両親に「お前が代わりに行け」と言われた。姉のお見合い相手に。職業欄には「ビル清掃業」。父は顔も見ずに私を差し出した。9年間、私はこの家の会社の金を全部管理してきた。なのに、私の名前が呼ばれるのは誰かの代わりの時だけ。姉の見積もり書に異常な単価を見つけた。発注元に確認しようとしたら、父は「細かいことはお前がやれ」と流した。私はノートを閉じた。9年分の記録をバッグに入れて。明日、私はあの会社を出…

両親に「お前が代わりに行け」と言われた。姉のお見合い相手に。職業欄には「ビル清掃業」。父は顔も見ずに私を差し出した。9年間、私はこの家の会社の金を全部管理してきた。なのに、私の名前が呼ばれるのは誰かの代わりの時だけ。姉の見積もり書に異常な単価を見つけた。発注元に確認しようとしたら、父は「細かいことはお前がやれ」と流した。私はノートを閉じた。9年分の記録をバッグに入れて。明日、私はあの会社を出...

「戦争員の貧乏人なんて無理。同じ地味同士、お似合いじゃない」

姉がそう言って、見合いの書類を畳に放った。写真が滑って、私の膝の手前で裏返った。職業欄には「ビル清掃業」とだけ書いてあった。

母が湯呑みを置いた。「み先にはもっといい人がいるわよ」

父は腕を組んだまま、私の名前を呼んだ。「ちひろ」

「はい」

「お前が代わりに行け」

父はこちらを見ていない。

「み先には釣り合わん。でもお前ならちょうどいい」

姉が笑った。「まあ、話くらいは合うでしょう」

私の手はまだ濡れていた。エプロンで拭いた。

9年だ。父の会社の金を回してきたのは私だ。支払いの記述も、給料の計算も、契約更新の事務手続きも、全部私の机を通ってきた。それでもこの家で私の名前が呼ばれるのは、誰かの代わりがいる時だけだった。

「はい」

この家から出られるなら、何でもよかった。

私はもう、この家のために黙って机に座るのをやめる。

私は片瀬千尋、31歳。父が経営する片瀬スチール工業で、経理総務課の事務委員をしている。勤続年数は9年になった。

うちは倉庫で使う金属の棚と、事務所の備品を作る会社だ。社員は26人。売上は年に3億6000万円ほど。工場では鉄を切る音と、溶接の火の弾ける音が一日中響いている。

私の机は事務所の一番奥にある。窓のない壁を背にした席だ。

工場の床は、いつも同じ人が掃いていた。私が高校生の頃からいた人で、朝と夕方に鉄粉を集めて回っていた。誰もその人の名前を呼ばなかった。私が入社した年に、その人は辞めた。

役職はない。名刺には「経理総務」とだけ入っている。それでも、この会社の金は全部私の机の上を通っていた。

背中の壁に、一枚の表が張ってある。縦に取引先の名前、横に日付。どこへいくら払い、どこからいくら入るか。それを月末までの流れで書いたものだ。手書きだった。9年前に自分で作って、それから毎日書き出してきた。

支払いの記述を一日落とせば、うちのような会社は信用をなくす。信用をなくせば材料が入らない。材料が入らなければ工場が止まる。だから私はその表を、朝と夕方の2回必ず確認する。取引先からかかってくる電話も、後から上がってくる不良の報告を書類の形にするのも、いつの間にか私の仕事になっていた。

教えてくれたのは祖父だ。片瀬小一郎。この会社を作った人で、私が22歳の時に亡くなった。享年84。

高校生の頃、私は放課後によく工場に寄っていた。姉は一度も来なかった。

祖父は油の染みた机に私を座らせて、大学ノートを一冊くれた。

「書いておけ」

祖父の声は今でも耳に残っている。

「人の記憶は都合で動く。だが紙は動かん」

その日から、私は決めたことを必ず紙に残すようになった。誰が何をいつまでにやると言ったか、いくら払うと言ったか。それを書いて、日付を入れて、閉じる。9年で、その綴りは書棚の一段を埋めた。

祖父が亡くなったのは、私が入社した年の冬だった。工場の朝礼の途中で倒れて、そのまま病院で亡くなった。

最後に会った日、祖父は私の書いた月末の表を見て、こう言った。

「これはうちの背骨だ」

背骨という言い方が、その時はよくわからなかった。今は分かる。折れて初めて気づくもの。祖父が呼んでいたのは、そういうものだ。

姉の見合い相手は34歳。企画部長という肩書きを持っている。姉の席は事務所の入り口に近い、窓のある側だ。机の上には花が置いてある。

その日、私は姉の作った見積もり書を手に取った。単価の欄に、見覚えのある数字が並んでいた。

「…ちょっといいですか」

私は経理の書類を抱えて、姉の席に向かった。姉はスマホを見たまま、顔も上げない。

「何」

「この見積もりなんですけど、単価が」

「うちの担当に聞いて」

「いえ、こちら経理の確認で」

姉がようやく顔を上げた。目が合った。

「ちひろ、そういうのはメールでやってくれる? 今、打ち合わせ中だから」

私は頷いて、書類を胸に抱え直した。

「すみません。後でメールします」

姉はもうスマホに視線を戻していた。

私は自分の机に戻って、見積もり書を広げた。単価は、先月の仕入れ値と比べて、3割近く上がっていた。このまま通せば、今月の支払い記述は確実に赤字になる。

誰のミスか。姉のミスか、それとも誰かが意図的に。

私はその数字を、いつもの大学ノートに写した。日付を入れて、閉じる。

翌朝、私はその見積もり書を父の机の上に置いた。父はコーヒーを飲みながら、一瞥しただけだった。

「何だ、これは」

「姉の見積もりです。単価がおかしいので、確認してもらえないかと思って」

父は書類を手に取って、しばらく眺めた。そして、机の上に戻した。

「お前が直せばいいだろう」

「そういう問題ではなくて、発注元に確認を」

「細かいことはお前がやってくれ。俺は忙しい」

父は立ち上がって、工場の方へ歩いて行った。

私はその場に立ったまま、書類を見下ろしていた。9年間、私はこの会社の数字を全部見てきた。祖父が作ったこの会社を、黙って守ってきた。

でも、誰も私を見ていない。誰も私の名前を呼ばない。呼ばれるのは、誰かの代わりが必要な時だけ。

その日、私は初めて、自分の机の引き出しから、大学ノートを取り出した。9年分の記述が詰まった、背骨の記録。それをバッグに入れて、会社を出た。

家に帰ると、母が玄関で待っていた。

「どうだった? 病院」

「え? 」

「今日、健診行ったんでしょ」

ああ、そうだった。私は何も言わずに、靴を脱いだ。母は何かを言いかけたが、私がそのまま自室へ向かうと、何も言わなかった。

部屋に戻って、私はバッグの中から大学ノートを取り出した。ページをめくる。9年分の記述が、ずっしりと重い。

明日、私はこのノートをどこに持っていくべきだろう。会社の金を回してきたのは私だ。でも、それを証明できるものは、今はこのノートしかない。

私は窓の外を見た。雨が降っていた。明日は、晴れるだろうか。

いや、晴れても関係ない。私はもう、決めている。

この家のために黙って机に座るのを、明日でやめる。

携帯が鳴った。姉からだ。出なかった。何度も鳴って、やがて止んだ。メッセージが届いた。

「見積もりの件、父に言ったの?

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私は返信しなかった。ノートを閉じて、机の引き出しにしまった。

明日になれば、何かが変わる。私はそのために、9年間の記録を全部持っている。

窓の外で、雨音が響いている。私は静かに、明日に備えた。