笹岡という男が、財布を手にしたなつめさんに向かって言った。「おい、じいさん。俺たちの分も払っといてくれよ。」
俺は自分の耳を疑った。笹岡は深海組の組員だと名乗り、「ヤクザを舐めたらどんな目に合うか分かってるよな。俺たちの会計もしないと組長を呼ぶぞ」となつめさんを脅した。なつめさんは首を横に振って拒否したが、笹岡は何度も払えと言って聞かない。
俺は「すいませんが、他のお客さんにご迷惑ですので」と間に入った。しかし笹は俺などまるで相手にしない。笹岡ともう二人の男は、なつめさんを逃さないように取り囲んだ。俺は何もできない自分に腹が立った。
俺の名前は美藤清光。五十歳になる。子供の頃から寿司が大好物で、高校卒業後に有名な職人のもとへ弟子入りし、以来ずっと寿司職人として働いてきた。修行時代は厳しかったが、持ち前の根性で耐え抜いた。そして十年前、念願だった自分の店をオープンした。口コミが広がり、今では都内でもちょっとした有名店になり、数年前からは完全予約制にしている。予約は連日埋まっている。
全ての客に感謝しているが、とりわけお世話になっているのがなつめさんだ。七十五歳になるらしいが、いつもハキハキしていて、十歳以上若く見える。この店をオープンした当初から、週に一度のペースで通ってくれている。なつめさんは俺の握る寿司を気に入ってくれていて、来店するたびに「やっぱりミツ君の握った寿司以外は食べたくないね」と言ってくれる。たとえお世辞でも、その気遣いが嬉しい。
なつめさんは来店した日の会計の際に、必ず次回の予約を入れてくれる。本当にいいお客さんに巡り合えたものだ。
そして今日は、そんななつめさんがやってくる日だった。俺はいつも以上に腕によりをかけて仕込みに汗を流した。開店準備が整い、店の暖簾を外に出す。なつめさんはいつも開店とともにやってくる。今日もその通り、まもなく店の扉が開き、なつめさんが店を訪れた。
なつめさんは俺が促すまでもなくいつもの席に腰かけた。「今日はそうだな。はまちで」と元気よく注文してくれる。なつめさんはとにかく美味しそうに食べてくれるのだ。その姿を見ていると、自分が握った寿司なのによだれが出そうになる。こんなに喜んで食べてくれるなんて、寿司職人冥利に尽きるというものだ。
今日もなつめさんは俺が握ったはまちを大きく口を開けて頬張り、笑顔で「うまい」と噛みしめるように言ってくれた。俺となつめさんはカウンター越しに世間話に花を咲かせ、互いの近況を報告し合った。すると今回、なつめさんから何とも喜ばしい報告を受けた。
なんとなつめさんにお孫さんが誕生したらしい。なつめさんは元々家族思いの方で、よく娘さんの話を聞かせてくれていた。その娘さんが子供を産んだそうだ。
「おめでとうございます」
俺が心を込めて祝いの言葉を述べると、なつめさんは照れ臭そうに頭をかいた。こんなことを年上の男性に言うのは失礼だが、なんだか可愛らしい。
そんなおめでたい話をしていると、店の扉が再び開いた。入ってきたのは初見の三人組の男たち。正直、見るからに柄の悪い連中だった。俺は腕っぷしが強い方ではないので、少し身構えてしまった。しかし予約を受けている以上、見た目だけで客を追い返すわけにはいかない。それは明らかに差別だからだ。
俺は三人組を、なつめさんからやや離れた席に座るよう促した。万が一なつめさんに絡み始めたら、俺の手には負えないからだ。三人組はなつめさんを横目で見て、ニヤニヤしながらひそひそと内緒話をしている。俺は少し不審に思いながらも、三人組の注文を聞いた。
三人組は休む暇を与えず、次々と注文をしてくる。三人ともかなりがっちりした体格で、年齢は二十代後半といったところか。俺はあまり気に留めなかった。
その間になつめさんは食事を終え、会計を俺に頼んできた。その時だった。財布を手にしているなつめさんに、三人組のうちの一人が言ったのだ。
「おい、じいさん。俺たちの分も払っといてくれよ」
俺は思わず耳を疑った。笹岡と名乗るその男は、深海組の組員であることを明かした。笹岡は「ヤクザを舐めたらどんな目に会うか分かってるよな。俺たちの会計もしないと組長を呼ぶぞ」となつめさんに迫る。なつめさんは首を横に振って拒否しているが、笹岡は何度も「俺たちの分も支払え」と言って聞かない。
俺は奴らが来店した時からうっすらと予感していた。この事態にただただ慌てるしかできずにいる。
「すいませんが、他のお客さんにご迷惑ですので」
俺が間に入ると、笹はまるで俺など相手にしない。笹岡ともう二人の男は、なつめさんを逃さないように取り囲む。まるで獲物を見つけた肉食動物のようだった。
俺は何もできない自分に歯がゆさを感じた。警察に通報しようかと、奴らに気づかれないように固定電話に手を伸ばす。しかし受話器を掴もうとしたその時、笹岡に運悪く見つかってしまった。
「なんだ、お前。助けでも呼ぼうってのか。そんなことしたら、このじいさんがどうなるか分かってんだろうな」
その言葉で、このまま通報しようものなら、なつめさんに危害を加えられる可能性がかなり高いことに気づいた。俺は仕方なく、固定電話から手を遠ざけた。
一体どうすればこの状況を打破できるのだろうか。今ここに他の客が来てくれれば、もしかすると事態は好転するかもしれない。しかし逆に、その客までひどい目に合ってしまう可能性も否めない。俺はこのどうしようもない事態に困り果ててしまった。
ふとなつめさんを見ると、なつめさんは随分とポーカーフェイスだった。さすが年を重ねているだけのことはある。経験が多ければ多いほど、様々な事態に動じなくなるのだろう。なつめさんに比べたら、俺なんてまだまだひよっこ同然だ。
しかし、いくら落ち着き払ったところでどうしようもないのも事実だ。笹岡はなつめさんが身につけている腕時計を勝手に触りながら言った。
「へえ、じいさん。あんたなかなかいいもんつけてんじゃねえか。これ高かっただろう」
なつめさんが手首にはめている腕時計は、娘さんが彼の誕生日にプレゼントしてくれたものだ。こんな大事なものをとんでもない連中に無断で触られるなんて、いくら温厚ななつめさんでも腹が煮えくり返るに違いない。
俺がそう思っていると、なつめさんは笹岡の手をさっと払いのけた。奴はその行動が気に食わなかったらしい。
「ああ? おい、俺の手を払いのけるなんてどういうつもりだ」
他の二人もなつめさんをギロっと睨んでいる。なつめさんは言ってのけた。
「これはうちの娘からもらった大事なものなんでね。わけの分からない他人には触れさせたくないんだよ」
その言葉に笹岡は激高したらしく、怒りに任せて木製のカウンターを拳でバンと叩いた。途端にカウンターにはひびが入ってしまった。このカウンターは俺が店をオープンした当初から使っているものだ。大事なものを傷つけられた悲しみで、俺の心はいっぱいになった。
笹岡はそんな俺の気持ちをまるで無視して言い放った。
「ふざけんな。おい、そんなに大事なもんなら、俺にその時計くれよ。そしたら俺たちの会計払わなくても許してやってもいいぜ」
なつめさんは「店の大事なカウンターを傷つけるなんてとんでもない連中だな」と俺の代わりに抗議してくれた。なんていい人だろう。しかし、こんないい人だからこそ危ない目に合わせるわけにはいかない。
俺は気を取り直して、なつめさんにそっと囁いた。
「このまま店の中にいては何が起こるか分かりません。奴らの目を盗んで外へ出ましょう」
しかし、なつめさんは「こんな連中に屈して逃げるなんてとんでもない」と俺の言葉を否定した。そして少し微笑みながら、こう言ったのだ。
「大丈夫だよ、ミツ君。まあ、俺に任せとけって」
俺はその言葉の意味が分からず、首をかしげるばかりだった。なつめさんは笹岡たちに向き直り、提案した。
「よし、お前さんたちの分の会計も俺が支払ってやろう。ただ今は持ち合わせがないんだ。金を用意するから、家族に電話させてほしい」
笹岡は「現金がないんならカードで支払えばいいじゃねえか」と言ったが、なつめさんは「あいにく俺は現金主義者でな。クレジットカードなんて洒落たもんは持ってないんだよ」と首を横に振る。笹岡は「古臭いじじいだな。金を払うってんなら何でもいい。早くその家族とやらに電話しやがれ」となつめさんを促した。
なつめさんは店の固定電話でどこかへ電話をかける。どうやら話はすぐついたようで、なつめさんは受話器を置いた。そして間もなく、店の前に数台の車が止まったことに俺は気づく。全て黒塗りの高級車だった。
今日予約を入れてくれていた客かなとも思ったが、揃いの車でこんなに大人数が押し寄せてくるはずもない。そんなことを考えていると、店の扉が開いた。入ってきたのは黒服姿の男たち。笹岡たちも十分小柄だが、それ以上の迫力を備えている。
俺が呆気に取られていると、なつめさんはにっこりと笑いながらこう言った。
「おい、待ちくびれたぞ。遅かったじゃねえか、三田村」
なつめさんが三田村と呼ぶその黒服の男を見て、笹岡たちは開いた口が塞がらないらしい。
「ど、どうしてこんなところに悪使いの会長さんが……」
笹岡たちは目を見開いている。そんな言葉を無視して、三田村さんはなつめさんに対して素早く頭を下げた。
「申し訳ございません、なつめさん」
笹岡たちはまるで事態を飲み込めていないらしい。それは俺も同じだ。三田村さんをはじめとする黒服の男たちは、笹岡たち三人組の襟元を掴んで鋭い目で睨んだ。そして三田村さんは笹岡たちに問いかけた。
「おい、お前ら深海のもんらしいな。この方に一体どうつけるつもりだ」
この迫力ときたら凄まじいものだ。笹岡は取り乱して、「そもそもどうして悪使いの会長さんが、こんなじじのためにここへ来たんですか」と質問に質問を返した。三田村さんは呆れたように言った。
「おいおい、お前ら。この方が誰だか知らねえのか? いいか、この方はな、うちの悪使いの最高顧問でいらっしゃるなつめさんだよ」
そして「その最高顧問をじじ呼ばわりするなんて、全くどうしようもねえな」と続けた。笹岡たちはなつめさんの素性にすっかり驚いたらしく、ポカンと口を開けたまま呆然としている。俺もまさかなつめさんにそんな一面があったなんて全く知らなかったので、この驚きようは無理もない。
なつめさんは俺に笑いかけた。
「ミツ君、ごめんな。隠すつもりはなかったんだけどさ」
「謝らなくていいですよ、そんなこと」
俺は恐縮しながら伝える。黒服の男たちは、なつめさんを「なつめさん」と呼び、丁寧に接している。どうやらなつめさんは、俺が思っていた以上にすごい人物らしい。
目ざとくカウンターのひびに気づいた三田村さんは、笹岡を睨んだ。
「おい、なつめさんが贔屓にしているこの店に、こんな傷をつけるなんてただで済むと思うなよ」
笹岡からはさっきまでの覇気が完全に消えてしまった。まるで怯える小動物のようにプルプルと震えている。なつめさんは笹岡に尋ねた。
「深海の親組織はどこだったかな」
しかし笹岡は今や声も出せない状態のようだ。何か声は出しているが、まるで聞き取れない。こんな様子に呆れた三田村さんが代わりに答えた。
「深海組は中橋組の傘下です」
なつめさんは少し考えた後、「今回のことは中橋組に報告した方がいいな」と結論を出した。笹岡たちは大慌てで「そ、それだけは勘弁してください」となつめさんたちにすがろうとする。しかし奴らはすぐに三田村さんたちに押さえられた。
三田村さんは凄んだ。
「おい、笹岡。古くとも指一本でも触れようものなら、お前たちには消えてもらうことになるからな。そのことをよく覚えておけ」
笹岡たちは完全にパニック状態に陥っている。笹岡は「うわあ」と突然叫び声をあげて、店内から走って逃げようとした。しかし会えなく三田村さんたちに取り押さえられる。笹岡の後先考えない逃亡は失敗に終わった。もっともそれは生き当たりばったりの行動なので、計画と呼べるような代物ではないのだが。
なつめさんは制圧された笹岡たちを見下ろしながら促した。
「この店を傷つけた以上、店主であるミツ君に謝罪するべきだ。違うか」
笹岡たちは助かるためなら何でもするつもりらしい。なつめさんの言葉を聞くや、三人組は俺に向かって素早く土下座した。
「申し訳ありませんでした」
しかし、こんな形だけの謝罪では俺の心には響かない。なつめさんも俺と同じように感じたらしく、笹岡たちに苦言を呈した。
「おいおい、『ごめんなさい』って言えばいいってもんじゃねえんだよ。お前らヤクザやってるのに、そんなこともわからねえのか」
笹岡は「だったら一体どうすればいいんですか」と反論してくる。三田村さんはすぐに、「おい、最高顧問に向かってなんだその口の聞き方は」と怒鳴りつけた。怒られた笹岡は一気に大人しくなった。ついさっき肩で風を切って店に来た時とは大違いだ。半分以下の大きさまで小さくなってしまったように錯覚してしまうほどだ。
なつめさんは俺に対し、頭を下げた。
「すまない、ミツ君。こいつらは店主への謝り方すら知らないほど教育がなっていないらしい。この場は迷惑をかけてしまった俺が必ずつけるから」
「とんでもない。なつめさんはあくまでも巻き込まれただけなんですから」
俺がそう言うと、なつめさんは「ミツ君の方がこいつらよりよっぽどヤクザに向いてるみたいだな」と笑っている。笹岡たちは罰の悪そうな表情で、ただ唸だれるばかりだった。
三田村さんはなつめさんとアイコンタクトを交わした後、スマホを取り出してどこかへ電話をかけ始めた。そしてスマホを耳に当てながら、「おたくの傘下の連中がうちの最高顧問にちょっかいかけたんですけど、どう始末つけますか」と話している。おそらく電話の相手は、笹岡たちが所属する深海組の上部組織、中橋組の幹部であろうことは、俺にもすぐに分かった。
笹岡たちもそのことに気づいたらしく、「お願いですから勘弁してください」などと仕切りに喚いている。しかし三田村さんは電話を続け、全て話し終えてからようやくスマホをしまった。そして笹岡たちに対し、こう告げた。
「今、中橋組の組長さんと話したんだがな。お前らのことは煮るなり焼くなり好きにしてくれって言われたよ」
笹岡は顔面蒼白になり、もはや言葉を失った。なつめさんは「このまま店の中にいたらミツ君や他の客の迷惑になるだろう。ひとまずうちの事務所にこいつらを連れて行け」と三田村さんたちに命じた。
三田村さんたちはその言葉を受けるやすぐに笹岡たちを連れて出ていった。笹岡たちは抵抗する気力すら失ってしまったらしい。大人しく三田村さんたちが乗ってきた黒塗りの高級車で、笹岡たちは悪使いの事務所へと連行されていく。
俺はようやくほっとして、ふーっと息を吐きながら胸を撫で下ろした。なつめさんは改めて自分の分だけの会計をするように俺を促す。あんな騒動があった後でもこの落ち着きようはさすがとしか言いようがない。俺なんてまだ手が震えているというのに。きっと組織の最高顧問になるような人間はこうでなくてはならないのだろう。
俺は震える手でなつめさんにお釣りを渡した。なつめさんは俺に来週の予約を頼んで、帰っていった。その後ろ姿は何よりも頼もしいものに見えた。
その後、笹岡たちは悪使いの事務所で厳しいお仕置きを受けたらしい。ヤクザの世界ではかなりの重鎮であるなつめさんに迷惑をかけたことを重く見た中橋組は、笹岡たちが所属する深海組の解散を命じた。深海組の組長はそれに反抗したが、笹岡たちへの監督不行き届きということで処分は覆えらず。深海組の組長はこの処分をかなり不服に思っているらしく、笹岡たちを恨んでいるのは言うまでもない。
笹岡たちはそんな組長の怒りを恐れて、遠く離れた町に引っ越したようだ。だからと言って、そこでまともな仕事につけるはずもない。結局笹岡たちはお年寄りをターゲットにした特殊詐欺を働くようになった。しかし詰めが甘く、あえなく警察の御用となった。
一方、俺といえば相変わらず寿司を握ってばかりの毎日である。あの騒動の後、なつめさんはカウンターの修理費を全額出してくれた。正直そこまでしてもらうのは悪い気がして何度も断ったが、「それじゃあ俺の気が済まないよ」というなつめさんの言葉に甘えることにしたのだ。
なつめさんはこれまで通り、店に毎週通ってくれている。「生まれたばかりのお孫さんの話をしながら、ミツ君の握った寿司を食べる瞬間が人生で一番幸せらしい」という嬉しい言葉も聞けた。
なつめさんや他の客のためにも、ますます精進しなくては。俺はそんな思いを胸に、心を新たにした。これからも客を大事にしながら、美味しい寿司を握り続けていきたい。


