。「へ…やだ。手が震えてる。止まらない。手が覚えてない。すみません、もう一度。」

再び指が滑り、和音が繋がらない。会場からざわめきが消えた。渡辺部は立ち上がり、深く頭を下げてステージを降りた。拍手は起きず、前列の重役は腕時計ばかり見返した。

「で、続きは…すぐにご用意します。」片桐は笑顔を張り付け、それから渡辺部の肩を掴み、低い声で言った。「お前のせいで興が死んだぞ。」

「すみません。私がもっと力があれば…」渡辺部の声はかすれ、マスカラが涙で薄く滲んだ。

「はぁ、最悪だな。接待の評価が飛んで、俺の評価も…」片桐は口元だけ笑わせた。「でしたね。他にピアノのできる方はいませんか? 」

席は静まり、誰も手を上げなかった。片桐は会場の隅を見渡し、受付の黒いスカートに目を止めた。

「ああ、そうだ。派遣の松本カナさん、履歴書に趣味ピアノって書いてあったよな。」

「え、わ、私は…」

「謙遜するな。とにかくこっち来い。何でもいいからやってみろ。笑いでも取って場をつなげ。」

片桐は客席の前を横切り、カナの腕を掴んだ。「部長、嫌がってますよ。」

「侵入、黙れ。逆らうな。じゃあお前がなんとかしてくれるのか。」

美緒が立ち上がりかけたが、同席の先輩が袖を引いた。カナは片桐に強引に腕を引かれるままステージへ上げられ、ピアノ椅子に座らされた。席のどこかでシャッター音が鳴り、すぐに途切れた。

「派遣の松本さん、趣味はピアノ。みんな知ってましたか? 」

「え、マジ?

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」ざわめきが広がった。

「さあ、弾け。みんなが笑ってくれたらそれでもいい。後の責任は全部お前だ。」

カナは鍵盤を見つめ、白と黒の並びが視界いっぱいに広がった。引いたら終わりが始まる。その瞳の奥に、5年前の病室の明かりだけが重なった。

父を見取った後も、母の病室の匂いと請求書が食卓をいつも埋めた。母の治療と妹の塾に金を足すと、高校とレッスン代の欄だけが真っ白なまま残った。レッスンに通うのをやめた後も、本戦の日まで先生だけが練習室の鍵を預けてくれた。弾けば弾くほど、家計を削ってる気がした。

コンクールの朝、父のいない病室で母の手が冷たかった。母は酸素マスクの下で目だけを強く見開き、娘の手の甲に細い力を込めた。「カナ、行って、本選勝って帰って。そばにいたいの。お母さんを安心させてくれるなら、それで行く。」

「すぐ戻るから。」

コンクール会場のステージで最後の音を弾き終え、審査員が本選の優勝を告げた。ロビーへ出たカナの携帯が震え、病院の番号が画面を埋めた。看護師は短く言った。「お母さんは数分前に息を引き取られました。」

「嘘。」

あの時、行かなきゃ、ずっとお母さんのそばに。ピアノなんて嫌いだ。カナは拳を口に押し当て、悔しさと後悔が同じ重さになった。先生は事務局へ電話し、声を詰まらせて大会の受賞自体を辞退しようとした。

「お姉ちゃん、ごめん。」

カナは自宅のピアノの蓋を下ろし、鍵盤から目をそらした。触れる理由を自分から奪った。「私が絶対ミオのこと守るから。」

病院の記憶が薄れ、ステージのグランドピアノの鍵盤だけがカナの目の前に戻ってきた。そっと触れると、指はまだ形を覚えていた。嘘だった。本当は鍵盤が恋しかった。

お母さん、聞いて。

カナの目から一筋涙が落ち、黒いピアノの蓋に当たった。涙を拭わず、鍵盤を見据え、奥歯を噛みしめて指を上げた。ざわめきが弱まり、客席のどこかでグラスがテーブルに置かれる音だけがした。美緒の目を避けずに見て、カナは鍵盤へ向き直った。

「お父さん、お母さん、美緒、ごめんね。もう一度だけ。」

カナは一気に鍵盤を叩き、低音の和音が3つ重なって会場に落ちた。笑いが途切れ、スマホのシャッター音が止み、呼吸が一つに揃った。息を吸い、先ほどの和音に続けて指を走らせた。「革命」の別名を持つ曲は、左手が速いパッセージを弾き、右手が戦いを重ねた。

遅れて入ってきた一人の外国人男性が客席の端で息を飲み、カナから目を離せなかった。会場の誰もが、鍵盤とカナの指から目を離せなかった。

「な、なんだあの音? 」

音は会場の天井近くまで響き渡った。「本物だ。」

片桐の笑みが消え、渡辺部はステージ脇で息を飲んだ。海外ゲストが録画を止め、身を乗り出して聞き入った。カナは目を閉じ、5年間鍵盤に触れていなかった手の動きに任せた。爪の先は鍵盤の面をかすめ、音だけが正確に立ち上がった。

最後の和音が鳴り終えると、数秒の間誰も動かなかった。誰も咳払いせず、グラスを卓に置く音も起きなかった。カナはゆっくり目を開け、鍵盤から手を離した。

次の瞬間、客席から立ち上がる者が続き、スタンディングオベーションへ変わっていった。歓声と拍手が重なり、会場は数秒間、なおも鳴りやまなかった。

片桐は視線を泳がせ、人の影に下がろうとした。

「素晴らしい。」

男性は名刺入れからカードを示した。英国オーケストラのツアーマネージャー、オリバー・グレンだった。オリバーが立ち、拍手を始めた。拍手は最前列まで伝わった。

「あなたはもしかして、松本カナさんですか? 」

「あ、はい。」

「やっぱり。5年前、あの日本コンクールのジュニア部門本戦であなたの演奏を聞きました。忘れもしない。私は審査補佐の一人でした。その本戦で優勝した少女があなたでしたね。」

会場のざわめきが一気に高くなった。

「その頃、すでにお父様は亡くなられていたと後から伺いました。表彰に呼ばれる前にお母様が急変し、トロフィーを手にする前にお母様も失われたと記録にありました。」

「はい。」

「私はあなたを追っていました。ただ、あれ以来あなたは姿を現しませんでした。理由は聞きません。それでも、やっぱり指は正直でした。今でも覚えてましたね。」

拍手が再び起こり、スマートフォンの画面がいくつも下げられた。

「ち、ちょっと待てよ。履歴じゃ趣味って書いてあったじゃねえか。」

「趣味と書いたのは私の説明不足でした。欄には『ピアノ(現在休止中)』と私は記入しました。提出のコピーが薄く『止』の字が潰れて読めなかっただけだと思います。」

「休止中…そういう意味だったのか。」

「ま、まあいいだろう。場は繋いだ。それは認める。だが誤解を招いたのはコピーだ。派遣会社のミスで、俺は今回の件に責任はない。」

客席の重役が片桐を見て眉を潜めた。「俺は場を立て直そうとしただけだ。手柄になるだろう。派遣は派遣で、身分も立場も変わらねえよ。」

「と…? 身分も立場も変わらないと。」重役はグラスを置き、名刺入れを閉じた音が固く響いた。

「いや、その強要は立て直しではありません。」通訳が追いつき、オリバーの言葉を会場に向けて大声で繰り返した。

「片桐部長。」会場のサイドから落ち着いた声がした。代表取締役会長・日夏(58歳)がゆっくりと前に出た。「今の所業、侮辱と強制について説明してください。」

「会長を盛り上げるためで…」

「盛り上げ?

」日夏の目が細くなり、片桐は言葉を飲み込んだ。「私は先ほどのピアノを聴いた。ピアノが立派かどうかは、服の派手さじゃ決まらない。大切なのは真剣に弾くことと、その音に責任を持てるかよ。」

日夏は片桐の脇へ寄り、握られていたマイクを取り上げた。「松本さんのピアノは、客席の列からはっきり聞こえた。本当に良かった。素晴らしい限りです。」

日夏は客席へ一礼し、ゆっくりと片桐の方へ体を向け直した。「片桐部長、お客様への挨拶はここまでよ。さあ、先ほどの松本さんへの扱いを、あなたの口から説明しなさい。」

「いや、でも、学歴と見た目で並べるのが一番早い。俺は昔からそうやってきた。あいつはその枠に入らない。それが気に食わなかったんだ。」

「偏見で松本さんを標的にしていたと。今の時点で確定ね。見た目で人を切るのは、会社の品格の自殺よ。」

片桐は自分が言った言葉に気づき、唇を咬んで視線を落とした。額に汗が滲み、握った両手の指が白くなった。

「会長、これは演出の範囲で、接待の…」

「接待の盛り上げなら、招待客を笑わせるために人を晒さない。取引先の皆様だけは本当に…。5回? 5回かどうかは、こちらのコンプライアンス委員会が徹底確認します。英国側も公式経路で事実関係を共有します。」

片桐の唇が開きかけ、言葉が出なかった。

「渡辺部さんが失敗したのが始まりで…」

「私の失敗は私の責任です。松本さんを晒す理由にはなりません。」渡辺部は蒼白な顔で立ち上がり、頭を下げた。

「片桐部長、明日の取締役会に資料を持ってきなさい。君の業務遂行と今日の発言記録、通訳メモも含めて。」

「記録なんて…」片桐は社員席を見渡した。誰かがスマートフォンを掲げた。

「おい、消せよ。」

「もうバックアップあります。」若手の声は震えていたが、指は画面を離さなかった。「私ども、事実関係は報告します。」

片桐の膝が震え、客席の全員が片桐の背中を見ていた。

「松本さん、あなたの演奏、ありがとう。」

「ありがとうございます。」カナの声は震えていたが、言葉は途切れなかった。「音は嘘をつかない。人がつくのは、見た目の嘘だけです。」

日夏が小さく頷き、客席から再び拍手が起こった。

「片桐部長、君は百貨店プロジェクトの担当から外す。派遣労働者への斡旋管理と人前での侮辱は、コンプライアンス委員会の審査対象よ。海外顧客への謝罪同行とコンプライアンス研修を3ヶ月。移動先は内部通告で。取締役会議は、君の弁明をそこで述べなさい。」

「会長、それは殺すような…」

「殺してない。仕事の序列を戻しただけ。」

「会長、俺は売上のために…」

「売上は人を踏み台にして守れない。」

「俺が悪いってことにしたら、会社の評判だって…」

「評判を守るのは隠蔽じゃなく、正すことよ。君の配置転換は今夜、内部通告する。今極論すれば、俺だって一人の人間だろ。人間なら、隠しただとか笑わせる比べ方はしない。」

日夏は客席へ向き直り、短く頭を下げた。「本日は不快な時間を与えました。調査と再発防止を約束します。」

「待ってください。これは5回で5回なら、録画と通訳記録で解決できます。通訳だって聞き間違いが…」

「ちのメモはすでにホテル側に預けています。」片桐の声が裏返り、笑おうとして顔だけ歪めた。唇が青ざめ、膝が震えて立っていられなくなった。

片桐はカナの前に歩み寄り、頭を下げた。「すみませんでした。」

「顔を上げてください。」

「カナさんと派遣の担当者にも…すみません。」

「松本さんが一番ひどかったです。」美緒の声は震えていたが、言い切った。カナは美緒の横顔を見て、唇を結び、小さく頷いた。

「松本さん、正社員登用の話がある。文化事業の立ち上げをしたい。答えは急がなくていい。」

「検討させてください。」カナは涙を拭わずに頷き、深く一礼した。

レセプションが終わり、カナは会場の椅子を並べ替え始めた。「松本さん、手伝います。」

「伊藤さん、今日はありがとう。」

「松本さんのトレー、いつも隙間が同じでした。」

「癖です。」

レセプションが終わり、カナは会場の椅子を並べ替え始めた。「松本さん、手伝います。」

「伊藤さん、今日はありがとう。」

「松本さんのトレー、いつも隙間が同じでした。」

「癖です。」控室のドアから美緒が顔を出し、二人を見た。「感覚が揃うのは、長い練習の名残りね。」

「恐れ入ります。」

カナは鞄の雪の飾りに触れ、指先で冷たさを確かめた。お父さん、お母さん、見てて。

翌週、取締役会の資料には片桐の発言と映像のタイムコードが並び、百貨店側は契約見直しの協議を求めた。コンプライアンス研修は全社展開され、派遣会社の担当者はカナに頭を下げて契約更新の書面を示した。

「履歴書の再提出、お願いします。」

「はい、趣味欄。今度は太字で書きます。」カナは笑い、コピー機の濃度を一段上げた。

同じ週、片桐は地方百貨店向けの謝罪フローに差し込まれ、朝の手順に自分の名前だけが赤字で並んだ。百貨店側のメールは「懸命に再発防止を」とだけあり、事務の赤字の追記が毎日増えた。笑ったら終わりだ。でも、笑えない。

3日後、片桐の名刺は肩書きが細く削られ、窓口で差し出すたびに相手の指が一瞬止まった。ガラスの窓に映る自分は、自分を晒した夜の照明の下に立つ他人のように見えた。コンプラ研修は3回目でようやく合格し、会議室を出た夜風はアスファルトの匂いだけがした。同期のチャットは読み上げ専用の通知だけが増え、片桐は既読をつけずに画面を伏せた。妻は子供のプリントにサインし、ニュース通知だけを黙って消した。謝罪メールの下書きは「証人待ち」が数十件貯まり、送信ボタンは震える指先で何度も押された。報告はこの通りです。言い訳はありません。承知しました。

片桐は「謝罪」とだけ打ち、学びの再発防止欄から目をそらした。掲示板の処分概要はA4一枚で、右下のインクが赤くにじみ、片桐は印刷物を鞄の底へ折り曲げて挟んだ。処分欄には名前が乗らず、同期の昇格祝いの弁当写真だけが社内SNSを流れた。

カナは派遣から正社員へ移行し、文化事業準備室のデスクに名札を置いた。初日、机の上に楽譜のコピーを置き、鉛筆の濃さだけ注意した。

「音は怖くない。怖いのは言い訳よ。」

「はい。」

「講師の件、まだ待ってますよ。」

「初めは月1回だけで。」カナは笑い、左手の親指で手のひらをなぞってから鍵盤に触れた。

休みの朝、カナは美緒と小さな墓石の前に花を並べ、水をそっとかけた。「お父さん、お母さん、お姉ちゃんが昨日また弾いたよって。」

「うん。ちゃんと伝えた。」風が髪を揺らし、カナの雪のチャームだけが細く光った。

しばらくして、美緒のスマホに雪の絵文字と「頑張れ」だけのメッセージが届いた。カナが送った写真には、生前の母の顔と、若い頃の父が書いた「音は嘘をつかない」のメモの写りが並んでいた。お父さん、お母さん、また音に戻れる。美緒と一緒に。

渡辺部は別部署で契約書のチェックに戻り、カナに頭を下げて挨拶した。「あの夜、助けてくれてありがとうございました。」

「私は自分のためです。」二人は短く頷き、エレベーターの前で別れた。丸の内の夜風は冷たかったが、カナの肩の力は抜けていた。肩書きじゃなく、どう弾いたかだ。

美緒が隣を歩き、小さく手を振った。「明日も一緒に並べましょう。」

「はい、揃えます。」

翌月、小さなホールで子供向けの体験教室が始まり、カナは鍵盤の数字を黒板に書いた。「お姉ちゃん、早い。」

「指を合わせること。」子供たちは手を叩き、リズムを数え始めた。オリバーは後ろの席で腕を組み、小さく頷いた。「いい授業だ。」

日夏は文化事業の予算書に判を押し、署名した。片桐の机には謝罪テンプレが積まれ、担当先は地方百貨店の窓口担当に固定されたままだった。

ホールを出たカナは空を見上げ、街のざわめきの中で最後の和音だけを思い返した。次は逃げない。お二人の分も、音に責任を持つ。美緒が歩幅を合わせ、二人の影が街灯の下で同じ長さになった。夜の街は明るく、二人は並んで一定の幅で人波に紛れた。