「お前、俺の家に何勝手にカメラつけてんだよ。盗撮だぞ、盗撮。」
高幸の声がリビングに響いた。私はソファに座ったまま、静かに彼を見上げる。妻の分際で、と義母が後ろで嫌味ったらしく付け加えた。家の所有者の許可なく防犯カメラを設置するなんて、犯罪行為だって言いたいらしい。
私はゆっくりと息を吸った。今日という日が来るまで、ずっと待っていた。
「確認させてください。家の所有者の判断が優先されるという考えでよろしいですか?」
「当然だろ。ただ住んでいるだけの人間の意思なんかどうでもいい。全ては所有者が判断する」
高幸は得意げに言い放った。私はマリ子に目配せをする。彼女は小さく頷き、黒いトートバッグから透明なクリアファイルを取り出した。テーブルの上に置かれた書類。上部には「登記事項証明書」と印刷されている。
「こちらはこのご自宅の土地と建物の登記簿謄本です。所有者の欄をご確認ください」
義母と高幸の視線が書類の一点に固定された。そこには見慣れない名前が印刷されていた。
所有者 シラス カ子。
「私の名字ですよ、高幸さん」
高幸の唇が今日一番激しく震えた。義母が先に口を開く。
「でもこの家は代々な山の…」
「お母さん、このお屋敷は元々な山の家ではありません」
50年以上前、私の父がこの土地を購入して屋敷を建てた。父が亡くなった半年後、正式に私の単独名義になっている。高幸さんとの結婚の前から、この屋敷は私のものだった。
義母は書類に手を触れようとして、途中で指先を止めた。触れれば事実になってしまう。そんな恐れが滲んだ動きだった。
「仙台のシーナ様は、知らす竜一郎様から沈黙されていたものなんです」
「主人が沈黙ですって?」
「はい。仙台のシーナ様は長年にわたり、シラスの管理会社に毎月賃料を支払いになっていました」
マリ子が古い書類と分厚い金録の写しをテーブルに並べる。賃貸借契約書は高幸が生まれるよりも前の日付だった。金録は毎月、代シーナの名前で管理会社の口座に振り込まれていた。
「そんなはずは…だって主人はそんなこと一言も…」
「仙台のシーナ様はご家族にはその事実をお伝えにならなかったようです」
義母は入金記録の日付と金額を何度も目でなぞる。高幸は書類から目を離せずにいる。父がずっとこの家のために払ってきていたお金の正体。それが今、目の前で明らかになっている。
「ただし、この賃料は高幸さんとのご結婚を期に支払いが停止されました。停止はカ子さんのご判断です」
マリ子がそっと私の方に視線を向ける。私は小さく微笑み、義母と高雪に向き直った。
「結婚するということは、私がこの家に住むことになるということでした。自分が所有する家に住むのに、家族から賃料をいただくのはおかしな話ですから」
高幸の顔色が変わる。私の言葉の意味を理解し始めたようだ。
「私は高幸さんとの結婚を機に、賃料は受け取らないことにしたんです。それが私なりのご挨拶のつもりでした。ただ、少し勘違いしていたんです。仙台は当然家のことを奥様にもご子息にもお話になっていると思っていました」
私は穏やかな声で続ける。言葉の中にじわわりと皮肉を込めた。高幸は気づいていないが、義母は察したようだ。眉を吊り上げて私を睨んでいる。
「結婚してから何年も経たないうちに気づきました。お母様の『シラス家の家』、高幸さんの『俺の家』という言葉から、ああ、このお二人はご存知ないんだなと」
「どうしようかとも迷いました。本当のことをお話しすれば、お父様の顔を潰すことになる。亡くなられた後ではなおさらです」
私は仏壇が置かれている方向に目をやった。会ったことのない義父。父との長い付き合いの中で、ずっと家族の事情には触れずに来た人だった。
「私の父もお父様との長いお付き合いの中で、ずっと家族の事情には触れずに来た人でしたから、私もそれに習うことにしたんです」
毎日、朝食の席で。夕食の席で。仏間の前で。真実を知らない家族と同じ食卓を囲み、真実を知らない義母の嫌みを受け止めながら、一日一日を積み重ねてきた日々。私はその重みを今、この場に置いた。責めるためではない。ただ事実として、そこに置いただけだ。
「本当に強いものほど牙を見せない。父から教わった言葉です。私はこの家のことを皆さんに黙っていることに決めました。いつか本当に必要な時が来るまで」
リビングの空気が静まり返る。その必要な時が、今だったんです。
義母の声は最後の方でかれて消えた。ソファの背にそのままの姿勢で固まっている。高幸はゆっくりと自分の膝に目を落とした。先ほどまで「俺の家」「俺の主権」と胸を張っていた男が、今何を言えばいいのか分からずに途方に暮れている。
「高幸さんはおっしゃいましたよね。家の所有者の判断が優先されると。その基準に従えば、この家の中のカメラは所有者である私の判断で設置したものですから、何の問題もありませんね」
高幸の声はかれた。警察官の一人がマリ子から登記簿謄本を受け取り、もう一人の警察官と確認している。義母の視線はテーブルの上の書類と壁の遺影の写真との間を何度も往復していた。
高幸は先ほどまで「俺がオーナーだ」と宣言していた。その勢いのまま、家の所有者の許可なく勝手に防犯カメラをつけたのは盗撮だと私を罪に問おうとしていた。しかし、その前提がたった今崩れた。家の所有権は高幸ではなかったのだから。土地も建物も、結婚の前からずっと私の名義だった。
つまり、この家の中にカメラを設置する権限を持っているのは、高幸でも義母でもなく、所有者である私自身である。高幸の主張は前提の部分から成立していなかった。「所有者の許可なく」という言葉は、むしろ高幸自身に跳ね返る。この家に住まわせてもらいながら、妻を追い出す三段を組み、浮気相手を毎日招き入れていたのは、所有者の許可を得ていない高幸の方だった。
高幸の顔が今明らかに白くなっていく。勝ち誇って上がっていた唇の端はもう下がりきっていた。隣の義母も膝の上で手を固く握りしめている。高幸の「俺の家」という主張に便乗して、一緒になって私を攻め立てていた義母。その便乗そのものが根拠のないものだったと突きつけられている。
私はもう一枚の書類を手に取った。
「実は、もう一つお伝えしておきたいことがあります」
マリ子が別のクリアファイルを差し出す。中には綺麗に印刷された法人の登記事項書類が入っている。
「私、実は父の会社も継いでいるんです」
「会社?」
「はい。シラスホールディングスという会社です。父が興した会社で、父の亡くなった年から私が代表取締役を務めています」
高幸が私の顔をまじまじと見つめる。
「シラスホールディングスは複数の事業会社を参加に持つ持株会社です。従業員数はグループ全体で約3000人。年商は、公表されているだけでも相当の規模になります」
「3000…」
義母は目の焦点を合わせるのに苦労しているようだ。私は淡々と続ける。
「結婚してから、私は表向きは専業主婦として過ごしてきました。実務は信頼できる部下に任せ、私は大きな判断だけを下す形で。年に数回の取締役会と、月に数回の決済だけが私の仕事でした」
「あなたは高幸と違って忙しくないと、お母さんは何度もおっしゃいましたね。確かに忙しさの中身は違ったかもしれません。ただ、月々の家計費、生活費、お母さんの年金の補填、全てシラスホールディングスから出る私の役員報酬で賄ってきました」
「じゃあ、私が年金と一緒に毎月もらっていたあのお金は…」
「高幸さんが渡してくれていたわけではありません。私が、あなたの息子に『お母さんの生活費の足しに』と言って渡していたものです」
義母の顔から完全に血の気が引いた。信じ切っていた日々が一瞬にして別の意味を持つ日々に変わった瞬間である。義母の頭の中では、これまでの嫁いびりの言葉が意味を変えていっているはずだ。
「うちで引き取ってやっている」「高幸の稼ぎで食べさせてもらっている」「嫁の分際で」
義母が何気なく吐き出してきたこれらの言葉が、今全て逆転した形で義母自身に跳ね返っていく。実際には引き取られていたのは義母自身だった。息子の稼ぎで食べていたのではなく、嫁の会社からの報酬で息子も義母も食べていた。
高幸が細くかれた声で言った。
「なんで…黙ってたんだ?」
「父が教えてくれたんです。本当に強いものほど牙を見せないと」
高幸が私の言葉に耳を傾けている。この結婚生活で私のことを何一つ見ようとしてこなかった男が、すでに手遅れではあるが。
「高幸さん、あなたが私を専業主婦として扱っている間、私はそのままでいました。何の主張もしませんでした。それが父の残した言葉に従うことだと思っていたから」
マリ子がもう一枚の書類を取り出す。これまでの二枚とは違う、少し厚みのある書類だった。
「最後にもう一つだけ、確認させてください」
その書類をテーブルの上に置き、指先でそっと押し出す。
「こちらは北用製薬株式会社の株式名簿の写しです。高幸さん、あなたが営業部長を務めていらっしゃる会社の」
「…筆頭株主の欄をご確認ください」
高幸は震える指先で書類を引き寄せた。目線が筆頭株主の欄に落ちる。数字と会社名と持株比率。
北用製薬の筆頭株主は、シラスホールディングス株式会社。
「つまり、この書類の意味するところは、あなたの勤務先の事実上の最大のオーナーが私だということです」
リビングの中で、何かが崩れる音がした。物理的な音ではない。シーナ高幸という男がこれまで築き上げてきた自尊心の土台が、彼自身の中で崩れ落ちた音だった。
高幸はソファからずり落ちるように床に膝をつく。両手を床について、呼吸を整えようとしている。その姿は、見下げていた妻の足元に文字通り頭を下げている姿になっていた。
「そんな…嘘だ。嘘だろ?」
「嘘ではありません。会社の登記記録として公的に記載されていますから、お調べになればすぐに確認できますよ」
義母はソファの上でただ呆然と前を見つめていた。自分の息子が、自分が火の粉のように扱ってきた嫁の会社に務める雇われであるという事実。その事実を頭が拒否しているようだった。
自分の人生のどこまでが本物で、どこからが妻の手のひらの上だったのか。この感覚を、高幸はもう見失っていた。
私の父、シラス竜一郎という男が本当に残したものは、この屋敷でも会社でもない。娘である私の中にある、牙を隠して待つ力だったのかもしれない。
「もちろん、これまで高幸さんの仕事に私が口出しをしたことはありません。それは父から最も厳しく戒しめられてきたことでしたから。でも、高幸さん」
「あ、はい」
長年妻を呼び捨てにしてきた男が、床に膝をついたまま「はい」と返事した。
「今回の件は別です。会社のコンプライアンス違反、不貞行為、家庭内での共同不法行為、妻の家に不審者を招き入れた手助け行為。これらは株主として、会社に報告させていただく義務があります」
「待ってくれ、カ子」
高幸の声は、これまで聞いたことのない命乞いに近い響きだった。他人を見下すことを自分のアイデンティティとしてきた男が、自分より上の立場に立った相手に対して初めて発する「お願い」の声である。しかし、私は応じるつもりはなかった。私の対応は個人的な感情ではなく、会社の株主として取るべき判断であるからだ。
「株主として私が動かなければ、他の株主や真面目に働いてきた北用製薬の従業員たちに対して背信行為になる。夫の立場を庇ってしまえば、私は会社にとって失格な経営者になってしまう。父が最も厳しく戒しめてきたことに、私自身が手を染めることになる。それだけは、できませんでした」
高幸は両手で床を叩いた。
「頼む、カ子。俺が悪かった。何でもする。何でもするから」
「高幸!」
義母は息子の名前を呼ぶが、その声にはもう何の力もなかった。
私はソファの端で座っている愛人の方を向く。女性は義母と高幸の崩壊を黙って見ている。すがるのも怒るのも、もう通り過ぎたようだ。自分がこの家の中で何者だったのかを、ようやく理解した顔をしている。
「あなたがどこのだれであっても、この家の所有者である私から見れば、不法侵入者であることに変わりはありません」
「…はい」
女性は短くそう答えた。頷くと、警察官に支えられて立ち上がる。リビングを出ていく時、高幸の方を一度も振り返らなかった。
その場にいた警察官が二人、小さく頷き合う。つい先ほどまでの段階では、義母と高幸は不審者の侵入を受けた被害者の立場だった。しかし、ここまでの時間でその前提は完全に覆された。女性を家に招き入れていたのは義母と高幸自身。それを警察に「知らない不審者が侵入した」と虚偽の通報をし、被害届まで出していた。さらには暴行して妻を有責離婚に追い込もうとしていた、共同不法行為の疑い。被害者として扱われていた二人は、今、容疑者の側に入れ替わった。
「シーナさん、高幸さん。虚偽告訴の疑いで、書面にて改めてお話を伺わせていただきたいと思います。ご同行できますでしょうか?」
義母は小さく頷くのがやっとだった。高幸は床に膝をついたまま。
私は立ち上がった。マリ子も立ち上がり、書類をクリアファイルに戻していく。リビングの窓の外に目をやった。庭の桜は完全に葉桜に変わっていた。若葉が春の光を受けて柔らかく輝いている。
父が植えたあの桜。「散る時に初めて、咲いていた意味がわかる」と父は言った。
私が黙って飲み込んできた日々は、散るためにあったのかもしれない。そして散り終わった今、私の咲いていた意味がようやく形になった。
お父さん、見ててくださいましたか? 牙はちゃんと使いましたよ。
私は心の中でそうつぶやいて、最後にもう一度ソファの二人を見た。義母は自分の膝の上の両手をじっと見つめている。高幸は床に膝をついたまま動けなかった。哀れむ気持ちも、怒る気持ちも湧いてこない。ただ、長い長い時間が今終わろうとしている。
私はマリ子と共にリビングを出た。玄関で靴を履き、門の外に向かう。葉桜の脇を通り抜けて車に乗り込んだ。ひなのお迎えの時間までには、まだ少しある。私たちは幼稚園に向かって車を走らせた。ミラー越しに黒塗りの門が遠ざかっていく。
私は振り返らなかった。
あの日から3ヶ月が過ぎた。
高幸の愛人だった女性はミクという名前だった。彼女は不法侵入と住居侵入罪の共犯として起訴された。警察の取り調べでミクは最初から最後まで、義母から合鍵を受け取った経緯と高幸からの指示を淡々と供述したという。保身のためではなく、もはや失うものがなかったからだろう。判決は執行猶予付きの有罪。ミクは高幸の勤務先に出入りしていた派遣社員時代の記録も掘り起こされ、再就職の道は事実上閉ざされた。高幸との結婚の約束も、赤ん坊を連れてこの家で暮らすという夢も、執行猶予の判決が下った瞬間に静かに消えた。
義母は虚偽告訴で書類送検された。自分の口で「知らない不審者が押し入った」と警察に証言した録音がすべて残っていた。義母は最後まで「騙されていたのは私の方」と主張したが、防犯カメラに写っていたミクの肩を優しくなでる義母の姿がその言葉を覆す。結果は罰金刑。ただ、長年「私がこの家を守ってきた」と誇ってきた老女にとって、最も重かったのは罰金そのものではなかった。商店街に顔を出せば、相手方から冷たい視線で迎えられるようになった日々。お肉屋さんもお花屋さんも、今では義母を見ると視線を外すようになったらしい。園田さんがある日、そう教えてくれた。
高幸の処分は最も重かった。北用製薬の株主であるシラスホールディングスからの正式な要請を受け、会社は高幸に対して懲戒解雇処分を下した。退職金は全額不支給。業界内にはすでに噂が回り、再就職の目処は立っていない。50手前の男が、家も妻も娘も一夜にして失った。
離婚は高幸の有責で成立した。慰謝料は1500万円。不貞行為、家庭内での共同不法行為、妻を追い出すための画策、すべてが認定された。加えて、義母・高幸・ミクの3人に対する共同不法行為の民事訴訟も起こすことにした。こちらは総額2000万円の損害賠償が認められた。3人の間で誰がいくら払うかを巡って、さらに小さな争いが続いているらしい。
娘の親権は当然ながら私が得た。高幸には面会すら認められなかった。
そして、屋敷の退去期限を2週間と定めたため、義母と高幸はそれぞれ安い賃貸に移っていった。二人が顔を合わせることはもうないと聞く。母と息子は互いに相手を攻め合った末、「もうあの日のことを話したくない」という一点だけでだけ意見が一致したらしい。
私は屋敷に残り、長年シーナの表札だった場所をシラスに変えた。ひなもシラスひなになった。
1年が過ぎた。
私は今、父が植えた桜の木の下で、ひなと二人花びらを見上げている。ひなは5歳になり、随分お姉さんになった。幼稚園では仲の良いお友達が3人できたらしい。週に一度、マリ子が遊びに来てくれて、ひなと一緒にクッキーを焼く。私はその光景をキッチンの端から眺めるのが好きだ。
あの日、リビングのベランダを指差してくれた夜のことを、彼女はもう覚えていない。それでいいと、私は思う。
私は自分の家で、自分の娘と、自分の人生を生きている。牙はもう二度と見せる必要がないだろう。



