お母さんは家族ではありません。帰ってください。
その言葉が、68年間で受けた中で最も深い傷となりました。今日は孫の蒼太の入学式。この日を心待ちにしていた私に、嫁のみ咲が氷のような目でそう言い放ったのです。式場を見渡すと、上品な顔をした二人の両親らしき人々が手を振っています。二人が招待されているということは、私だけが排除されたのでしょう。
息子の拓也も追い打ちをかけました。
「母さん、みさの言う通りだ。さっさと帰ってくれ」
蒼太は困ったような顔をしていましたが、み咲に睨まれて何も言えません。優しさを弱さと勘違いした代償を、必ず払わせて見せます。この日まで私たち家族に何があったのか、全てをお話ししたいと思います。
私は立花千子。68歳です。元大手企業の役員で、亡き夫である会長の右腕として実質的に会社を支えてきました。夫が亡くなって10年。退職金、株の配当、不動産で資産は数億円規模あります。業界では今も一目置かれる存在です。でも今の私は、息子の一家のために朝から晩まで家事をする毎日です。理由はただ一つ、孫の蒼太の成長を見守りたいから。
この家は全て私の単独名義です。土地も建物も全て私の財産として登記されています。でも拓也もみ咲もそんなことは気にしていないようです。当たり前のように私が家事をすることを期待しています。蒼太は7歳で、もうすぐ小学校に入学します。「バーアバ」と甘えてくる姿が私の生きがいです。
拓也は45歳で中堅企業に勤務しています。実は母である私のコネで入社した経緯があります。当時私はまだ現役の役員でしたから、一言で採用が決まりました。み咲は42歳。元はキャリアウーマンでしたが出産後は専業主婦になりました。プライドが高く、SNSやママ友との関係を何より重視しているようです。
最近、み咲の私への態度が少し冷たくなってきた気がします。以前は「お母さんありがとうございます」と笑顔で言ってくれていたのに、今は挨拶程度です。拓也もみ咲も私の経歴は知っています。しかし彼らは私をもう「過去の人。昭和の古い女性」と軽視しているようです。私が今も業界で影響力を持っているとは夢にも思っていないでしょう。
ある朝の出来事です。6時半、拓也が起きてきました。
「おはよう」
「おはようございます。お弁当はいつもの場所に置いてありますよ」
「ああ、ありがとう」
短い会話です。以前はもう少し話してくれたのですが、最近は必要最低限の言葉だけになっています。7時、み咲が起きてきました。化粧をしっかりして、部屋着でも高級ブランドのものを着ています。
「おはようございます」
「おはようございます。朝食の準備ができていますよ」
「ありがとうございます」
言葉は丁寧ですが、どこか冷たさを感じます。視線が私を見ていないのです。7時半、蒼太が起きてきます。
「バー、おはよう」
「おはよう。今日も幼稚園楽しみ?」
「うん!」
この笑顔を見ると全てが報われる気がします。蒼太だけは私を心から慕ってくれています。
朝食の時間、テーブルに家族が揃います。しかし会話は少ないです。拓也は新聞を読み、み咲はスマートフォンを見ています。蒼太だけが「バーのご飯おいしいね」と言ってくれます。買い物に行くと、拓也の好きな低カロリーの野菜、蒼太が喜ぶデザート。家族それぞれの好みを考えながら買い物をするのは楽しい時間でもあります。でも会計を済ませ、思い荷物を両手に抱えて帰る68歳の体には少々きつい。
夕方、夕飯の準備を始めます。18時半、み咲と蒼太が帰ってきます。
「バーただいま! YouTube楽しかった! お友達とたくさん遊んだよ」
「お帰りなさい。それは良かったわね」
み咲は「ただいま」とだけ言って自分の部屋に行ってしまいます。
ある日、リビングでテレビを見ていると、蒼太が突然こんなことを言いました。
「バーアバ、ママがね、バーアバはいつまでここにいるのかなって言ってたよ」
私は一瞬、言葉を失いました。
「え…? ママがそう言ったの?」
「うん。パパとママがお部屋で話してた。大きい声だったから聞こえたんだ」
蒼太は無邪気に続けます。
「バーアバ、いなくなるの? やだな」
私は蒼太の頭を撫でながら、心の中で何かが固まっていくのを感じました。そして数日後、衝撃的な光景を目にします。リビングのテーブルに、み咲が置き忘れたスマートフォン。画面には、不動産会社のサイトが表示されていました。検索履歴には「港区 中古マンション」「相続 贈与 税金」の文字。
み咲はこの家を売ろうと考えているのでしょうか。私が生きている間に、私の財産を自分のものにしようとしているのでしょうか。その夜、蒼太が高熱を出しました。私はすぐにタクシーを呼び、救急病院へ連れて行きます。本当は救急車を呼びたかったのですが、み咲が「救急車なんて呼ばないで。近所の目があるから」と言うのです。
病院で診察を待っている間、蒼太は私の腕の中でぐったりしていました。青い顔で息をするのも苦しそうです。数時間後、診察が終わり、蒼太はただの風邪と診断されました。でもその日、私の心の中で何かが完全に変わりました。
翌日、蒼太は幼稚園を休みました。み咲は朝から「今日は大事なランチ会があるから」と言い残して出かけていきます。拓也も仕事です。私は蒼太の世話をしながら、一人で考えていました。夕方、蒼太が熱でうなされながらこんなことを言いました。
「バーアバ…ごめんね…」
何を謝っているのでしょうか。この子は何か知っているのでしょうか。蒼太の頭を撫でながら、私はある決意をしました。
数日後、入学式の朝がやってきました。蒼太は新しいランドセルを背負って、嬉しそうに玄関に立っています。
「バーアバ、見て! かっこいいでしょ?」
私は涙が出そうになるのをこらえて言いました。
「とってもかっこいいわよ、蒼太」
しかし、み咲が突然こう言ったのです。冒頭の言葉が放たれた瞬間でした。
「お母さんは家族ではありません。帰ってください」
その後、入学式に向かう車の中で、私は静かに計画を練り始めました。もはや涙はありませんでした。私にできることは、全て準備しておくこと。司法書士に電話をし、弁護士にも連絡をしました。夕方、蒼太がランドセルを背負ったまま私の部屋に来ました。
「バーアバ、今日ね、ママが言ってたよ。バーアバはここにいられないんだって」
私は蒼太を抱きしめました。
「蒼太、バーアバはずっとあなたの味方よ」
「ほんと?」
「本当よ」
その夜、私は一つの書類を机の上に広げました。それは、この家と全財産を蒼太に生前贈与するための書類でした。み咲にも拓也にも、何も知られてはなりません。蒼太が大人になった時、この財産は蒼太のものになる。私がみ咲たちに排除された分、せめて蒼太の未来だけは守りたい。翌朝、私は弁護士の事務所を訪れました。書類を提出し、蒼太の教育費も別途、信託しておくことにしました。
その帰り道、スマートフォンが鳴りました。画面を見ると、み咲からです。
「お母さん、今日、ちょっと話があるんですが。夕方、リビングでお願いします」
声のトーンはいつもと違い、どこか勝ち誇っていました。私は静かに息を吸って、短く答えました。
「分かりました」
夕方、リビングに家族が集まりました。み咲が一枚の書類をテーブルに置きます。
「お母さん、これは『老人ホーム入居申込書』です。来月から入居できることになりました。なので、今月中にこの家を出てください」
拓也が何か言おうとしましたが、口を開いたのはみ咲のほうでした。
「もう決めたことです。書類にサインしてください」
冷たい沈黙の中、私はゆっくりと立ち上がりました。そして言いました。
「ええ、分かりました。ただし、一つだけ確認させてください」
そう言って、私は机の引き出しから一冊のファイルを取り出しました。不動産登記簿と、遺言書。そして、先ほど弁護士と交わした書類の控え。ゆっくりとテーブルの上に並べました。み咲の顔色が変わるのを見て、私はつづけました。
「この家は、私の名義です。蒼太に生前贈与しました。もう私の所有ではありません」
「そ、そんな…」
「み咲さん、あなたは私を排除しようとしたけれど、この家はもう蒼太のものです。あなたたちに譲るという選択肢は、もうありません」
み咲の顔が真っ青になりました。拓也は何が起こったのか分からず、ただ呆然としています。私は立ち上がり、リビングのドアに向かいました。部屋を出る直前、振り返ってこう言いました。
「そして、この家を売却した場合も、蒼太に教育資金として振り込まれます。あなたたちが自由に使うことはできません」
こうして私は、自分でこの家を出ることにしました。ただ、蒼太のためだけに残したものは、絶対に守り抜いてみせます。



