夫の浮気相手が私の誕生日会に現れた。高級レストランで、冷え切った夫婦関係をやり直すきっかけになるかと思っていたのに、夫・信吾は隣に若い女を座らせて笑っていた。
「私も奥様のお誕生日をお祝いしたくて。ご主人からの誕生日プレゼントです」
そう言って差し出された箱の中身は、一枚の離婚届だった。なんて趣味の悪いサプライズ。私は反対に、二人をどん底に突き落とすあるものをテーブルに置いた。
「代わりにあなたたちにはこれをプレゼントするわ。私からの最後の贈り物よ」
それを見た瞬間、二人の顔色が一瞬で青ざめた。許しを請うために必死で情けない姿を見せることになるのだった。
私はあな。元々は一般企業でOLとして働いていたけれど、夫の信吾の移行で今は専業主婦をしている。同じ会社の同期で顔を合わせることが多く、共通の趣味があったことからだんだんと親しくなっていった。話が上手で甘い言葉をかけてくる彼に私から好きになり、積極的にアプローチした結果、付き合って結婚した。
私には弱みがあった。付き合った当初から、彼の言うことにはできるだけ従ってしまう性格だったのだ。それで二人の関係が円満にいられるならと思っていたけれど、そのせいで信吾は私に対して強気な要求をしてくることも多かった。
会社からの評価も高く、出世コースにいる信吾は「仕事に打ち込みたいから」と結婚後は私に退職して専業主婦になるようにと言った。
「でも私、今の仕事好きだし、やっと任されたプロジェクトもあるの」
「女がどれだけ頑張っても、俺より出世するなんてありえないだろう。だったら今のうちに家庭に入って俺のことを支えてくれた方がいい」
そうなのかな。確かに仕事を続けたい気持ちもあったけれど、信吾の言う通りなのかもしれないと自分を納得させて、結局私は退職した。
結婚後も信吾は自分の理論を押し付け続けた。
「ねえ、次の休みに実家に行こうと思うんだけど」
「俺がそういう煩わしいことが嫌いって知ってるだろう。仕事で疲れてるから休みの日は自分の時間が欲しいんだ。お前の親なんだから、お前だけ行けばいいだろう」
親戚との付き合いなんて面倒だと、結婚前の挨拶と式以降、信吾が私の両親と顔を合わせることはなかった。私は時々実家に帰って父や母に会っていたけれど、その時も信吾は決してついてこなかった。人間関係にドライな人なんだと割り切ってはいたが、大好きな両親を無にされているようで悲しく思うことも少なくなかった。
そんな夫との結婚生活も10年が経った。仕事を終え帰宅した信吾を明るく出迎えても、私の顔を見ると鬱陶しそうにため息をつかれた。
「ああ、そういうのもういいよ。恩着せがましくてうんざりする。疲れてるから今日は飯いらない。寝るために帰っただけだし、明日も早いから放っておいてくれ」
冷たく言い放ち、さっさと寝室にこもろうとする背中を、私は惨めな気持ちで見つめた。仕事が立て込んでいるのか、最近は特に帰りが遅い夫に、せめて家でくつろいでもらおうと毎日彼の好物を作っている。しかし信吾は大抵夕食を外で食べてきていて、私が作った料理を食べることはほとんどなかった。それでも私は専業主婦として料理を作って、夫の帰りを待った。
いつからこんなにすれ違うようになったんだろう。目に涙を滲ませながら、今日も食べてもらえなかった料理にラップをかけて冷蔵庫に入れた。
最初こそうまくいっていた夫婦関係だったが、出世して役職付きの立場になった信吾はストレスも多いのか、家に帰っても「疲れている」と言ってまともに会話をしようとしなかった。休日も自分の趣味や友人との付き合いを優先して、私を連れていくことはほとんどなかった。
ある日、信吾が帰宅早々、ソファに座っている私に言った。
「なあ、そろそろお前も趣味とか見つけたらどうだ?」
「え?」
「毎日家で何もせずにいるんだろう。そんなんだから最近つまんなそうな顔してるんだよ」
私は毎日家事をして、信吾の帰りを待って、食事を作っている。それなのに、まるで何もしていないかのような言い方だった。悲しさと悔しさで胸が締め付けられたが、何も言い返せなかった。私が反論すると、信吾はますます不機嫌になるとわかっていたからだ。
そんな日々の中で、信吾のスマートフォンがテーブルに置きっぱなしになっているのを見つけた。私はそれまで彼の携帯を覗いたことは一度もなかった。しかし、その日はなぜか気になってしまった。画面には見知らぬ女性からのLINEの通知が表示されていた。
「今夜も楽しかったです。また会えますか?」
心臓が凍りついた。私は震える指で画面をタップした。そこには信吾と女性との甘いやり取りが延々と残っていた。彼女は信吾の部下で、若くて綺麗な女性だった。
「信吾さん、奥様より私の方が美味しいご飯作れますよ。今度食べに来てくださいね」
「楽しみにしてるよ。お前の手料理は最高だからな」
私はその場に座り込んだ。10年間、尽くしてきた夫が、私の知らないところで別の女と関係を持っていた。しかも相手は職場の部下。何も知らなかったのは私だけだった。
しかし私はすぐに立ち直った。泣いてばかりはいられない。私はスマートフォンの画面を写真に収め、証拠を自分の端末に移した。そして、夫の浮気を調べ始めた。彼のクレジットカードの明細、行動パターン、休日の過ごし方。知れば知るほど、二人の関係は長く続いていたことがわかった。
そして、私の誕生日が近づいたある日、信吾が珍しく私に話しかけてきた。
「なあ、誕生日に美味しいもの食べに行かないか?」
「え?」
「高級レストランを予約したんだ。たまには俺からも感謝の気持ちを表さないとな」
冷え切った夫婦関係をやり直すきっかけになるのかもしれない。そう思った私は、少しだけ期待に胸を膨らませていた。それがまさか、こんな罠だとは知らずに。
誕生日当日。私は久しぶりに綺麗なワンピースを着て、お気に入りのアクセサリーをつけた。レストランに着くと、信吾はにこやかに私を席へと案内した。するとそこには、見知らぬ女性が座っていた。若くて綺麗な、あのLINEの相手だった。
「初めまして。私、信吾さんの職場でお世話になっている者です」
「え?」
「私も奥様のお誕生日をお祝いしたくて。ご主人から誕生日プレゼントです」
そう言って差し出された小さな箱。私は何も考えられないまま、ゆっくりとその箱を開けた。中に入っていたのは、一枚の紙。離婚届だった。
「僕からも、10年間ありがとう。もう好きじゃなくなったんだ。悪いと思ってる。だから、君にはこれが一番のプレゼントだと思って」
信吾は笑っていた。隣の女も笑っていた。私はその場で全てを理解した。最初からこれは、私を辱めるための舞台だったのだ。夫はこの女との関係を正当化するために、あえて私の誕生日を選んだのだ。
しかし、私は反対に笑みを浮かべた。そしてバッグから、一通の封筒を取り出した。
「代わりにあなたたちにはこれをプレゼントするわ。私からの最後の贈り物よ」
封筒の中には、信吾と女のLINEのやり取りのスクリーンショット、ホテルの領収書、そして私が保険会社や弁護士と進めてきた財産分与の資料が入っていた。
「な、なんだこれ…」
信吾の顔色が一瞬で青ざめた。女も慌てて立ち上がった。
「ちょっと、どういうことですか!」
「私ね、知ってたの。あなたたちの関係。ずっと前から。そして今日、この日を待ってたの」
私は立ち上がり、店内を見渡した。すると遠くの席から、私が事前に連絡していた弁護士が立ってこちらの様子を見ていた。
「どうやら私は離婚届にサインをする日を間違えなかったみたいね。ご馳走さま」
そう言って私は二人を残し、レストランを後にした。後ろから信吾が何か叫んでいるのが聞こえたが、私は振り返らなかった。
今、私は自分の人生を取り戻した。あの日から、私は自分の名前で歩き始めている。信吾の浮気相手だった女は、私が会社の人事部に送った資料のせいで、上司との不適切な関係を理由に解雇されたと聞いた。信吾も出世コースから外れたらしい。私のことを悪く言ったことで、共通の知人からも評判を落としたようだ。
私は今、自分の小さなカフェを開いている。朝から焼き立てのパンの香りが店内に漂い、常連客が笑顔で訪れてくれる。夫という名の枷を外した私は、かつてのOL時代のように、いやそれ以上に生き生きとしていた。
ある雨の日、カフェのドアが開いた。立っていたのは、信吾だった。彼は痩せて、以前のような威圧的な雰囲気は微塵もなかった。
「…なあ、やり直せないか」
「何を言ってるの?」
「あの時は悪かった。俺が間違ってた。頼む、もう一度…」
私はカウンター越しに、コーヒーを淹れながら言った。
「信吾さん、あなたは私の誕生日に離婚届を渡したんでしょう。それがあなたの答えだった。今さらやり直すって、一体どういう理屈なの?」
「だって…俺、お前がいないとダメなんだ。飯も満足に作れないし、家も汚れてる」
「それは家政婦の話ね。私は家政婦じゃない。あなたのために生きてきた10年間は、もう返ってこない。私は今、自分の人生を生きているの」
信吾は何も言えず、うつむいた。私は淹れたてのコーヒーをカップに注ぎ、カウンターの上に置いた。
「ひとつだけ、言わせて。このコーヒー、無料であげるわ。あなたの長い物語の、一つの区切りとして。そして、もう二度と私の前に現れないで」
信吾は無言でコーヒーを飲み干すと、何も言わずにドアの方へ歩いていった。彼の背中を、私は哀れみの混じった目で見送った。そして、カウンターに置かれた空のコーヒーカップを手に取り、優しく微笑んだ。



