「感謝しろ」——茹で卵を一つ置きながら、義母がそう言ったのは、夜勤明けの朝だった。
私は8年間、この家で誰よりも早く起きて、誰よりも遅くまで動いていた。看護師の夜勤が終わって帰宅したばかりの私を待っていたのは、感謝の言葉ではなく、卵一個に対する「感謝しろ」だった。それはささいなことのように思えるかもしれない。でも、その日は違った。8年間の全てが、その茹で卵の殻のように、ぱきっと割れた音がした。
「食べれるだけ感謝しろ」
私はその言葉を飲み込んだ。それまでの3650日、私は同じように飲み込んできた。義母の買い物は私のカードで。光熱費も、通信費も、食費も。義母は「老後のため」と言って夫の遺産1000万円を握ったまま、私たちの家に転がり込んできた。そして、毎月20万円を娘の裕子に送り続けていた。そのお金が、実は私たち夫婦の口座から出ていることに、義母は8年間一度も気づかなかった。いや、気づこうとしなかった。
夫のサトルは言った。「明希には食べさせてやってる」と。義母も同じことを言う。「食べさせてやってるんでしょ」と。8年間、私は「食べさせてもらう側」だった。でも、実際に食卓に並ぶものは、私が夜勤明けにスーパーへ寄って買ったものだ。私が炊いたご飯だ。私が作った味噌汁だ。自分の給料で、自分の時間で、自分の体を削って。
ある日、私はサトルに言った。「あなた、私がこの家でどれだけのものを払ってきたか、計算したことある?」サトルは顔を上げなかった。「なんだよ、急に。母さんは悪くないだろ」——その一言で、私はすべてを諦めた。
でも、本当に諦めたくなかった。私はこっそり家計のノートをつけ始めた。8年間、私が払った金額。買い物のレシート。光熱費の明細。通信費の引き落とし。それらを全部、日付とともに書き留めた。96枚の紙。96の記録。その一枚一枚が、私がこの家で「食べさせてもらっていた」のではなく、「食べさせていた」ことの証拠だった。
転機は、義母が私のカードを止めた日だった。「もうあんたには何も払わない」——義母はそう言って、私の財布からカードを取り上げた。私は何も言わなかった。ただ、その日から、一枚ずつ、ノートのコピーを封筒に入れて、引き出しの奥にしまい始めた。私の支払いは止まらない。でも、記録は止めない。
そして、あの朝。茹で卵。 「感謝しろ」。
私はその日のうちに、すべての封筒を持って、サトルの前に並べた。「これは私が8年間払ったお金の記録です。あなたのお母さんは、私が食べさせてもらっていると思っている。でも、実際は違う。あなたも、一度、ちゃんと見てほしい」
サトルは封筒を開けた。最初の一枚を見て、二枚目を見て、三枚目で手が止まった。「……何これ」 「あなたのお母さんが、私のカードで買ったものの明細。あなたのお母さんが、私の名前で契約した通信費の明細。あなたのお母さんが、私の口座から引き落とされた学費の記録」
サトルはしばらく黙っていた。それから、立ち上がって、義母の部屋へ行った。翌日、義母は家を出た。私たち夫婦の家から。サトルが言った。「母さんには、もうここには来ないでと伝えた。明希が払ってきた分は、ちゃんと返す」
私は首を振った。「お金は要らない。ただ、認めてほしかっただけ。私が、この家の一員として、ただ『食べさせてもらっていた』のではなく、『食べさせていた』ことを」
サトルは泣いていた。8年間、一度も涙を見せたことのない夫が、台所で声を上げて泣いた。「ごめん。本当にごめん。俺、何も見えてなかった」
私は、テーブルの上の茹で卵を、そっと手に取った。「この卵、美味しかったよ。ただ、『感謝しろ』と言われた瞬間に、私はこの家を出ることを決めた」
サトルは顔を上げた。「明希、待って。俺が変わる。ちゃんと変わるから」
私は微笑んだ。「変わるのは、私の方よ。8年間、誰に何を言われても、我慢し続けた私を、もう終わりにする」
それから、私は看護師の仕事を続けた。家を出て、小さなアパートを借りた。サトルは毎週、手紙をくれた。最初の1ヶ月は、毎日。 「今日は、自分で洗濯をした。明希がやっていたことが、どれだけ大変だったか分かった」 「母さんには、もうお金を送らない。自分で働くって言ってる」 「明希、ごめん。まだ、許してくれとは言わない。でも、待っててほしい」
私は、その手紙を読むたびに、茹で卵を思い出した。あの日の朝、たった一つ、ゆで卵を置かれて「感謝しろ」と言われた私が、今は自分のアパートで、自分の卵を、自分の好きなように茹でている。それだけで、十分だった。
9ヶ月後、サトルがアパートに来た。手に、小さな紙袋を持って。「明希、これ」 中には、茹で卵が一つ。「……何これ」 「俺が、初めて自分で茹でた卵。冷蔵庫にあった卵を、お湯から入れて、茹で時間も調べて。ほら、ちゃんと半熟になっちゃったけど、がんばった」
私はその卵を見て、涙が出た。「なんで、茹で卵なの」 「あの日の朝のこと、ずっと忘れてなかった。明希が、あの卵を前に、何も言わずに、全部食べた。俺、その時、何も感じなかったけど、今なら分かる。あれは、明希の限界だったんだ」
サトルは、テーブルに座って言った。「明希、もう一度、一緒に暮らせないか。今度は、俺がちゃんとやる。料理も、洗濯も、掃除も。母さんには、もう何も頼らない。俺たちだけの家庭を、作り直したい」
私は、茹で卵を手に取った。殻をむいて、一口かじった。しょっぱかった。サトルが塩を入れすぎたのか、それとも、私の涙のせいか。「……おいしいよ」 私は笑った。8年ぶりに、心から笑った。
「もう一度、やり直そう。今度は、茹で卵を『感謝しろ』って言われる側じゃなくて、一緒に茹でる側として」
サトルが、大きな声で泣いた。私は、その頭を撫でた。「バカね、8年も待たせたのに、ようやく茹で卵が上手くなっただけなんだから」



