入社三日目の朝、桜水希は自分の手元に注がれる視線に気づいた。握っていたのは、検査記録の矛盾をメモした紙だ。背後に立っていたのは事務の遠藤浩司だった。
「それ、何のメモだ?」
水希が慌てて隠そうとした瞬間、遠藤の手がメモを奪い取った。ページをめくる彼の顔から血の気が引いていく。だがそれは一瞬で、すぐに冷たい表情に塗り替えられた。
「新人が余計な真似をするんじゃない」
低い声がフロアに響いた。周りの職員が一斉に手を止めて二人を見つめる。
「真似ではありません。患者さんの記録が見当たらなかったので」
水希が精一杯の声で説明しようとするが、最後まで言わせてもらえない。
「言い訳はいい。お前は元々戦力外だったんだ」
遠藤はメモを机に叩きつけ、鼻で笑った。
「どうせ大した額もないくせに。入社三日でこの態度か。うちの病棟にはいらない人材だ」
その一言で、フロア全体の空気が固まった。同じ班の高橋さだえは拳を握りしめたが、何も言えなかった。水希は反論の言葉を探したが、喉の奥で凍りついた。理不尽だと分かっていても、新人の立場では抗う術がない。
「本日付けで契約を打ち切る。荷物をまとめて出て行ってもらう」
遠藤が人事に内線をかけ始めた。水希は唇を強く結び、涙だけは見せまいとした。荷物をまとめる背中に、遠藤はさらに追い打ちをかけた。
「次の職場では、もう少し空気を読むことだな」
見送りに立つ遠藤の口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。全てはこれで終わったはずだった。
荷物を抱えた水希がエレベーターホールに立つ。遠藤が監視するように後ろに控えている。到着を告げるチャイムが鳴り、扉がゆっくりと開いた。中に人影があるのを見て、水希は反射的に会釈しようとした。だが、その顔を見た瞬間、体が固まった。
「あれ?お父さん、なぜここに?」
思わず漏れたその言葉に、遠藤もさだえもはっきりと反応した。そこに立っていたのは、病院グループ理事長の神崎竜一。水希の父だった。
「水希…」
竜一の声にも、隠しきれない動揺が滲んでいる。エレベーターホールの空気が凍りついた。遠藤の顔から血の気が引いていく。
「理事長の娘…」
さだえが呆然と呟く。周囲から小さなざわめきが広がった。竜一の視線が、水希の腕に抱えられたダンボール箱に落ちた。その中身は、私物とロッカーの荷物に他ならなかった。
「その箱は何だ?」
低く、しかし静かな声が響く。水希は答えに詰まり、遠藤の方をちらりと見た。遠藤は凍りついたように、その場から動けずにいた。
「説明してもらおうか」
竜一の声は静かだが、言い逃れを許さない響きがあった。遠藤は喉を鳴らし、なんとか笑顔を作ろうとした。
「いえ、その…ただの人事の判断でして」
「戦力外だから、と聞こえたが?」
竜一は容赦なく切り返した。遠藤の額にじっとりと汗がにじむ。
「新人の教育の一環として、少し厳しくしただけです」
苦しい言い訳が続く。
「入社三日の人間の何を教育したと言うんだ」
竜一の口調が一段と鋭くなる。水希は父の背中に隠れるようにして立ち尽くしていた。本当はこんな形で正体を知られたくなかった。理事長の娘という肩書きで何かを覆り返してほしいわけではなかった。
「お父さん、もういいから」
小さな声で水希は竜一の袖を引いた。だが竜一は、娘の声にも視線を遠藤から外さない。
「彼女が何を見たのか、正直に言ってみろ」
遠藤の脳裏に、レセプトの数字がよぎった。
「別に何も…」
しかし、その声は明らかに震えていた。さだえはその様子を見て、確信めいたものを覚える。遠藤が慌てて隠そうとしていたのは、単なる指導問題ではない。竜一もまた、遠藤の態度に何かを感じ取っていた。
「今日のところはこれで失礼する」
竜一は静かにそう告げた。だが、その目にはまだ言いたげな色が滲んでいる。遠藤は深く頭を下げながら、内心で安堵していた。この場はなんとか凌いだつもりだった。だが、本当の嵐はまだこれからだ。
翌日、病院内には奇妙な緊張が漂っていた。水希の正体はまたたく間に院内中に広まっていた。すれ違うたびに、好奇と困惑の入り混じった視線が突き刺さる。手のひらを返したように愛想よく話しかけてくる同僚もいる。一方の遠藤からは、思いがけず電話がかかってきた。
「先日は言葉が過ぎました。どうか戻ってきてください」
その声には、明らかに媚びるような響きが滲んでいた。水希は違和感を覚えながらも、その場では返事を保留にした。父の竜一は、あの日以来一度も口を出してこなかった。
「決めるのはお前自身だ」
その一言だけを残して去っていった。さだえに相談すると、彼女は難しい顔で腕を組んだ。
「戻るなら、ちゃんと理由を確かめてからにして」
さだえのその忠告には、確かな実感がこもっていた。実はさだえ自身も、こっそり調査を進めていたのだ。過去数ヶ月分のレセプトを休憩時間を削って照合していた。そこには、水希が気づいた矛盾と同じパターンがいくつも眠っている。担当を外れた田中文さんからは、「あなたは何も悪くない」と書かれた手紙が届いていた。
「一人で抱え込まないで。私も一緒に確かめる」
さだえは静かに言った。その言葉に、水希の胸の奥が少しだけ温かくなる。遠藤は院内に向けて「円満な人事だった」と説明して回る。表向きには、全てが丸く収まったように見えた。だが、それはあくまで表向きに過ぎない。水希とさだえは、その裏で密かに手を組み始めていた。
深夜の医局には、水希とさだえの二人だけが残っていた。周囲にはもう誰もおらず、非常灯だけが廊下を照らしている。パソコンの画面には、削除されたはずの検査記録が並んでいた。バックアップサーバーには、消し忘れたデータが残っている。さだえがシステム管理者に頼み込み、閲覧許可を得ていたのだ。
「見て、これ」
さだえの指が、ある取引先の名前を示す。アクロスコンサルティング。外部発注先として頻繁に登場していた。聞き覚えのない、実在するかどうかも怪しい会社名だった。実施された形跡のない検査に、まとまった費用が計上されている。金額を一件ずつ積み上げていくと、目眩がするほどの数字になった。
「これ、一年や二年の話じゃない…」
不正な発注額を積み上げると、実に三億二千万円にも達していた。声にならない声が二人の口から漏れる。さらに調べを進めると、検査省略の記録も浮かび上がってきた。その中に、田中文さんの名前があった。胸の異常が、まさにこの時期に見逃されていたのだ。
「これはただの横領じゃない」
さだえの声が硬くなった。
「人の命に関わる問題だよ」
水希もまた、拳を握りしめた。
「どうする?このまま黙っているわけにはいかない」
「でも、証拠として認めてもらうには、もっと裏付けがいる」
二人で頷き合い、必要なデータを慎重に保存していく。その時、廊下に足音が響いた。二人は反射的に画面を閉じて息を潜めた。足音はゆっくりとこちらに近づいてくる。扉の前で、その音がピタリと止まった。
扉がゆっくりと開き、廊下の明かりが差し込んだ。そこに立っていたのは、竜一だった。
「こんな時間に何をしている?」
低い声が問いかける。水希とさだえは、思わず顔を見合わせた。ごまかしようがないと悟り、水希は画面を竜一に向けた。竜一の目が、みるみる画面の数字に釘付けになる。
「架空発注…検査省略…総額三億二千万円…」
医師としての顔が、竜一の中で俄かに目覚めた。
「この検査省略で、患者に何かあったのか?」
その声は震えていた。
「田中文さんです。合併症の兆候を、危うく見逃すところでした」
水希は静かに答える。竜一の拳が、机の上できつく握られた。医療を金儲けの道具にする者を、竜一は誰よりも許せない。それから竜一は水希へと視線を移した。正体を隠して現場に立ち続けた娘の覚悟を、今更ながら思い知る。
「一人で抱え込ませて、悪かったな」
竜一の声が、初めて少しかすれた。
「私も、さだえさんがいてくれたから」
水希は隣に立つ先輩を見た。さだえもまた、長年の違和感がようやく報われた気がする。
「よくやった。二人とも」
その声には、確かな怒りと感謝が滲んでいた。
「ここから先は、私が動く」
竜一は静かに、しかしはっきりと告げた。翌朝、病院内に緊急理事会の招集がかかる。誰にも知らせず、静かに、しかし確実に事は動き始めていた。遠藤にはまだ、何も気づかれていない。
その朝、遠藤の元に届いたのは、簡素な一枚の招集通知だった。臨時理事会。議題は追って通知する。その素っ気なさに、妙な胸騒ぎを覚える。遠藤は自分のパソコンを開き、例のデータを確認した。手が震えるのを感じながら、関連のファイルを次々に削除していく。
「これで証拠は消えた」
遠藤は独り言をつぶやきながら、安心して息を吐いた。だが、その油断こそが命取りだった。データはとうに、さだえの手によって別の場所へ保存されている。遠藤はさらに、外部業者への電話に手を伸ばした。
「例の請求書の件、記録をこちらの都合に合わせて直しておいてくれ」
何年も前から、こうして口裏を合わせてきた相手だった。電話の向こうで、担当者は渋い顔で了承した。口裏合わせという新たな罪が、また一つ積み重なる。経理にも手を加えようとしたが、操作の履歴は消せない。システムには、全ての改変が静かに記録され続けていた。皮肉にも、隠そうとする努力そのものが証拠を増やしていく。遠藤はそのことに、最後まで気づかなかった。
会議室へ向かう足取りは、いつも通り堂々としている。遠藤は扉に手をかけた。その扉の向こうで、竜一がすでに静かに待っていた。
理事の扉を開けた瞬間、遠藤の足が一瞬止まった。もの理事に加え、なぜか水希とさだえの姿もそこにあった。
「なぜ彼女たちがここに?」
遠藤の声に、隠しきれない動揺がにじむ。竜一は答えず、ただ静かに正面の椅子を差し示した。促されて席についた遠藤の前で、大型モニターが点灯する。映し出されたのは、削除したはずのレセプトデータだった。架空発注先の名前。そして、三億二千万円という数字。理事たちの間に、重苦しいざわめきが広がった。
「これは何かの間違いです。悪意ある捏造かもしれません」
遠藤は声を張り上げた。その声には、明らかな焦りが滲んでいる。そして彼は、すぐに標的を水希へと向けた。
「解雇されたことを恨んで、こんな話をでっち上げたんでしょう?」
その言葉に、会議室の空気が一瞬揺れた。さだえの拳が、机の下できつく握りしめられる。
「証拠は全て、システムに記録が残っています」
さだえは落ち着いて言い返した。その声に、迷いも震えもなかった。水希もまた、まっすぐに遠藤を見据える。だが竜一は、表情を一つ変えず静かに口を開いた。
「捏造かどうかは、この後すぐにわかる」
遠藤の顔から、みるみる余裕の色が消えていった。竜一が傍らに置いていた一枚の資料を静かに取り出す。それは外部業者との通話記録を起こしたものだった。録音自体は、さだえがシステム管理者を通じて正式に確保していたものだ。
「例の請求書の件、記録をこちらの都合に合わせて直しておいてくれ」
遠藤自身の声が、余韻のない文字となって並んでいる。息を飲む音が、会議室のあちこちから漏れた。
「その声は、まさしくあなたのものだそうですね」
竜一は淡々と告げる。遠藤の顔から、完全に血の気が引いていく。
「録音の許可なんて、法的にどうなんだ?」
遠藤は食い下がった。
「業務上の通報を目的とした記録は、正当な証拠として扱われます」
さだえが冷静に答える。その言葉に、遠藤は返す言葉を失った。さらに、外部業者にもすでに事実確認の連絡が入っていた。電話の相手は観念し、口裏合わせの依頼を認めていたのだ。
「もう限界だ」
誰かが小さく呟くのが聞こえた。その声に頷く理事が、次々と現れる。これでもう、言い逃れの余地はどこにも残っていない。理事たちの視線が、一斉に冷ややかなものに変わった。水希はその光景を、ただ静かに見つめていた。これは復讐ではなく、必要な決着なのだと自分に言い聞かせる。
「弁護士を呼ばせてもらう」
遠藤はかすれた声で、それだけを絞り出した。だが、その声はもはや誰の同情も買わなかった。竜一は最後に、もう一枚の書類を取り出した。それは田中文さんの診療記録の写しだった。
「この患者の名前に、見覚えはあるか?」
竜一の声が、初めて震える。遠藤の顔から、完全に表情が消えた。経過観察のための心臓検査が、コスト削減を理由に見送られていた。その省略が、まさにこの患者の心不全の兆候を見逃す原因になる。発見が数週間遅れていれば、命に関わる事態もあり得た。幸い、水希は入社二日目の時点で異変に気づき、退職前にカルテ再検査の申し送りを残していた。その申し送りに気づいた同僚が、後日改めて検査を実施したのだという。おかげで、一命を取り止めることができた。田中文さんは今も、意識障害なく穏やかに日々を送っている。
「一歩間違えば、命に関わっていた」
ある医師出身の理事が声を荒げた。その言葉に、会議室は水を打ったように静まり返った。遠藤はなおも「予算の都合上、仕方なかった」と弁明を試みる。だが、誰一人としてその言葉に耳を貸そうとしなかった。
「命より数字を優先した、ということか」
別の理事が、吐き捨てるように言った。遠藤はそれにも答えることができない。
「医療を何だと思っている?」
竜一の声には、抑えきれない怒りがあった。遠藤は俯いたまま、言い返せずにいる。竜一は静かに立ち上がり、遠藤を見下ろす。
「これ以上、問う理由はどこにもない」
その声は静かだが、揺るぎなかった。遠藤の肩が、目に見えて震え始めた。
沈黙が痛いほど室内を支配していた。遠藤の唇がかすかに震え始める。何かを諦めるように、彼はきつく目を閉じる。これまで築いてきた誇りが、音を立てて崩れていく。
「…いい」
低く絞り出すような声が漏れた。
「全部、私がやりました」
その一言で、張り詰めていた糸が切れる。堰を切ったように、遠藤の口から真実がこぼれ始めた。架空発注、検査省略。その全ては自分の指示だったと認める。三年前から少しずつ手を染めてきたのだと。最初はほんの小さな金額のつもりだったという。それがいつしか、歯止めの利かない額と膨らんでいく。
「業績を上げなければ、いずれ切られると思っていた。数字さえ良ければ、誰も文句を言わないと思っていたんです」
その言い訳は、もはや誰の心にも届かなかった。
「患者さんのことは…正直、頭になかった」
その告白に、室内がざわめく。遠藤は両手で顔を覆い、深くうだれる。かつての威圧的な態度は、もうどこにも見当たらない。
「…そうか。示談に済ませてもらえないか?」
最後に、すがるような声を出した。その願いに、竜一は表情を一つ変えなかった。
「患者の命を危険にさらしておいて、示談もない」
竜一の声は静かだが鋭い。その一言に、遠藤はもう何も言えなくなった。会議室に重い沈黙だけが残る。全てが明らかになった。今後は、処分を待つだけだった。
その日のうちに、遠藤の処分が正式に決定した。
「懲戒解雇。以上で、異論はないな」
竜一の声が静かに響く。反対する理事は、一人もいなかった。遠藤は力なく頷くことしかできなかった。さらに竜一は続けて言葉を重ねる。
「三年間に渡る架空発注の金額は、三億二千万円に上る。これについては、刑事告発も行う」
その言葉に、遠藤の顔から完全に色が消えた。加えて、診療報酬の不正請求についても保険者への報告が決まった。その結果、病院グループは一時的に保険医療機関の指定停止という重い処分を受けることになる。口裏に応じたアクロスコンサルティングも、今後は取引停止の処分を受ける見通しだ。業界内に噂が広まり、遠藤はもうどの病院にも務められないだろうと誰もが察していた。退職金も、就業規則に基づき全額不支給と決まった。積み上げてきた地位も蓄えも、一夜にして失われたのだ。数時間後、警備員に付き添われ、遠藤は静かに病院を後にした。かつて水希にそうしたように、今度は自分が荷物をまとめて出ていく番だ。その姿を見送る職員の中に、以前の勢いを惜しむ者は誰もいなかった。
竜一は改めてさだえに、深く頭を下げた。
「あなたの調査がなければ、ここまでたどり着けなかった」
その言葉に、さだえは静かに微笑む。水希にも、竜一は改めて礼を言った。
「お前が声をあげなければ、何も変わらなかった」
その一言が、胸に染みた。病院は、田中文さんをはじめとする患者への説明と謝罪の場を設けることになる。数日後には、事件の一部がニュースとして報じられた。病院グループの信頼回復には、長い時間がかかるだろう。それでも、膿を出し切ったことに意味はあったはずだ。
数週間後、水希は再び神崎総合病院の白い制服に袖を通していた。今度は、正体を隠す必要はどこにもない。
「お帰りなさい」
さだえの笑顔が、いつも通り迎えてくれる。田中文さんも、すっかり元気な顔で水希に手を振った。病棟には、あの日と変わらない穏やかな時間が流れている。竜一は相変わらず、滅多に姿を見せない。それでも時折、こっそり様子を見にくることを水希は知っていた。休憩室では、さだえと他愛のない話で笑い合う時間が増えた。
「無理はするなよ」
すれ違いざま、短くそう声をかけてくる。その不器用な優しさに、水希は思わず笑みがこぼれた。この病棟で、これからも患者と向き合っていく。あの日全てが凍りついたエレベーターホールを、水希は今日も静かに通り過ぎる。そこにはもう、あの緊張も気まずさもない。それこそが、何よりの誇りだった。



