部長は私の履歴書を封筒ごとひったくると、中身も確認せずにそのままシュレッダーへ突っ込んだ。紙が細断される機械音が廊下に響き渡り、私はただ呆然とそれを見つめることしかできなかった。
「転職者が来るって聞いてたが、おいおい、冗談はよしてくれよ。お前みたいなしょぼいジジイがうちに転職してくるなんて聞いてないぞ」
総務部長の岩村は、年齢の割に肉のたるんだ顔を歪めてそう言い放った。私は五十三歳。確かに若くはないが、こんな屈辱的な扱いを受けるいわれはない。
私の名前は保田正一。ある片田舎で生まれ育ち、長年公認会計士として地元の企業を支えてきた。今年、縁あってこの東京の会社に転職することになったのだ。上場を控えた優良企業で、社長から直接スカウトされた話だった。
「私のような者でも何かお役に立てることがあればと思いまして」
そう言って頭を下げた私に、岩村部長は鼻で笑った。
「我が社は上場を控えた優良企業だ。そこで働く社員は当然優秀な人間であることが第一条件なんだよ。俺なんか幼稚園から私立の名門に入り、大学まで全てエリート校を卒業しているんだ」
唐突に始まった学歴自慢に、私は曖昧に頷くしかなかった。彼の話は止まらない。
「若くして実力を認められ、管理部門の部長にまで昇進したんだ」
誇らしげに胸を張る岩村部長。だが、その態度は明らかに私を見下していた。私は早くこの場を離れたかった。
「わかりました。それでは失礼します」
そう言って背を向けようとしたその時、廊下の向こうからスーツ姿の男性が現れた。すると、あれだけ横柄だった岩村部長が猫撫で声になる。
「社長、おはようございます。今日もビシッと決まっていらっしゃいますなあ」
人が変わったような態度に戸惑っていると、社長は私の姿を見て驚いたように目を見開いた。
「これはこれは、保田さん。よくぞ我が社に来てくださいました」
深々と頭を下げる社長。岩村部長が困惑した表情で首をかしげる。
「どうもご無沙汰しています。社長にお誘いいただき、何かお役に立てればと思って参りましたが……たった今、私のような底辺のジジイはこの会社に必要ないと言われまして」
私の言葉に社長の顔色が変わった。
「ちょ、ちょっと待ってください。底辺のジジイ? 誰がそんなことを?」
心なしか青ざめた顔で問いかける社長に、私は静かに岩村部長へ視線を向けた。
「そちらの岩村部長が、私の履歴書も見ずに封筒ごとシュレッダーへ」
社長の怒りの視線が岩村部長を捉えた。その瞬間、彼の顔から血の気が引いていく。
「岩村、お前、保田さんにジジイとは何事だ!」
耳が痛くなるほどの大声に、岩村部長は小さく飛び上がった。それでもなお言い訳を続ける。
「ですが、こんなしょぼいジジイに我が社のような上場企業は……」
「お前はバカか! こちらの保田さんのお力がなければ、うちはそもそも上場なんてできやしないんだよ!」
そこで社長は深いため息をつくと、子供に言い聞かせるようにゆっくりと続けた。
「こちらの保田さんは公認会計士でいらっしゃるんだ」
「え? こんなジジイが?」
思わずといった様子で飛び出た暴言に、社長はさらに怒りを募らせる。
「保田さんは地元で長年企業を支えてこられた。うちの会社の再建も、保田さんがいなければ成し遂げられなかったんだ。私はその手腕に惚れ込んで、上場を目指すにあたり彼を役員に迎えることにしたんだ」
役員。その言葉に岩村部長の目が泳ぐ。自分の立場が彼の役職より遥かに上だと知ったのだろう。
「保田さんには、これから本社を含め我が社全体の内部統制や監査体制が上場基準に適合できるよう、みっちり指導していただく」
そう、これが私の招聘理由だった。最初は迷った。長年住み慣れた地元を離れるのは寂しかった。だが、地元は今過疎が進み、企業の撤退も相次いでいる。家族とも十分に話し合い、結局私は社長の誘いを受けることにしたのだ。
さて、私は鞄から一束の書類を取り出した。
「こちらがご依頼いただいた特定の本社社員に対する事前調査の結果報告書です」
「事前調査だと?」
その瞬間、ギョッとした顔で岩村部長が目を見張った。だが、私は気づかないふりをして報告書を社長へ手渡した。
「社長のご指摘通り、コンプライアンス違反に相当する社員が数名見受けられました」
これは私がこの会社に転職するにあたっての最初の仕事だった。社長から直接依頼されたのは、社員たちの勤務態度及び素行の調査。ハラスメント行為や不正行為など、既に社長の方へ報告が上がっている社員もいる。私は疑惑のある社員たちを中心に水面下で調査を行ってきたのだ。
厳しい顔で報告書をめくっていた社長が、ふと手を止めた。そしてゆっくりと岩村部長を見据える。
「岩村、ここに書かれてあることは事実かね? 部下への暴言、ハラスメント行為、自身の立場を傘に来た不正な経費使用、さらには経費の流用まで」
鋭い視線に射抜かれ、岩村部長はブルブルと震え始めた。
「で、ですから! これは私に馬鹿にされたと逆恨みしたそこのジジイが、勝手に捏造したものです!」
「おや、それは矛盾していますね」
私は冷静に答えた。
「私があなたに会ったのは今日が初めてです。これなのに、どうやってこんな書類を作成できるとおっしゃるのでしょうか? あなたは先ほどからずっと私と一緒にいましたよね」
岩村部長が言葉に詰まる。私は彼に最大級の一撃を叩きつけることにした。
「ああ、なるほど。あなたもジジイですからね。都合の悪い事実はすぐにお忘れになってしまうのでしょうか?」
そう言って、私は彼を真正面から睨みつけた。
「同じジジイ同士でも、この会社に必要なのは私とあなた、どちらでしょうかね?」
直後、お化けでも見たかのように岩村部長はか細い悲鳴をあげ、その場にへなへなと崩れ落ちた。
「岩村、お前にはとことん失望した。今日で首だ」
社長の冷たい宣告が廊下に響く。そして社長は私に再び頭を下げた。
「保田さんには本当にご迷惑をおかけしました」
「いえ、綻びを出し切らなければ上場企業とは名乗れませんからね。これからも上場企業にふさわしいクリーンな組織作りへ邁進させていただきます」
そう言って、私たちは床にうずくまる岩村部長を一瞥し、その場を去った。
その後、岩村部長は私の調査が決定的なものとなり、明らかなコンプライアンス違反があったとして懲戒解雇となった。他の問題社員にも同様の処分が速やかに下された。組織再編や体制作りに尽力したおかげで、会社は無事に上場を果たした。
「今回の件は全て保田さんの功績です」
後日、社長にそう言われたが、私はますます気を引き締めた。組織とは生き物だ。良い状態がずっと続くわけでもなく、一度つまずけば立て直すのも一苦労。これから先、どんな危機が訪れようとも必ず乗り越えられるよう、この会社の土台を裏から支えるのが私の役目なのだ。
今も私は、張り合いと緊張感を持って真面目に仕事へ励んでいる。



