昨夜、行きつけの高級料亭で高校時代の同級生に「ネズミ」呼ばわりされた。彼女は夫の出世を鼻にかけ、俺を見下し、笑いものにした。俺は何も言わずに店を出た。翌朝、会社の人事部長が突然、俺のオフィスに現れた。彼女の口から出たのは「リストラ候補名簿」という言葉だった。だが、それだけでは終わらない。俺が静かに電話をかけた相手は、俺の本当の姿を知る人物だった。あの日の嘲笑が、まさか彼女の人生をひっくり返す…

昨夜、行きつけの高級料亭で高校時代の同級生に「ネズミ」呼ばわりされた。彼女は夫の出世を鼻にかけ、俺を見下し、笑いものにした。俺は何も言わずに店を出た。翌朝、会社の人事部長が突然、俺のオフィスに現れた。彼女の口から出たのは「リストラ候補名簿」という言葉だった。だが、それだけでは終わらない。俺が静かに電話をかけた相手は、俺の本当の姿を知る人物だった。あの日の嘲笑が、まさか彼女の人生をひっくり返す...

俺はカウンター席から立ち上がった。また開きますね。お作り美味しかったよ。大将によろしく伝えて。すると後ろから声が飛んできた。何制張ってるのかしら?次に来る約束なんてできないじゃん。有名大企業の時期営業部長候補の旦那。あんたは店に来るなんて一生無理よ。犬が吠え、夫が笑い転げる。ここが格式の高い店だと分かっているなら、言ってはいけない言葉くらい湧き回るべきだったね。俺はそう言って店を後にした。

俺は岩淵孝太。45歳の冴えないおっさんだ。俺の楽しみは行きつけの料亭のカウンターの片隅で、刺身をつまみに日本酒をちびちび飲むこと。このところ事情があってなかなか店に来られなかったが、数ヶ月ぶりにようやく足を運ぶことができた。大将が痩せた俺を心配し、カウンター越しに話を聞いてくれた。大将には今日行くことを伝えていたので、俺のために珍しい魚を調理してくれている。それに蔵元から酒が入ってきたとのことで、酒まで振る舞ってもらえた。この店に来るのは本当に時々だが、大将にはいつも世話になっている。大将が料理人に呼ばれ、奥の厨房へ向かった時だった。

「岩ねえ、あんた岩淵でしょう。はあ、マジの岩口だわ。相変わらずネズミみたいな貧相さね」

思い出したくもない過去が蘇る。ネズミという不名誉なあだ名があった。つまりクラス内でそういう立場だったのだ。と言っても、校内で美女と持て囃されていたミチルがただ一人、俺にあだ名をつけていただけだが。

「あんた何様?ネズミのくせになんでこの店にいるの?あんたみたいな客がいるのは癪に障るわ」

俺は黙りを決め込んだ。ミチルは男性と一緒にいて、下品な香水の香りを振りまいていた。本当にこいつ、高校時代と変わらないのね。

「結婚なんてしてないでしょ。っていうか、あんたみたいなネズミがこの店に入る資格あったの?」

「なんだそれ?」

「こいつ貧困層のくせに、金持ちで秀才しか通わない私立高校にいたのよ」

「ええ?てことは頭良かったのか?」

「さあね。私こいつには興味なかったし、もっと秀才がいたと思うわ」

「だよね」

ミチルがこんなネズミに興味を持つわけがない。

「行けてないっていうか、今で言う陰キャっていうの。本当に教室のすみっこでネズミみたいに潜んでるのよ。卒業後就職したみたいだけど、その私立高校で進路が就職って言ったらドロップアウトでしかないのよ」

ミチルは指輪をしているので、連れの男性は夫のようだ。

「ねえ、この店の格知ってる?あんたみたいな中太郎が来れるような店じゃないの。ネズミだからチ太郎か。私の旦那様、昇格確定なの。有名大企業の営業部長候補名簿に記載されたんですって。だからお祝いにこの店に来たのよ」

一は格差自慢をしたいようだが、裏を返せば、営業部長に据え置かれなければこの店に足を踏み入れることはなかったということだ。その証拠に、料亭の女将がミチル夫婦の元にやってきて、「愛肉の予約がいっぱいでして」と入店を断っていた。一は俺の隣のカウンター席でもいいと言っていたが、女将が「予約席でございます」と断ってくれた。これは俺が一人でいることに対する店の心遣いだった。

「なんだよ。ネズミがこの店で酒を飲んで俺らは悶払いかよ。この店今に潰れるぞ」

俺はため息をついた。ミチルもミチルだが、夫も夫だ。

「女将さん、悪いけど会計ができたからお勘定頼んでいいかな」

「あれ?逃げるの?ネズミちゃん。俺らのために席を開けてくれたのか?悪いね、ネズミ君」

女将は俺が気分を害したのではと、偉く恐縮していた。大将と二人で詫びを入れようとしてくれたが、俺は「本当に用事ができたから気にしないで」と精一杯フォローした。

「また来ますね。お作り美味しかったよ。大将によろしく伝えて」

「何制張ってるのかしら?次に来る約束なんてできないじゃん。有名大企業の時期営業部長候補の旦那は、この店に来るなんて一生無理よ」

「坂神ミチルさん、ここが格の高い店だと分かっているなら、言ってはいけない言葉くらい湧きまえるべきだったね」

俺はそう言って店を後にした。

「あれ?あなた中太郎に名乗っていたかしら?」

「え、いや」

俺が急に店を後にしたのは、書類を見直すためだった。明後日の会議に必要な書類を、どうしても見直したかったのだ。夜遅い時間で申し訳なかったが、俺はとある人物へ電話をして、ちょっとした頼み事をした。相手からはすぐに詳細な書類がメールで送られてきた。追加で取り寄せた書類を見て、俺は確信した。

そして翌朝、俺の元へ料亭の大将から詫びの電話が入った。「もっとゆっくりして欲しかったのに申し訳ない」という内容だった。

「ああ、いや、いいんですよ。大将、もう少し酒を堪能したかったというのが本音ですがね。今週は会議などがあってそちらに伺いませんが、来週末に時間が取れるので必ず伺いますよ」

俺はにこやかに応対した。その後、大将が昨夜のミチルの話をしてくれた。この夫婦は料亭で食事をさせろと粘ったが、女将や場の従業員が他の客の迷惑になるから帰れと追い出したという。他の客からも苦情があって困ったらしい。

「そうだったんですか。お気遣いありがとうございます」

俺は丁寧に礼を言って電話を切った。それからほどなくして、どんどんと無作法なノックが聞こえた。俺がそれに答える間もなく、一人の男性が入ってきた。

「社長、失礼します。じ々にお呼び出そうで、自期営業部長候補の私目になんなりとおっしゃってください」

「異性がいいね。営業部ではそれは大きな武器になるだろうね」

「え、ていうかあんた太郎!」

「坂神さん、口を慎しんでください。ここをどこだと思っているんですか?」

「ていうかなんで社長室にお前がいるんだよ」

「ここは私の部屋だからですよ」

「嘘は寝てから言えよ。ここは5,900人もの社員が働く大企業、家庭電器メーカーのエビだろ。考察だって言ってたじゃないか」

「噂に振り回されるのは良くない傾向ですね。私が働きながら通信の大学を卒業したと言ったら、大学院で論文を書いて工学博士の称号を持ってるとしたら?」

「信じねえ。俺は信じねえからな」

「ええ、信じていただく必要はありません。それと引き換えに、私どもあなたを信頼することはいたしません」

「え、だってあんた名前、岩渕孝太って妻が言ってたぞ。それにじじいが何十年も社長を続けてるんだろう。エビで何年働いてるんですか?」

「この会社の社長は代々、岩渕正義を名乗るんですよ。私で6代目の岩渕正義です」

「マジかよ。これなんかのドッキリとかじゃないだろうな」

「そういうことは一切ございません」

「そういうあんたは誰だよ」

「私、恵比寿人事部長の河田彩佳です」

「ほら、昇の人事部長昇格な話だろ」

「坂神さん、あなたは我が社の状況を把握していますか?」

「と言いますと?」

ミチルの異様なまでの浮かれようを見て、俺はため息をつきながら言った。

「世界的な経済不況や新型ウイルスの蔓延で、今期は赤字の見通しであることが一つ。そして海外から部品などの輸入量が減っため、工場が一つ閉鎖されている」

「ええ、それは知ってますよ」

「工場の閉鎖で100名の正社員と300名の委託社員を解雇しました」

「それで生き残れたんだからいいじゃないですか。天下の家庭メーカーエビですよ」

「我々は工場勤務の社員をこれ以上失うわけにはいきません。そのため社内の早期退職制度で退職者を50名募りました」

「早期退職すれば1. 5倍退職金くれるってやつだろ。天下のエビをやめるなんてもったいない。そんな話に乗るやついるかよ」

「黙って聞きなさい。この制度は自分のスキルやキャリアを他社で活かせる人が20名利用しましたが、あと30名足りません。そこで自己転身を推進するための人材をピックアップしました。営業部からはあなたの名が名簿に記載されました。今日はそのことをお伝えするためにお呼びしたのです」

「時期営業部長候補の名簿って噂で聞いたぞ」

「さっきも言いましたよ。噂に振り回されるのは良くない傾向です。ってぶっちゃけ言ってしまえば、リストラ候補者名簿ってことですよ」

「はっ?」

「今回お伝えしたことによって、自己転身して競合他社以外の企業へ転職される場合は、退職金を上乗せしてお支払いいたします。しかし自己転身を断られるのならば、弊社といたしましては解雇を伝えざるを得ない状況です」

「なんで俺なんだよ。俺は有名私大を出てモデルの嫁がいて、エビで主任職だぞ。なんで昇進じゃないんだよ」

「失礼ですが、エビの昇進の仕組みご存知ですか?」

ミチルは首を横に振った。

「エビでは2年に1度の昇進試験を取っている。試験に合格し、研修を終了したものだけが課長以上の役職につける。ただし最低ラインとして、28歳でチームリーダーになり、30歳までに主任に昇進することが大前提だ。そして35歳までに昇進試験を受ける必要がある。坂神主任は一度も昇進試験を受けておりませんので、エビのキャリアパスからは外れております。そのため今回の対象者としてピックアップしております」

「そ、そんな。先月社内報で周知したはずだけどね。大事な話だから全員のメールボックスに通知を入れているよ。おそらくあなたの周りの社員が名簿記載を漏らして、昇進候補者だと囃し立てたんでしょうね」

「ちょっとどうしてくれるんだよ。俺、首なのか?首じゃないよな」

「いや、君は首確定でしょ。私は闇雲に名簿記載者を解雇することはありません」

「どういうことだよ。首確定って、有能な俺様に限ってあるわけないだろう」

「そういうところですね。古のポイントは、あなた自身の評価は『有能な俺様』ですが、営業部での実績も成績もゼロに近いところじゃないですか?」

「だってウイルスのせいで営業先に軒並み断られてきたんだよ」

「その中でも他の社員たちは大口のパソコンの納入など契約を取り付けてきましたよ」

認めようとしないミチルに少々腹が立ったが、まあ泣き出すのも時間の問題かもしれないとも思った。

「それにパワハの情報も入っております。あなたは新入社員に雑務を押し付けたり、飲酒を強要したりしていたそうじゃないですか?」

「あれはパワハじゃなく教育です」

「あなたがパワハだと認めなくても、被害を被った方がパワハだと感じれば、それは立派なパワハなんですよ」

「なんだよそれ」

「それに昨夜もそうでした。あなたは見ず知らずの相手をネズミ呼ばわりして、奥様と一緒に指をさして笑った。それに格の高い料亭で、お店が断るのにも関わらず酒を飲ませろと夫婦で大騒ぎしたそうじゃないですか。追い出されてしまったけどな。あの店の客単価がいくらくらいの店か知っていて入店されたんですか?居酒屋のようにお二人で飲食したら8万円以上はしますよ。え、あの店は格式のあるお店ですがね。私が注文したお作りは私の分だけで1万円です」

ミチルは顔が真っ青になっていた。金が出せなかったからだろう。料亭の大将はうるさい客だから追い出したのではない。金を払ってもらえそうになかったから、予約があると断ったのだ。

「ただし昨日のことはリストラ対象となった直接の原因ではありません。あなたの営業成績や業務態度を見て、相当が適当であると判断した。それだけです。私はそれにプラスして、あなたのお人柄を見てしまっただけです」

「くそ、くそったれ」

「ただし今なら有給休暇という形にもできます。自己転身をするのならば、我が社の関連会社である職エージェントを紹介しましょう。ただし、エビの関連会社やエビの同業他社には入社できません」

そう伝えたところで、ミチルはジャケットに入れていたスマホでどこかに電話をかけた。非常識なやつだと思ったが、俺はどこかでミチルを面白がっている自分に気づいた。この男がどこに電話をかけるのか、誰とどんな会話をするのか、ちょっとだけ観察させてもらおうと思ったのだ。人事部長の彩佳がミチルを静止しようとするが、俺はそれを止めた。

「もしもし。ミチルか。お前、ネズミにあっただろう」

「なんだよ。まだ酔っ払ってんのかよ。高卒の貧層な太郎だよ」

「あ、そうだ。岩渕な。それがどうしたって言うのよ」

単純にミチルの様子だけを観察しようと思ったのだが、スマホはなぜかスピーカー設定で、ミチルの声が漏れている。ミチルはそれに気づかず、スマホを耳に押し当てたまま話をしている。

「あいつ、会社の社長やってたんだよ。俺が勤めるエビの社長だよ」

「あんな陰キャに社長なんて勤まるわけないでしょ。あんた騙されてんのよ」

「やっぱり騙されてんのかな?」

そこまで言って、ミチルはこちらをちらりと見やる。彩佳がものすごい形相で睨みつけているので、空気を読んだようだ。

「お前が中太郎だの貧層だのにわしくない店に嫌がるだの言うから、俺今リストラされかかってんだよ」

「はあ?嘘でしょ?あいつ女にも持てないし、なんせ考察よ。なんでそんなやつにリストラ宣告受けてんのよ」

「受ける。お前、土下座して謝れ。社長に中太郎とか貧層とか、頭が上がらないボケ社長とか、営業のことが全然分かってない経営センス皆無の社長とか、散々言ってきたこと謝まれよ」

「あなたでしたか?取引先の社員に、エビには経営センス皆無の社長が困ってると言いふらして回っていたのは」

俺は少し大きな声で伝えた。スピーカー本だから当然、ミチルにも聞こえたはずだ。ミチルは最大のボケツを掘り、スマホを落としてしまった。俺はミチルにも聞こえるように、そのまま話を続ける。

「取引先や他の会社から苦情が寄せられていたんですよ。エビの社員が社長のことを悪く言っているとね。これで契約がいくつも更新されずに終了した。損害は数億単位だ。すまないが自己転身の話はなしだ。本日付けで解雇にさせてもらう。坂神さんもそれでいいですね」

「ちょっと給料が入ってこないじゃないのよ。どうすんのよ。先月からクレカの支払いできてないのよ」

この夫婦はクレジットカードの支払いもできないまま、高級店で飲食をしようとしていたのか。俺はこの夫婦の無能さに頭を抱えたが、ここから先は俺が何かを言えるわけではない。有給休暇で自ら退職届を出してもらえたら退職金もわずかながら出せた。リストラで首宣告をしてしまえば、退職金すらも出せない。ミチルはさらに窮地に追い込まれるだろう。

「お前とは離婚だ。財産分与でお前の金とマンションを半分もらうからな」

「マンションは半分にできないじゃないの。それに夫がエビ社員ってだけでモデルやらせてもらってて、もう仕事が来なくなるじゃないの。離婚に応じるわよ。でもマンションは私のパパの名義だから出てってよね」

「話を続けるならこの部屋を出てからにしてくれ。解雇に関する書類は追って送付する」

それから少しの時間が経過した。ミチルとミチルは離婚したようだが、財産分与がどうとか借金がどうとか揉めているようだ。ミチルは仕事探しを始めたようだが、エビの本社営業部にいた男が会社都合で退職したとなれば、どの会社も引き受けたくないらしい。次の仕事が決まらず、いよいよ立場が危なくなってきた。それは俺の知ったことではない。

ある日、ミチルが会社に電話を入れてきた。

「謝るから、ミチルを会社に戻してほしいの。高校時代仲良くしてきたじゃん」

「都合のいい記憶のすり替えはやめませんか?」

そう言って俺は電話を切り、以後、取り次ぎがないよう電話交換に伝えた。そう仲良くもなかったし、ミチルのせいで俺は高校3年間、ネズミのまま過ごさなきゃいけなかったのだ。

今だから言うが、俺は貧困の暮らしではない。親父は5代目の岩渕正義だ。俺が通った高校では親父は本名で寄付を行っていたから、俺がエビの創業者一族だってことは誰にも知られていなかっただけだ。

俺はスマホを取り出し、電話をかけた。

「あ、大将、すみませんが、今夜つもの席開いてますか?あ、大丈夫ですね。じゃあ19時頃に伺いますね」

Thumbnail