「ご家族の皆様、本日はお集まりいただきありがとうございます。私から皆様にご報告があります。実は、この度……私、結婚いたしました」
その言葉に、両親の顔がぱっと明るくなった。祖母は杖をついて立ち上がり、目に涙を浮かべている。祖父も、いつもの無表情ながらも口元がほんの少し緩んでいた。50年の結婚記念日の席で、家族に新郎を紹介できることが、何より嬉しかった。
「お相手は……高校時代の先輩で、今は喫茶店を経営している方です。店の名前は『こもれび』といいます」
妹のリサが、その瞬間、手に持っていたフォークを落としそうになった。彼女の顔が、みるみるうちに青ざめていく。私はそれを見て、何かがおかしいと直感した。
「ちょっとお姉ちゃん、それって……あの、噂の?」
「噂? 何の噂?」
「だって、あの店って……すごく古くて、ボロボロじゃない。こんな田舎で、誰が来るのよ」
リサの口調には、明らかな嘲りが含まれていた。でも、私が返す言葉は決まっていた。
「確かに古いお店よ。でも、とても温かい場所。マスターの入れてくれるコーヒーは、この街で一番美味しいわ」
その日、私は知らなかった。妹の心の中で、何かが渦巻き始めていたことを。彼女がこっそりスマートフォンで何かを調べていたことを。そして、その数週間後に起こる出来事を、私はまだ予想だにしていなかった。
—
「お姉ちゃん、ちょっと話があるんだけど」
電話の向こうのリサの声は、いつもより少し高く、張りつめていた。私は嫌な予感がした。彼女がこういう声を出すときは、たいてい何か企んでいる時だ。
「何? 急に」
「結婚の話だけど、お姉ちゃん、あの人と本当に結婚するつもり?」
「するつもりよ。2人で決めたことだもの」
「ふーん。そう」
間があり、その沈黙が妙に重かった。そして、彼女が放った言葉は、私の心を氷のように冷たくさせた。
「私ね、その人とお見合いすることになってるの。来週」
嘘だと言ってほしかった。でも、リサの声は本気だった。
「だって……あなた、会ったこともない人でしょ?」
「だから、これから会うのよ。お母さんが紹介してくれたの。お姉ちゃんより、私の方が合ってるって。年齢も近いし、それに……」
「それに何?」
「お姉ちゃんって、いつも地味じゃない。そういう古びた店とか、貧乏くさい感じのとこ、好きそうだし」
私は言葉を失った。48年間、ずっと妹と比べられてきた。美人で華やかで、いつも周りの注目を集める妹。地味で大人しい姉の私。両親は決して差別するわけではなかったけれど、リサの言動を注意することもなかった。
「リサ、お願い。それは、あまりにも酷いわ」
「何が酷いの? 事実じゃない。私はお姉ちゃんより、あの人にふさわしいのよ。どうせお姉ちゃんは、私のお下がりを着て、私の行き遅れの相手をもらうのがお似合いよ」
その一言で、何かが切れた。
「分かったわ。じゃあ、会ってみなさい。でも、きっと後悔するわよ」
「は? 何で私が後悔するの? おかしなこと言わないで」
私は受話器を置いた。手は震えていたけれど、心は決まっていた。もしもリサがそのお見合いに行くなら、私は祝福しよう。もしも彼がリサを選ぶなら、それが運命だ。でも、もしも彼が私を選ぶなら……。
—
お見合いの日、私は家の窓からこっそり外を見ていた。リサは髪を巻き、新品のワンピースを着て、車で出かけた。彼女は絶対に勝つつもりでいる。私は深く息を吸って、スマートフォンを手に取った。
「もしもし、私。今日、リサがそちらに行ったわね」
「ああ、来てるよ」
相手の声は落ち着いていた。
「彼女、どんな様子?」
「うん……まあ、一言で言えば、品定めって感じかな」
「でしょうね」
私は苦笑した。
「もしも彼女が……あなたに興味がなかったら、どうする?」
「その時は、俺はあなたと結婚するよ」
「……え?」
「ずっと好きだったから。高校の時から」
それはあまりにも突然で、私は何も言えなかった。
「ちょっと、待って。それって、どういう——」
「また明日、話そう。今日は、もう切るね」
電話は一方的に切れた。私はしばらく、受話器を握ったまま立ち尽くしていた。ずっと好きだった。高校の時から。それは、私が想像していたのと、まったく違う現実だった。
—
翌日、私のスマートフォンにリサからメッセージが届いた。
「お姉ちゃん、あの人とは会わなかった。つまんなそうだったから」
それは拍子抜けするほど簡単な言葉だった。私は彼に連絡しようとしたが、その前に彼からの電話が来た。
「どうやら、彼女は興味がなかったみたいだ。で、どうする?」
「……私と、結婚してくれるの?」
「もちろん。ずっとそのつもりだった」
その夜、私たちは電話で長い時間話した。過去の話、今の話、これからの話。私は彼の声を聞きながら、これが夢ではないことを確かめていた。リサが捨てたものを、私は拾ったのではない。私の人生はずっと、ここに向かって動いていたのだ。
—
結婚後、私たちは彼の店『こもれび』の仕事を手伝い始めた。私はコーヒーの淹れ方を覚え、彼は私に手作りのアップルパイを振る舞ってくれた。店には常連客が少しずつ増えていった。
ある雨の日、店のドアが開いた。リサが立っていた。彼女は全身を濡らし、顔色は青白かった。
「お姉ちゃん……それ、本当なの?」
「何が?」
「この店って、このビルって……全部、一さんのものなんでしょ? 知ってたでしょ、最初から」
私は首を振った。
「知らなかった。私はただ、あなたが捨てた人を好きになっただけ」
「嘘よ! どうせお金目当てでしょ? 私が言い出せなかったから、お姉ちゃんがすかさず乗り換えたんでしょ!」
リサの声は震えていた。私は彼女の前で、静かに首を振った。
「リサ、あなたがそのお見合いを蹴った時、私は何も言わなかった。あなたは『つまんない相手だった』って言った。私はそれを信じた。でも、今は違う」
「何が違うのよ!」
「あなたが欲しいのは、一さんじゃない。このビルと、毎月の家賃収入でしょ」
その瞬間、リサの顔から血の気が引いた。
「な、何言って……」
「父さんから聞いたの。あなたが近所の人に『姉が私の婚約者を奪った』って言いふらしてるって。それから、この店の家賃がいくらになるか、しつこく聞きまわってるって」
リサは唇を噛み、手を握りしめた。
「……それが何? 私は正当な権利者よ。もともと私がお見合いしてたんだから」
「そうね。あなたはお見合いをした。そして、あなたは自分から断った。それだけの話よ」
「お姉ちゃんのせいで、私は! 」
「もういい」
その声は私ではなかった。一さんがカウンターの陰からゆっくりと立ち上がり、リサの前に立った。
「一さん……」
「リサさん、聞いてください。あなたが1年前、私とのお見合いを断った時、私は恨みませんでした。むしろ感謝しています。おかげで、この人と出会えたから」
「それは……」
「でも、あなたが今日ここで言った言葉、『正当な権利者』『このビルと家賃収入』。それを聞いて、私は確信しました」
一さんはカウンターの下から1枚の書類を取り出した。
「これは、あなたのことを調べた記録です。あなたがこの1年間、私の店の近くで無料で住める部屋を探していたこと。私の従業員に接触して家賃の額を尋ねていたこと。そして、私の妻——みかさんに、『あなたは私の代わりよ』と電話していたこと。すべて、証拠があります」
リサは一歩後退した。
「そ、そんなこと……」
「私はあなたに、こう言いたい。もう二度と、この店に来ないでください。妻にも、従業員にも、近づかないでください。もしも何かあれば、弁護士を通じて正式に対応します」
「な、何よそれ! 私が悪いみたいな言い方! 」
「悪いかどうかを決めるのは、あなたじゃない」
一さんは静かに、しかし、はっきりと言った。
「あなたが私を捨てたこと。それは構いません。縁がなかったということです。でも、あなたが今日、私の妻の幸せを壊そうとしたこと。それは、私が許さない」
リサは涙をため、私を睨んだ。
「お姉ちゃん、どう思ってるの? 私が悪いの? お姉ちゃんが私の縁談を横取りしたんじゃないの?

」
「リサ、私はあなたから何も奪ってない。あなたが自分で捨てたんだ。捨てたのは、あなた」
「うるさい! 綺麗事ばっかり言わないで! 」
「綺麗事じゃない」
私は一歩前に出た。
「私は一さんを選んだ。あなたは、このビルを選んだ。それだけよ。あなたは間違ってない。私も間違ってない。ただ、選んだものが違っただけ」
リサは何か言いかけたが、何も言えず、その場を立ち去った。
—
それから数週間、リサは親戚や友人に電話をかけて回ったらしい。『姉が私の婚約者を奪った』と。しかし、それは長くは持たなかった。一さんが下調べていた証拠が、両親の手に渡ったから。リサが書いた古いメッセージも見つかった。1年前の日付で、友人に送ったその文面には、こうあった。
「姉にはボロ喫茶店の男がお似合い。私はもっと金持ちを選ぶから」
その言葉が、誰の目にも明らかに、彼女の嘘を証明した。両親はリサを厳しく叱り、しばらくの間、彼女との連絡を断った。
リサはしばらくして、借金が原因で姿を消した。どこへ行ったのかは分からない。ただ、時折誰かが彼女を見かけたと話す。郊外の古いアパートの前で、ボロボロのコートを着て、どこかへ歩いていく姿を。
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ある秋の日、私は店の窓から外を見ていた。店の前を通りかかった人影が、足を止める。リサだった。彼女はしばらく、店の中の光を見つめていた。そして、入口に手を伸ばしかけて、やめた。そのまま、ゆっくりと、街の角へ消えていった。
私は息を吐き、コーヒーを一口飲んだ。一さんが隣に来て、肩に手を置いた。
「……大丈夫?」
「うん、大丈夫。きっと、彼女は自分の人生を見つけるわ」
「そうだな。俺たちも、俺たちの人生を大事にしよう」
私は彼を見上げて笑った。
「うん、そうする」
窓の外は、秋の光で溢れていた。もう、あの日のような雨は降っていない。
—
それから1年後の春。店『こもれび』には、昨日も今日もお客さんが溢れている。常連客の笑い声、コーヒーの香り、そろそろと開くドアの音。私はカウンターの中に立ち、一さんが淹れてくれたカプチーノを受け取る。
「今日はここ、すごく賑わってるね」
「うん。読書会の日だからね」
窓際の席に座っているおばあさんが、私に手を振ってくれる。あの日、初めて店に来た時に、席を譲ってくれた人だ。
「ミカさん、今日もおいしいね」
「ありがとうございます」
一さんが私の隣に立ち、そっと手を握ってくれた。
「この店を始めて、本当に良かった」
私も握り返した。
「私も、一さんと出会えて、本当に良かった」
それは、嘘ではない。48年間、何も変わりなかった私の人生が、たった1つの出会いで、こんなにも豊かなものに変わった。リサが捨てたもの。私が拾ったもの。でも、それは偶然ではない。私は、彼を選んだ。彼も、私を選んだ。
それだけのこと。
店の外では、春の陽気が、街を優しく包んでいた。


