彼女が箸を置いた瞬間、ラウンジの空気が凍った。出し巻き卵を一口含んだまま、その女性は静かに涙をこぼした。そして、震える声で「やっと会えました」とだけ言った。笑っていた周りの女性たちも、グラスを傾けていた男たちも、誰一人として言葉を発せなかった。俺はテーブルの端に置かれた風呂敷包みの弁当を見つめたまま、動けなかった。それは今日の朝、市場で買った玉子と酒で作った、ただの定食屋の弁当だ。高級な個室ラウンジの夜景に、その小さな弁当だけが異質に浮かんでいた。俺の名前は佐間、33歳。町外れの定食屋「二葉食堂」で料理人をしている。3年前まで銀座で自分のレストランを構え、雑誌にも載り、世界の料理コンクールで賞も獲った。だが、すべてを捨ててこの店に流れついた。家族はいない。母は俺が高校を出る前にいなくなり、父の顔も覚えていない。持ち物は包丁が数本と、古い銅の卵焼き鍋だけだ。その夜、あの女性が涙をこぼすまで、俺は自分がなぜこの場所にいるのか、誰にも話したことがなかった。二葉食堂は駅から歩いて15分、商店街の外れの角にある。カウンターに7席、4人掛けのテーブルが3つ。壁のメニューは日に焼けて、値段のところだけ何度も書き直した跡がある。大将は二葉橋さん、68歳。この場所で40年食堂をやってきた人だ。俺がここで働き始めたのは3年前になる。あの頃の俺は住む場所も決めず、安いビジネスホテルを転々としながら、ただ知らない町を歩いていた。包丁はカバンの底に入れたまま、一度も出さなかった。ある日の昼、腹が減ってたまたま暖簾をくぐったのがこの店だった。生姜焼き定食を頼むと、飯は大盛りだった。頼んでいないのに味噌汁には芋がゴロゴロ入っていて、小鉢も2つついていた。「兄ちゃん、顔色が悪いよ。ちゃんと食ってるかい?」大将は俺の顔を見てそう言った。俺は曖昧に笑って生姜焼きを口に運んだ。うまかった。特別な肉でも特別なタレでもない。それなのに体の芯まで届く味だった。気がつくと飯を3回おかわりしていて、俺は箸を置いたまましばらく動けなかった。大将は何も聞かなかった。ただ帰り際にこう言った。「明日も来な。明日は朝場の味噌煮だ。」次の日も俺は行った。その次の日も行った。一週間通った頃、洗い物の山を見かねて、気づけば俺は勝手に袖をまくって流しに立っていた。「うちの距離だって自慢していいかい?」大将は笑いながらそう言った。「どこでやろうが、そこが二葉食堂だ。頼まれてくれるか?」その言葉が、俺の何かをほどいた。それから3年、俺はこの店で包丁を握っている。



