店の暖簾をくぐった瞬間、空気が変わった。私は29年間、妹の代わりだった。姉として、娘として、誰かのために黙って譲ることが「いい子」でいることだと教えられてきた。そして今、目の前で母が言った。この店を貧乏だと笑う人に任せられない。車や金を見て戻ってきた人を家族とは呼べない。
母の言葉が終わった後、店の中は静まり返った。妹のかほが震える声で私に訊いた。「お姉ちゃんもそう思ってるの?」私は妹を見た。小さい頃から、鉛筆も消しゴムも進学も結婚の話も、全部譲ってきた。それは優しさじゃなかった。私が言い返すのが怖かったからだ。私は器を台に置いて、一歩前に出た。「かほ」自分の声が思ったよりはっきり出た。「すみさんはね、私の豆腐を食べて泣いてくれた人なんだ」
あの日の朝、初めてすみさんに会った時、彼女は杖をついて橋のそばに立っていた。84歳で腰が悪くてしゃがめなかった。妹は店の前で言った。「ちょっとどいてくれる?邪魔なんだけど」。すみさんは何も言わずにどいた。私はそれを見ていた。そして今、そのすみさんが私に言った。「私はね、あんたのことを恨んでないよ。あんたは子供の頃からそうしていいって教わってきただけだから」
私は父と母を見た。二人とも私と目を合わせなかった。私も同じだった。譲ればいい。そう教わってきた。だから29年間譲ってきた。私は一度息を吸った。「でも、もうやめます。私はもう妹の代わりには戻りません」言葉が口から出た。膝が震えていた。心臓が痛いくらいだった。それでも続けた。「この店で私として生きていきます。ここに私の仕事があります。私が作った豆腐を美味しいと言ってくれる人がいます」
妹の目から涙がこぼれた。何か言おうとして言えずに、口を抑えた。母が「死のあんた」と言いかけた。その時、外から声がした。「もう帰りな」古沢さんだった。泥のついた長靴のまま引き戸のところに立っていた。「あんたら、この店に何しに来た?買いに来たんなら売ってやる。一丁180円だ。そうじゃないなら帰れ」その後ろに、泥だらけの人たちが立っていた。誰も何も言わなかった。ただそこに立っていた。
父が「行こう」と言った。三人は店を出ていった。妹は最後に一度だけ振り返って私を見た。私は頷いた。頷いただけで、何も言わなかった。車が坂を下りていく音が段々小さくなった。音が消えた後、店の中で最初に口を開いたのはベルナールさんだった。「私、日本語難しい。全部わからない。でもし野さんが強かった。そうは分かった」私は笑おうとして失敗した。そしてその場でしゃがみ込んで、声をあげて泣いた。古沢さんは何も言わずに私の横にしゃがんだ。背中に手を置いて、そのまま私が泣き止むまでそこにいた。
その夜、宗介さんは剱持での話し合いの結果を教えてくれた。増設は一旦止まることになった。止まった理由は水だった。検査の結果と雨の後の水の写真が効いた。剱持は業者に影響調査のやり直しを求めた。「止まっただけです。中止じゃない。調査が終わればまた動く。その時にどうするかを、それまでに決めないといけない」
決めなければならないことははっきりしていた。山を買うか買わないか。買うならお金がいる。丸山さんが業者へ返す代金と、返したら払えなくなる相続税の分。かなりの額になる。迷和食品の話を受ければそのお金は出る。ただし、かおの店は3年で閉じることになる。
その日の日曜、座敷に人が集まった。宗介さんとふみさんと田所さんとタク君と私。それから東京の柴田さんも来た。ベルナールさんは前日にフランスを発ったけれど、一枚の紙を置いていった。宗介さんがその紙を広げた。ベルナールさんの字で金額が書いてあった。この先5年分の大豆と苦りの代金、1200万円。それを先に払うという申し出だった。
「僕のところも同じことをします」柴田さんが言った。「うちだけじゃない。話を回してみたら20件近くが乗ると言ってます。みんなうちの店の板場が豆源の豆腐で回ってるのを知ってるんだ。これは寄付じゃないよ。前払いだ。だからこれから5年、僕らはあんたに頭を作ってもらう権利がある」
宗介さんは髪を持ったまま動かなかった。ふみさんがぼそりと言った。「足りるのか?」「足りない。うちは売上があります。でも手元に残るのはそのうちのわずかです。中野原の工場を立てた時の借入れもまだ返し終わっていない。今すぐ動かせる金は山の値段には届きません」
宗介さんはそこで一度言葉を切って、それから言った。「あの車を売ります」「え?」「5000万しました。俺が外国を回った7年分の稼ぎです」座敷が静かになった。私は顔をあげた。「だめです」今度は自分でも驚かなかった。声はすぐに出た。「あれは売りません。あれはお父さんの宿題です。宗介さんが外国を回って出した答えです。それを山の代わりに出したりしません」
座敷がしんとした。やがて柴田さんが小さく笑った。「奥さんの言う通りだ。あれを売るくらいなら、僕が先に出しますよ」宗介さんは何か言おうとしてやめた。それから深く息を吐いた。
私にはもう一つ、言いたいことがあった。「あの丸山さんに会いに行きませんか?」全員が私を見た。「丸山さんはお金が必要で売ったんだと思うんです。相続税で。でもあの人があそこを削って欲しいと思ってるとは限らないです」
私はその日の夕方、帳場から納品覚えを持ってきた。そして「丸山」という名前のページを開いて宗介さんに見せた。そこには20年以上前から名前があった。「丸山種」と書いてあった。丸山國さんの母親だ。今はもう亡くなっている。「もめん一丁。ほとんど毎日もめん一丁。そして代金の欄が、何年分も空白だった」
翌日、私たちは丸山さんの家を尋ねた。超材地の外れにある静かな住宅地だった。丸山さんは62歳で、痩せた静かな人だった。私たちが名乗ると、しばらく玄関に立ったまま何も言わなかった。やがて座敷に通されてお茶が出た。宗介さんは山の話をした。水のこと、豆腐のこと、増設が止まっていること。丸山さんは黙って聞いていた。話が終わって、私は納品覚えを出した。「これをお見せしたくて来ました」
丸山さんは老眼鏡をかけてページを開いた。そして、そのまま動かなくなった。長い時間だった。「お袋だ」丸山さんは名前の並びを目で追っていた。「毎日一丁もめん。お袋はこれしか食べられなかったんだ。最後の3年」代金の空白の欄を見て言った。「金は頂いていません」「そうか」丸山さんはメガネを外して、目の辺りを手で抑えた。「俺は東京に出ちまってな。一度も帰らなかった。お袋が死んだ時も間に合わなかった。山を売ったのはな、金がいったからだ。税金がな。あの山は金にならん山だ。誰も欲しがらんと思ってた」そして、ぽつりと言った。「あの山の水が、お袋の食っとった豆腐になっとったんだな」
その日、話はまとまらなかった。まとまるわけがない。丸山さんはもう山を売ってしまっていて、契約がある。けれど、帰り際に丸山さんは玄関でこう言った。「話し合いには俺も出る。売ったのは俺だ。俺が言えば、聞くこともあるだろう」
それから半年かかった。書き切れないほど色々なことがあった。私たちは町役場と県庁に通い続けた。町からは308人分の署名と要望書が出た。かおに住んでいる人のほとんど全部だ。剱持はその紙の束を背に、調査のやり直しを求める姿勢を崩さなかった。調査には金も時間もかかる。そして丸山さんは約束を守った。審議に毎回出てきて、売った本人としてあの山は削らないで欲しいと言い続けた。売主にそう言われては、業者も強く出られない。待たされるうちに採算が合わなくなって、業者の方が先に手を引いた。業者は買った値段のまま山を丸山さんに返した。
丸山さんは、納税を待ってもらって手をつけずにいた売却代金を、そっくり業者へ返す。返してしまえば今度こそ相続税が払えない。そこを引き受けたのが町だった。山は町が水源として買い上げ、これから先も削らないという取り決めをした。丸山さんは町から受け取った代金でようやく税金を納めた。管理は森林組合が受け持つ。買い上げのお金の一部は豆源が出した。ベルナールさんと柴田さんが集めてくれた5年分の前払いがあった。宗介さんはそれを丸ごと町への寄付に回したのだ。「うちらが前払いした金で山が残るなら、その方が豆腐は長く食える」
「豆源の水を守る会」というそっけない名前の会ができた。会員は全国の料亭と旅館と料理屋だった。年に一度、みんなで山に登ることになった。その知らせが来た日、宗介さんはク瀬さんに電話をかけた。「せっかくのお話でしたが、お断りします」電話の向こうでク瀬さんは少しの間黙っていた。それからこう言ったそうだ。「そうですか。いい水ですね、あそこは」ク瀬さんはその後も時々、うちの豆腐を注文してくれている。個人の名前で家に送っている。
雨の濁りは10日ほどで抜けて、再検査で基準に戻り、店は元通り動き始めた。それでも水槽の底の石の色まではっきり見えるようになったのは、夏の終わりだった。その朝、宗介さんは水を汲んで光に透かし、「うん」と言った。それだけだった。二の口はそのまま残すことにした。普段は使わない。使うのは年に一度、水が出るか確かめる日だけだ。「それでも、探さずに残しておこう」と宗介さんが言った。
古沢さんは半年ほどして腰を悪くし、施設に入った。私は月に一度、豆腐を持って会いに行く。いつ行っても古沢さんは同じことを言う。「あの水はな、俺が正一に教えたんだ」その度に私は「知ってます」という。古沢さんは満足そうに頷く。
全てが片付いた冬の夜、私は台所で洗い物をしていた。宗介さんが座敷から出てきて、湯のみを流しに置いた。私が使っているあの欠けた湯のみだった。宗介さんが間違えて使ったらしい。「あ、これし野さんのだった」「いいですよ」「これ、前から使ってるよね」「小学3年の時に買ったんです」私は水を止めて湯のみを手に取った。口の欠けたところを指で撫でた。「妹が落として欠けたんです。欠けたからいらないって言われて、それで私のものになりました」
宗介さんはしばらくその湯のみを見ていた。それからこう言った。「うちのかもね、縁が欠けてる」「知ってます。あれ、じいさんの台からのやつだ。取り替えろって何度も言われた。でも、あれじゃないとあの味にならないんだ」宗介さんは湯のみを私の手から取って、棚に戻した。一番取りやすい手前の段に置いた。「欠けてる方がいいものって、あるんだよ」私は俯いて水道の蛇口を見ていた。見ていないと、また泣いてしまいそうだった。
あれから2年が過ぎた。豆源は今も柏尾の坂の途中にある。板は去年直した。前の看板は字が消えかけていたので、新しい板に掘り直してもらった。ただし、掘ってもらったのは前と同じ「豆源」という店の名前だけだ。会社の名前は入れなかった。古い看板は店の中の壁にかけてある。
新しく始めたこともある。山の話が片付いた次の秋から、うちは豆腐弁当を始めた。きっかけは配達だった。回っているうちに気づいたんだ。豆腐を買ってくれるお年寄りの多くが、特にご飯を作っていない。一人暮らしで面倒で、豆腐を冷やしたまま醤油をかけて食べている。それでは体が持たないと思った。私は宗介さんに言った。「高級なお豆腐だけじゃなくて、昔からのお客さんが毎日食べられるものをもう一つ作りたいです」宗介さんは少し目を大きくして、それから笑った。「俺もそう思ってた」
始めるまでに半年かかった。保健所に何度も通って、台所を作り直して豆腐とは別の許可をもらった。宗介さんは一度もめんどくさそうな顔をしなかった。弁当は500円にした。ご飯とうちの豆腐を使った料理が3品。厚揚げの煮物、おから、豆乳のあんかけ。副菜は日替わりだ。寒い時期は別の器に温かい汁を入れて持っていく。作るのは私とふみさんと宮子さんで、一日30食だけ。それ以上は手が回らない。
弁当を始めてから配達の時間が長くなった。豆腐を渡すのに5分、話を聞くのに15分だったのが、今では30分になる日もある。それでも宗介さんは何も言わない。
すみさんは87歳になった。腰はもっと曲がったけれど、まだ自分の家にいる。私が弁当を持っていくと玄関で待っていて、この頃は献立に注文をつけるようになった。「しのさん、この前の日ね、ちょっと甘かったよ」「すみません。次は控えます」「いいの、いいの。うまかったよ」どっちなんですか、と言うとすみさんは声を出して笑う。
タク君は今、もううちにいる。去年、タク君の親御さんが店に来た。中野原で床屋をやっている夫婦だ。二人はタク君がかまどの前に立っているのを見て、それから何も言わずに帰った。その日からタク君は何も言われなくなったそうだ。タク君は去年から麺を任されて、今年、寄せも打てるようになった。3回失敗して4回目にできた。私は横で見ていて、なんだか自分のことのように嬉しかった。
「豆源の水を守る会」は今も続いている。年に一度、5月に山に登る。会員が全国から来て、滝の入りの水源まで歩く。去年は42人来た。みんな仕事の服のまま長靴で登ってくるので、毎年誰かが転ぶ。その日、私は山の上で弁当を配った。宗介さんは脇口のそばの石に腰かけて、みんなが食べているのを黙って見ていた。私はその横に座って聞いた。「誠一さん、この景色を見たかったでしょうね」宗介さんはしばらく杉の梢を見上げた。「どうかな。親父は人が来るのが苦手だったから、42人も来たら逃げてるかもしれない」そう言って宗介さんは笑った。私も笑った。それから宗介さんは小さく付け足した。「でも、水は喜んでると思う」
実家のことも少しだけ書いておく。去年の暮れに母から電話があった。要件は特にない。「元気にしているか」と聞かれて「しているよ」と答えた。それだけの電話だった。妹は去年結婚した。相手のことは知らない。招待は来なかった。父から手紙で知らせがあっただけだ。その手紙の最後に、父の字でこう書いてあった。「あの時は悪かった」。それだけの一行だった。私はその手紙を机の引き出しにしまった。返事はまだ書いていない。いつか書くかもしれないし、書かないかもしれない。急がなくていいと、今は思っている。
そして、あの車のことだ。黒い車は今も裏の車庫にいる。年に5回か6回、お客様を迎えに行く時だけ出す。運転するのは大抵私だ。いつの間にか、運転は私の方がうまくなってしまった。宗介さんは三叉路でどうしてもスピードを出すので、お客様に怒られたことが2回あった。後部座席の座布団はまだあのままだ。去年、角の擦り切れたところをふみさんが作り直した。糸の色が少しだけ違う。それで良かったと思っている。
先週の朝のことだ。店の前にはいつものようにお客さんが並んでいた。奥の作業場では、東京へ出す料亭向けの荷造りが進んでいた。タク君と戸田さんが箱を運んでいた。私は事務所の机で、その日の配達の順番を書き出していた。机の上にあの車の鍵が置いてあった。前の週に使ったまま、しまい忘れていた。鍵を眺めていたら、宗介さんが通りかかって言った。「今日はし野さんが運転する」私は顔を上げて笑った。「まだ軽トラでいいです」宗介さんも笑った。「じゃあ、軽トラで行こう」
その日は配達の日だった。私たちは古い軽トラックの荷台に、水を張った容器と発泡スチロールの箱と30個の弁当を積んだ。私が運転席に乗って、宗介さんが助手席に乗った。エンジンをかけるといつものやかましい音がした。シートは硬い。窓は少し閉まりにくい。坂を下りて、最初の一軒はすみさんの家だ。玄関の前に立っていたすみさんが手を上げた。私はクラクションを短く鳴らした。窓から山の匂いが入ってきた。土と草と水の匂いだ。助手席の宗介さんが腕を組んで前を見ていた。その横顔を、私は一度だけ盗み見た。
5000万円の高級車より、私にとって大切だったのは、この人と一緒に守っていく小さな豆腐屋だった。



