私は相沢美佐。専業主婦で、今年小学生になる娘がいる。趣味はサウナで、毎週通うのが楽しみだ。あの日も、夫と娘を見送ってから、いつものようにサウナへ向かった。
サウナの脱衣所で、偶然ママ友の富江さんに会った。娘同士が同じ小学校に通っているから、顔見知りではある。正直、彼女は苦手だ。いつも他人の悪口ばかり言って、見下すような態度をするから。でも、まさかあんなことになるなんて、その時は思ってもみなかった。
「あら、美佐さんも来てたの。私もサウナ好きなのよね」
富江さんは隣に座るなり、話を始めた。最初は他愛のない話だったのに、すぐに別のママ友の悪口に変わった。彼女はいつもの調子で、誰々は生活力がない、誰々は育児がなってないと、次々に言い始めた。とうとう我慢できなくて、私は注意した。
「富江さん、悪口はあまり言わない方がいいわよ。聞いている人がいるんだから」
すると富江さんは、露骨に不機嫌な顔をした。そして、私たちの会話は徐々にエスカレートしていった。気付いた時には、彼女の口調は完全に高圧的になっていた。
「いい? 私、この地域では一番仕事もできるし、向上心もあるの。あなたみたいな地味で野暮ったいママは、素直に私の言うことを聞いていればいいのよ」
あまりの言いように、私が「落ち着いて」と声をかけると、富江さんは遂に言い放った。
「今まで黙っていたけど。実は私、ヤクザの組長の娘なの。伊東組っていう大きな組よ。あなたとあなたの家族をボコボコにされて、それでもいいの?」
「ヤクザの娘だったの? 知らなかったわ。ごめんなさいね」
「謝るだけで済むと思っているの? ヤクザの謝罪は、お金で示すのが決まりよ。生きて無事にサウナから出て家に帰りたければ、慰謝料として1000万円準備しなさい」
1000万円なんて、すぐに払える金額ではない。私は夫に電話をした。事情を話すと、夫は「すぐに向かうから待っていて」とだけ言って、電話を切った。5分後、約束通り夫が来た。すると夫は、富江さんの要求を聞いて、冷笑した。
「おい、人の鞄に勝手に触ろうとするな。それに1000万円だ? バカ言うな。伊東組なんて、聞いたこともない新興の組に払う金は、1円もないぞ」
夫の豹変ぶりに、富江さんは一瞬怯んだ。でも、すぐに怒り出した。
「伊東組の組長の娘である私に、そんな口を聞いてタダで済むと思わないことね!」
すると夫は背後に向かって「てめえら、来い」と声をかけた。瞬間、夫の背後から、黒いスーツを着た厳つい男たちが10人以上も現れた。私は呆然とした。夫は普通のサラリーマンのはずだ。それなのに、どうして?
「な、なによ、この男たちは!?」
「俺の親父は、梅滅組の組長だ。ここにいるのは全員、親父の部下だ。梅滅組は、お前が自慢する伊東組の10倍はデカいヤクザだ。西日本一帯を支配している」
富江さんは信じられない様子だった。すると夫は、ある人物を連れて来させた。それは、拘束された富江さんの父親、つまり伊東組の組長だった。私は驚いた。夫は一体、どうやって? そうか、夫は私が脅されたと知って、すぐに動いてくれたのだ。
「みさが伊東組の娘に絡まれたと聞いて、すぐに伊東組の自宅を襲撃して、こいつを連れて来た。こういう場は、組長と話すのが一番早いと思ってな」
富江さんの父親は、娘を見るなり怒鳴った。
「富江、このバカ娘! よりによって梅滅組の組長の息子に手を出すなんて、何てことをしてくれたんだ!」
「そんなの、知らなかったんだから仕方ないでしょ! 大体、美佐さんも美佐さんよ。どうして旦那がヤクザの息子だって言ってくれなかったのよ!?」
この状況でも、富江さんはまだ自分の非を認めようとしない。それどころか、私に何か言い続けている。呆れるというより、もう何も言う気になれなかった。両親子は、その場で「あんたのせいだ」「お前のせいだ」と互いに罵り合いを始めた。部下の手を振り払って逃げ出そうとした父親も、見張りに捕まって連れ戻された。
夫は呆れ果てた様子で言った。
「もういい。親子喧嘩は後でやれ。お前たちがやったことの責任を取ってもらうぞ。今すぐ、慰謝料を支払え。払えないなら、海に沈めてやってもいいんだぜ?」
その言葉に、富江さんの父親は慌てて組に電話をした。すると、ほどなくして組員を名乗る男がアタッシュケースを持って来た。しかし、中に入っていたのは100万円程度だった。どうやら伊東組は、思ったより貧乏なようだ。
「これじゃ足りないな。慰謝料はお前が払うか?」
夫は富江さんにそう言った。すると、彼女はまさかの発言をした。
「分かったわ。私だってヤクザの娘だもの。詐欺でも恐喝でもしてお金を作ってあげるわよ。それでいいでしょ?」
「バカ言え。お前は素人だろうが。ヤクザの真似なんかせずに、ちゃんと働いて金を返せ。ここに契約書がある。うちの組が関わっている仕事だ。きつい肉体労働だが、いい稼ぎになるぞ。3ヶ月で1000万円を用意出来なかったら、二度と太陽の光は見られないと思え」
富江さんは激しく嫌がったが、夫の剣幕にようやく命の危険を感じたのか、震えながら契約書にサインをした。父親も同じ書類にサインをさせられた。そして夫は、岐阜から入った情報を明かした。
「伊東組は、以前から梅滅組の名を使って悪事を働いていたらしい。今回を機に、潰して欲しいという要望も来ている」
「うわ、待ってくれ! 確かに梅滅組の名前を使ったことはあるが、それは全部娘が起こしたトラブルの始末のためだったんだ!」
「父さん、私のせいにするの!? 梅滅組の名前を使おうって最初に言い出したのは父さんでしょう!」
またしても、言い訳の押し付け合いが始まった。夫はもう、うんざりした表情で言った。
「もう十分だ。お前たちがどれだけ身勝手で図々しいか、よく分かった。これにサインしろ。今月中に、伊東組は解散するように書いてある。これにサインすれば、命だけは見逃してやる」
「そんな! これにサインしたら、組が解散しないといけないんでしょう!?」
「1000万円も払えない、解散も嫌だっていうなら、命で償うか?」
恐ろしい夫の言葉に、父親は渋々サインした。しかし、夫はすぐに岐阜へ電話をかけると、残念そうに言った。
「親父からの伝言だ。『伊東組の組長は嘘つきだから、契約書を書いたところで意味はない。てっとり早く終わらせてやる』ってな。親父は今から、お前の組を潰すために事務所に向かっているそうだ」
「なんだって!? 組を襲撃するなんて! あ、ちょっと待ってくれ! 今回の件はうちの娘が悪いんだ! 組員たちは何も悪くない! どうか彼らは見逃してくれ!」
富江さんの父親は、初めて組員を守るような言葉を口にした。一瞬、私は彼に少しだけ関心した。しかし、すぐに娘の富江さんが指摘した。
「父さんが組員の心配なんてするわけないじゃない。金目のものの壺や掛け軸が壊されないか心配なんでしょ。昔からそういう人だもんね」
富江さんの言葉通り、結局、彼は金目のものを守ろうとしていただけのようだった。本当に、どこまで貪欲でずるい親子なのだろう。その時、また夫のスマホに岐阜から電話がかかってきた。夫は短い返事をすると、口論を続ける親子に向かって言った。
「たった今、父から連絡があった。伊東組はもう壊滅したそうだ。組長がこんなザマだから、舐めてかかった組員も、ほとんどがすぐに逃げ出したそうだ。弱い連中ばかりだから、あっという間に終わったらしいぜ。もちろん、自慢の骨董品もボロボロになっただろうな」
「私たちは、これからどうしたらいいんですか?」
「ヤクザの看板はもうないんだ。せっかく仕事を紹介してやったんだから、真面目に働いたらどうだ? 3ヶ月後にきっちり1000万円を払うんだぞ。払えなかったら、その時は命はないと思え」
そう言い残すと、夫は部下たちと共にその場を去った。行き場を失った富江さん親子は、がっくりと項垂れながら去っていった。
それから3日後の週末、私はまた家族と共にサウナへ行った。すると、なんとそこで富江さんに会ったのだった。
「富江さんじゃない? どうしたの? こんなところで」
「あなたの旦那さんから仕事を紹介されたけど、その仕事だけだと1000万円も払えないから、空いている時間はなるべく多くバイトを入れているのよ」
そう言いながら、富江さんはサウナストーンに水をかけていた。熱そうで、私は思わずたじろいだが、彼女は慣れた手つきでそれを扇いだ。サウナから出た後、夫と合流して富江さんに会ったことを伝えると、夫もサウナで彼女の父親に会ったらしい。
「富江の女は、今回の件で旦那に見限られたようだな。離婚して、今は一文無しなんだと。だから必死になって稼がないと、3ヶ月で1000万円なんて払えないだろうな」
「そうみたいね。でも、前よりちょっと礼儀正しくなったと思うよ。この仕事を始めてから、みんなの苦労を知ったのかもしれないね」
私は夫と娘に冷たい飲み物を用意して、3人で乾杯した。その時、すっかりやつれた富江さん親子が、また次のバイト先へ向かうのか、私たちの前を通りかかった。私はそんな彼女たちを見送りながら、家族と一緒にサウナに来られて幸せだと思った。一人で行くサウナも悪くないけど、こうして家族と過ごす時間の方が、何倍も大切なのだから。



