彼女が突然、書類を一枚差し出した。
「三谷京介さん、私と結婚してください。」
その言葉があまりにも自然で、仕事の指示のように端的だったものだから、俺は条件反射で答えてしまった。
「はい、わかりました。」
え、今なんて?
気づいた時にはもう遅かった。彼女は迷いもなく、その書類に署名を促してきた。
「では、こちらに署名と捺印を。」
「今日のことは、どこにも誰にも話してはいけない。いいね。」
俺の名前は三谷京介。先週、三十歳の誕生日を迎えたばかりだ。
身長は百八十五センチ、体重は九十キロを軽く超える元柔道部の俺。社会に出てからは特に運動もせず、ただひたすら飯を食って、地味な営業職を十年近く続けてきた。
正直言って、俺の営業成績は会社でも底辺レベルだった。押しが弱くて、口も達者じゃない。上司からの評価も「人柄はいいが、数字は空っぽ」といったところ。
誰かに頼られることもなければ、注目されることもない。空気のような存在だと自覚していたが、まあ、それなりに居心地よく生きてきたつもりだった。
だからこそ、あの日、突然社長室に呼び出されて「あなたを私の秘書に任命します」と言われた時、思わず「はあ?俺が?」と聞き返してしまった。
鳥越といえば、でかい図体と風邪一つ引かない頑丈な体くらいが取り柄の俺が、よりによって社長秘書?
社長は神宮寺彩佳さんという女性だった。父親である前社長の引退に伴い、社長に就任したばかりだ。
冷静で落ち着いた立ち振る舞いで、経営手腕にも非の打ち所がない。肩までの艶やかな黒髪に大きな瞳がとても美しい。彩佳さん。俺と大して年は変わらないはずだが、その雰囲気だけでこちらが背筋を伸ばしてしまうような気迫がある人だった。
この彼女の秘書が俺?どう考えてもおかしい。
俺の務める神宮寺製薬は、代々神宮寺家が社長を引き継いできた、いわゆる同族経営の会社だった。
神宮寺家には親族が少なく、彩佳さん自身も母親や祖父母を早くになくしており、一人っ子だった。彩佳さんは父親である前社長から、若いうちから「お前が会社を継ぐんだ」と後継者に指名されていたらしい。会社の株式も、その段階で彩佳さんに譲られていたという。
だが、その方針に反対したのが専務の金下平だった。
金下は「同族経営は古い。これからは実力で選ぶべきだ」と主張し、自分こそが次期社長にふさわしいと声をあげた。最終的にその案は却下されたものの、それ以降、社内では神宮寺派と金下派に分かれて、見えない争いが続くようになった。
営業成績もパッとしない俺が急に社長秘書に選ばれた理由も、それに関係しているらしい。
「無能のレッテルを貼られた俺を、あえて秘書につけた。こんな奴がそばにいたら、さすがの女社長も参るだろうってな。」
そう、俺が秘書に任命されたのは、金下専務側が仕掛けた嫌がらせ人事だった。
ただのお荷物として選ばれたのかと思うと、情けなさと悔しさで胸のあたりがじんわり重くなったが、仕方がない。
俺以来、地味で平凡だった俺の日常は、音を立てて変わり始めていた。
冬の朝、まだ日の登りきらない通勤ラッシュの駅のホーム。並に揉まれながら、俺は携帯を片手に今日のスケジュールを確認していた。午後三時、A社との商談。その後、業界イベント。スーツのポケットには社長専用のモバイル端末がある。それを取り出し、タップ操作で予定を社長に送信した。
朝の冷たい空気の中、背広の襟を立てながら歩く俺の方には、最近増えた責任の重みがずっしりとのしかかっていた。
秘書となった俺の勤務初日。
「スケジュールと連絡管理、社外対応、私の移動に関する一切を任せます。」
それだけ言うと、彩佳社長はパソコンに向かって視線を戻した。
冷たいって感じはしないのだが、ただ必要最低限しか言わない人なのだ。
これから半年、俺は社長の右腕として必死に仕事を覚え、こなしてきた。いや、右腕と呼ぶにはまだ早すぎるか。だけど、彼女の時間と効率を損なわないように、細かい準備と気配りを徹底してきたつもりだ。
この日も変わらず彼女の前に立ち、報告をする。
「今日のスケジュールですが、十五時からA社長との会談。その後、Bホテルで業界イベントです。」
「移動手段は?」
「車両で…いえ、電車で行きます。経費削減の一環です。」
パソコン画面から目を離さず、きっぱりと言い切る。この姿には、無駄な贅沢を許さない経営者としての厳しさが滲んでいた。
だが、どこか無理をしているようにも見える。目の下にはくま、昼食を抜くことも少なかった。彩佳社長。体に無理があることは、俺の目から見ても明らかだった。
そう思っていた矢先のことだ。
その日、A社との会談を終え、駅の階段を降りようとした時、隣を歩いていた彩佳社長が小さく唸り声をあげてふらつき、俺の腕にもたれかかってきた。
「社長!」
手を伸ばし、彼女の体を支える。見れば顔が真っ青だ。完全に意識を失い、小刻みに手足が震えている。肌も異常に冷たく、冷や汗もひどい。
「社長!」
呼びかけても反応はない。俺は彩佳さんの口元に顔を近づけて呼吸を確認し、ついでに手首に触れて脈拍を取る。どちらも辛うじて正常範囲だが、その様子は明らかにおかしかった。
このままじゃまずい。
急いで一一九に電話した後、俺は呼吸を確保するために彼女の体を仰向けに寝かせ、シャツのボタンを緩めた。その時、彼女の腹部に、肌に直接張り付くような小型の医療機器があるのに気づいた。
それは、もしかしてインスリンポンプか?そう思って無意識に手を当てた瞬間、
「何してるの?」
はっとして顔をあげると、彼女がうっすらと目を開けていた。その目元には微かな怒りと困惑が浮かんでいる。
「ち、違います!確認しようとしただけで…」
俺は慌てて鞄に入れて持ち歩いている飴を取り出した。意識があるうちに、少しでも糖分を補給させたい。
彩佳さんはわずかに口を開き、差し出した飴を口に含んでくれた。やがて表情が少し穏やかになり、安心したものの、俺への視線は鋭いままだった。
数分後、意識が戻った彩佳さんは、かれた声でこう言った。
「あなた、私の体に触れましたよね。」
迂闊だった。緊急時とはいえ、女性の衣服を緩めた上、同意を得ることなく体に触れてしまったのだ。誤解を招いたとしても仕方のないことだろう。
「あ、いや、これは…すみません!でも…」
どもりながら事情を説明しようとするが、その間もなく通報を受けた救急隊が到着し、彩佳社長は慌ただしくストレッチャーに乗せられて搬送されていった。
次の朝、出社すると社内が異様に騒がしかった。彼に聞かずとも、ただならぬ空気が伝わってくる。会議室の前ではスーツ姿の幹部たちが小声で何かを話し合っていた。
「午後から緊急で取締役会が開かれるらしい。社長の健康に関わる話だとか言ってたぜ。」
そんな噂がすでに社員の間に広がっていた。
昨日、彩佳社長が突然倒れたあの一件は、誰にも知られていないはずだ。公表もしていない。あの時、俺が応急処置をしていた時、それを見ていた人が一人だけいた。
社長室の室長、織田さんだ。
織田さんは数年前に定年を迎えていたが、今も嘱託として会社に残っている。表向きは事務職だが、実態は彩佳社長の側近そのもの。影のように社長の身を長年支えてきた存在だった。
社長の体調に異変を感じた俺が急いで飴を差し出した時、偶然居合わせた織田さんはそれを見て小さく目を見開いていた。そして静かに口を開いた。
「今日のことは、どこにも誰にも話してはいけない。いいね。」
低く鋭い声だった。命令というより、忠告に近い響きだった。俺は黙って頷いた。
誤解されたままの状況も気になっていたが、それ以上に織田さんの言葉の裏に含まれた何かに引っかかっていた。
社長の健康に関わる話で開かれるという緊急の取締役会。織田さんが何か関わっているのだろうか。
幸い、彩佳社長は命に別状はなく、その後は自宅で安静にしていると聞かされていた。午後からは出社するという。俺は心の準備をしながら席に着いた。
社長が戻ってきたら、まずはしっかりと事情を話しておきたい。誤解を解くチャンスは今日しかないかもしれない。
そう思った矢先、俺宛てに一本の内線が入った。
「三谷さん、社長室まで来てください。」
慌てて脱いでいたスーツの上着を羽織り、早足で社長室へ向かった。社長室のドアをノックし、深呼吸で気持ちを落ち着けてから、そっと扉を開ける。
中に足を踏み入れた俺は開口一番に言った。
「すみません!俺が社長のご病気に関して何かを漏らしたということは、絶対にありません!」
社長は椅子に腰かけたまま、じっと俺を見つめていた。そして、そばにいた織田室長も静かに頷いている。
「うん。それは分かっているよ。」
え、問い詰められる覚悟をしていた俺は面食らってしまった。てっきり「なぜ漏らした」と責められると思っていたのに。まるで最初から俺の潔白を信じていたような口ぶりだ。
けれど空気は重い。織田室長の顔にも彩佳社長の顔にも、言葉にできない緊張感が漂っている。
「じゃあ、問題は何だ?俺が社長の体に触れたことか?」
無我夢中だったとはいえ、女性の体に触れるという行為には、言い訳が通用しない重みがある。
「あの、社長。その誤解です!本当に下心なんてそんなものは一切なくて、俺はただ…」
「分かっているわ。」
ようやく口を開いた彼女の声は、驚くほど冷静だった。目だけがわずかに鋭くなっている。
「まさか、あなたがそんなことを目的に動くような人だとは思っていないわ。あなたの対応は、処置として間違っていなかったと思う。」
え、まさかそんな言葉が返ってくるとは思ってもいなかった。胸の奥にわだかまっていたものが、少しだけ柔らいだ気がする。
だがすぐに、彩佳社長は言った。
「時間がないから、単刀直入に聞くわ。あなた、私の病気のことに気づいたのよね。あの状況で飴を差し出すだなんて、知識がなければできないことだ。違うかしら。」
「はい。社長の衣服を緩めた際、お腹に取り付けられていたものに気づきました。あれはインスリンポンプですよね。」
「そう。私は先天的な病気で、自力でインスリンを生成できない体なの。だから常時ポンプで血糖値を調整してる。先日はインスリンの投与量が誤っていて、低血糖を起こして…」
彼女はそう言って、まっすぐ俺を見つめ、静かに頭を下げた。
「本来なら秘書であるあなたには、あらかじめ説明すべきだった。事情があってそれができなかったにも関わらず、適切に対応してくれて本当に感謝してるわ。ありがとう。」
俺は咄嗟に何も言えなかった。叱られると思っていたのに、まさか感謝されるなんて。戸惑いと安堵と、そして、ほんの少しの誇らしさが胸に広がっていく。
「でも、どうしてあれがインスリンポンプだとすぐに分かったんだ?」
「ああ、それは俺の母親が同じ病気だったからです。」
少しだけ視線を落とす。あの日のことが自然と蘇える。
「もう亡くなってますが、母はずっとインスリンポンプを装着していました。俺は子供の頃から低血糖や高血糖に苦しむ母のケアを手伝っていて。だから、あの時は反射的に体が動いたんです。」
社長の瞳が一瞬揺れたように見えた。だが、すぐにいつもの冷静な表情に戻る。
「そう…あなたの経験が、私を救ってくれたのね。」
そう言った彼女の声には、微かな温度があった。
そして、彩佳社長と織田室長は二人だけで、黙々と話し込み始めた。どうやら俺の話に一定の納得を得たようで、もう俺の存在は視界から外れてしまったらしい。会話の内容から察するに、これから行われる緊急の取締役会に向けての対策を練っているようだった。
話も解けたようだし、俺がここに居続ける意味はなさそうだ。そう思って席を立とうとした、その時だった。
「三谷君は独身だったね。恋人はいるのかね。」
何の前触れもなく投げかけられた問いに、思わず抜けた声で答えてしまった。
「いや、いませんけど…」
なぜそんなことを聞かれたのか、まるで分からない。頭の中に疑問符がいくつも浮かぶ。意味を探っているうちに、織田室長が淡々と、
「では、法的には問題ない。しかしなあ…」
と、何かを諦めたように呟いた。その時だった。
「時間がありません。」
彩佳社長が俺の真正面に立ち、じっとこちらを見つめて口を開いた。
「三谷京介さん、私と結婚してください。」
「はい、わかりました。」
って、今なんて?
あまりにも自然に仕事の指示のように端的に言われたものだから、条件反射で返事をしてしまった俺。すると彼女は迷いもなく、書類を一枚ひらりと差し出してきた。
「では、こちらに署名と捺印を。」
その紙に目をやった俺は、思わず息を飲む。それは紛れもなく婚姻届だった。
神父の欄には「神宮寺彩」の文字が丁寧に書かれ、住所や生年月日、そして署名まで、すべて記入が終わっている。
「え、ど、どういうこと?」
気がつけばデスクの前に座り、ペンを手にしていた俺。だが、ようやく思考が追いつき、かれた声を絞り出す。
「社長、意味が分かりません。これ、婚姻届けですよね。結婚するってことですか?俺と彩佳社長が。」
「ええ。でも、これはあくまで業務上の結婚です。」
「え?いや、ますます意味が分かりませんが…」
混乱する俺を見て、さすがに気の毒に思ったのか、織田室長がようやくことの次第を説明し始めた。
現在、社内では金下派と神宮寺派による経営権争いが加速している。彩佳社長の持病は一部の側近以外には秘密にされていたが、先日の倒れた件で隠し通すことが難しくなった。
彼女は近々、病状を改善するための手術を受ける予定なのだが、その入院期間中に経営の主導権を奪われる可能性がある。最大の問題は、彼女が保有する株式だという。
社長は筆頭株主であり、その株式には「本人が経営不能となった場合、取締役会の承認を得なければ譲渡できない」という制限が設けられている。
つまり、手術で万が一の事態が起きれば、彼女の持ち株は会社に強制的に売却される可能性がある。しかし、仮に彼女が結婚していれば、法的には夫がその株を相続する権利を持つらしい。
「取締役会の構成を見る限り、今のままでは金下派が議決を主導する恐れが高い。だが、配偶者がいれば話は別だ。相続優先権があるからな。」
つまり、彩佳社長が手術に臨むためには、その前に「夫」という盾が必要なのだ。
「というわけで、結婚していただけますか?」
そう言って、再び差し出された婚姻届。俺はまだ戸惑っていたが、目の前の二人の真剣な眼差しに、なぜかそれを断るという選択肢は浮かばなかった。
彩佳さんは綺麗で聡明。クールなところはあるが、優しくて素敵な女性だ。こんな完璧な女性と結婚できる未来なんて、想像もしてなかった。
俺は覚悟を決め、婚姻届に署名した。
社長はその後、厳しい取締役会の危機をなんとか切り抜けたが、突然現れた夫の存在には、金下派の疑いの目が向けられた。法律上は彩佳社長と夫婦となったわけだが、俺は秘書を続けていたし、業務は表向き何も変わらずに進んでいた。
すぐに「偽装結婚ではないか」と社内外で噂されるようになる。しかも、最近は会社でもプライベートでも監視の視線を感じる。特に彩佳さんと一緒にいる時は、その違和感が肌に突き刺さるほどだ。
「三谷君、気をつけてくれ。どうやら金下派は社外にも探偵を雇って、君たち二人の動きを監視しているらしいから。」
俺は戦慄したが、織田さんは続けた。
「偽装結婚の証拠を掴まれたら終わりです。だから、日常から夫婦らしい振る舞いを意識するように。彩佳社長にも言ってあります。」
しかし、俺には夫婦らしい振る舞いがまるで分からない。大学の時恋人と別れてから、もう何年も一人だった俺。いきなり夫婦らしく仲睦まじく行動しろなんて。そんなことを想像するだけで頭が混乱し、心臓がバクバクする。
だが、彩佳さんはいつものごとく即行動だった。
「今日から、私のことは『彩佳』と呼び捨てにしてください。仕事でもプライベートでもです。」
彼女の言葉には、いつもの冷静な表情に加え、どこか不敵な決意が滲んでいた。俺はただ呆然と立ち尽くしながら、未知の偽装夫婦生活の幕開けを覚悟した。
それから俺たちは、社内外でラブラブの夫婦として振る舞うことになった。
わざとらしくカフェの窓際の席に座ってランチをした時は、
「はい、京介も食べてみて。美味しいよ、このケーキ。」
なんて言って、小さく切り分けたケーキをフォークに乗せ、俺の口元に差し出した。
「あ、うん。美味しいよ。あ、彩佳…」
顔がほんのり赤くなっているのを自分でも感じた。こんな風に甘えたり、甘えられたりすることなんてなかったから、戸惑いが胸の中で渦巻く。
嬉しい気持ちと恥ずかしさが入り混じって、どうしていいか分からない。でも、その一瞬の距離の近さが、まるで今まで見えなかった彩佳さんの別の顔を見たようで、不思議と心が温かくなった。
また、夫婦なのに別々の家に帰るのは不自然すぎるということで、俺は彩佳社長の住むマンションに泊まることになった。タワーマンション最上階にある彩佳さんの部屋。窓の外には煌めく都会の夜景が広がっていた。さすが社長の住まいだ。
もちろん寝室は別。だけど、彩佳さんの住むこの部屋で同じ空気を吸うだけで胸が騒ぐ。自分の置かれた状況が未だに飲み込めず、ぼんやりとソファーに沈み込んでいた俺の前に、風呂上がりのすっぴんTシャツ姿の彩佳さんが現れた。
仕事中とは違う、彼女の無防備な素顔。思わず目を奪われる。
「す、すみません、社長!」
まじまじと見てしまった自分を恥じて目をそらすが、熱い。気まずさを紛らわせようと立ち上がろうとした、その時だった。
「社長じゃなくて、彩佳でしょ。」
少しだけ口元を緩めた彼女の声に、鼓動が跳ね上がった。
「そんなに見つめられると、照れちゃうわ。」
冗談めかした口調とは裏腹に、その言葉の後、彩佳さんはふらりと足元をよろめかせた。
「彩佳さん!」
慌てて立ち上がった俺の前で、彩佳の膝がかくんと折れた。俺はとっさにその体を抱き止めた。
「だ、大丈夫ですか?」
抱き寄せた彩佳さんの肌はいつもより冷たく、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。顔色も青白い。これは、また血糖値が下がってる。
すぐさまソファーに彼女を座らせ、非常用に置いてあったブドウ糖入りのキャンディを取りに走る。
「彩佳、これ、ゆっくりでいいから。」
彼女はわずかに頷き、差し出したキャンディを口に含む。唇がわずかに震えている。
「ありがとう、京介。」
か細くこぼれた声を聞いて、俺は心の底から安堵した。
「無理しないで。今はもうラブラブ夫婦のふりとか、後回しでいいですから。」
「…そう言ってくれるあなたが夫で、本当に良かったかも。」
その微笑みは演技じゃなかった。
そして、キャンディを舐め終えた頃には、顔色もほんのり赤みを取り戻した彩佳さん。リビングには柔らかな間接照明の光だけが灯り、都会の喧騒とは別世界のような静けさがあった。
ソファーに座ったまま、彩佳さんがぽつりと口を開く。
「ごめんなさい。また心配かけたわね。」
「いいえ、俺の方こそ、もっと早く気づけたらよかった。」
「でも…こうして誰かと過ごす夜が、こんなに安心できるなんて思ってなかったわ。」
彼女の瞳が、窓の外の夜景ではなく、まっすぐに俺を見つめていた。
「社長になった時、正直すごく怖かったの。私の病気のこと知られたら、信用されないかもしれないって思って。倒れた時、全部終わったって覚悟したわ。でも、京介が助けてくれて…それがすごく嬉しかった。」
俺は黙って頷いた。彩佳の言葉が胸にじんわりと染みてくる。
「俺の母も、低血糖で倒れたこと何度かあって。まだ子供だったから、俺、よく分かんないまま、ただ手を握って、震えてる母を見てるしかなかった。」
「そうだったの。」
「だからあの時も、彩佳さんの顔を見た瞬間、体が勝手に動いてました。あの時助けられなかった母の代わりにって気持ちも、少しあったのかもしれません。」
彩佳さんはそっと目を伏せると、膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめた。
「私は誰にも迷惑をかけたくなかった。でも…強がってるだけだったのよね。本当は怖くて、孤独で。でも…今は、一人じゃない気がしてる。頼っていいって、そう思わせてくれる人がいるって…いいものね。」
「俺でよければ、いつでも頼ってください。」
ふと、彩佳さんの肩が小さく震える。彼女の中の何かが、ふっと緩んだような気がした。
「ありがとう、京介。」
そう言って微笑んだ彼女の顔は、これまで見てきたどんな表情よりも自然で温かかった。
この夜、俺たちはただ静かに同じ時間を共有していた。
「ねえ、京介。」
「ん?」
「もし私が、人より少しだけ早くいなくなるとしても、あなたは驚かない?」
不意に向けられた言葉に、俺は一瞬言葉を失った。彩佳さんはどこか遠くを見つめるようにして、静かに続けた。
「医者には、きちんと管理していれば普通の人と変わらないって言われてる。でも、完璧にできる人なんていないでしょ。私自身、どこかでそれを受け入れてる。」
彼女の声は穏やかだった。まるで春の終わりの風のように優しくて、どこか切ない。
「それでもね、だからこそ、やりたいことは全部やっておきたいの。社長としてもそうだけど、一人の人間としても。恋も、旅も、笑って泣くことも。全部ちゃんと体験して、ちゃんと終わらせたい。」
「終わらせたい」というその言葉が、胸に突き刺さる。目の前にいる彼女が、限られた時間の中で生きようとしていることが、初めて痛いほどリアルに感じられた。
俺は何も言えずに、ただ拳を膝の上で握りしめていた。少しでも言葉を返せば、声が震えてしまいそうだったから。
「我慢してる時間なんて、私にはあまりないのかもしれない。だったら、誰に何と言われようと、後悔しない生き方を選びたい。」
静かな決意が、彼女の横顔に滲んでいた。強がっているわけじゃない。彩佳は限られた命の時間と、本気で向き合っている。
俺は胸の奥が熱くなるのを感じながら、絞り出すように口を開いた。
「俺の母も同じでした。病気と向き合いながら、最後まで自分のことより家族の心配ばっかりしてて。もっと母に幸せを感じさせたかったけど、俺、何もできなかった。」
彩佳は黙って俺の言葉に耳を傾けていた。
「でも、今、彩佳が目の前にいてくれる。だったら俺はやります。俺が母にしてあげられなかったことを、彩佳に全部やります。どこにだって一緒に行くし、食べたいもの、見たい景色、全部叶えます。彩佳の時間が一つも無駄にならないように。いや、むしろ…死ぬまでずっと笑わせてみせます。」
気づけば、彩佳は目を伏せて唇を噛しめていた。
「京介…ずるいわ。そんなこと言われたら、ずっと、ずっと生きてたいって思っちゃう。」
声がかれてた。けれど、その目には涙ではなく、力強い輝きがあった。
「ずっと生きててくださいよ。俺のためにも。」
しばらく何も言わずに見つめ合っていた。部屋の中には静かな空気だけが流れていたけれど、互いの思いは確かにそこにあった。
あの日から、俺は彩佳の「残された時間」ではなく、これからの時間を守ろうと決めたんだ。
これからの数週間、俺と彩佳は彼女のやってみたかったことを、少しずつ叶えていった。有名パティスリーのアフタヌーンティー。夜の遊園地。季節外れの花火大会。行き先も決めずに乗った新幹線で降り立った知らない町では、二人で焼き魚定食を食べ、道の駅で変なストラップを買って笑い合った。
誰に見せるでもない、二人の時間。
気づけば、いつも感じていた誰かからの視線も消えていた。織田室長の言葉によれば、金下派はもう俺と彩佳の結婚が偽装だと主張する材料を失い、彼女から株式を譲渡させる目論見を諦めたらしい。
その知らせが届いた翌週の金曜日。仕事を終えてマンションに戻ると、リビングにいた彩佳が少しだけ硬い表情で俺を迎えた。
「そろそろ、離婚のことを考えないとね。」
その一言に、胸が詰まる。
「元はといえば、緊急の業務上の結婚だったんだし。今となっては、もう必要ない契約だよね。」
言い方は冷静だったけど、どこか寂しげも感じられた。
俺も「そうだ」と頷かなきゃいけないはずだった。実際、契約を続ける理由はなくなったし、俺がこのまま社長の夫としていても、どこにも意味はない。
でも、俺には言えなかった。
一緒に笑った時間、一緒に泣いた時間、彩佳の体調が優れず必死で看病した夜。ただの仮初めで済ませられるような、軽いものじゃなかった。
それでも。
「…分かってます。俺も、ちゃんと分かってるつもりです。」
少し声が震えた。
「この数ヶ月、すごく楽しかったです。演技だったとしても。でも、自分の立場は弁えてますから。」
彩佳にとって、俺はただの秘書で、便利に使えた相手役に過ぎない。俺はそれ以上を望んじゃいけない。そう思った。だから、俺は机の引き出しから、契約の時に用意してあった離婚届を取り出す。
でも、差し出そうとした、その時。
「本当に、それでいいの?」
彼女がまっすぐに俺を見ていた。目に浮かぶ、うっすらとした涙の光。その問いかけが、静かに、だけど鋭く心に突き刺さった。
俺は答えられなかった。答えられるはずがなかった。
俺は確かに仮の夫だった。でも、全部演技だったのか。
彩佳の寝顔を見て安心した夜。くらつく彼女を支えて、その手が微かに震えていたこと。旅先で笑った横顔。コーヒーを入れながら、無防備に「お帰り」と言ってくれる声。全部が愛しかった。それを「契約だった」なんて言いたくなかった。
俺はそっと、手に持っていた離婚届を見つめた。そして、一気に真ん中から破いた。
破れた紙片が床に散る。彩佳が、少し驚いた表情でこちらを見た。
「俺…本気で好きになってました。俺の前ですっぴんで笑ったり、はしゃいだり、迷ったりする、あの彩佳って女性を。」
言葉が震え、息が詰まる。でも目はそらさなかった。こんなにまっすぐ彼女を見たのは、きっと初めてだ。
「結婚を、業務上なんて言わせたくない。これからも、俺はあなたを守りたい。」
彩佳は少しだけ目を見開いたまま、何も言わなかった。俺は一歩、彼女の前に出て、膝をついた。
胸ポケットから、小さな箱を取り出す。この日のためにと用意したわけじゃない。でも、どこかでそうなる未来を心の奥で願っていたのかもしれない。
「病気のことも、会社のことも、俺は全部知った上で、彩佳と行きたい。母さんにしてやれなかったことを、あなたに全部したい。だから…結婚してください。」
彩佳は長く、何かをこらえていたようだった。小さく唇が震える。そして、ぽろっと涙が落ちた。
「本当…バカなんだから。」
でも、その声は微かに笑っていた。
「今更、もう取り返しがつかないくらい、私もあなたのことを好きになってるのよ。ずっと言いたかった。」
そして、彩佳はそっと箱を受け取り、指輪を見つめた。
「お願いします。京介さん、私の夫になってください。」
笑いながら泣く彩佳を見て、俺ももうこらえきれなかった。
プロポーズから数日後、彩佳の手術が無事に終わった。彩佳の体は医師の予想を超えるほどに回復を見せ、長年苦しんできた血糖値の乱れも落ち着いた。定期的な通院と注意は必要だが、もう倒れるようなことはないだろう。そう、医師は断言した。
「あなたは強い人だね。」
退院の日、医師がそう言った。俺の隣で穏やかに微笑む彩佳を、俺は思わず抱きしめた。
そして、さらに奇跡が起こる。
それは春の終わり。どこかぼんやりした顔の彩佳が、こっそり病院に行った日のことだった。
「できてたの。」
「え?」
「赤ちゃん、いるって。奇跡だって、先生に言われた。」
声が震えていた。俺は言葉を失ったまま、ただ彼女を強く抱きしめた。
子供は望めないと思っていた。医師からもずっとそう言われてきた。けれど、奇跡は静かに、確かに俺たちの元へやってきたのだ。
それからの毎日は、忙しくも幸福に満ちていた。彩佳は妊娠中も可能な範囲で社長業を続け、俺は秘書として彼女を支えながら、家事や検診の送迎も全てこなした。
そして迎えた出産の日。彩佳は俺の手をぎゅっと握りながら、必死に耐えていた。汗に濡れた額、噛みしめる唇。それでも、泣き声が響いた瞬間、彩佳の目に涙が溢れた。
「初めまして。ようこそ。」
俺たちは、その奇跡の瞬間に同時に声をあげた。
月日は流れ、ある日曜の朝。彩佳が焼くパンケーキの甘い匂いに包まれたリビングでは、二歳になったばかりの娘がすやすやと値息を立てている。
「ねえ、京介。あの時、離婚なんてしなくて、本当に良かったね。」
「ああ。俺の人生で一番正しい判断だったよ。婚姻届を破って、本当に良かった。」
二人で笑い合う。心から温かな笑いだった。
仮の結婚は、本物の家族へと育っていた。不安も涙も全部超えて、今、幸せのど真ん中にいる。
俺はいつも心に誓っている。
「母さん。彩佳と娘と一緒に生きていくよ。これからも、見守っててね。」
窓の外には、優しい春の光が差し込んでいた。


