ストーカーから救った同僚の女性が、実は10年前に俺が助けられなかった患者の娘だった。彼女がくれた母親の形見の時計を、俺は罪の記憶としてずっと身につけていた。そして今、目の前で命を落としかけた彼女に、俺は再び医師として向き合う。「あなたは私の命もつなぎ止めてくれた」――その言葉が、逃げ続けた俺の過去を癒していく。

ストーカーから救った同僚の女性が、実は10年前に俺が助けられなかった患者の娘だった。彼女がくれた母親の形見の時計を、俺は罪の記憶としてずっと身につけていた。そして今、目の前で命を落としかけた彼女に、俺は再び医師として向き合う。「あなたは私の命もつなぎ止めてくれた」――その言葉が、逃げ続けた俺の過去を癒していく。

彼女がストーカー被害に遭っているかもしれないと相談された時から、もしもの時のためにボイスレコーダーを仕込んでいた。それが今、役に立った。

「黒川さん、今の会話は録音しました。あなたを警察に突き出します」

変形のレコーダーの存在に慌てた黒川が暴れ出す。駆けつけた夜間警備員が黒川を抑え込む。警察を呼ぶよう無線で連絡する警備員に、俺も加勢して黒川の動きを抑えた。

間もなく到着した警察により黒川は連行されていった。事情を聞くので2人も署まで、と促され、歩き出した俺の後ろを歩くウイの表情は紙のように白い。黒川を抑えることに手いっぱいで、ウイの異変に気づけなかった。

「ウイ、大丈夫?」
体はカタカタと震えている。
「お腹痛い。気持ち悪い」
そう言うと同時にその場に膝をつき、ウイが吐き出したのは黒一。

「ウイ君、大丈夫か?」
駆け寄った俺は、倒れ込もうとしているウイを抱き止め、横向きにして吐瀉物が逆流しないようにして脈を測る。すぐにスマホである場所に電話をし、警察にその病院の救急が受け入れ可能だと救急搬送を頼んだ。

「救急って、その病院の受け入れ許可なんてどうして君が知ってるんだ?」
ウイをパトカーに移動させながら尋ねる警察に、俺は答える。
「俺はその病院の救命医です」

病院の院長が渋い顔で俺に問いかける。
「急に私に直接電話で受け入れを許可しろとはどういうことだ? 草君」
「君の頼みだし、人命がかかっているから受け入れを許可したが」

俺はこの病院で1年前まで救命をしていた。日々失われることの多い人の命に疲弊し、救命から逃げた人間だ。

検査の結果、ウイは出血性胃潰瘍と診断された。黒川からのストーカー行為によるストレスが原因か。すぐに内視鏡での止血処置を行わなければならない。

「ここに連れてきたってことは、戻る気になったのか」

悩み抜いて辞めさせてくれと言った俺に今の会社を紹介してくれたのも院長だ。院長は今も俺に戻ってきてほしいと思っている。だからこそ、今も名前だけはこの病院に在籍させてくれている。

「私は君はこの仕事が向いていると思っているよ。君はこの病院の救命の誰よりも腕がいい。そして誰よりも人の命を尊いものと思っている」

その言葉に、ウイが俺にかけてくれた言葉がよぎる。命と向き合うのが怖いって思うのはかっこ悪くない。俺がこの手でウイを助けたい。助けなければ。その思いでとっさに院長に連絡していたんだ。

「自分にやらせてもらえませんか?」

俺は救命医としてウイの処置をすることを決めた。

無事に処置が終わり、しばらくして目を覚ましたウイのうろ目が俺の姿を捉える。
「たさん」
「ウイ、大丈夫?」
気分はまだ麻酔で意識がぼんやりしているウイが力なく微笑む。
「やっぱり先生だった」

え? 首をかしげる俺に、ウイがぽつぽつと話し出した。

ウイの母親は彼女が12歳の時、仕事で高速道路を走行中に多重事故に巻き込まれ、この病院に救急搬送されたという。搬送された時には意識不明で、助かる見込みはほぼないものと思われた。その時対応した救命医の処置のおかげか、一時的に意識を取り戻したのだ。しかしその後すぐに容態が急変。母親は帰らぬ人となった。

両親と病院に駆けつけたウイは、目の前で母を失った。泣きじゃくるウイの前に1人の救命医が膝をついた。

「ごめん、ごめんね。君のお母さんを助けてあげられなかった」

今にも泣き出しそうな顔で、子供のウイに謝罪を繰り返したのは、搬送された母を処置した救命医。救命医となって間もない俺だったのだ。

そして俺もまた、この母親のことは覚えている。俺が救命医になって初めて救えなかった命だったからだ。小学生の娘がいたのも覚えている。悔しくて悲しくて申し訳なくて、謝るしかできなかった。娘の顔をまともに見ることもできなかった。

その少女が今、目の前にいるウイだったなんて。

点と点が繋がった。ウイの腕がそっと俺に伸ばされ、俺の腕につけられた時計に触れる。
「この時計、私が渡したのだよね」

そう。この腕時計は子供のウイが俺にくれた。彼女の母親の時計だ。母親を助けられず謝ることしかできなかった俺に、ウイが時計を差し出した。

「ママね。ウイと話しながら笑ってくれてたよ。先生、ちゃんとお話できたよ。ママが先生にありがとうって。だからこれ先生にあげる。忘れないで、ママのこと。先生、ずっと先生でいてね」

涙をいっぱいに溜めた瞳で鼻を真っ赤にして、しゃくり上げながら言葉を紡ぐ。あの時のウイの顔を俺は忘れたかった。後悔と残滓の記憶。彼女を見てざわめくことのあった胸の痛みの理由に、やっと気づく。記憶にかかった霞が消えた。今なら確かにあの頃のウイの顔が思い出せる。俺は少女だったウイを心のどこかで忘れられずにいたんだ。

助けられなかった患者を忘れないために、俺はこの腕時計をし続けていた。ずっと先生でいて、というウイの言葉が救命医であることから逃げた時、頭をよぎった。救命医を辞めた俺を責めている気がして、俺は自分の罪を忘れないように時計をし続けたんだ。

そして今、大人になったウイに、俺は再び向き合わなければいけない。

「ごめん」
「いい」
「母さん、助けられなくて。先生やめて。約束も守れなくて」

目を合わせることもできずに、俺は拙い謝罪をする。しばらく黙っていたウイは口を開いた。

「先生、初めて食事に行った時、時計のこと戒めって言ったの。ああ、私がこの人をお医者さんとして苦しめていたんだって。悲しかった。私、そんなつもりで渡したんじゃないよ」

時計に触れていたウイの手が、ゆっくりと俺の手を握る。

「私ね、先生のこと恨んだこと1度もない。先生が必死にお母さんを助けようとしてくれてたの。分かってたから。最後に意識を取り戻したお母さんと話せた。お母さん、先生に感謝してた。ずっと戻ってこいって声をかけ続けてくれてたって。あの最後の少しの時間だけでも意識をつなぎ止めてくれたのは、きっと先生のおかげだから。その時計を見て後悔しないで。確かにあなたが繋ぎ止めた命があるって、忘れないで欲しかったの」

ウイの瞳から涙がこぼれる。

「今こうして、あなたは私の命もつなぎ止めてくれたじゃない。ありがとう、先生」

俺は頬に流れるウイの涙を指で拭い、呟いた。
「ありがとう」

俺の言葉に小さく微笑んだウイは、安心したように再び眠りについた。

あの日、救えなかった命。こぼれていく命の数だけ涙がこぼれ、それはやがて俺を後悔と残滓の海へと溺れさせるほどになっていた。救えなかった命に何度も何度も届くはずのない謝罪を繰り返し、毎日毎日、救えなかった自分へのどうしてを繰り返す。涙を流す瞳がまるで俺を責めているように感じていた。

ああ、なんて綺麗なんだろう。彼女の頬を伝う涙。人の涙がこんなに美しいなんて。いつの間にか泣けなくなっていた涙は、こんなにも綺麗じゃないか。

俺がこの道に戻る意思を固めた時、背中から院長の声がかかる。
「相変わらず腕は落ちていないみたいだね。院長、警察が話を聞きたいそうだよ。彼女のことは私が引き継ごう。君の今後についても後で話そう」

そうだ。まずは黒川の件を解決しなければ。俺はウイを院長に任せ、警察の元へ向かった。その後、目覚めたウイからも事情を聞いた警察により、黒川はストーカー行為の他、自宅への住居侵入罪などで逮捕されることとなった。

それから数日後。
「これで安心して過ごすことができるね」
「はい、本当にありがとうございました」

ウイが俺の名を呼ぶのを躊躇して、先生と呼ぶ。
「き、先生は会社をやめてお医者さんに戻るんですか?」
「そうだね。ウイさんのおかげで戻る決意ができたよ。ありがとう」

お互いによそよそしくなった呼び名に、心にぽっかりと穴が開いたような喪失感が湧き上がる。明日には退院となるウイと俺との接点は完全に途切れてしまう。

漂う沈黙に、静かにウイが話し始める。
「私、本当は先生が会社に中途で入った時から気がついてたんです。でもきっとお医者さんをやめたってことは何か思うとこがあってやめたんだろうし、母が亡くなった時の先生の辛そうな顔も覚えてたから、きっと声をかけない方がいいのかなって思ってたんです。だから先生が電車で私を痴漢から助けてくれた時、本当に嬉しかった。時計をしていてくれたことも」

寂しそうな姿に、思わず俺の口から彼女の名がこぼれた。
「ウイ」

「先生、私、住むとこがないんです」

突拍子もないウイのセリフに、しかし俺は発っとする。逮捕されたといえど、ストーカーされた上に盗撮されたマンションになんて帰りたくないだろう。両親共に亡くなり、就職でこちらに出てきたウイには近くに身寄りがおらず、家に止めてもらえるほどの親しい友人もいない。

「しばらくの間、清太さんのとこに置いてくれませんか?」

え、急に名前で呼ばれ、さらに驚きの提案をしてきたウイに目を見張る。

「私は清太さんを覚えてたのに、清太さんは私のこと覚えてなかった。だなんて、私ショックです。しかも私があげた時計も、勝手に足かせみたいに思ってたなんて。傷ついた責任取ってくれますよね」

強気に交渉する口ぶりのくせに、ウイの表情は不安げで、ぎゅっと握られた手が彼女の必死さを物語っている。その姿が、彼氏役を頼んできたあの日と重なる。俺は自分の口元が緩んでいくのが分かった。

「無理が許してくれるまで、安心するまでいてよ」

俺は彼女を抱きしめていた。

1年後。俺は会社をやめ、救命医としてまた働いている。命の儚さに胸を痛めることはなくならないが、そんな時はウイにもらった時計を見つめれば、自分の手で救える命が確かにあることを忘れないでいられた。そしてウイは以前の会社をやめ、今は別の会社に務めている。黒川が逮捕され、解雇となったとはいえ、いつ釈放され、自分の前に現れるかわからない。会社がバレているのは危険だ。あれ以来、ウイは俺と一緒に暮らし続けている。

「お帰りなさい」
今日も帰宅した俺を、嬉しそうに出迎えてくれる。
「ただいま」
「疲れた声してる。大丈夫?」
今日は立て続けに救急の対応があり、仕事終わりに立ち寄る場所もあったので、その疲れが声に出ていたのだろう。ウイが心配そうに顔を覗き込む。
「うん。少しね。でもウイ見たら元気になったよ」
「もっと元気になるように、キスしてあげようか」

小首をかしげる仕草が相変わらず可愛いと思うのは、惚れた弱みだろうか。

「じゃあ、そうしてもらいましょうか」
「ええ、ちょっと待って」
言い出したくせに、俺がずいっと顔を近づけると恥ずかしそうに背けてしまうのも相変わらずだ。
「待たない」
そう言って腕の中に抱きしめたウイが、もう真っ赤な顔を隠すように俺の胸に顔を埋める。
「ウイ、しないの? してくれるんじゃなかったの?」

赤いまま無言のウイに、くすっと笑みがこぼれる。
「じゃあ、こっち」
そう言って彼女の左手をそっと持ち、白く細い薬指にそっと口付ける。

「何? 王子様みたいに」
恥ずかしそうだが嬉しそうにクスクス笑うウイに、俺はポケットにしまっていた小さな箱を取り出した。
「受け取ってくれますか? 姫」

冗談っぽく言った声は、少し緊張していなかっただろうか。差し出した箱の中にはシンプルな指輪。未だにあの時の恐怖を思い出し震えることのある彼女。俺は生涯をかけて守りたいと思っている。

「この指輪に誓って君を守るよ。結婚してください」

驚き固まっていたウイの瞳が、じわじわと潤んでいく。やがて羽のように柔らかく微笑んだウイの瞳から涙がこぼれた。

「はい。喜んで」

その涙は、今まで見たどの涙よりも美しく輝いて見える。

これから先も、俺は彼女と共に時を刻み続けるんだ。

Thumbnail