私が全く知らない人間が優秀なわけがないだろう。しかも年寄りは頭の回転も行動も遅いんだから、どこかへ行ってくれ。というか、そろそろ退職しろよ。給料泥棒め。
私がそう言われたのは、とある企業の本社から支社へ視察に来ていた時のことだ。参加してほしいと言われて来たのに、こんな言葉を投げかけられるとは思ってもみなかった。
「そんなことを言ったのはどこの誰だ? 他人をそんな風に見下すような発言はやめた方がいいですよ。年上の人間に対して命令するのもやめろ。気分が悪くなる」
私の発言に苛立ったのか、安本と名乗る男はさらに語気を強めた。この男の言動は目に余ると思い、私は「君こそ、相手が誰であろうと言葉に気をつけた方がいいのではないか」と指摘した。しかし、やはり私の言葉は彼の心に届くことはなく、彼はさっきよりも深く眉間に皺を寄せた。
「無能がとやかく言うんじゃねえよ。よぼよぼのじいさんになっても働かなくちゃいけないぐらい金がない奴を見下して何が悪い」
そう言ってまた怒鳴ったかと思うと、彼は持っていたお茶のペットボトルの中身を私に向かってぶちまけた。頭から思いきりかかってしまい、私は全身ずぶ濡れになった。しかもテーブルの上まで汚れてしまったではないか。
「何をするんだ!」
私は安本を睨みつけると、彼は「ぶざまな見た目だな」と笑い出した。そしてさらに「俺に偉そうな口を聞いた窓際社員は首にしてやるよ」と言い出した。
それを聞いた私は、眉間に皺を寄せて安本を睨みつけた。
「本気で言っているんですか?」
「俺は人事部の課長だって言っただろ。お前の首なんて一瞬で吹き飛ぶんだよ」
安本はそう言ってゲラゲラと笑い出した。私はそれを見てため息を吐いた。私のことを全く知らないのに、勝ち誇った顔をしているのが本当に呆れてしまう。
「私は本社から来たんだが、どうやって首にするつもりだと言うんだい?」
私の言葉を聞いた安本は「はっ?」と声を上げて目を見開いた。
「どういうことだ!」
と騒ぎ出す彼に、私は眼鏡を外しながら「私の顔を見たことはないか?」と聞いた。しかし、安本は何も分からないようで、首を傾げるばかりだった。
すると、その時会議室に入ってきた人物がいた。
「社長、お待たせしてしまい申し訳ございません」
そう言って駆け寄ってきたのは、早川支社長だった。
「早川さん、大丈夫ですよ。この社員と話をしていましたので」
「社長? 支社長がそう言うってことは……」
「私は本社の社長、片岡秀樹だ。一度でも写真か何かで見たことはないかな?」
私がそう言うと、安本は「そんなの嘘だ!」と叫んだ。彼はさっきよりも驚き、一層目を大きく開いた。
そんな彼をよそに、早川さんは私の状態を見て驚き慌てた様子でタオルを差し出しながら聞いてきた。
「社長、そんなに濡れてどうしたんですか?」
私がお茶で濡れてしまっているのを見て、何かあったのだと察したのか、早川さんは安本を睨みつけながら質問した。安本は顔色を悪くし、口を閉じて何も話そうとしない。
それを見ながら、私は早川さんに説明した。
「安本さんに、この会議には彼のような優秀な社員しか参加できないから出て行けと言われて、お茶をかけられたんですよ」
その言葉に早川さんは「えっ!」と声を上げて驚き、安本はさらに青い顔をして震え出した。
「な、何を言うんですか! 私はそんなことは一度も……」
「さっき私に向かってはっきりと言ったじゃないか。無能はこの会社に必要ないと。さっきの言葉は嘘だというのかな?」
「あれは何かの間違いでして! お茶もわざとじゃ……」
安本は言い訳しようと頭を必死に回転させているようだったが、いい言葉が出てこなかったのか、口をパクパクと動かすのみだった。
それを見て、早川さんは「安本君、一体どういうことだ!」と怒り出した。早川さんの顔を見ると真っ赤になっており、相当頭に来ているのが分かる。
安本は今の状況が非常にまずいとすぐに分かったようで、「こ、これは何かの間違いです!」と言い出した。
「何が間違いだと言うんだ!」
と早川さんがツッコミを入れると、安本は「自分は誰かにはめられたんだ!」と主張し出した。
ふざけた言い訳をするなと腹が立ってきて、私はギロリと安本を睨みつけた。
「お前が自分の意思で言った言葉だろう? 私は少しは多めに見ようと注意した。しかし君は私の言葉を聞かずに、人を見下したじゃないか。そんなこともまた嘘をつく気か?」
「安本君、君は社長に何を言ったんだ?」
「いや、それはですね……」
安本は慌てるが、早川さんに問い詰められて、言葉をうまく吐き出せないでいる。しかし、それも少しの間だったようで、彼は逆ギレし出した。
「そもそも、なんですぐにあなたが本社の社長だって言ってくれなかったんですか!」
確かに、すぐに教えていれば安本が私に問題発言をしなかっただろう。しかし、そんなことをすれば、私がここに来た目的の一つが達成されないことになる。
支社にやってきたのは視察のためだ。社員たちが真面目に働いているか、何も問題はないかをこっそりと見るために来たのに、問題行動をしている社員にすぐに教えたら意味がない。安本が部下だけでなく他の人間にもひどい態度を取ったりしているのか、彼がどんな考え方をしているのかを知りたかったから、何も言わずにいたのだ。
だから、我慢の限界が来るまで何も言わなかったし、自分の正体を話そうとは思わなかった。眼鏡をかけて少し変装していたのもこのためだ。
そしたら、何も誘導なんてせずとも、彼が見苦しい言葉を出してくれて、すぐにこの人間がこの会社にいらないと理解した。視察を始めてすぐに、安本が部下らしき社員たちを頭ごなしに怒っていたことと言い、すぐにそのことについて確認しなくてはと思っていたのだ。
「まさか、一時間ほど前の言動を見られていたとは思っていなかったのか?」
安本はさらに顔色を悪くした。早川さんは普段の安本の言動を知らなかったようで、「そんなことまでしていたのか!」と目を見開き驚いていた。
早川さんはとても真面目で仕事熱心な人だから、社員の様子を気にすることができなかったのだろう。早川さんの性格と仕事ぶりを見込んで支社長を任せたのだが、今回は恨めに出てしまったようだ。しかし、早川さんを叱ることや恨むことは絶対にすることではない。一番の原因は、安本が人を見下すということなのだから。
「君が普段から部下にひどい態度を取っているんだろうと分かった。すぐに調べて、それ相応の処遇を言い渡す」
「待ってください! 私は何も問題は起こしていません!」
「何を今更。君の社員に対しての言動は大変な問題行為だぞ」
「支社長の言う通りだ。どんな相手であろうとも、社員を見下して罵倒するようなことがあってはいけない」
「私はそんなひどいことは言ってはいません! 部下たちに対しても同じです!」
「言い訳をするな。君の部下たちに聞いたら、安本君の行いはすぐに分かるんだぞ」
安本は悔しそうな顔をして小さく唸った。本当は何か言い返したいと思っているだろうが、私と早川さんに怒鳴られていることや、自分が不利であることが分かっているようで、文句は言わない。しかし、自分の今までの行いが分かっているからだろう。非常に厳しい処遇が言い渡されると思ってか、彼は言い訳をしてきた。
「社長に言ったことは謝ります。しかし、私が部下に対してやっていたことは、全て教育なんです! 普段から私の部下は仕事ができないので、きつく叱らないといけない場合があるんです。だから仕方なくやっていたことで、そのことは周りもよく分かっているはずですよ」
確かに、部下がヘマをやらかしたりすると説教は必要だな。褒めて伸ばすというやり方もあるが、雨と鞭が大事だと私も思う。
「そうですよね?」
「だが、君がやっていることはただの罵倒だ。人の尊厳を無視するような発言は、絶対に許されることではない」
「そんな! 私はそこまでひどいことはしていません!」
「本当にそう言えるのか? 先ほど私のことを支社の社員だと決めつけて、自分よりも下の立場の人間だと思っていたよな。つまり、俺にしたことは、普段から部下にしていることになるんじゃないか?」
「いや、それはですね……」
「他社員にもお茶をかけたことがあるかもしれないな。もしかしたら、もっとひどいことをされた人もいるかもしれない。早川さん、すぐ調べるように、手の開いている社員に伝えてください」
「わかりました」
早川さんは私の言葉に了承して、会議が始まる前に人事部へ向かった。それを見て安本は「待ってください!」と止めようとした。しかし、私はすぐに「君が無実を訴えるのなら、何も問題はないはずだろう」とギロリと睨みつけて静止させた。
すると安本は何も言えなくなり、虫を噛みつぶしたような顔をしてその場に立ち尽くした。それを見て、私は彼に告げた。
「今まで好き勝手していただろうが、処遇について絶対に容赦しないから、覚悟しておきなさい」
すると彼は、絶望した顔をして「終わった……まさかこんなことになるなんて」と膝から崩れ落ちた。課長になるだけの実力が安本にはあったはずなのに。どうして人を見下して、相手を傷つけるようなことをしてしまったのだろうか。
私は悲しみでため息が出てしまった。それを聞いた安本は、びくっと肩を揺らして言った。
「申し訳ありませんでした! もう二度としないので、どうか首にだけはしないでください!」
逆ギレや言い訳の次は、懇願してきた。どうにか許してほしいようで、地面に頭を擦りつけて顔をあげようとはしない。それを見たら余計に腹が立ってきてしまい、私は怒鳴った。
「君はどうしてそんなことができるんだ! 今までたくさんの社員を苦しめてきたのだろう? それを分かっているはずなのに、土下座をしただけで許されると思っているのか?」
「私は優秀な社員でして……」
「そういうことではない。どうして許されると思っているのかを聞いているんだ。君が仕事ができるかどうかなんて関係ない」
話が噛み合わないことが非常に腹立たしく、いつまでもこの男は自分のことばかりを考えているのだと分かると、さらにムカムカとしてくる。きっと彼は、他人がいじめられてどう感じるかなんて想像したことがないのだろう。安本は自分が仕事ができて課長だからという理由で、他人よりも人間的に上の立場だと思っているのだろうか。
確かに、会社で働くには学生のように仲良しこよしなんてものはいらないし、結果が全てだ。しかし、仕事のしやすい環境がないと社員のやる気がなくなっていき、パフォーマンスが落ちてしまうのも事実。だから私は会社のためにも社員のことを大事にしようと努力しているし、本社支社関係なく社員の様子を見ようと思っている。今回の視察で安本の悪質さが分かり、本当に良かった。だから、絶対に次に同じことがないようにしなくては。
未だに土下座を続ける安本に、私は言い渡した。
「この会議で君の話も議題に挙げることにする。他の社員も同じことをしていないか、ついでに調べてみるとしよう」
「そんな!」
安本が顔を上げた。その時、いつの間にか支社の社員が大勢来ていたようで、安本がお茶で全身を濡らした私に向かって土下座しているところが見られているのに気づいたらしい。そのため、衆人環視の前で土下座をしていたことが恥ずかしかったのか、彼の顔は赤くなったり青くなったりと忙しく変化した。
それを見て、私は言った。
「お前は今すぐ帰れ。しばらくは出勤禁止だ」
もう反論することはなく、彼はすぐに立ち上がって会議室から出ていった。安本は会議室から出るまで注目の的で、会議が始まるまでずっと彼の話で持ち切りだった。
私はある程度体を拭き、早川さんも会議室に戻ってきて会議を始めた。一度は安本の話はしなくなったが、その日のうちに彼の噂は支社内に広まった。
その後、安本は私にお茶をかけたことで被害届を出され、暴行罪で罰金刑となった。社員をいびっていたことだけでなく、警察沙汰になったこともあり、すぐに解雇することができた。もちろん私だけでなく、被害にあった社員も心の傷を負ったということで慰謝料を請求することに。そのせいで安本は多額の慰謝料を払うことになり、貯金はすっからかんになったらしい。
また、妻とも仕事を首になったことから喧嘩ばかりの生活で、離婚の危機のようだ。再就職先を探しているようだけれど、私の一件が他企業にも広まったようで、どこにも雇ってもらえないのだと風の噂で聞いた。まだ子供は小さくて大変らしいが、これからどうするつもりなのだろうか。
一方、私はと言うと、あれから本社と支社の社員の様子に目を光らせている。今後、同じようなことがないように気をつけたいものだ。
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