俺が長年かけて掴んだ5億円の大口契約は、入社2日目の新人・相馬に「俺の契約だ」と横取りされた。部長の息子である相馬の一言で、俺の10年の実績は踏みにじられ、退職に追い込まれた。しかし、オーストラリアで有給消化中に鳴り止まない会社からの鬼電。戻ってきた先で告げられたのは、想像を絶する結末だった。…

俺が長年かけて掴んだ5億円の大口契約は、入社2日目の新人・相馬に「俺の契約だ」と横取りされた。部長の息子である相馬の一言で、俺の10年の実績は踏みにじられ、退職に追い込まれた。しかし、オーストラリアで有給消化中に鳴り止まない会社からの鬼電。戻ってきた先で告げられたのは、想像を絶する結末だった。...

「返してください」
俺は何のことかと思い、相馬を二度見した。
「俺の契約を返してください。鮫島さんのものじゃないんですよ」
俺はしまったと思った。相馬は明らかに契約を横取りしようとしている。大声で叫ぶように言っているのは、この騒動を父である部長の耳に入れたいからなのだろう。
「どうしたんだ、相馬。鮫島君の契約の横取りかね?」
「ひどいですよ、部長。僕が契約したのに」
俺はどうしたらいいのかと内心頭を抱えた。この契約騒動の責任を取る形で、俺は会社に退職届を出し、夢だったオーストラリアへと飛び出していくのだった。

俺の名前は鮫島国。35歳だ。小さなメーカーで営業の仕事をしている。俺の隣を歩いているのは同い年で同じ会社の営業マンである佐川誠だ。俺たちは今日の営業を終え、帰社すべく歩いていたところ。偶然待ち合わせをして一緒に会社へ戻っているところだ。
「なあ、鮫島。今日から部長の息子が来るんだよな」
佐川の言葉に俺はようやく今朝朝礼でそんな話があったなと思い出した。朝には滅法弱いので朝礼の話を覚えていないというのはよくあることだった。完全夜人間の俺をよく知る佐川は、朝礼で気になる話があると俺に教えてくれるありがたい友人でもあった。今日だって佐川の言葉がなかったら、部長の息子の話などすっかり忘れて帰社していたことだろう。
佐川がふと話題を変えてきた。
「鮫島、お前以前から言ってる海外移住のこと、マジで考えてんのか?」
「もちろんだ。この国、生きにくいと思わないか?俺は海外でのんびり過ごしたいんだ」
俺は日本の8時間労働制が心から嫌いで、機会があるごとに海外移住という話を佐川の前で披露してきている。もちろんそのための貯蓄も、新卒でこの会社に入ったその月からコツコツやっていた。
佐川がこの話を自分からしてくるのは多分初めてではないだろうか。よくよく話を聞いてみると、数年前から佐川も海外に移り住みたくなり、俺には及ばないものの貯蓄に励み出しているのだと教えてくれた。
「佐川は住むとしたらどこがいいんだ?」
「そういう鮫島はどこを狙っているんだよ」
質問に質問で返されてしまうが、俺は特に気を悪くするわけでもなく、自分の思うことを口にした。
「俺はオーストラリア一択だな。大学の卒業旅行で1度行っただけなんだけど、すごく自由な雰囲気だし、海が綺麗だし一目惚れしたんだ」
「オーストラリアか。俺は行ったことないな。今日の帰りにでも本屋に行って情報を漁ってみるか」
佐川は笑顔で言った。俺と佐川は他愛のない会話をしながら帰社し、タイムカードへの打刻を終えてそれぞれのデスクに落ち着いた。これから取引先とやり取りしたことを日報に書かなくてはならないし、今日1日でもらった電話やメールを返さなくてはならない。地味な作業だが時間がかかる。だが俺はこういう仕事が嫌いではなかった。結構営業という仕事に向いているのではなんて考えたりしていた。
「よし、全員戻ったな。ではこちらに注目してくれ」
俺や佐川の直属の上司にあたる安藤営業部長がパンパンと2度手を叩くと、俺たちは部長のデスクの方へと体を向けた。
「今朝朝礼で話した私の息子の安藤相馬だ」
部長に紹介された息子の相馬は部長によく似た若者だった。
「安藤相馬です。よろしくお願いします」
ペコリと頭を下げるとどこからともなく拍手が聞こえ、俺も釣られて手を叩く。
「息子の指導はそうだな。鮫島君やってくれるか?」
俺はドキッとしてその場に立った。まさか部長に指名されるなんて思ってもいなかったのだ。
「承知いたしました。部長、相馬さんよろしくお願いします」
俺は教育という任務をこの時甘く見ていた。

翌日、俺が出勤時刻である9時少し前に出社するともう相馬が来ていて、俺に向かって体を直角に折り曲げてきた。
「おはようございます鮫島さん。今日からご指導のほどよろしくお願いいたします」
俺は若いのによくできた子だなと部長の方へちらっと視線を送ると、部長は満足に唇を弓なりにして笑っている。
「おはよう、相馬君。じゃあ今日は1日俺の営業に同行してもらおうかな。そういえば相馬君の名刺はもう発注しているのかな?」
俺が問えば、すかさず相馬が自分の名刺を見せてくれた。何でも部長が相馬の入社前に総務に発注し、昨日できてきたのだそうだ。
「はい。全ては父のおかげです」
礼儀正しい子なのは分かるのだが、もう少し声のトーンを落としてもらえないだろうか。朝に弱い俺の耳に相馬の大声は少しどころかなりきつい。
「おはよう鮫島。新人教育頑張れよ」
佐川が俺の肩をこづいていく。誰かこのハイテンションな若者を俺の代わりに教育してくれないだろうか。朝っぱらから大声を聞かされた俺はすでに消耗しつつあった。

そうして出かけた営業先では相馬は大好評だった。ハキハキとしているし、明るくて前向きな印象を与えるところが評価されているようだ。俺は内心、この分なら相馬が俺から離れていくのも遠からぬ未来の話だなとほっとしていた。ところがその日のランチタイムのことである。相馬が突然、
「ああ、かかったるい」
と昼食を取るために入ったファミレスで椅子の背もたれに身体を預け、顎を天井に向けてそう言ったのである。数々の営業先で高印象を振りまいていた相馬とは別人のようだ。
「相馬君、どうしたんだい?疲れたのかな?」
彼の言い方がちょっと悪役っぽく聞こえたのと、午前中の真面目な好青年という印象とのギャップに気づけば、俺は彼を気遣っていた。
「あんたよくこんな仕事やってられるな。足は痛いし、顔面は疲れてきてるし。今日は営業終わりにしないか?」
なんと相馬の態度ががらりと変わり、俺に対してため口で話してきた。だが生憎、彼の言い分を聞き入れるわけにはいかない。実は今日これから大口の取引が決まりかけていて、最後の詰めに行く予定があるのだ。
「どうしても休みたいというのであれば、1人でオフィスに帰ってもらうしかない」
俺が相馬にそう話すと、彼は心からめんどくさそうに、
「一軒だけなら付き合ってやるよ」
と答えてくれた。なんだか先輩後輩の立場が逆転してしまっているようだが気のせいだろうか。俺は昼食を取り終えると、だるいと連発する相馬を連れてファミレスの向かい側にある雑居ビルに入居している俺の客先を訪れた。俺はここでも新人の相馬を紹介してやり、相馬もまた「よろしくお願いします」と爽やかに挨拶して回っていた。
「鮫島さん、ちょっと」
俺は取引先の契約担当の人に呼ばれた。彼は別室で話がしたいらしく、フロアの奥まったところにある応接室を指差している。
「ああ、分かりました。相馬君」
俺は相馬を呼ぶと「ちょっと大切な話をしてくるから」と言い置き、応接室内へと入った。それから15分くらい経過した頃だろうか。俺は応接室から解放され、手持ち無沙汰で待機する相馬と合流する。
「行こうか、相馬君」
俺と相馬は今日のところはこのまま帰社することになった。道中、相馬に応接室で何をしていたんですかと聞かれた。俺はどうしようか迷ったものの、嬉しさのあまり大口の契約が取れたという事実を明かした。
「それって金額にしてどのくらいなんだよ」
「5億だ。うちの年商の約半分だぞ」
「一発当てたってわけか」
問われると俺はそれは違うと否定した。この契約を取るために俺は何年も取引先へと足しげく通い、信頼を勝ち取り、ようやく物にした契約なのだ。一発一発で取れるものではないのだと説明した。相馬は「ふーん」と気のない返事をよすが、俺は明日から相馬とどう付き合っていくかの方に思考を持っていかれる。まさかこんなに態度が豹変するとも思っておらず戸惑う一方だ。

俺が帰社してデスクに戻り契約書類を整理していると、相馬が俺のそばにやってきた。
「相馬君、どうしたんだい?」
「返してください」
俺は何のことかと思い、相馬を二度見した。
「俺の契約を返してください。鮫島さんのものじゃないんですよ」
俺はしまったと思った。相馬は明らかに契約を横取りしようとしている。大声で叫ぶように言っているのは、この騒動を部長の耳に入れたいからなのだろう。
「どうしたんだ、相馬。鮫島君の契約の横取りかね?」
「ひどいですよ、部長。僕が契約したのに」
俺はどうしようかと内心頭を抱えた。というか、入社2日目にして息子に契約が取れると信じている部長の思考回路が謎だった。大口契約の喜びから一転。相馬によって俺の立場は窮地へと変化した。俺が取った契約を僕が取った契約だと泣き喚く相馬。新人の相馬が大口の契約を取ってきたと信じて疑わない部長。そして長年かけてようやく取った契約を相馬の一言で奪われそうになっている俺。そんなカオスな状況の中、佐川が帰社した。
「おい、何なんだこの騒ぎは」
佐川は受付のところにいる女子社員に話を聞き、事情を理解したらしい。
「部長、その契約は鮫島君のものです。自分は彼が長い間契約を取るために先方に足しげく通っているのを知っています」
佐川が凛として俺の見方をしてくれた。しかし我が子可愛さに頭が沸いてしまっている部長に、そんな正論が通じるはずもなかった。
「君も鮫島君の肩を持つというのか」
「部長こそ、入社2日目の新人に億単位の契約が取れるなんて本気で思っているんですか?」
「そうだともできる。この子はやればできる子なんだ。眠れる獅子なんだ」
何が眠れる獅子だよ、と俺は馬鹿らしくなった。親バカもここまで来れば国報者だろう。俺は契約書類を一通りチェックし終えると、書類一式を相馬に渡した。
「おい、鮫島何してるんだ?」
「いや、もういいかなって。俺、新卒でここに入ってから10年以上経つけど、ここまでアホらしいと思ったことないんだわ」
「退職するなんて、落ち着いて考えろ」
「落ち着きながら随分前に決めてることだから、心配いらない」
俺はそう佐川に行った。それから部長に向き直る。
「部長、俺会社やめますよ。俺が取った契約は相馬君に譲ればいいんですよね」
「その契約は相馬のものだ。自分の手柄のように言うんじゃない」
俺は呆れたばかりに肩をすくめ、書類を相馬のデスクの上に置いてやった。
「じゃああとは頼むな、相馬君」
「あ、ありがとうございます。契約を返していただいてありがとうございます」
相馬はまるで米つきバッタのようなどうでもいい光景を俺に差し向けたが、俺はもう何も感じなかった。
「じゃあ俺、一足先にオーストラリアで待ってるわ」
俺は部長に、退職届は後日郵送すること、有給消化をさせて欲しいこと、退職金の支払いをすることの3点を念押しして会社を去った。

それから1週間が経過した。俺は今、有給消化中なので毎日ぼんやり過ごしている。まだ正式に退職したわけではないので、会社支給の携帯電話やタブレットはいつでも使えるようにしてあった。そんなある日のこと、俺の会社携帯とプライベートのスマホに会社から鬼電が入った。会社には電話が2回線あるが、両方使って俺に電話をかけているようだ。放置しておこうかとも思ったが、2つのスマホが同時になるとかなりうるさい。俺はプライベートの方の電話の電源を落とすと、会社携帯で応じた。
「鮫島です」
「鮫島君か。今すぐ帰ってきてくれ。大変なことになっているんだ」
やっぱりあの件が引っかかったのか、と俺は内心思った。
「お断りします。あれは相馬君の担当なんですよね。相馬君になんとかしてもらえばいいと思いますけど」
「鮫島さん、冷たいことを言わないでください。どうしても来ていただきたいんです」
俺は相馬の必死な声を聞き届けると、一方的に電話を切り、電源を落とした。そしてプライベートの携帯を立ち上げる。電話はまだなっており、普段は温厚主義の俺もさすがにカチンと来た。
「ちょっと、何回もしつこいですよ」
俺が怒ると、電話の向こうから落ち着き払った声が聞こえた。
「鮫島君、すぐに出社するように。これは社長命令だ」
俺はスーツに着替えて急遽出社すると、電話での指示通り社長室のドアを2度ほどノックした。中から「どうぞ」という声が聞こえ、俺はドアを内側に開いた。だがそこで動きが止まった。デスクには社長が落ち着いている。それは構わないのだが、簡易応接には部長と相馬が今にも泣き出しそうな顔をして並んで座っていたのだ。俺は帰りたくなったが、仕方なく後ろにドアを閉め、社長の姿だけを視界に入れた。
「社長、お呼びでしょうか?」
俺は深く頷く社長の前に立った。
「話は2つある。まず、君がずっと温めていた5億円の契約のことだ。安藤相馬君が取った契約だと騒がれているが、事実なのか」
俺はちらっと相馬の顔を見てから社長の方へと向き直った。
「いいえ、違います。先方に確認していただければ分かるかと思いますが、あれは私が取った契約です」
社長は1つ大きく頷いた。
「あの契約書類には不備があった。君はそのことに気づいていたか?」
「なんとなくではありますが、気づいてはいました」
そこまで行ったところで、応接に控えていた親子から不満の声が上がった。
「知っていながら黙っていたのはずるい」だの「人手出なし」だの、好き放題言ってくれている。
「二人とも黙りなさい」
社長が一喝すると親子は押し黙る。そして蛇に睨まれたカエルだな、と俺は思った。
「私としては、君に復帰して欲しい」
「では、あの契約は私が取ったものと認めていただけるのですね」
社長によれば、相馬の手柄にされていた契約は相馬のものではないと、佐川から何度もしつこく訴えられたそうだ。最初は半信半疑だった社長も、ようやく調査をしてみようという気になり、数年前の営業日報などをめくってやっと俺の実績だと理解したのだそうだ。
「社長は今回の契約をどうしたいのですか?」
「もちろん実行したい」
それはそうだよな、と俺は内心思った。経営者とすればそういう判断を下すしかないだろう。そこで俺は駆け引きをしてみようと思いついた。ここで社長が勝てば俺は復職する。そうでなければ復職せずにオーストラリアへ行く。こんな風に人生を決めるのもたまにはいいかもしれない。
「では、私から条件を提示させていただきます」
俺は背筋を伸ばし、社長に対して条件を突きつけた。
「安藤部長及び相馬君の解雇が、私からの条件です」
「復職を選ぶか、オーストラリアを選ぶか。社長はきっと迷うだろうな」
俺はそう思いながら来た道を帰るのだった。

その夜、佐川が俺に電話をしてきた。
「お前、今日会社に来たんだって」
「まあな。もらった電話で悪いんだけどさ、俺、俺はこれからのことを決めた」
俺はそう佐川に打ち明け、電話を切った。

翌日、俺は成田空港にいた。大きなスーツケースと、荷物を詰め込みすぎて相当重くなったボストンバッグを持っている。
「おい、鮫島」
チェックインカウンターに向かおうとした俺の背後。佐川の声が追いかけてきた。俺は立ち止まって後ろを向き、走ってくる佐川と向き合う。
「お前本当にそれでいいのか?社長はあの2人を解雇しようとしているんだぞ」
「なんてことない。なんと言っても念願のオーストラリア暮らしができるんだしな」
「待っててくれ。俺もいずれ後追うからな」

それから3日が経過した。オーストラリアのケアンズにいる俺は、ビーチでエメラルドグリーンの海を眺めながら読書していた。だがそこでまた電話がなり始める。国際電話なのによくかけてくるよな、と思いながらも応じてみた。
「君は知っていてあんなことをしたのかね」
俺はそうだと答える。
元々俺のものだった大口の契約は、契約時に先方が実員でなく認め員を応援していた。当然、添付書類にある委任状とは印影が違っており、うちの本部で契約を受理できない。部長と相馬はそのことに気づき、先方に言ったはいいが、「鮫島さんとしかお話ししません」と門前払いを食らい、俺を頼ってきたのだった。だが、今日はそれとは別の要件で電話をしてきたはずだ。
「あれは会社宛の契約じゃなかったのか?先方は、君と会社の取引だと言っているぞ」
俺は唇を弓なりにして、バッグの中から1枚の契約書を取り出した。これは先日社長に呼ばれて出社した帰りに、取引先に立ち寄り、事情を話して手に入れた、俺と先方の間に成立した私的な契約の証だった。

それからしばらくして、俺は佐川から電話をもらい、部長と相馬が退職したと聞いた。億の契約を消滅させたばかりではなく、俺個人に持って行かれたのだから、そういう処分が下っても文句は言えないだろう。
「そろそろ帰ってきたらどうだ?社長が待ってるぞ」
そう言われると俺としても弱い。なんと言っても社長には、新卒でなかなか就職できなかった俺を拾ってもらったという恩がある。
「お前には部長を任せたいと言っている」
「冗談じゃない。管理職はお前がやれよ」
俺はしょうがないから日本に戻って復職するとしようかな。残念ながらオーストラリアを満喫するのはもう少し先の話になりそうだ。部長と相馬がいなくなった会社になら戻ってもいいかな、という気持ちが湧き上がる。俺はホテルの一室でパソコンを開くと、帰りの便の予約をするために検索を始めるのだった。

日本に帰国した俺を待っていたのは、部長の椅子だった。安藤部長と相馬は退職してからなかなか仕事が見つからず、今はビルの清掃員として親子で働いているそうだ。まあ、あの悪の強い親子を雇う会社はそうないだろう、と俺は思った。
「君が億万長者であることを知っているのは、私と君、そして佐川君だけだ。やってくれたな、鮫島君」
俺は有給消化を済ませていたので、一旦退職扱いとなり、今、部長としての労働契約を交わし、これからもこの会社のために必死に働いていこうとやる気が満ち溢れている。

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