「もしもし、なお子さん? 俺だ。母さんが息を引き取ったよ」
その電話は、夫・大輔の忘れていったスマホにかかってきた、義兄からのものだった。
「え? お母さんは、5ヶ月前に亡くなりましたよね?」
「え? いや、なお子さん、何を言って…」
「大輔さんがスマホを忘れて仕事に行ったんです。それより、お兄さん、何の話ですか?」
電話の向こうで、義兄は「待てよ…」と呟き、実家近くの喫茶店で会おうと言った。
そこで聞かされたのは、私が一切知らされていなかった真実だった。
義母は、義兄たちの実の母ではない。義兄の母は不倫の果てに家を出て、義兄は幼い頃から義母に懐けずに育った。そして、父も義母と再婚して数年で亡くなっていた。
「じゃあ、大輔はなぜ、そんな義母と同居していたの?」
私の問いに、義兄は薄笑いを浮かべた。
「大輔の会社は、母さんの実家の会社と付き合いのある親戚の会社だ。だから、母さんに良く思われないと立場が危うい。会社の印象を守るために同居してたんだよ。あと、お前と結婚したのも、家事ができて看護師の資格があるから、最初から母さんの世話をさせるつもりだったんだとさ」
私は、あまりの事実に言葉を失った。
家に帰っても、何をどうやって帰ったのか覚えていない。気がつくと、亡き義母の部屋に座っていた。
毎日掃除はしていても、形見を整理する気にはなれずにいた。何気なく引き出しを開けると、見慣れない封筒があった。
『なお子さんへ』
義母からの手紙だった。そこには、私への感謝の気持ちが綴られ、最後には「あなたを本当の娘のように思い、過ごした時間は私の宝物です」と書かれていた。
涙が止まらなかった。義母も、私と同じ気持ちでいてくれたのだ。
そして、私は決意した。
「ありがとう、お母さん。大輔には、お釣りがくるくらいのお仕置きをしてあげる」
早速、探偵社に夫の不倫調査を依頼した。1週間の予定だったが、4日目に「もう十分な証拠が揃いました」と連絡が来た。不倫相手とは、私と知り合う前からの関係だったらしい。
私は夫を、深く軽蔑した。
義母が生前に相談していた弁護士に離婚の相談をすると、快く引き受けてくれた。そして、私は夫の会社の社長に、全てを伝えた。
すると、これまで義母の息子ということで見て見ぬふりをしていた同僚たちが、一斉に大輔の遅刻やサボり癖、成績の悪さを報告した。
大輔は会社にも家にも居場所を失い、不倫相手の家に転がり込んだ。だが、すぐに弁護士から慰謝料請求の書類が届き、不倫相手にあっさり捨てられた。
案の定、電話がかかってきた。
「なお子さん、許してください」
「は? どちら様ですか? 気持ち悪いんですけど」
「意地悪しないでくれよ。助けてくれよ」
「先に長年、レベルの違う意地悪をしたのはどっち? 謝っても無駄だから。よく電話かけてこれたね。呆れるわ」
「俺、会社もやめたんだよ。行くところがないんだよ」
「白状なやつね。では、さようなら」
電話を切り、速攻でブロックした。
後日、弁護士から報告を受けた。大輔は慰謝料を渋っていたが、「これ以上応じないなら裁判になりますよ」の一言で、素直に応じるようになったという。
私はと言うと、義母が生前、私に内緒で株式投資の配当金が定期的に振り込まれるよう手続きをしてくれていた。贅沢をしなければ、十分に暮らしていけるように考えてくれていたのだ。
義母は、大輔の本性を見抜いていたのだ。亡くなってからも、私を守ってくれていた。
――時は遡る。
夫が亡くなるずっと前のことだ。
「また、こんな濃い味の料理ばかり作って。だから大輔は病気になったのよ」
義母が、私の作った味噌汁を一口飲んで、顔を歪めて嫌味を言った。
また始まった。私は内心ため息をついた。味噌汁は、独身時代から薄味だ。これ以上薄めたら、ほぼお湯である。
夫が亡くなったのは、幼い頃に治ったと思われた持病が再発したからだ。私の料理とは一切関係ない。
すると、義兄がにやりと笑った。
「なお子さん、もしかして俺たちも大輔みたいに病気にしようと思ってない? この家を乗っ取る気だな」
「なあ、母さん。このままなお子さんをこの家に置いておくのは危険じゃないか?」
「まあ、そうなの? なお子さん。この家の財産が目当てだったのね」
「財産って、この家のどこに乗っ取れるほどの財産があるっていうのよ!」
呆れて言葉が出なかった。すると、それが図星だと思ったのか、義兄がとんでもないことを言い出した。
「母さん、なお子さんにはこの家を出ていってもらおう。今すぐだ」
義兄と義母は、驚くほど素早く私の荷物をまとめ、家から追い出した。
「ちょ、ちょっと待ってください! 誤解です!」
「あなたの言うことなんか信じられないわ。もう二度とこの家に戻ってこないでちょうだい」
義母は、目の前で玄関を閉めて鍵をかけた。
嘘でしょ? 突然のことに、私は立ち尽くすしかなかった。
私は38歳。幼い頃に両親を亡くし、祖父母に育てられた。裕福ではなかったが、祖父母は大切に育ててくれた。迷惑をかけたくなくて、高校卒業後は就職した。そこで出会ったのが、2歳年上の大輔だった。優しくて穏やかな人で、数年後、私たちは結婚した。
結婚式はしなかった。大輔には「経営者になりたい」という夢があり、独身時代からコツコツと貯金していたからだ。夫の夢は私の夢でもある。そう思って、二人で協力してお金を貯めた。
だから、夫の実家で同居することになっても、苦ではなかった。姑はとても優しい人で、姑とは良好な関係を築けていた。
問題は義兄だった。結婚もせず、仕事もしているのかしていないのか分からない、ほぼ無職の義兄。夫や姑がいないところで、私を罵倒してきた。
「大輔の稼ぎで楽できていいな」
「大輔が、こんな面白みもない女と結婚したんだからな」
「おい、ブス。何気に茶なんて飲んでないで、俺にも出せよ」
「お前なんか、夫の稼ぎで楽してるただのニートだろ。ニートはさっさと飯作れよ」
言い返したい気持ちは山々だったが、ここで揉めても夫が困るだけだ。仕事で疲れている夫には、何も問題なく過ごしているように見せたかった。我慢、我慢。私は義兄の暴言を黙って受け流し、家事をこなし、夫を支え続けた。
そして数年後、夫と協力し合い、ついに会社を設立することができた。会社は軌道に乗り始めた。やっと安心できる。そう思った矢先のことだった。夫44歳の健康診断で、病気が発覚。幼い頃に治ったと思われた持病が再発していたのだ。
「嘘でしょ? どうしてこんなことに…」
思ったよりも進行が速く、夫は数ヶ月で亡くなってしまった。
それからの義実家は、地獄だった。夫という守ってくれる存在がいなくなり、義兄の態度はさらに悪化。暴言どころか、嫌味や文句が日常的になった。私はまるで飯使いのように扱われた。
「あなたが大輔に無理をさせたから、あの子は早く亡くなってしまったのよ」
そうしてついに、優しかった姑まで、義兄に吹き込まれて私に嫌味を言うようになってしまった。
――そして、あの日。追い出された私は、夫の会社で一夜を明かし、翌日からはボロいアパートを借りて暮らし始めた。夫の会社は私が引き継いで社長になっていたから給料はいい。しかし、義実家の家賃などを私が支払っていたので、お金はあまり残らなかった。だから、節約のためにボロいアパートに住んでいたのだ。
そんな生活が2ヶ月続いたある日、仕事へ行こうと玄関を開けると、部屋の前に黒いゴミ袋が置いてあった。
「何これ? 誰がこんな…」
腑に落ちないながらも、私はそれをゴミ捨て場へ運んだ。しかし、翌朝になるとまたゴミ袋が置いてある。数日間続いた。
「明らかに嫌がらせよね。犯人を見つけてやろう」
そう思って朝早くからドアスコープを覗いて待っていると、人影が見えた。
「あ、お母さん?」
辺りを気にしながら、玄関前に黒いゴミ袋を置いていたのは、義母だった。置くと逃げるように帰っていく。
「お母さんが犯人だったの? じゃあ、これは一体…」
恐る恐る中を開けると、私の洋服が数枚、そしてその間に隠すように封筒が入っていた。
『遺言書』
裏を見ると、夫の名前が書いてある。
開けてみると、そこには夫の懐かしい字で、こう書かれていた。
『なお子へ。なお子が兄に嫌がらせや嫌味を言われていたのは知っていたけれど、必死に隠そうとしているのが分かっていた。何より、家族関係が崩れてしまうのではないかという思いがあった。そのせいで、なお子を苦しめてしまった。大変申し訳なく思っている。
実家の本棚に、俺の財産が隠してある。もし兄に見つかったら、なお子を家から追い出して遺産を独り占めしようとするだろう。だから、兄に見つかる前になお子が回収しておいてほしい。
そして、そのお金で、俺の最後の夢だった老人施設を設立できたらと思っている。年を取った母のことで、なお子に苦労はかけたくない。何より母には、最適な環境で老後を過ごしてもらいたい。
――大輔』
涙が溢れて止まらなかった。夫は、こんなにも先のことを考えてくれていたのか。
「よし、大輔の思いを無駄にしないようにしなければ」
顔を上げると、少し離れたところで義母がこちらを見ていた。
「お母さん…」
「なお子さん…。私も、大輔の遺言書を読んだの。お兄ちゃんがあなたにひどい嫌がらせをしていたこと、遺産が欲しくてあなたを家から追い出したことを知ったわ。私、そんなことも知らずに…。お兄ちゃんの『家を出ろ』という言葉に乗っかってしまって、他にもひどいことをたくさん言ってしまって。本当に申し訳ないと思っているの。ごめんなさい」
義母は、涙を浮かべながら謝罪した。義兄に見つからないように、こっそり遺言書を持ち出してくれたのだろう。
「なお子さん。大輔が亡くなってからも、家賃の補助をしてくれていたわよね。そんなことにも気づかずに…。本当にありがとう。そして、ごめんなさい」
そう言ってくれる義母は、夫がいた頃の優しい姿だった。
「いいえ、いいんですよ。分かってくれてよかったです。大輔を失った悲しみは、私もよく分かります。だって、家族ですもの。――まあ、家族だと思っていない人が、一人いますけどね。お兄さんは、大輔を失った悲しみより遺産の方が大事みたいですし」
私が低い声でそう言うと、義母は鋭い顔つきになった。
散々嫌がらせや暴言を吐いて、ひどいことをされても、大輔の家族だからと我慢してきた。でも、挙げ句の果てに、大輔が亡くなったら遺産が欲しくて、姑にあれこれ吹き込んで私を追い出した。自分勝手すぎる。もう我慢の限界だ。
「見てなさい、お兄さん。やられたらやり返す、倍返しよ」
私は、義母と共に夫の実家へと戻った。
家にいた義兄は、私たちの姿を見て目を丸くしていた。
「これ、大輔の遺言書よ。あなた、なお子さんに散々嫌がらせやひどいことをしてきたでしょ」
「嫌がらせ? 誤解だよ。俺は何もしてないって。時々、家事が不十分なことがあって、それを指摘しただけだ。なお子さんのためを思って言ったことだ」
白を切る義兄に、私は呆れた。
「何もしていないって、どの口が言うのよ。大輔の遺言書に、きちんと書いてあるわ」
「その遺言書、本当に大輔のものなのか? なお子さんは仕事してないんだから、家を出て生活に困って、偽物の遺言書を作ったんじゃないのか?」
「誰がそんなもの書くか。そもそも、筆跡が違うわ」
私が反論すると、義母が盛大にため息をついた。
「これはどう見ても大輔の字よ。それに、あなた知らないの? なお子さんは大輔の会社を継いで、今は社長をしているのよ。この家の家賃だって、払ってくれているのよ」
「え? 社長? 家賃??」
義兄は固まって、ゆっくりと私を見た。突然の真実に、理解が追いつかない様子だ。
「今までよくも散々、『ニート』とか『使えないやつ』とかひどいことを言えましたね。でも、この家を支えていたのは、私です」
そうきっぱり言うと、義兄は青ざめた。
「お兄ちゃん。あなた、45歳にもなって実家に寄生しているのは良くないわ。ということで、あなたの方がこの家から出ていきなさい」
「ちょっと待ってくれよ、母さん!」
焦る義兄を無視して、義母は容赦なく義兄を家から追い出した。彼は何か言い訳しようとしたが、義母は聞く耳を持たなかった。
「なお子さん。あなたを信じず、ひどいことばかりして、本当にごめんなさい」
義母は改めて深々と頭を下げた。義兄がいなくなり、心を入れ替えたのか、どこかすっきりとした表情をしていた。
私は、夫の遺産を、夫の夢だった老人施設の建設のために使った。今では、義母と協力して夫の会社と老人施設を経営している。
義兄は、家から追い出され、ほぼ無職同然だったため、新しい生活に焦っているようだ。当然の報いだ。反省してくれるといいけど。
私は義母と仕事を協力し合うことで、会社と施設を両立させ、収入も増えていった。夫がいないことは寂しいけれど、私は今、幸せに暮らしている。



