夕方の路地裏で、小さな声が聞こえてきた。声の主はまだ背が俺の膝より少し低い5歳くらいの女の子だった。色の褪せたタンポポ柄のエプロンにちょこんと胸を張った姿。両手にはお品書きを描いた小さな札を持って、人通りの少ない路地に向かって何度も何度もペコりと頭を下げていた。
俺は思わず立ち止まったまま、その小さな女の子の姿をしばらく見つめてしまっていた。あの日の夕方、ほんの1駅分だけ遠回りした帰り道で出会ったあの小さな店員さんが、これからの俺の人生をこんなにも優しく変えていくことになるとは、この時の俺はまだほんの少しも知らなかった。
俺の名前は藤村渡。歳。藤村建設という社員100人を抱える中堅の建設会社で3代目の社長をしている。社長と言ってもテレビニュースに出るような派手な案件は手掛けてこなかった。地方の駅前の商業施設や街のクリニック、保育園、住宅街のマンション、そういう暮らしの土台になる建物を祖父の代から愚直に立ててきた。それが藤村建設の仕事だ。
父が2年前の春、肝臓の癌で亡くなった。3代目を継いだ俺の下には、それでも100人の社員が誰1人欠けることなく残ってくれた。ありがたかったが、同時に責任の重さに押し潰されそうな日々でもあった。100人。その数字の向こう側には社員の奥さんや旦那さん、まだ手のかかる子供たち、年老いた両親など、数えきれない人たちが存在している。俺は彼らの食卓を絶対に冷やしてはいけない立場にいる。
母のことはほとんど覚えていない。俺がまだ5歳の時に病気で亡くなってしまったからだ。それでも1つだけはっきりと覚えていることがある。朝、台所の小さな電球の下で白い湯気を立てるご飯に塩を1つまみ振って、母がぎゅっとおにぎりを握っていたあの背中。ふっくらとした手のひら、白いご飯の温かい匂い。俺の中の母はその湯気の匂いとセットになって、今もどこかに残っている。
母が亡くなってから、父は1人で俺を育てた。毎朝不器用な大きな手で形のいびつなおにぎりを2つ握ってくれた。具はコンビーフの日もあればチリメンジャコの日もあったし、たまに何も入っていないただの塩結びの日もあった。それでも銀色のアルミホイルを開いた瞬間に立ち上がる白いご飯の湯気の匂いだけは、母のものとよく似ていた。俺はその湯気の匂いを多分、一生忘れない。
3年前、妻と別れた。子供はできなかった。別れた理由を1つに絞るのは難しいが、最後に妻が言ったのはこんな言葉だった。「あなた、家にいないじゃない」あの頃は父の容態が悪くて、俺は会社と病院と現場の間をぐるぐると回るだけの毎日だった。家に帰ってもダイニングテーブルの上には書類を広げて、温かい皿を妻が運んできても、俺はパソコンの画面から目を離さなかった。今思えばあれが俺の罪だった。家庭の温度というのは、ふと油断した隙に音もなく冷えていってしまうものなんだということを、別れる頃になってようやく思い知った。
父が逝き、妻も去り、俺の家にはもう誰もいなかった。朝目を覚ましても台所から立ち昇る湯気の匂いはしない。夜帰ってきても玄関の電気は俺がスイッチを入れるまでずっと暗いままだ。
その日、俺は駅前で進めている再開発プロジェクトについて、専務と打ち合わせをしていた。専務がメガネを少し下にずらして俺の顔を見た。「社長、それはちょっとリスクが大きすぎるんじゃないですか?」俺は迷っていた。新しい事業に踏み出すべきかどうか。100人の社員とその家族を背負っている身としては、慎重になるのは当然だ。しかし、このまま何も変えなければ、この会社も街も、そして俺自身も、このまま冷え切ってしまう気がしていた。
打ち合わせが終わり、駅に向かう途中だった。いつもならまっすぐ家に帰る道を、その日はなぜか1駅分遠回りした。人通りの少ない路地裏に差し掛かった時、小さな声が聞こえてきた。「いらっしゃいませ。お弁当いかがですか?」子どもの声だ。しかも、やけにしっかりとした口調。俺は足を止めて声のした方を見た。
そこには、あの小さな女の子が立っていた。色の褪せたタンポポ柄のエプロンを身につけ、両手にはお品書きを描いた小さな札を持っている。5歳には見えない。いや、5歳くらいなんだろうが、その立ち姿と声は、小さな体の中に誰かの魂が入っているかのようにしっかりしていた。
「お弁当、買っていきますか?」女の子はもう一度言った。俺は何も答えられず、ただその場に立ち尽くしていた。すると、奥の古い家の引き戸がガラリと開いて、40代くらいの女性が顔を出した。「彩菜、誰と話してるの?」女の子は振り返らずに答えた。「お客さん。お弁当を買ってくれるって」俺は慌てて言った。「ああ、えっと、じゃあ、1つもらおうかな」女性は困ったような顔をして、「すみません、まだ開店前なんです。彩菜、店の準備はまだよ」と言った。だが女の子は首を振った。「お客さんが来たんだよ。お父さんが言ってたもん。お客さんが来たら、ちゃんと対応するんだって」
俺はその言葉に、心のどこかが締め付けられた。この子の父親は、この子にこう言っているんだ。「お客さんが来たら、ちゃんと対応するんだよ」と。それは、この家の誰かが今も店をやっているという証拠だ。そして、この女の子はその教えを、小さな体で必死に守っている。
「彩菜、まだ店の準備ができてないから、明日また来てもらいなさい」女性の声は少し諦め気味だった。俺はそのやり取りを見ながら、ふと考えた。この家は一体何があったんだろう。店主はどこにいるんだろう。もしかしたら、何か事情があって店を開けられないのかもしれない。それとも、もう辞めてしまったのかもしれない。
女の子はしょんぼりと下を向いたが、すぐに顔を上げて俺に言った。「明日、来てくれますか?」俺は笑って、「ああ、楽しみにしてるよ」と答えた。その日、俺はその場を離れたが、心の中にはあの女の子の姿がずっと残っていた。
翌日、俺は仕事帰りに再びあの路地裏を訪れた。すると、あの女の子がまた立っていた。今度は小さなテーブルを出して、その上に手作りのお弁当を並べて。「いらっしゃいませ!」元気な声が響く。彩菜という名前だと、昨日の女性が呼んでいたから、きっとそうなんだろう。
「昨日のおじちゃん、来てくれた!」彩菜は嬉しそうに笑った。俺は「おじちゃんじゃなくて、お兄ちゃんでいいよ」と言ったが、彼女は首を傾げただけだった。皿の上には、小さなおにぎりと、卵焼き、ウィンナー、それにほうれん草のおひたしが少しだけ乗っている。彩菜が作ったのだろうか。いや、5歳の子が作れる量じゃない。きっと母親か誰かが作ったんだろう。
「いくら?」と聞くと、彩菜は札を見せた。「200円です」俺は財布から小銭を取り出して渡した。彩菜は「ありがとうございます!」と、大きな声で言った。その声には、まるで店の主のような風格があった。
俺はそのお弁当を近くの公園のベンチで食べた。おにぎりは少し塩が強かったが、どこか懐かしい味がした。母が握ってくれたおにぎりに似ている気がした。それから、俺は毎日のようにあの路地裏に通うようになった。彩菜は毎日同じ場所に立ち、同じように「いらっしゃいませ」と言ってくれる。誰も買いに来ない日も、彼女は立っていた。
ある日、俺がいつものようにお弁当を買おうとしていると、彩菜が突然言った。「おじちゃん、今日で最後なんだ」俺は手を止めた。「最後って、どういうこと?」彩菜はうつむいたまま言った。「明日、引っ越すの。お父さんが仕事をやめちゃったから」
俺はその言葉に何も言えなかった。この店は、もう終わってしまうのか。彩菜の小さな世界は、今日で閉じられてしまう。俺はしばらく黙っていたが、やがて言った。「明日、最後にまた来るよ。その時は、一番大きなお弁当を買うから」彩菜は少しだけ笑ったが、その笑顔はどこか寂しげだった。
翌日、俺は約束通りあの路地裏を訪れた。しかし、そこにはもう彩菜の姿はなかった。テーブルも、お品書きの札も、すべて消えていた。ただ、地面に小さな紙が落ちていた。拾ってみると、そこには「ありがとうございました」と、クレヨンで書かれた文字と、小さな絵が描かれていた。おにぎりの絵だった。
俺はその紙を握りしめたまま、しばらく動けなかった。あの小さな女の子は、5歳にして誰かのために何かをしようとしていた。そして、その素振りすら教えられてのものだった。彼女がどこに引っ越したのか、俺は知らない。でも、あの日見せてくれた笑顔と、あの「ありがとうございました」という文字は、これからもずっと俺の心の中に残り続けるだろう。


