「お前の夢は今日で終わりだ。」
閉店後の静まり返った店内に、夫・直の声が冷たく落ちた。テーブルの上には離婚届が置かれていた。伸びてきた手が、私の通帳と家の鍵、そして店の鍵を順番に持ち上げていく。
「返して。それは私のお金よ」
そう言っても、直は「店も家も俺の名義だ」とだけ返し、目を合わせようとしなかった。20年間連れ添った人の顔が、知らない男の顔に見えた。
「この店も、お前の夢も終わりだ」
理由を問いただしても、直は答えなかった。震える指でペンを握り、署名欄に「杉浦ゆ」と書いた。その名前を書いたのは、あの夜が最後になった。
店を出る扉が閉まる寸前、背中の向こうで何かが崩れるような音がした。それでも私は振り返らなかった。
夜道に漂うのは、答えの出ない問いだけだった。
――20年のうちの、一体どこで間違えたんだろう。
それから3年。閉店したはずの店の前に、私は立ち尽くしていた。建物には新しい看板が掲げられていて、そこに刻まれていたのは、意外な名前だった。その名前の意味と向き合う日が来るなんて、あの夜の私は思いもしなかった。
私はゆ、49歳。3年前まで、杉浦ゆという名前だった。
私の物語は、あの夜よりずっと昔――母の台所から始まる。
母の名は片岡ふみ子。海辺の隣町の古い一軒家で暮らしていた。決して裕福ではなかったけれど、母の台所からはいつも湯気が上がっていた。一人暮らしのおじいさんに肉じゃがを届け、学校の子どもたちには芋の煮っ転がしを振る舞う。そういう人だった。
「料理はね、お腹だけじゃなくて、寂しい心も温められるのよ」
お玉を片手に母は笑う。幼い私は、その隣で味見を任されるのが誇らしかった。
今でも忘れられない光景がある。連れ合いを亡くしたばかりの近所のおじいさんが、母の肉じゃがを一口食べて、俯いたまま動かなくなった。泣いているのだと、子どもだった私にも分かった。
帰り際、おじいさんはこう言った。
「ふみこさん、わし、明日も生きるわ」
料理は人を生かすのだ。あの日の玄関先の光景が、私という人間を作った。いつか自分の店を持ちたい――夢は、あの狭い台所で芽生えたのだった。
高校を卒業して、私は町の養殖屋で働き始めた。皿洗いから始めて、コツコツと厨房へ上がった。オムライスの卵の巻き方も、デミグラスソースの寝かせ方も、全部体で覚えた。休みの日が回ってくると、先輩たちの顔が怖くて、前の日から献立を考えた。あの緊張が、私を育ててくれた。
直と出会ったのも、その店だった。
週に3度、閉店間際にやってくる会社員。頼むのはいつもオムライス。食べ終わると必ず厨房に向かって頭を下げる。
「ごちそうさまでした。今日も、うまかったです」
不器用で、口数が少なくて、でも誠実な人だった。
土砂降りの夜、看板を下ろしかけた店に彼が駆け込んできた。濡れたビニール袋から、潰れたカステラを取り出して言う。
「これ、皆さんで。いつも遅くにすみません」
「あら、うちはお客さんを選ばないんですよ。いつでもどうぞ」
「じゃあ、ずっと通ってもいいですか?」
前の晩に貸した傘を、翌日、返しに来る。そういう人だった。
通い始めて3度目の春、直は言った。
「俺と、結婚してください」
26の春。私は片岡ゆから杉浦ゆになった。結婚式はあげなかった。その分のお金も、いつかの店のために取っておこうと、二人で決めたのだった。
役所からの帰り道、母が私のバッグに小さな包みを押し込んだ。開けると、桜色の印鑑ケースが出てきた。掘られていたのは一字、「ゆ」。苗字ではなく、名前の一字だった。
「あんたの名前の印よ。銀行の届けにしなさい。苗字が変わっても、あんたが誰かは、名前が教えてくれるから」
母はそう言った。私はその意味を、25年後に思い知ることになる。
結婚してからも、夢は消えなかった。仕事をしながら貯金を重ね、ついに小さな食堂を開いた。メニューは、母から学んだ家庭料理だけ。肉じゃが、おでん、さばの味噌煮。板の間に木のテーブルを置いただけの小さな店だったけれど、お客さんは少しずつ増えていった。
「母さん、私、店を持つことができたよ」
そう母に伝えたかったが、母は私が店を開く前に亡くなった。最後の日まで、台所に立っていた。
店の名前は「ふみこ」。母の名前をつけた。
直も最初は協力的だった。開店前の掃除を手伝い、閉店後は売上の計算を一緒にしてくれた。週末になると店の椅子に座り、ビールを飲みながらこう言ったものだ。
「ゆの作る肉じゃがは、世界一だな」
その頃は、私が一番幸せだった。
変わったのはいつからだろう。気づけば、直は店に来なくなっていた。帰りも遅くなり、休日も出かけるようになった。会話は「ご飯は?」「いらない」だけ。布団の中では、背中を向け合う夜が続いた。
ある日、直のスマホにメッセージが届いた。画面には「課長」とあった。女の名前だった。
「誰、この人?」
「……取引先の人だ」
嘘だ。妻の私に分かる。直の顔を見れば、何が真実かくらい分かる。でも、私は見て見ぬふりをした。
――きっと、やり直せる。私がもっと頑張れば。
そう思っていた。あの夜まで。
離婚届に署名した日から、私は「杉浦ゆ」を名乗ることをやめた。戸籍上は杉浦のままだけど、心の中で私は「片岡ゆ」に戻った。店は直に取られた。家も。お金も。20年の時間も。
葬式のように静かな別れだった。怒鳴り合ったわけじゃない。涙のうちに別れたわけでもない。ただ、紙に名前を書いて、終わった。
あの夜から3年。私は海辺の町で、パートの調理師として小さく暮らしてきた。昼は工場の社食、夜はコンビニの弁当。夢だった「ふみこ」は、もう私のものじゃない。そう思い込んでいた。
なのに、その日。店の前を通りかかった私は、足を止めた。
新しい看板がかかっているのは分かっていた。でも、看板に刻まれた名前を見たとき、私は凍りついた。
「ふみこ」
私がつけた店の名前が、そこに残っていた。いや、それだけじゃない。店の入口には小さな立て札があって、「店主紹介」と書かれていた。そこに載っていた写真を見て、私は手に持っていた買い物袋を落としそうになった。
写っていたのは、直の顔でも、新しい女の顔でもなかった。
母の顔……いや、母ではない。母とは違う顔。でも、その女性は確かに、私の店で働いていたパートの子だった。
「小森さん?」
最後に顔を見たのは、店を追われる前。親切に教えたのは私だ。仕込みのコツも、掃除の順番も、母の肉じゃがのレシピも。
――あの店で厨房に立っているのは小森さんなの?
いや、それ以上に、看板の「ふみこ」はどういう意味? 私がつけた名前を、どうして? 直が教えたの? それとも……。
頭の中がぐるぐる回った。一度は、そのまま通りすぎようと思った。でも、無理だった。あの店も、あの名前も、私の人生そのものだったのだ。
翌朝。私は白いシャツを着て、店の前に立っていた。
開店の準備をする小森さんが、ガラス越しに私の姿を見つける。目の焦点が合った瞬間、彼女の表情が固まった。逃げようと一歩後退った。でも、私は迷わず、店のドアを開けた。
「小森さん、話がしたい」
「あの……お久しぶりです。お元気でしたか?」
「元気よ。それより、店のこと。この看板、どうして?」
小森さんは押し黙って、下を向いた。長い沈黙の後、彼女は言った。
「杉浦さん、私、言わなきゃいけないことがあるんです」
「言いなさい」
「あの日、私――この店をもらったんじゃないんです。買ったんです」
私の頭の中の輪郭が、少しずつはっきりしていく。直は私には何もくれなかった。でも、どこかからお金が動いた。小森さんには店を買えるお金なんてなかったはずだ。
「誰から?」
「それは……」
言いかけて、彼女の目が店の奥に向いた。カウンターの端に、古びた日記帳が置かれていた。私が毎日つけていた日記だ。店を追われる日に取り忘れたものだった。
「それ、返して」
「杉浦さん。これ……読んでください」
押し付けられた日記帳。開くと、最後のページが折り目つきで開かれていた。そこには――母の字があった。
「ゆへ。この店はあなたのもの。一度も手放したことはない。誰にも、売ったことはない」
母の字。でも母は、私が店を開いたときにはもう――。混乱の中、小森さんは言った。
「私、じつは……ふみこさんの……」
そこまで言ったところで、入口のベルが鳴った。見ると、直が立っていた。
「……来たのか」
直の顔には、3年前の冷淡さはなかった。どこかやつれて、疲れていた。小森さんの顔を見て、直は私の手から日記帳を取り上げようとした。
「これは、返せ」
「返す? これは私の日記よ」
「違う。これは――」
直の声は途中で消えた。彼の視線が、小森さんと私の間を泳いでいる。何かを隠している。それだけは分かった。私は日記帳を握りしめたまま、直を見た。
「全部説明しなさい」
「説明できることだけを説明する」
「嘘はやめて」
直は長いため息をつき、店の椅子に腰を下ろした。彼の視線は床に固定されたまま。
「ゆ。俺は、ずっと気づいてたよ。店が……この店が、お前の夢であり、お前そのものなんだなって。だから、3年前のあの夜――」
「あの夜?」
「あの夜のことは、悪かった。俺は、お前を逃がさなきゃならなかったんだ」
「意味が分からない。あなたが私を追い出したのよ。通帳も、家も、店も取り上げて」
「だから、逃がしたんだ」
直の言葉は、さらに混乱と感情の渦を巻き起こした。
「俺は、あのとき……もう、ダメだったんだ。すべてのローンが、住所も連絡先も変わってしまう前に、お前に離婚届を書かせて、店だけは誰の手にも渡らないようにしたかった」
視界がぼやけた。私は日記帳をテーブルに叩きつけた。
「黙って私の夢を奪ったの? 私を守ったつもり? そんなの――」
「死ぬほど言いにくかった。でも――」
直は立ち上がり、カウンターの奥の壁に手をやった。そこには私が知らない小さな棚があり、その中から、もう一冊の古いノートを取り出した。見た瞬間、のどが痙攣した。母の手帳だ。
「これ、どこで?」
「ふみ子さんから預かってた」
「母が? いつ?」
直が手帳を開いた。母の字が並んでいる。彼は最も読みやすいページを指差した。そこにはこう書かれていた。
「ゆの夢は、私の夢。ゆが店を持つ日が来るなら、ここに残しておきたかった。ふみこ」
ページの下には、詳細なレシピと――土地の権利証のメモがあった。
「この店の土地は、ふみ子さんのものだったんだ」
「そんな……」
「お前が店を開く前に、ひそかに用意してくれてたんだ。お前に事業の話をしたのは、亡くなる前の晩になってたから、直接渡せなかった。俺が預かって、店を守るって約束したんだよ」
「じゃあ、3年前は……どうして?」
直はうつむいたまま、絞り出すような声を出した。
「あのとき、俺は……店を差し押さえる側の、債権者の一員だった。こっちに来て3年。お前は、この店を守るために俺を恨んで、あの日を選んだ」
言葉が出なかった。20年間、隣にいたはずの人。その人が、私の母の遺産をめぐって、何をしていたのか。何をしてきたのか。私に隠してきたのは、いくつあるのか。
「小森さん」
呼ばれて、小森さんは一歩前に出た。彼女の目は赤くなっていた。
「私、あの日、杉浦さんが店を追われるところを見ていました。でも、何もできなくて。いいえ……知ってたんです。あの日、直さんから、秘密で店を買い取る話が来てた。私は、直さんの指示を守って、3年間、くれぐれも名前を変えずに、この店を守ってきました」
「名前を変えずに?」
「そう――この店の名前、ふみこを。ふみこさんの名前を。直さんがそう言ったんです。『名前が残っていれば、いつか届く』って」
私はカウンターに手をつき、深く息をした。20年間の夫。その人の、配慮と冷酷さの意味。私の感情は、まっすぐに言葉にならない。
「直」
「……なんだ」
「あなたは、何がしたかったの」
「お前の夢を、守りたかった。たとえ、お前が俺を殺しても」
直の声は平静だった。でも、その目の奥には、3年前と少し違う光があった。私は日記帳を持って、店の外に出る支度を始めた。
「ゆ……どこへ行く?」
「ちょっと、やり方を考えてみる」
「何を?」
「あなたのお膳立ての上で――私が幸せになる方法を、よ」
私は振り返らずに店を出た。海辺の風は冷たかったけれど、冬が終われば、春が来る。母のレシピと、母の土地と――母の印鑑が、今、私の手の中にある。


