継続契約は中止。工場の社長でも意味わかるだろう。俺は町を経営している。ある日、大手食品メーカーの新しい部長が一方的に契約の継続を打ち切ってきた。長年の信頼関係を踏みにじった傲慢な新部長は、この契約が代替不可能なものであることが分かっていない。そして俺はつぶやくのだ。あの部長ボケを掘ったな。
俺は霧山、43歳。親父の後を継いで工場を経営している2代目だ。創業44年のこの工場では特殊モーターの製造とメンテナンスを手掛けている。朝7時に工場に足を踏み入れると、いつものように機械の稼働音が心地よく響いていた。この音を聞くと今日も一日が始まるという実感が湧く。うちでは中小規模の工場向けにモーターを製造して納品もしているが、経営の柱となっているのは大手食品メーカーとの取引だ。5年前に他界した親父と俺が長年かけて開発し、特許を取得した防人防水のモーター技術。この特許技術で業界最大手の食品メーカーとライセンス契約を結び、全国13工場へ設置された特殊モーターの定期メンテナンスを行うことが、工場の安定した経営基盤になっている。
午前10時頃、大手食品メーカーの担当者である近藤が工場を訪れた。近藤とはもう15年以上の付き合いになる。「桐山さん、おはようございます」近藤が笑顔で声をかけてきた。「近藤さん、いらっしゃい。コーヒーでも入れますよ」俺は近藤を事務所に案内する。「いつも助かってますよ。北海道工場のメンテナンス、完璧でした」近藤の言葉に俺は軽く微笑みを返す。「それは良かった。特許技術には絶対の自信があります」俺は親父と一緒にこの技術を開発してきた。特許の取得はもう20年以上前だが、取得後も3年ごとに改良を重ね、その度に新たな特許を取得し続けている。時代に合わせて進化させてきたからこそ、今も業界トップの性能を維持できている。
親父と俺が開発した防人防水の特許モーター技術は、大手食品メーカーには絶対に欠かせない。食品工場では異物混入を徹底的に防ぐ必要がある。もし異物が製品に混入すれば、企業の信用は失墜するからだ。そのため生産ラインで使用されるモーターには高い性能が求められる。うちのモーターは独自構造により粉塵と水分を完全にシャットアウトできる。他の食品メーカーは衛生基準を満たすためクリーンルームなどの設置で大規模な投資が必要になるが、特許技術を駆使したモーターを使用すればその必要もない。この性能を実現できるのはうちの特許モーター技術のみ。代替品は存在しない。
ひとしきり雑談した後、帰る近藤の背中を見送りながら俺は思う。特許モーターの技術さえあれば、うちの工場の経営はこの先も安泰だと。
それから1ヶ月後、近藤から電話が入った。「桐山さん、実は会社が上場することになりまして」近藤の声には普段にはない申し訳なさそうな響きがあった。「それはおめでたいことじゃないですか?」俺が答えると、近藤は少し間を置いてから続けた。「ただ、上場に伴う事業拡大の一環として、東京に大工場を建設し、生産拠点をその大工場に集約するプロジェクトが動き出したんです。それで新しい部長が赴任してきまして」嫌な予感がした。「生産拠点の集約ですか?」「はい。工場プロジェクトの責任者として就任した柴田という新部長が、近いうちに桐山さんの工場を視察したいと言っています」近藤は少し言いにくそうに続けた。「柴田部長は財務畑の出身で、上場準備での経営効率化の手腕を買われて抜擢された方なんです。ただ、製造現場の経験はあまりないようで」何かを躊躇するような遠慮がちな物言いが、俺は気になった。
数日後、一台の高級車が工場の前に止まった。降りてきたのは近藤と、高級スーツを身にまとった年齢40代半ばの男。「桐山さん、紹介します。工場移転プロジェクト責任者の柴田部長です」紹介された柴田は、俺と目も合わせず工場を見渡しながら雑に頭を下げた。不穏な空気が工場に流れ始める。俺が工場内を案内すると、柴田は鼻で笑った。「へえ。これが44年続く工場ね。随分とボロじゃないですか」その言葉に俺は一瞬言葉を失う。「そうですね。確かに新しくはありませんが、親父の代から大切に使ってきた設備でして」俺が防人防水の特許モーター技術について説明を始めようとすると、柴田は手を振って遮った。「そういう技術の話は結構だ。私が見るのは数字だけでね。年間これだけのライセンス料をこのボロい工場に払う合理性がない。率直に言わせてもらうよ」柴田は腕を組んで、俺を見下すような目で言った。「うちは上場して東京に本社移転するから、継続契約は中止。全国に存在する13の工場を全て閉鎖して、東京の大工場に集約する。古い取引先は順次整理していく方針でね」俺の胸に冷たいものが走った。「簡単な話だよ。私が言ってること、ボロ工場の社長でも意味わかるだろ」柴田の言葉に、近藤は顔を伏せたまま何も言えずにいた。俺は必死に冷静さを保とうとした。「柴田部長、御社の全国13工場で使われている防人防水モーター技術は代替が効かないんです。継続契約を中止するということは、東京の大工場ではうちのモーター技術を使わないということですか?」「当然だ。だから言っただろ。簡単な話だと」柴田は不適な笑みを浮かべて続ける。「この程度の工場の古い技術なんていくらでも代わりが見つかるさ。時代に取り残されてるから、こんなボロ工場なんだろ」柴田は俺から視線を外し、出口に向かいながら捨て台詞のように言った。「じゃ、正式な書類は後日持ってくる」柴田は高級車に乗り込み、そのまま去っていく。
しかし、近藤は車に乗らずその場に残った。「桐山さん、本当に申し訳ございません」近藤は深く頭を下げた。「柴田部長に何度も説明したんです。桐山さんの特許技術は代替が効かないものだと。でも、全く聞き入れてもらえませんでした。力になれず、本当に申し訳ありません」近藤の声は震えていた。「近藤さん、あなたのせいじゃありません」俺がそう言うと、近藤は何度も頭を下げながら工場を後にした。工場には重い沈黙だけが残る。長年の信頼関係が、たった数分の会話で終わりを告げようとしていた。
柴田が去ってから3日間、俺は契約書を何度も読み返した。条文にははっきりとこう書かれている。「契約当事者のいずれかが契約解除の意思を表明した時点で、本契約に基づく特許ライセンスは即座に失効するものとする」。つまり、継続しないという意思表示をした瞬間、それは契約解除の通告となるのだ。確かに柴田は「継続契約の中止」と言った。おそらく柴田は、現在の契約期間が満了する半年後まではモーターを使い続けられると考えているはず。しかし、契約に従えば、柴田が契約解除の書類を持ってきた時点で、特許モーターを使う権利を完全に失うことになるのだ。柴田ボケを掘ったな。
3日後、柴田が一人で工場にやってきた。手には契約解除の書類を持っている。近藤の姿はない。「これにサインしてくれ。契約終了だ」柴田は書類を俺の前に放り投げるように置いた。俺は書類に目を通す。特許モーターのライセンス契約の一方的な解除通告だ。「分かりました。契約解除ですね」俺が落ち着いて答えると、柴田は意外そうな顔をした。「え?ああ。話が早くて助かるよ。さすがボロ工場の社長だな。諦めも早い」柴田が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。俺はそれまでの丁寧語をやめ、冷たく言い放った。「では、全国13工場の特許モーターの使用を即刻中止しなさい」柴田の表情が一瞬固まった。「は?モーターの使用中止?当然だ。契約解除の意思表示をした時点で、残存期間に関係なくライセンス契約は即座に失効する。つまり、特許技術を使用したモーターはもう使用できない」俺は契約書の該当条文を指さした。「ここに書いてある通りだ。契約終了と同時に、特許技術の使用権は即座に失効すると」柴田は契約書を奪い取るように手に取り、慌てて目を通した。しかし、すぐに鼻で笑う。「そんなの形式的なもんでしょう。実際には問題ないですよ」「形式ではありません。法的拘束力のある契約です」俺は淡々と続けた。「御社が特許侵害で訴えられるリスクを避けるためには、全工場で即座に使用を停止する必要がある」柴田は肩をすくめた。「大げただな。うちには優秀な技術者だっている。代わりのモーターなんてすぐ調達できるさ」そう言って柴田は踵を返し、最後まで余裕の表情を崩さずに工場を後にした。
俺は柴田が去った後、すぐに顧問弁護士に電話を入れる。「契約解除の通知書を作成してください。特許ライセンス契約の失効について」書類は即達で大手食品メーカーの本社と全国13工場に送付される手配が整った。法務部門は確実に工場の生産ラインに稼働停止命令を出すだろう。特許侵害のリスクを放置できる企業などあるはずがない。特に上場しようという企業なら、なおさらだ。柴田は今頃、工場移転の準備に夢中なのだろう。まさか明日、全工場が止まるなんて思ってもいない。そして、代替品などどこを探しても見つからないという現実に、間もなく直面することになる。俺はすぐさま正式に特許ライセンス契約の解除通知を用意し発送した。通知が届き次第、全国13工場にある特許モーターは一切使用できなくなる。メンテナンス業務も即座に終了する。柴田が一方的に契約を解除したのだから、俺たちも契約に従って対応するだけのことだ。
それから数日後、近藤から電話が入った。「桐山さん、私が懸念していた通りの事態になってしまいました」近藤の声には、警告したにも関わらず止められなかった責任と後悔が滲んでいた。「全国13工場が稼働停止に追い込まれています。法務部から特許モーター使用停止命令が出され、生産ラインが動かせません」俺は黙って聞いた。「工場が稼働できないため、1工場で1日数千万円の損失。13工場全てで億単位になります。この状況が続けば、取引先への納期遅延で違約金請求も殺到し、社の信用問題にまで発展することになるかもしれません」近藤は沈みがちな声で淡々と状況を報告する。「柴田部長はすぐに代替品を調達しろと指示を出しましたが、どのメーカーも対応できないと回答してきました」柴田はうちの特許技術によるモーターを、簡単に代替可能な古い技術と高を括ったのだろう。近藤は危機感のある切迫した声で続けた。「さらに、東京の大工場建設も深刻な問題を抱えています。柴田部長は安価な代替モーターで予算を組んでいました。しかし、代替モーターでは食品工場の衛生基準を満たせません。基準を満たすには、大規模なクリーンルーム設備や完全隔離された生産区画の建設が必要になります」なるほど、と俺は改めて思う。他の食品メーカーはそうした莫大な設備投資で衛生基準を満たしている。うちの特許モーターがあれば、そんな大規模設備は不要になるのだ。「追加設備の建設で、当初予算の倍以上の投資が必要だという試算が出ました。上場したばかりの会社にとって、投資家に約束した予算を大幅に超える追加投資を説明することは、今後株価への影響が出る可能性もあります」近藤の声は震えていた。「実は近年、輸入食材の高騰で各食品メーカーの負担が大幅に増えています。利益を確保するには、他のコストを削減しなければならない。桐山さんの特許モーターを使えば、大規模な設備投資が不要になり、その分のコストを削減できる」近藤が言う通り、ここ2年ほど他の食品メーカーから問い合わせやライセンス契約の打診が増えていた。輸入食材高騰という避けられないコスト上昇に対し、設備投資を削減することで対応しようとする食品メーカーが増えていたのだ。「柴田部長は、そうした業界全体の流れを全く理解していませんでした。工場集約プロジェクトどころか、国内の既存工場すら維持できない。会社全体が危機に陥っています」近藤は必死に訴える。「社長も事態の重大さにようやく気づいて、桐山さんに直接謝罪したいと言っています。対応していただけないでしょうか?」近藤の声は懇願するようだった。近藤とは15年以上の付き合いだ。この男の誠実さは俺がよく知っている。「近藤さん、あなたは悪くない。社長との面会は応じましょう」俺がそう言うと、近藤は深く息をついた。「ありがとうございます」電話を切った後、俺はある決断をした。実は以前から、別の大手食品メーカーから特許技術のライセンス契約について打診を受けていたのだ。そのメーカーは、現在の取引先と業界シェアを争う最大のライバル企業だった。「御社の特許技術を是非使わせていただきたい。輸入食材高騰への対策として、設備投資の削減が急務なんです」担当者の熱心な言葉を、俺はこれまで丁重に断り続けてきた。長年の取引先の競合相手に技術を提供することは、義理を欠くと考えていたからだ。しかし、状況は変わった。俺はそのライバル企業の担当者に電話を入れる。「以前からお話いただいていた件ですが、改めて検討させていただきたいのですが」担当者は驚いた様子だったが、すぐに前向きな返事をくれた。「本当ですか?是非お願いします。詳細な条件については改めて打ち合わせを」電話口の向こうから、担当者の喜びが伝わってくる。親父と俺が開発した技術は、これからも必要とされ続ける。俺は痛感するのだ。技術の重要性を本当に理解してくれる相手と仕事をしていきたいと。
翌日、一台の高級車が工場の前に止まった。降りてきたのは60代半ばくらいの品のある男性と、青ざめた顔の柴田だった。「桐山様、お初にお目にかかります。社長の長井と申します」長井社長はそう言って深々と頭を下げた。「この度は弊社の柴田が大変失礼な対応をいたしまして、誠に申し訳ございませんでした」その隣で柴田も頭を下げているが、その顔は蒼白だ。「事態の全貌を把握いたしました。全国13工場が壊滅の損失。会社の存続すら危うい状況です」長井社長は厳しい表情で柴田を見た。「全ては柴田の無知と傲慢が招いた結果でございます」長井社長が柴田に向き直る。「柴田、桐山様に直接謝罪しろ」柴田は震える声で言った。「桐山さん、この度は私の無礼な態度と軽率な判断で多大なるご迷惑をおかけしました。申し訳ございません」頭を下げる柴田だが、その目には未だ何か言い訳がましいものが見える。案の定、顔を上げた柴田が続けた。「ただ、私は改革のため、効率化のために」俺はすぐさま反論に出た。「近藤さんは何度もあなたに特許技術の重要性を説明していたはずです。それでもあなたは聞く耳を持たなかったと聞いています。そして、一方的な契約解除で会社全体を危機に陥れた。それが改革ですか?」俺は柴田の目を見据えて続ける。「柴田部長、あなたは44年続くこの工場の歴史の重みをご存じない?親父と俺が努力を重ねて開発した技術も、食品工場の衛生基準も、代替不可能な技術の大切さも理解していなかった。そんなあなたに改革を語る資格などない」柴田は何も言い返せなかった。長井社長が俺に向き直った。「桐山様、どうか契約を元に戻していただけないでしょうか?条件は全てお聞きします」長井社長は真剣な表情で続けた。「柴田は即刻更迭させ、工場集約プロジェクトからも外します。今後、桐山様との取引には一切関わらせません」柴田の顔がさらに蒼白になった。「社長、それでは私の出世が…子供の学費もあるんです。住宅ローンも…」「黙れ。自業自得だ」長井社長は柴田の言い分を否定すると、改めて俺に向かって深く頭を下げた。「この通りです。もう一度チャンスをいただけないでしょうか?」俺は長井社長の真摯な態度を見て、ゆっくりと口を開いた。「長井社長、契約を元に戻すことは可能です。ただし、条件があります」長井社長の顔に希望の光が差した。「実は以前から、別の大手食品メーカーがうちの特許技術とライセンス契約を結びたいと打診してきていたんです」柴田の顔が凍りついた。長井社長も息を飲んだ。「これまでは、長年の御社との取引を尊重して断り続けてきましたが、状況は変わりました」俺は長井社長の目を見た。「仮に再契約しても、うちの特許技術を使用するのは御社だけではない、ということです。さらに、ライセンス料は従来の倍額にさせてください。これは一方的に契約を破棄されたリスクへの対価です。それでもよろしければ、契約継続を検討させていただきます」長井社長は一瞬躊躇したが、すぐに深く頭を下げた。「受けます。それが当然の代償です」柴田は蒼白な顔で立ち尽くしていた。自分の軽率な判断が会社にどれほどの損失をもたらしたのか、ようやく理解したようだった。長井社長は最後にもう一度深く頭を下げる。「桐山様、本当にありがとうございます。後日、近藤を再度担当者として配置させていただきます」柴田は何も言えず、ただうつむいたままだった。
高級車が去った後、俺は工場の機械に耳を傾けた。技術の価値を本当に理解してくれる人たちと、これからも仕事をしていける。44年続くこの工場の歴史は、これからも続いていくという確信が胸の中に満ちていく。
それから数ヶ月後、近藤が工場を訪れた。「桐山さん、柴田は会社に多大な損害を与えたとして懲戒解雇になりました。さらに、億単位の損害賠償を請求されたようです」担当者としてまた俺の元に戻ってきてくれた近藤は、どこか晴れ晴れした表情を浮かべている。「柴田は既に妻子にも愛想を尽かされて離婚、今はバイトで生計を立てているという話です」近藤が淡々と報告する。「桐山さんのおかげで、全国13工場も無事に生産を再開できました。長井社長からも、桐山さんの技術なしでは成り立たないと改めておっしゃっています」近藤が嬉しそうに続けた。一方、俺は新たなライセンス契約を機に、工場の規模を拡大しようと考えている。従業員も増やし、設備も新しくしていきたい。そして、特許技術をさらに進化させ、次の世代に誇れる技術を開発したいという夢が広がるのだった。



