「部長、さすがに言っていいことと悪いことがありますよ」
後輩たちが声を上げたのは、近藤部長が私に退職を告げた瞬間だった。彼女は私の目の前で、私より先に反応した後輩たちを冷たい目で一蹴した。
「あなたたちバカじゃないの?知りたくもないわよ、そんなこと。というか、あなたたちもいつまでもこんなおじいちゃんを頼って、みっともないと思わないの?」
私は慌てて後輩たちを制した。これ以上彼女と言い争わせるのは、彼らのためにならない。
「そういう事情でしたら、近藤部長のおっしゃる通り、私は退職いたします」
私の言葉に後輩たちが悲しそうな顔をする。だが、私はそれでいいと思っていた。最近の職場の居心地の悪さは感じていたし、私がいることで後輩たちが彼女の機嫌に振り回されるのは理不尽だった。
「私の処遇をあなたが決めて、本当にいいんですね」
「何よそれ?せめてもの負け惜しみ?あい私は自分の決断力に惚れ惚れしてるくらいよ。それに、老害にいつまでもいられたら困るって、こないだの役員会議で社長もおっしゃってたわ」
私はこの時点で、彼女が社長の言葉を捏造していると分かっていた。だが、彼女は聞く耳を持たないだろう。
「これから少々困ることになると思いますよ」
「やだ。年のせいかしら。おじいちゃんてばしつこいんだから」
彼女は高笑いしながら去っていった。私はその1週間後、会社を退職した。
そして直後、私はある相手に電話をかけた。
「まあこういうわけでね、私も一緒に働けるのを楽しみにしていたんだが、すまんな」
「わかりました。それなら自分はそのように対処するだけです」
電話の向こうの江本君は、そう静かに答えた。
その翌日、システム部の課長から緊急の連絡が入った。会社に来てほしいという。私は言われるままにシステム部のフロアへ向かった。
そこには青い顔をした近藤部長が立ち尽くしていた。彼女の目の前には専務や常務といった重役たちが集まっている。
「どういうことなの?さっきからシステムがおかしいのよ!」
近藤部長がヒステリックに叫ぶ。私は後輩に事情を尋ねた。
「朝から車内システムに小さなエラーが発生してたんです。近藤部長に修正しろって言われて。でもシステム管理はさ木さんがずっと担当してて、他にできる人がいないって私たちは返しました」
「で、それならいいわよって近藤部長が自ら修正しようとしたんですが、どうやら触っちゃいけないところに触ってしまったようで、今度は車内のシステムが全面的にダウンしてしまって…」
なるほど。私は意味ありげに後輩を見合った。すると、それに気づいた周囲の後輩たちが、揃いも揃って「シー」っと口に人差し指を当てる。
元々のエラーは小さなものだった。後輩たちにも十分対処可能なレベルだ。だが、彼らはわざと「できません」と突っぱねたらしい。これは近藤部長の日頃の行いに対する抗議のつもりなのだろう。
「あれくらいのエラーなら近藤部長1人で対処できると思ったんですよ。それがまさか全システムをダウンさせるだなんて思わなくて。あの人、思ったより全然仕事ができませんよ」
「こら、今はそういうことを言ってる場合じゃないよ」
私がなめると、後輩が小さく謝った。
「そういえば近藤部長が自慢してた優秀なSEはどうしたんだ?確か今日から配属になるって言ってただろう」
「それが急に入社を取りやめにしたいって連絡があったんだって。なんでも約束が違うとかなんとかで、近藤部長と揉めたらしくて」
私は無意識に決まりが悪い顔をしていた。後輩が不思議そうに私を見る。
「それは多分、私にも少し責任があるような、ないような」
近藤部長が言っていた「優秀な後輩SE」とは、江本君のことだ。彼は私の息子の高校時代からの友人で、私がSEという仕事の基礎を教えた人物でもある。東大を卒業した彼はフリーのSEとして常に引っ張りだこだった。そこに声をかけたのが近藤部長だった。
オファーを受けた直後、江本君は私に連絡をしてきた。「先輩の近藤から連絡があったのだが、豊かさんと一緒に働けるのなら、その話を受けてもいい」と。私は「それじゃあ待っているよ」と答えた。だが、私が退職することになったと知った彼は、私がいないのであればこの会社に入る意味もないと、早々に取りやめたのだろう。
私の曖昧な説明に後輩が首をかしげたその時、連絡を受けた社長がシステム部へと飛び込んできた。
「近藤君、一体この事態はどういうことなんだ?」
社長の剣幕に、あの近藤部長もさすがにたじたじとなっている。
「さ木君はどこだ?何をもたもたしてるんだ。早く彼を呼び出せ。早急にこれに当たらせろ」
社長の口から飛び出したかつての部下の名前に、近藤部長が戸惑ったような顔を見せる。だが、社長はそんな彼女を視界に入れず、フロアを見渡すと、壁の方に立っている私を見つけてほっとした様子を見せた。
「おお、さ木君、よかった。早くシステムを修正してくれ」
「そう言われましても社長。私のような老害にいつまでもいられたら困ると、社長がおっしゃったのですよね。近藤部長からそう伺ったので、私は首を受け入れました」
瞬間、社長がぎょっとしたように目を見開いた。
「はあ?私がそんなこと言うはずがないだろう。会社の全システムの管理をじきじきに任せている相手だぞ。そもそも、なんだその老害とかいう暴言は。ゆにこと書いてひどい言い草だな」
ただでさえ押し出しの強い社長の顔が、まるで仁王像のような迫力をまとう。後ろでは近藤部長がブルブルと震えていた。
「おい、近藤君。一体これはどういう事態なのかね」
「ひ、ひぃ…」
あれだけ高飛車だった彼女も、今や言葉も出ないほどに縮み上がっていた。
「とりあえず近藤君は処分が確定するまでは自宅待機。おい、誰かそいつをここからつまみ出せ」
その一声に、その場にいた重役たちが無言で近藤部長をフロアの外へ連れて行く。続けて社長はつかつかと私に近づいてくると、がばりと勢いよく頭を下げた。
「すまん。そんなことになっているとは梅知らず。私の監督不届きだ。誠に申し訳ない。その上で、この通りだ。虫のいい話だとは思うが、どうか会社に戻ってきてくれないか」
システム部の後輩たちが、話の行方を見守っている気配がした。先ほどまでの騒ぎが嘘のように静まったフロアで、私はにこりと微笑む。
「頭をあげてください。私は社長が私を必要としてくれていると信じていましたから。ええ、社長さえよければ、また是非定年までこちらでお世話になります」
「さ木君!」
私の答えに社長がぱっと顔を上げて破顔した。そのまま握手を交わす私たちを見て、後輩たちもほっとしたように笑顔を浮かべている。
「さあ、皆さんの腕の見せどころです。一刻も早い復旧、全力を尽くしましょう」
「はい!」
私たちは一斉に作業へと取りかかった。
数日後、システムは無事に復旧を果たした。予想よりも早かったのは、以前から私が手を加えていたシステムの自動修正プログラムがうまく機能してくれたこと。そして何より、後輩たちが阿吽の呼吸で協力し合いながら作業に当たったからに他ならない。
近藤部長は、部署内での不適切な勤務態度と今回の騒動を招いた責任を取らされ解雇となった。さらには、システムをダウンさせて業務を滞らせた分の損害賠償も請求されているらしい。
一方、私はその後無事に会社へと復帰した。一時は入社を取りやめていた江本君も、私の復帰に伴って改めての入社となった。そして彼はその優秀さで、早くも部署内で一目置かれる存在となっている。
「さ木さん、手が開いた時で構わないので、ちょっと見てもらってもいいですか?」
「ああ、今大丈夫だよ。どうした?」
今日も何くれとなくかかる後輩たちからの声に、私は笑顔で対応する。江本君などは予想以上に私が忙しいのを目の当たりにして、「せっかく同じ会社に入ったのにゆっくり話す暇もない」などと嘆いているが、それでも今度は彼と共同で新しいシステム管理プログラムを作る案件が進んでいる。
定年まであと数年。残された時間の限りを使って、自身の知識と技術を余すところなく彼らに伝えていこう。私は改めて心に誓ったのだった。



