「奥さん、今すぐ旅行は中止してください。危険が迫っています」
若い女性店員が青ざめた顔で私の腕を引っ張った。え、何言っているんですか?私は夫の大輔と、結婚当初できなかった新婚旅行に来ていたところだ。発案者は夫。今まで仕事ばかりで自分勝手にしてきたことへの謝罪の意味も込められているらしい。
夫は旅行初日から機嫌が良く、私も久しぶりに2人で過ごせることでテンションが上がっていた。ホテルまでの移動中、夫が「行きたいところがある」と言って立ち寄ったのが、この山道の途中にある山小屋風のカフェだった。観光地から少し外れていて人は少ないが、可愛らしい雰囲気の店。夫は昔一度来たことがあるお気に入りなのだという。
こんなことをしてくれたのは初めてだった。ついてすぐにトイレへ向かった夫。彼を待つ時間さえも楽しく感じた。しかし、そんな時に言われたのが冒頭の店員の言葉だ。
「危険ってどういうこと?そもそも初対面の客にそんなこと言うなんて失礼じゃない?」楽しい気分に水を刺された気持ちになり、「急いでいるので」とスルーしようとした。しかし店員は引き下がらない。
「私、聞いたんです。あなたの…」
店員が話そうとした時、奥から夫がこちらに向かってくるのが見えた。店員は困った顔になり、何か言いたそうにしながらも、諦めたように去っていった。
「なお、ここで何しているんだ?注文した料理が冷めちまうぞ」
私は首をかしげながらも夫と席に戻った。
夫の名前は大輔。私はなお子、専業主婦だ。独身時代、同じバーで知り合い、結婚に至った。夫には息子の宗介がいるが、すでに成人していて別居している。時々連絡をくれる気遣いのできる優しい子だ。
「ただいま。ああ、疲れた」
「お疲れ様。大変だね」
疲れた顔の夫について2階へ上がり、受け取ったスーツをハンガーにかける。夫は荷物を置きながら、世間話のように言ってきた。
「お前の資産の話だけど、考えてくれたか?」
またこの話か。何度も断っているのに、どうして分かってくれないんだろう。私はうんざりした気持ちだった。
私は専業主婦だが、独身時代から投資をしていて、それなりの資産を持っている。夫は会社を経営しているのだが、最近業績が良くないようで、私の資産を会社の資金に当てたいと頼んでくるようになったのだ。しかし、私はこの資産を2人の老後に使いたいと考えている。だからずっと断っているのだが、夫は納得してくれない。
「どうして嫌なんだよ。夫を助けるのが妻の役目だろう」
夫は苛立ったように、置いてあった花瓶を乱暴に蹴った。
「お前の資産は、夫である俺の資産でもあるんだよ。グダグダ言っていないで、黙ってさっさと渡せ。お前はどうせ俺に養われているんだ。俺の会社がピンチな時、助けてくれたっていいじゃないか。どこまでも冷たい女だな」
夫の怒号が私に罵声を浴びせ続ける。しかし、何度言われても渡したくはない。2人の今後を考えると、そこは譲れなかった。何度もそう説得しているにも関わらず、夫は理解しようとしない。「お前の資産を今すぐ渡せ」の一点張りだ。
「何度も言うけど、これは私が独身時代から貯めていた資産なの。老後の資金のために使いたいから、手をつけたくないのよ。お願いだから分かって」
「うるさい。老後老後って、まだ先の話じゃないか。今は老後よりも、目先の会社の資金に当てるのが正解なんだよ。本当に頭が悪いな。それとも、高卒のお前には大卒の俺の話は理解できなかったか?じゃあ分からせてやろうか」
そう言うと、夫は近くにあった本を思いっきり床に投げつけた。私はとっさに身をかわしたので当たらなかったが、床を見ると見事に傷がついていた。本は分厚いから、当たっていたら怪我をしていただろう。昨日の口論ではリモコンを投げつけられて、腕にアザができてしまっていた。これ以上怪我はしたくない。
怒ると手がつけられなくなる。最近は毎日のようにお金についての口論が絶えないし、結婚当初の優しい大輔はどこへ行ってしまったの?私がこうしてお金を渡さないので、夫は日に日に目に見えて苛立っており、時には人が変わったかのように豹変して罵声を浴びせてきたり、物に当たったりする。大好きな夫だけど、私はそんな夫の態度に恐怖を感じるようになっていた。
「何度言われても無理なものは無理なのよ。もうこの話もおしまいにしましょう。ご飯の準備するわね」
私は部屋を出て、1階のリビングへ行こうと階段を降り始めた。すると後ろに気配を感じて振り返る。すぐ後ろに夫が無表情で立っていた。そして夫が手を伸ばした。驚いて小さく声をあげたが、夫は「邪魔だ」と私を押しのけて先に降りていった。
びっくりした。階段から突き落とされるかと思ったわ。そんな不穏なことを思うくらい、最近の夫は変わってしまった。
私が夫の豹変に恐怖を感じ始めた頃、夫は家にあまり帰らなくなっていた。今までも仕事が忙しくて帰って来ない日もあったので、少し寂しいがほっとしている部分もあった。
そんなある日、昼間に夫が突然帰ってきた。しかも笑顔で上機嫌な様子だ。
「どうしたの?急に帰ってきて、何かあった?」
「なんか新婚旅行でも行かないか?俺たち、まだ行っていなかっただろう」
確かに私たちは結婚当初、式も新婚旅行もしていなかった。本当はいつか行きたいと思っていたんだ。休みが取れそうだから、行こうと提案してきたのだ。
「本当にいいの?嬉しい」
私は純粋に喜んだ。夫が新婚旅行を気にかけてくれたのも、久しぶりに2人で過ごせるというのも嬉しい。私は嬉しさのあまり、近所に住む夫の姉のところへ話しに行った。義姉とは仲が良く、時々こうして遊びに行っては色々と話をしていたのだ。
義姉に新婚旅行へ行くと伝えると、「良かったね」と一緒に喜んでくれた。
「どこへ行くか決まったの?」
そう聞かれたので、行き先とホテルの場所を義姉に伝えた。夫が行きたがっていた場所で、行き先もホテルも何もかも夫が手配してくれていたのだ。
「大輔が行きたがっていたの?そう…」
喜んでくれた義姉の表情が急に曇り出した。考えるような、不安そうな顔をしている。義姉に新婚旅行先について詳しく聞かれたが、浮かれていた私は義姉の表情について深く考えずに、聞かれたことは全て答えていた。
「お土産買ってきますね」
「ありがとう、なおちゃん。気をつけていってね」
義姉は複雑そうな顔で私に微笑んだ。
新婚旅行当日。夫は朝から機嫌が良く、私も2人で出かけられることでテンションが上がっていた。ホテルまでの移動中、夫が「行きたいところがある」と言って、山道の途中にあったカフェへ立ち寄った。観光地から少し外れているので人は少ないが、山小屋風の可愛らしいカフェだ。夫は昔一度ここへ来たことがあったらしく、お気に入りなのだという。
お気に入りの場所に私を連れてきてくれたということは、大輔は修復を望んでいるということかしら。よかった。楽しい旅行になりそう。少し前まで資産のことで口論ばかりしていたが、旅行が決まってから夫は優しくなっていた。この旅行をきっかけに、ギスギスした関係を戻そうと考えているのかもしれなかった。
席は頭くらいまで仕切りがあって、周りの目を気にせずにリラックスできる作りになっている。おしゃれなカフェだと思い、一目で私も気に入った。
「ちょっとトイレに行ってくるね」
「ああ、分かった」
スマホをいじっていた夫に声をかけてトイレへ向かう。そしてトイレから出て席へ戻ろうとした時だった。腕をグイっと引っ張られた。
「え、あの、何か?」
そこには若い女性の店員さんがいて、青ざめた顔で私を見ている。
「なお子さんですよね。今すぐ旅行は中止してください。危険が迫っています」
「え、何言っているんですか?」
店員の様子に眉を潜めるが、ふと、さっき口論していた時の夫の姿が浮かぶ。危険ってどういうこと?そもそも初対面の客にそんなことを言うなんて失礼じゃない?楽しい気分に水を刺された気持ちになり、「急いでいるので」とスルーしようとした。しかし店員も引き下がらない。
「私、聞いたんです。あなたの…」
店員が話そうとした時、奥から夫がこちらに向かってくるのが見えた。店員は困った顔になり、何か言いたそうにしながらも、諦めたように去っていった。
「なお、ここで何しているんだ?注文した料理が冷めちまうぞ」
「ああ、うん。分かった。すぐ行く」
店員の様子に首をかしげながらも、私は夫と席に戻った。食事を済ませた私たちは、また目的地に向かって車を走らせた。目的地は山の上にある絶景が見えるという場所。夫曰く「人が来ない穴場」だという。
その移動中、私のスマホが鳴った。見ると、夫の息子の宗介からだ。
「宗介君から電話だわ」
運転中の夫の代わりに、私に電話してきたのだろうか。そう思ってスピーカーをオンにして電話に出た。
「もしもし。宗介君、どうかしたの?」
「なお子さん、今どこ?」
義息子はどこか慌てたような声で聞いてきた。私が場所を伝えると、一呼吸を置いて、とんでもないことを言い出したのだ。
「今すぐ親父から離れて。親父はなお子さんを自殺させて、その資産を相続しようと企らんでいるんだ」
「え、どういうことなの?宗介君」
唐突な話に耳を疑うと、義息子はさらに続けた。
「俺の母さんも自殺しているのは知っているでしょう。その亡くなり方が不自然で、調べたんだ」
義息子は早口で語った。母親には多額の保険金がかけられており、その受け取り人は夫だった。夫はそのお金を会社の負債返済や浮気相手に使っていた。そして義息子がこっそり実家に帰って調べると、夫のデスクから私の資産を調べた形跡や、知り合いの司法書士や税理士に連絡していたことが分かったという。
義息子の話に呆然としていると、ずっと黙っていた夫が突然「電話を切れ」と言ってきた。夫は口論で豹変した時と同じ顔をしている。
「大輔、今の話は本当なの?」
「電話を切れと言っただろう」
今までとは雰囲気が変わり、さすがの私も身の危険を感じ始めていた。夫は初めから私を自殺させるつもりで新婚旅行へ誘ったんだわ。許せない。倍返ししてやる。私はスマホをそっとポケットにしまった。
目的地に到着すると、夫は私を車から引きずり下ろし、崖の方へと連れて行く。
「ちょっと、やめて。危ないでしょ」
崖の方へと押してくる夫に抵抗するが、その力は強い。
「いいか?お前はうっかりこの崖から落ちて自殺するんだ。そうすれば全てうまくいくんだよ」
そう言いながら、夫は不適な笑みを浮かべ、私を落とそうとしてくる。正気じゃないわ、この人。どうしよう。力では叶わない。ここは山の上だ。落とされたらまず助からないだろう。必死に抵抗していた時だった。
「大輔、あんた何やっているの?なお子さんを離しなさい」
「親父、やめるんだ」
義姉と義息子が現れ、夫と私を引き離してくれたのだ。
「お姉さん、宗介君、どうしてここに?」
驚く私に、2人はほっとした顔をしている。
「なんでお前らがここにいるんだ?」
私を突き落とそうとしているところを見られ、動揺する夫に、義姉は言った。
「新婚旅行へ行く話はなお子ちゃんに聞いていたから、宗介と一緒に付けてきたの。だって、あんたが何かするとしたら、この時しかないもの。旅行先を人が少ないところにしたのも、なおちゃんに手をかけるつもりだったからでしょう。あんたがやっていることは最低よ」
「な、何を言っているんだ?俺たちはただ、この絶景を見ようと身を乗り出していただけで…」
夫は義姉に叱られ、しどろもどろになりながら言い訳をする。
「悪いけど、言い訳は聞かない。親父がやったことは全て調べたし、ちゃんと証拠もある」
「宗介、お前…」
顔を真っ赤にした夫が義息子に飛びかかろうとした時だった。パトカーのサイレンを鳴らして、警察が到着する。夫は現れた警察官に、真っ青になって震え出した。
「な、なんで警察が?」
実は、夫に「電話を切れ」と言われたけど、私はスピーカーをオフにしただけで通話は切らずにポケットへそっとしまっていた。そして目的地に着くまで、「今はどこを走っているのか」「どこへ行くのか」「どうして妻を自殺に見せかけたのか」など、うまく誘導して夫から話を聞き出していた。夫は立儀にもちゃんと答えてくれていた。今から絶景が見えると言った人のいない崖へ行くこと。妻は義息子が言う通り、保険金さに登山場所から突き落として自殺に見せかけたこと。夫の下黒さに震えながらも、きっとこの会話を義息子が聞いて警察を呼んでくれるだろうと思った。
案の定、義姉と義息子が警察に通報していてくれたらしい。そう話すと、夫は魂が抜けたような顔になり、そのまま警察に連行されていった。
夫は警察で素直に自白したらしい。前妻と同じように私を自殺に見せかけ、私の資産を相続するつもりでいたようだ。もしあの時、義姉や義息子が来てくれなかったら、確実に前妻と同じ末路を辿っていただろう。
「お姉さん、宗介君、本当にありがとう」
私は事情聴取の後、警察署のロビーで2人に深く頭を下げた。
「なお子ちゃんに新婚旅行先を聞いておいてよかったわ。あの時、ちょうど私も宗介も前妻のことについて調べていたから、大輔が急に旅行に行くと言い出したって聞いて、怪しいと思っていたのよ」
なるほど。それで新婚旅行へ行くと言った時、義姉は考えるような不安そうな顔をしたんだ。
「心配だから2人の旅行についてきたんだけど、間に合ってよかったよ」
義息子は安堵のため息をついた。本当にこの人たちのおかげだ。感謝してもしきれない。そして、もう1人感謝を伝えないといけない人がいた。あのカフェの若い女性店員だ。
事情聴取の際に警察官が教えてくれたのだが、その女性店員も警察に通報してくれていたらしい。だから警察は予想よりも早く到着したのだという。女性店員は、私がトイレへ行った際に、夫が司法書士に相続について電話していたのを聞いてしまったらしい。しかも「妻の直子は帰得でもうすぐなくなるんです」と言っていたという。しかし、なお子と呼ばれている妻は、帰得どころか元気そう。あまりにも不穏な内容から、心配になって私に逃げるよう伝えてきたのだそうだ。しかし私が聞いてしまい、不安になった女性店員は警察へ通報。警察が動き出した時に、ちょうど義息子からも通報があり、駆けつけたのだと教えてくれた。女性店員が通報してくれていなかったら、警察の到着はもう少し遅れていただろう。
私は後日、花束を持ってカフェへ向かい、女性店員に心からのお礼を伝えた。
その後、私と夫の離婚が成立した。弁護士を挟み、慰謝料はきちんと請求した。夫の会社は倒産し、多額の借金を抱えることになったらしい。一方、私は命の恩人でもある元義姉や元義息子、それにカフェの女性店員と今でも連絡を取り合って仲良くしている。
結婚していた時は夫の顔色ばかり伺っていた。でも、こうして1人になることで、自分の人生は誰にも縛られることなく自由に満喫していいのだと実感することができている。



