家に帰ると、ダイニングテーブルの上に結婚情報誌が何冊も積んであり、妻と娘が真剣に話し込んでいた。声をかけても、二人はびっくりしたようにこちらを見るだけだ。玄関で「ただいま」と言ったのに、聞こえなかったらしい。
娘の香織はじろっと俺を睨みつけて言った。「そうよ。でもあんたに参加して欲しくないんだけど」といつものように憎まれ口を叩く。俺はすっかり慣れっこだ。「おいおい、俺が父親だぞ。一人娘の結婚式に父親が参加しないでどうするんだ」と穏やかに言い返す余裕まである。
娘は面白くなかったのか、白けた目をして「ま、母親よりましか」と言い、妻も「そうね。あんたみたいなのでも初めから参加しないのはあちらの家に悪く思われるわ」としぶしぶ同意する。どこの父親もそうかもしれないが、俺は妻と娘からあまりよく思われていない。それどころか嫌われていると言ってもいいくらいだ。
結婚してからずっと専業主婦の妻と、高校卒業後ニートになった現在22歳の娘を、俺の稼ぎだけで養ってきたのに虚しくなってしまう。それでも俺は一家の大黒柱なんだから頑張ろうと気持ちを切り替え、「結婚式はいつ頃の予定だ?顔合わせをするのか」と話題を変えた。
詳しく聞くと、両家とごく親しい親戚や友人だけの小さな式にする予定のようだ。その代わり、式は来月早々に行うらしい。実は香織のお腹にすでに赤ちゃんがいて、お腹が目立たないうちに式をあげたいというのだ。相手の男はまだ学生。俺は自分の過去を思い出して苦い気持ちになった。
俺は45歳のどこにでもいる中年男性だ。俺も昔、香織の相手同様、大学生の時に妻を妊娠させて、大学を中退して働くことになったバカな男だ。妻とは大学時代の合コンで知り合った。デパートの年上のお姉さんたちと約束を取り付けたと友達に誘われ、ほいほいついていき、酔っ払って気づいたら翌朝、ラブホテルで目が覚めた。まあ関係を持っちゃったし付き合うことになったが、一晩で妊娠したと言われて大学を中退して結婚した。
俺がすぐに就職できた仕事が交通誘導員だった。妻と娘には「誰にでもできる仕事でダサい」と馬鹿にされるが、実際はコツもいるし、なかなか難しい上にものすごく過酷な仕事だ。夏は炎天下、冬は極寒の風の中で立ち続ける。その場に応じた臨機応変な判断を求められ、通行人や車の運転手から罵声を浴びせられる時もある。それでも俺はこの仕事が嫌いじゃなかった。俺を雇ってくれた会社の社長にも恩義を感じているし、仕事仲間たちともうまくやっている。
娘と疎遠になったきっかけは、香織が14歳の頃だったと思う。それまでも「棒振りなんてロボットでもできるじゃん」と馬鹿にしていたが、俺は気にしなかった。交通誘導員という専門の資格もあって、ちゃんと給料も払われる以上、社会には必要な仕事だ。娘はまだ幼いから分からないだけ。いつかきっと俺のことも俺の仕事も分かってくれると信じていた。
ある時、偶然現場が娘の中学校の近くだった時があって、俺は友達と帰宅中の娘を発見した。俺は笑顔で手を振り「香織、気をつけて帰れよ」と叫んだ。父親が娘を見つけただけだし、俺としてはごく自然な行動のつもりだった。ところが娘は犯罪者のような顔で俺を睨んで無視したのだ。その場にいた同僚は「娘さん、反抗期なんだね」と苦笑いだったが、話はこれだけでは終わらなかった。
なんと俺の会社に匿名で「そちらの交通誘導員から突然、セクハラ的な暴言を浴びせられた」というクレームが入ったのだ。状況からして、俺のことを娘が言ったとしか思えない。事情が分からない上層部は不適切事案として俺に厳重注意をしてきたが、納得がいかないし何より困惑した。家に帰って俺は娘にどういうことだと問い詰める。すると娘は逆切れした。
「私が友達と一緒にいる時に話しかけて来ないでよ。あんたみたいな作業員が私の親なんて恥ずかしいのよ」と怒鳴ってきたのだ。娘はどうやら自分の友達に「父親は裕福な会社役員」だと嘘をついていたらしい。でも俺に声をかけられて嘘がバレてしまい、八つ当たりしてきたというのが真相だった。
「お父さんは作業員じゃない。交通誘導員だよ」と俺は訂正したが、娘の怒りを煽っただけだった。「そんなのどっちでも同じよ。学校の友達の家はみんな普通の会社員なのに。なんでうちは肉体労働者なのよ。社会の底辺じゃん」
「香織、仕事に優劣なんてないぞ。会社員だって俺だって普通に働いているんだ。どっちが偉いとかすごいとかいうことはないし。お父さんみたいに外で働く人も社会には必要なんだ」と俺は静かに諭してやる。でも娘は親を「あんた」呼ばわりする始末で、聞く耳を持たない。
そこへ妻がやってきて「でもさ、あんたなんて誰でもできる仕事をしているわけだし、会社員の方が稼げるんじゃない」と娘に火をつけた。娘は勝ち誇って「ほらね、あんたなんて社会の底辺じゃん」と根拠なく笑う。俺は二人から言われてさすがにカチンと来た。
「その底辺に養ってもらっているのは誰だよ」とつい強めの口調で言ってしまうと、妻は大げさに驚く。「まあ、そういうのをモラハラって言うのよ。じゃあ誰が育児をしていると思っているのかしら」と妻は即座に言い返してきた。普段の言動を見ればどっちがモラハラか、と俺は言いたい。でも十倍以上で跳ね返ってくるから、俺はじっと我慢する。俺がこの時我慢したことで、二人は「何を言っても大丈夫だ」と俺を甘く見て、暴言はエスカレートしていく一方になった。
妻と娘を養うため、今まで真面目に働いてきたのに、どうしてこうなったんだろう。妻は「とにかく金を稼いでこい」の一点張りで、俺は割りのいい長期出張の仕事も進んで受けた。妻は「実家で面倒を見てもらうから大丈夫だ」と言い、実際、妻の弟が結婚して義実家を追い出されるまで、妻と娘はずっと義実家にいた。俺は時々会いに来る「おじちゃん」扱いだ。
義両親は普通の常識人で、妻に何度も「俺に対する扱いをもっとちゃんとしろ」と怒ってくれた。でも妻の態度がましになったことはなく、月日が経つにつれ、娘も妻そっくりに成長して俺を馬鹿にするようになってしまった。最近では朝少しものんびりしていると「ほら、さっさと仕事行けよ。能なしは出ていけ」と妻が口汚くののしる。娘も「はあ、くっそ。あんたが家にいると汗臭くてしょうがないわ。早く消えろ」とまで言って、俺を家から追い出そうとする。
俺は反論を諦めて家を出た。娘の結婚式は来週に迫ってきていたから、もう少しすれば娘は結婚相手と暮らし出し、俺の肩の荷も一つ降りる。俺はそれだけを楽しみに結婚式の日を待っていた。ところが、その日自体は急展開した。仕事中、妻がスーツ姿の男と手をつないで歩いていくのを目撃したのだ。
遠くて男の顔はよく見えなかったが、相手の女性は間違いなく妻だった。ただ一緒に歩いているだけなら、誰か知り合いにあっただけかもしれないし、道を聞かれて案内しているのかもしれない。でも明らかに違うのだ。いちゃいちゃしていて、どう見ても恋人同士のような態度で、鈍感な俺にもすぐに分かった。妻はどうも浮気をしているらしい。
俺は頭がかっと熱くなった。俺には散々な態度を取る妻が、誰かに媚びを売っている。相手がスーツだったことにも腹が立った。俺を肉体労働と馬鹿にしたのも、スーツのインテリ男と付いていたからかと思うと、むかむかとしてくる。「絶対に許さない。浮気の証拠を掴んでやる」と意気込んだのはいいものの、俺はすぐに現実として困ってしまった。金はほとんど妻に奪われ、俺にあるのはすずめの涙ほどのへそくりだけ。探偵や弁護士に依頼するにはとても足りない。
俺は仕事中、必死で考える。そしてついに仕事が終わる頃には、良いアイデアを思いついたのだ。俺は早速行動を開始。まず仕事仲間たちに連絡を取って助けを求めることにした。俺の後輩や同僚たちがあちこち外の現場で仕事をしている。特にうちの近くの現場担当者を中心に、妻の写真をメールで送り、「もし見かけたら連絡してくれ」と言っておく。次に、俺でも用意できるあるものを買いに行き、自宅に仕掛けることにしたのだ。
数日後、俺のスマホに連絡が来た。皮肉なことに娘の結婚式の前日だ。連絡があったのは隣町の交通誘導員からで、道路を歩く妻と浮気相手の写真をばっちり撮ってくれている。その後、ラブホテルに消えたと報告が来る。俺も同僚も、棒を振っている時は写真を撮る余裕はないから、交通誘導員の仲間だけでなく、それぞれ作業員たちにも声をかけ、休憩中に目を光らせていてくれたそうだ。俺は仲間に感謝しつつ、複雑な気持ちだった。明日は娘の結婚式なのに、そんな直前まで浮気をするのかという妻への失望。
娘のことがちらっと頭をよぎる。妻の浮気は間違いないが、娘は知っているのだろうか。でもそんな心配も、男のアップの写真を見て吹き飛んだ。娘は天然パーマで昔から悩んでいたが、浮気相手の男もくるくるの天然パーマだ。髪の毛の質も相まって、男と娘の顔が瓜二つと言ってもいいくらいそっくりで、どう見ても親子だった。娘は妻にも俺にも全然似ていないが、妻は「自分の祖父似だ」と言い張っていたから信じていたのに。DNA鑑定をすればはっきり分かるだろうが、素人目にも血の繋がりを感じさせる。
妻の浮気は昨日今日始まったことじゃない。つまり、ずっと長い間俺を騙し続けていたんだ。俺は動揺し、がっかりしつつも、心のどこかでほっとしていた。あんなモラハラ妻と別れなかったのは、娘のことがあったからだ。俺は小さい頃から自分の娘だと信じて可愛がって世話をしてきた。いくら憎まれ口を叩かれても、血の繋がった我が子だと思ったからずっと我慢してきた。でももういいんだ。そう思うと気が楽になった。
俺は仕事が終わるのを待ち、弁護士事務所に出かけた。俺の会社の顧問弁護士さんが俺の事情を聞き、「証拠が集まったらすぐに来い」と言ってくれたのだ。弁護士さん自身も最近、金目当てだった悪い妻と離婚したばかりで、「絶対に勝たせてやるからな」と俺以上に気合いが入っていた。俺としてはありがたい。
すっかり遅くなってから家に帰ると、「遅いじゃないの」と妻から怒鳴られた。普段、俺が何時に帰ろうと気にも止めないくせに。明日が娘の結婚式だからか、ぴりぴりしているようだ。妻は俺が浮気の証拠を掴んでいることなど知らない。いつものように俺に対して高圧的に「寝坊して遅刻なんてしたら一生許さないわよ」と指を突きつけて迫ってくる。
俺は疲れていたこともあって、かっとなった。「おい、口を慎しめ。一生許さないのは俺の方だ」と言い返すと、妻は「な、何よ。生意気なこと言うんじゃないわよ」と、俺が言い返すと思わなかったのか少しひるんだ。一旦口に出してしまうと、俺はもう止まらなかった。「香織は俺の子じゃないんだろう」と言いながら、妻に証拠写真を見せる。
すると妻は一瞬驚いたものの、「そんなの昔のことでしょ。今更どうでもいいじゃない。明日は香織の結婚式なのよ」と開き直った。「そんなわけないだろう」と俺はその態度に呆れ果てる。謝罪とは言わない。でもせめて心からの謝罪の言葉を聞けたら、ほんの少しは許す気になったかもしれないが、全く反省の色がない。絶対に許せなかった。
妻の金切り声で目が覚めたのだろう。娘も起きてきて「ちょっと何を騒いでいるの?睡眠不足はお肌の大敵なのよ」とめいた。妻も娘も自分のことしか考えていない。俺は妻と娘を一瞥し、寝室へ行くといつもの出張用のバッグを持ってきた。出張に慣れているから、貴重品や着替えをまとめるのに五分もかからない。俺は自分の荷物の少なさに笑いが出た。
「なんで笑ってるのよ。気持ち悪いわね。あ、ちょ、ちょっとどこ行くのよ」と妻が叫ぶが、むしろなんで俺が血の繋がらない娘の結婚式に、いい夫を演じてきた小悪女と一緒に出席しなければいけないのか。俺はすーっと息を吸い込む。
「いい加減にしろ。お前も香織も、俺を散々バカにして嫌ってきたが、俺の気持ちを少しでも考えたことはあったか?俺はいい夫、いい父親でいようとずっと努力してきた。お前たちはどうだ?お前たちのしていることはモラハラだぞ。俺を金づる扱いするなら、もっと俺に優しく大切にするべきだったのに。浮気を開き直るような悪い女とは夫婦ではいられないし、香織も俺の子ではないから、お前たちとは縁を切る。あんなに毎日俺に出ていけと言っていたんだ。お前たちのお望み通り、俺は消えてやろう。ただ、俺のことを馬鹿にした代償はしっかり払ってもらうからな」
俺はそれだけ言うと、口を開けて叫ぶ妻と娘の言葉に答えず、そのまま外に出た。行く先はもう決まっているし、今後の見通しも立っている。縁切りと決別宣言をしたことで、俺の気持ちはかなり軽くなった。
翌日、俺のスマホには着信が何度も来ていたが、俺は一切出ない。留守電には妻と娘が何度も悪口を吹き込んでくるし、メールには見るに耐えないひどい内容が書かれている。しばらくは「絶対に許さない。訴えてやる」という脅しが中心だったが、日が経つとだんだんと様子が変わってきた。ついに妻から「お願い戻ってきて。あなたのこと愛してるの」という懇願のメールが届いた時には、ぷっと笑ってしまった。ようやく俺が本気で帰ってこないと分かったのだろうが、もう遅い。
俺は社長の好意で会社の寮に止めてもらいながら、妻と浮気相手を訴える準備を進めた。妻と浮気相手を目撃した日、俺は自宅にあるものを仕掛けた。それは盗聴機だ。俺の小遣いなんて微々たるものだから、探偵に依頼する余裕なんてない。でも妻と娘のことだから、俺のいないところでボロを出すと考えた。案の定、結婚式当日の朝、妻と娘の会話がばっちり取れている。
娘もどうやら俺が実の父親でないことを知っていたらしく、「じゃあ本物のパパを呼ぼうよ。これを機にあの親父と別れてパパと結婚すればいいじゃん」などと話している。妻は娘をたしなめて「だめよ。香織のパパはね、奥さんの家庭の婿養子に入って、義両親と同居しているの。奥さんのことは全然愛していないんだけど、奥さんの父親が役員をしている会社で働いているから、もし奥さんと別れたら仕事もやめさせられて無一文になっちゃうわよ」と説明する。
そして妻は怒りながら娘に「あいつも最後まで騙されていればいいものを。香織、あんたもバレないように気をつけるのよ」と注意する。娘は軽い調子で「私、そんなヘマはしないから大丈夫よ。彼は私にベタぼれだし、全く疑ってもいないわ」と高笑いだ。俺はぞっとした。まさか香織も金目当てだったとは。揃ってとんでもない母親と娘だ。
こうして妻と娘が自爆する形で証拠も手に入れられたし、離婚裁判も浮気相手の慰謝料請求の裁判もすべて俺に有利に進んだ。娘のDNA鑑定の結果、やはり浮気相手の子供だったことが発覚。浮気相手はある会社の役員の婿養子で、最初は金持ちだった。浮気相手は義父の会社で働いていたそうだが、離婚に伴い職も失ったらしい。自業自得だ。
俺は娘の結婚相手の男性一家にも連絡を取り、盗聴機で録音した内容を聞かせる。すると娘はスピード離婚され、相手から慰謝料請求されていた。「俺に向かってなんてことをしてくれたんだ」と怒鳴ってきたが、罪のない人を騙そうとしたのだから当然だろう。俺は香織の相手の男性の両親から「息子が騙されなくて住んだお礼だ」と金一封を頂いた。
妻とは無事に離婚が成立し、家は売り払った。財産分与の総額から慰謝料を差し引くことで、俺は慰謝料を一括でもらい、妻を無一文で放り出すことに成功。俺は義両親からすごく謝られ、義両親は妻に愛想を尽かして感動した。今、元妻と元娘は風呂なしアパートで貧乏生活をしているようだ。
全てが終わって、俺はようやく自分の人生を取り戻せた気がした。元々、妻が嫌がるような遠方の長期出張にもほいほい行っていたから、いろんなところに知り合いが多い。自由になる時間もお金も増えたし、時にはのんびり旅行でも楽しみながら、誰からも罵倒されない平和な日常を満喫しようと思っている。



