「失礼ですが、は瀬は様でいらっしゃいますか?」
ホテルの正面玄関の前だった。目の前に黒塗りの車が音もなく止まり、後ろのドアが開いて、白い手袋をはめた年配の男性が降りてきた。背筋が真っすぐで、髪は綺麗に整えられていて、その人だけ空気の色が違って見えた。
私は思わず後ろを振り返った。誰か別の人に話しかけているのだと思ったからだ。けれど私の後ろには誰もいなかった。回転扉が静かに回っているだけだった。
「はい。ですけど…」
答えた声が自分でも情けないくらい小さかった。老人はそれを聞くと帽子を取って、深く頭を下げた。ホテルの前を歩いていた人たちが何人か足を止めてこちらを見ていた。私は手に持っていた鞄の持ち手をぎゅっと握った。
私がここへ来たのは、姉が嫌がったお見合いを押し付けられたからだった。相手は小さな会社で現場の仕事をしているパッとしない男の人だと聞かされていた。母は鼻で笑って私を送り出した。「貧乏人同士、お似合いだと」なのに、目の前には黒塗りの車が止まっている。白い手袋の老人が私に頭を下げている。この日から私の人生が根っこからひっくり返ることになるなんて、その時の私はまだ何も知らなかった。
私の名前は瀬はか。27歳。上谷文具という会社の営業事務をしている。大きな会社ではない。トールペンとノートと、事務所で使う小さな備品を作って売っている、社員が180人ほどの会社だ。私はその営業部で注文を入力して納期を答えて見積もり書を作る。地味な仕事だと人には言われるけれど、私は好きだった。数字があった時の気持ちよさがある。誰かの「助かりました」が真っ直ぐ帰ってくる。
家は高外の住宅地にあって、私は27歳になった今も実家で暮らしている。父と母と、3つ上の姉と4人家族だ。1人暮らしをしたいと思ったことは何度もある。でもその度に母が言った。「あなたが出ていったら、この家の家事は誰がやるの?」それで話は終わった。私の話はいつもそこで終わる。これから話すのは、そんな私が27歳の秋に、姉の代わりにされたお見合いの話だ。相手は私が思っていた人ではなかった。として、私もまた、自分で思っていたような人間ではなかった。
私が物心着いた時から、家の中には順番があった。1番は姉だった。姉の名前はみさという。私より3つ上で、小さい頃から人形みたいな顔をしていた。近所の人はみんな姉を見て「可愛いね」と言った。その後で私を見て、少し言葉に詰まってから「妹さんはしっかりしてそうね」と言った。子供だった私にもそれがどういう意味かは分かった。
母は姉のことが好きだった。「好き」という言い方は少し違うかもしれない。母にとって姉は自分の作品のようなものだったのだと思う。姉が褒められると母の背筋が伸びた。姉がピアノの発表会でお辞儀をすると、母は客席で泣いた。私の発表会に母が来たことは6年間で2階だけだった。2階とも姉の用事のついでだった。
服はいつも姉のお下がりだった。姉が3回着て飽きたワンピース。袖口がほつれたカーディガン。姉が「もう着ない」と言って床に投げたものを、母が拾い、私のタンスに入れた。「まだ着られるんだから、もったいないでしょ」もったいないという言葉に反対はできない。私は黙ってそれを着た。学校で友達に「それ、お姉さんのやつだよね」と言われても、笑って頷いた。
小学5年生の時、私は初めて自分のお金で物を買った。お年玉を貯めて買った青い万年筆だった。文房具屋のガラスケースの中で、それだけが光っているように見えた。買った日、私は自分の部屋で何度も何度も文字を書いた。インクが紙に滲んでいくのを見るのが楽しかった。自分の名前を書いては消して、また書いた。あの時の感触は今でも覚えている。
でも、その万年筆は1週間でなくなった。姉が私の部屋から勝手に持っていって、友達にあげてしまったのだ。「どうせお前にはもったいないだろ」姉は笑いながら言った。母に言いつけても「みさが欲しいって言ったんでしょ。妹なんだから譲りなさい」と言われただけだった。あの時、初めて「この家では何をしても私の言い分は通らないんだ」と思った。でも、私は何も言い返せなかった。言い返したところで、母は姉の味方をするだけだと分かっていたから。
高校を卒業する時もそうだった。私は地元の大学に行きたかった。でも母は「みさが大学に行くんだから、あなたはお金を稼いで家に入れなさい」と言った。姉は有名な私立大学に行った。私は高校卒業と同時に就職した。上谷文具に運良く拾ってもらえた。初任給をもらった時、母は「じゃあ、これからは生活費として毎月これだけ入れなさいね」と言った。私は頷くことしかできなかった。
それから9年。私は毎月給料の半分を母に渡している。自分のために使えるお金はわずかだ。それでも、私はこの生活に慣れていた。変えたいと思ったこともあった。でも、どうやって変えればいいのか分からなかった。24歳の時、同僚の男性に告白されたことがある。優しくて、穏やかな人だった。半年間付き合った。でも、母に話したら「結婚するなら相手にちゃんとお金がある人じゃないとダメよ」と言われた。彼は私と同じような小さな会社の事務員だった。私は何も言えずに、彼と別れた。今でも時々思い出す。あの時、もし私に勇気があったら、違う人生があったのだろうか。
27歳の秋。姉が突然、家を出ると言い出した。付き合っている人がいるらしい。相手は姉が勤めている広告会社の部長だという。母は大喜びだった。「みさ、良かったね。やっぱりうちの娘は違うわね」私はその時、台所で皿を洗っていた。何も言わなかった。言える言葉がなかった。
姉が家を出て、1週間後。母が私の部屋に来た。「はか、あなたにお見合いの話があるの」そう言って、母は一枚の写真を置いた。そこに写っていたのは、40歳くらいの男性だった。眼鏡をかけていて、髪は薄かった。何よりも、写真の中で彼が笑っていなかった。無表情でまっすぐカメラを見ている。その写真を見た瞬間、私は何かを感じた。嫌な予感のようなものが胸の奥で膨らんでいった。
「この人がどうしたの?」
「この方がね、お見合いをしたいんだって」
「私が?」
「そうよ。あなたに」
「でも、どうして私なんかに…」
「向こうの家の人が、あなたのことを知り合いから聞いてね。ぜひ一度会いたいって言ってるの」
私は写真をもう一度見た。この人と会って、何になるというのだろう。でも、断れる理由が私にはなかった。母の顔色をうかがうくせは、もう何年も染み付いていた。
「…分かった」
その日、私は初めて自分から何かを決めたかった。でも、出てきた言葉はただの「分かった」だった。
お見合いの日。場所は高外のホテルのロビーだった。私は母が選んだスーツを着ていた。濃いグレーの、少し古臭いデザインのものだった。姉が以前着ていたものだと言われた。私は何も言わなかった。久しぶりにヒールを履いた。足が痛かった。
ホテルの前で、私は一度立ち止まった。ここから逃げ出したいと思った。でも、母が「ちゃんと行きなさいよ」と言った声が頭の中で再生された。私は深呼吸をして、回転扉をくぐった。
「失礼ですが、は瀬は様でいらっしゃいますか?」
その声に振り返ると、白い手袋の老人が立っていた。私はこれがお見合い相手の老人だと思った。違った。彼は運転手だった。
「はい。ですけど…」
「私の主人がお待ちです。どうぞこちらへ」
私は老人に案内されて、ホテルの奥の個室に通された。ドアが開くと、そこには私が写真で見た男の人が立っていた。いや、写真の男性とは少し違っていた。写真よりずっと若く見えた。40歳ではなく、35歳くらいに見える。スーツの質も、写真で見たものとは全然違う。明らかに高いものだ。窓から光が差し込んで、彼の横顔を照らしていた。
「初めまして。武田航一郎と申します」
彼はそう言って、私に微笑んだ。その笑顔は、写真のものとは全く別のものだった。
私は挨拶をして、ソファに腰を下ろした。何を話せばいいのか分からなかった。沈黙が続いた。すると、彼が先に口を開いた。
「急なお誘いですみません。実は、私の方からお願いして今日の場を設けていただきました」
「え?」
「あなたのお母様を通じて、ぜひ一度お会いしたいと思って」
私は混乱した。確かに、お見合いの話が来た時、相手は「向こうの家の人があなたのことを聞いて」会いたがっていると母は言った。でも、それがこんな整った人だとは思っていなかった。だって、写真があまりにも…。
「あの…写真には、もっと…」
言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。失礼なことを言おうとしていた。
「ああ、あの写真は少し古いもので。いや、他人から見れば同じかもしれませんが、まあ、今日お会いできて本当に良かった」
彼はそう言って、もう一度笑った。私は自分の心臓が少し速くなっているのを感じた。この人は、私が想像していた「パッとしない男」とは全然違う。それなのに、私はどうしてこんなに緊張しているのだろう。
お茶が運ばれてきた。私はカップを両手で包むように持った。指先が少し震えていた。
「は瀬さんは、お仕事をされているんですよね」
「はい。上谷文具という会社で…」
「知っています。トールペンを作っている会社ですよね。私の父が昔、使っていました」
「そうなんですか」
「ええ。良いものを作る会社ですよね。経営は堅実だと聞いています」
私は少し驚いた。トールペンという名前は、確かに有名だが、私の会社がここまで知られているとは思っていなかったからだ。堅実、という言葉を聞いて、私は少し誇らしかった。
「ありがとうございます」
「いえ。私は、は瀬さんがどんな方なのか、知りたくて。直接お会いしてお話ししたかったんです」
彼は真っ直ぐ私を見つめた。その目に悪意はないと瞬時に分かった。でも、どうして私なんだろう。もっと綺麗な人も、もっと若い人も、いくらでもいるはずだ。私は自分が何をしているのか分からなくなった。
「あの…どうして私なのですか?」
「どうして、ですか?」
「私なんか、普通の文具会社の事務員です。特別なこともありません。お見合いをするような方と会うのは、今日が初めてです」
彼は少し間を置いて、それから穏やかな声で言った。
「私の家には、由緒ある家柄とか、そういうものはありません。私自身、小さな会社で現場の仕事をしています。あなたのお母様からお聞きになった通り、パッとしない男です」
「そんな…」
「でも、私はあなたに会ってみたいと思った。あなたが働いている姿を、知っている人から聞いたのです。真面目で、コツコツと仕事をしている。誰にでも丁寧で、頼まれた仕事は必ず最後までやる。そういう人だと」
私は顔が熱くなった。まさか、自分のことを誰かがそんな風に評価してくれているとは思わなかったからだ。私はただ、当たり前のように仕事をしていただけなのに。でも、その「当たり前」を誰かが見ていてくれた。それが何だか嬉しかった。
「私でよければ、お付き合いしてください」
彼の言葉は、お見合いというより、告白のように聞こえた。私は何と答えればいいのか分からなかった。頭の中が真っ白になった。私が黙っていると、彼は慌てて付け加えた。
「急すぎましたか?すみません。今日は初めて会ったばかりですから、すぐに返事はできませんよね。もし良ければ、またお会いしていただけませんか?」
「…はい」
私は小さく頷いた。その時の私は、この出会いが私の人生を大きく変えるものになるとは、まだ夢にも思っていなかった。
初めてのデートは、駅前の小さな喫茶店だった。彼は武田航一郎。武田自動車部品という会社の社長だと言った。従業員は12人。確かに小さい会社だ。でも、仕事への熱意を語る時の彼の目は、とても輝いていた。
「小さな会社だから、何でも自分でやらないといけない。でも、自分の作った部品が車に使われて、走っているのを見ると、誇らしいんだ」
彼の話を聞いていると、自分も頑張ろうと思えた。私は今まで、自分の仕事を誇りに思ったことがなかった。ただ、言われたことをこなしているだけだった。でも、彼と話して初めて、自分の仕事に意味があるのかもしれないと思えた。
2回目、3回目のデートを重ねるうちに、私は彼に惹かれていった。彼はいつも優しくて、私の話を最後まで聞いてくれる人だった。私が「母がこう言った」「姉がこう言った」と愚痴を言っても、彼は嫌な顔ひとつしなかった。
「は瀬さんは、もっと自分を大事にしていいんだよ」
そう言ってくれた時、私は泣きそうになった。生まれて初めて、私のことを「大事にしてくれる人」に出会った気がした。
それから2ヶ月が経ったある日、彼が私に言った。
「は瀬さん。結婚してください」
私は驚いた。まだ付き合ってからそんなに経っていないのに、どうして唐突に。でも、彼の目は真剣だった。
「私の会社は大きくないけど、は瀬さんを幸せにできると信じています」
私はその言葉を聞いて、涙が出た。生まれて初めて、誰かに必要とされている気がした。私は頷いた。
「…はい」
私は家に帰って、母にこのことを話した。母はまず、彼の会社の規模を確認した。従業員12人、年商は数億円。それを聞くと、母は急に機嫌が良くなった。
「あら、結構いい会社なのね。まあ、武田さんなら悪くないわね」
私は拍子抜けした。もっと反対されると思っていた。でも母は何より、姉の結婚相手(広告会社の部長)と比較して、負けていないと判断したらしい。
「相手のご両親には会ったの?」
「まだ」
「じゃあ、早く顔合わせをしなさいよ。式はどうするの?向こうは何て言ってるの?」
母はもう、私の結婚を「めでたい話」として処理していた。私はそれに違和感を覚えながらも、何も言わなかった。
そんなある日、彼の家に初めて呼ばれた。彼の家は高外の高級住宅地にあった。大きな門をくぐると、立派な庭が広がっている。私は驚いた。社長といっても、こんな家に住んでいるとは思わなかったからだ。
「すごい家ですね…」
「実家なんです。両親と一緒に住んでいて」
「そうなんですか。もしかして、お見合いの時、迎えに来てくれた方は…」
「ああ、執事の山田さんです。若い時からうちで働いてくれていて」
私は自分の推測が当たっていて、何だか変な気分だった。お見合いの日、あの白い手袋の老人が「私の主人がお待ちです」と言ったのは、この家の主人、つまり航一郎さんだったのだ。そして、私はこの家で、航一郎さんの両親に挨拶をした。彼の父は穏やかで物静かな人で、母は優しい笑顔の人だった。二人とも、私を嫌っている様子はなかった。むしろ、歓迎してくれているように見えた。
「は瀬さん、航一郎をよろしくお願いします」
そう言われて、私は胸がいっぱいになった。自分がこんなに幸せになっていいのだろうか。今までの人生が嘘のように、すべてがうまく進んでいく。私はこの幸せが、いつか崩れてしまうのではないかと怖かった。でも、その時はまだ、本当の恐怖が何かは知らなかった。この家の秘密も、自分の生い立ちも、何も知らなかったのだ。
結婚の準備が進んでいく中で、私は実家で母と姉と顔を合わせることが増えた。姉はもう家を出ていたが、彼女は私に会うたびに「おめでとう」と笑って言った。でも、その笑顔の裏に何かあるような気がしてならなかった。
「みさ姉。何か言いたいことあるの?」
ある日、私は思わず尋ねた。姉は一瞬、何かを言葉に飲み込むようにして、それから何でもないふりをした。
「何もないよ。ただ、はかが幸せになるなら、私も嬉しいだけ」
その言葉は、私には嘘のように聞こえた。でも、それ以上は何も言えなかった。
結婚式の3日前。私は彼の家に泊まることになった。式場の準備や打ち合わせで、私たちは夜遅くまで話し込んでいた。彼が「今日はもう泊まっていけよ」と言って、私は素直に頷いた。彼の家の客室に通されて、私は大きなベッドで眠ろうとした。その時、隣の部屋から声が聞こえた。いや、正確には、隣の書斎から、だろう。彼と執事の山田さんが話をしていた。
「本当に、この子で良かったのか?」
「はい。間違いありません」
「でも、もし彼女が…」
「その心配はございません。私がずっと確認してまいりました」
「そうか…。分かった」
何の話をしているのだろう。私は気になったが、ドアの外で聞き耳を立てるのは失礼だと思い、ベッドに戻った。そして、そのまま眠ってしまった。
結婚式当日。私は幸せの絶頂にいた。白いドレスを着て、多くの人に見守られて、彼と誓いを交わした。生まれて初めて、自分の人生が祝福されていると感じた瞬間だった。
披露宴の後、私たちは新居に戻った。新居は、高外の駅から少し歩いた場所にある、新しいマンションだった。「会社の近くにある」と彼は言った。2LDKの、綺麗な部屋だった。私は部屋の中を見回して、夢を見ているような気分だった。
「この部屋で、私は幸せになるんだ」
そう思った。でも、その夜、彼が風呂に入っている時、私は何気なく彼のスマートフォンを見てしまった。いや、見ようとしたのではない。たまたま、机の上で通知が光っていたのだ。
『航一郎様。午後の件ですが、もう一度ご確認させてください。「彼女」にはまだ何も知らせていません。』
「彼女」?誰のこと?私のことじゃないよな。でも、その通知の送り主は、さっきまで結婚式に来ていた執事の山田さんだった。私は息を飲んだ。
彼が風呂から上がってきた時、私は何でもないように装ってスマートフォンを机に置いた。
「どうした?顔色が悪いぞ」
「あ、いや、ちょっと疲れただけ」
彼は疑う様子もなく、私の頭を撫でた。
「そうか。今日は早く休もう」
その夜、私は一睡もできなかった。何の話だったのだろう。私は誰かに知らされていない何かがある。そう思うと、胸がザワザワして止まらなかった。
数日後。私は新居の掃除をしていた。彼は仕事で出かけていた。銀行の通帳や書類を整理していると、引き出しの奥から古い封筒を見つけた。封筒には何も書かれていない。でも、開けてみると、そこには1枚の写真と、1枚の紙が入っていた。
写真には、若い女性が写っていた。花が好きそうな、柔らかな笑顔の女性だった。私は一瞬、自分と似ていると思った。いや、自分ではなく、姉に似ている。みさ姉にそっくりだ。でも、姉ではない。その女性は、私の知らない人だった。
そして、紙にはこう書かれていた。
『武田家御当主へのご報告書
宛名:武田航一郎様 御中
件名:生前の身元調査結果について』
私はその続きを読んで、硬直した。そこには、私の生い立ちが書かれていた。『は瀬はか(現姓:武田)は、は瀬不二子の実子ではなく、18年前に養子縁組された子である』私は何度も読み直した。養子。私が、養子?母の実の子じゃない?嘘だ。だって、私にはずっと母がいた。厳しいけれど、母が。姉がいた。私より3つ上で、美人で、姉がいた。でも、そういえば、私は小さい頃の記憶があまりない。物心着いた時から家にいたけれど、赤ちゃんの頃のことは何も覚えていない。普通の人なら、幼い頃の記憶は断片的にでもあるものだ。でも、私には何もない。窓の外の景色も、抱っこされた感覚も、何も思い出せない。まるで、私の人生がどこかから始まっているみたいに。
私はその書類を読み続けた。そこには、私の実母についても書かれていた。『実母:日向正子(故人)。旧姓:武田』武田。私の旧姓だ。航一郎さんと同じ名字。私はその名前をもう一度、ゆっくりと目で追った。日向正子。私はこの名前を知らない。でも、妙に懐かしい気がした。
そして、次のページには、こうあった。『実母は航一郎様の実姉にあたる。したがって、は瀬はか(現姓:武田)は、航一郎様の実の姪にあたる』私はその文が理解できなかった。姪?航一郎さんの姪?つまり、私と航一郎さんは、血の繋がった親戚だということ?今、結婚したばかりの私の夫は、私の叔父だということ?
私はその場に立ちすくんだ。気づけば、指先が震えていた。涙は出なかった。代わりに、胃のあたりが冷たく重くなっていく感じがした。そして、そこにはもう一行、最後にこう書かれていた。『以上のことから、本婚姻は近親婚に該当するものであり、法的手続きの確認が必須となる』私は、その紙を握りつぶしたくなるような衝動に駆られた。でも、できなかった。だって、これは事実なのだ。私が誰かと結婚したところで、この事実は消えない。
私は何も知らされていなかった。航一郎さんは知っていたのか?それとも、この書類を彼がしまったから、ここにあったのだろう。私はその引き出しを開けた時、彼が何かを必死に隠そうとしていたのを思い出した。そういえば、さっき彼は「大切な書類があるから、そこだけは触らないでくれ」と言っていた。私は言いつけを破って、引き出しを開けてしまった。だから、見てしまった。
私はその書類を元に戻した。そして、自分を落ち着かせるために、キッチンへ向かってコップ一杯の水を飲んだ。でも、水は喉を通過していくだけで、何も変わらなかった。私は鏡を見た。そこには、知っている顔がある。でも、その顔が一体誰なのか、分からなくなっていた。
夜になり、航一郎さんが家に帰ってきた。私はどうしても普通を装わなければならなかった。料理を作って、食卓に出した。でも、手は震えていた。
「どうかした?何かあった?」
「いえ、何でも。ちょっと疲れてるみたい」
彼はそれ以上は何も言わなかった。私はホッとした。でも、その時、ふと思った。もし彼が知っていたら、何で結婚を許したんだろう。もし知らなかったら、この事実を伝えなければならない。どちらにしても、絶望的な選択肢しかない。
私は夜、眠れなかった。隣で眠る夫の顔を見ながら、私は考えていた。この人が私の叔父であり、私の夫である。この事実をどう飲み込めばいいのだろう。朝が来て、私は彼に何も言わなかった。言えるはずがなかった。しばらくは様子を見よう。もし彼が知っているなら、いずれ何かしらの行動を起こすだろう。知らないなら、このまま隠し通すことは絶対にできない。でも、今すぐには言えない。私はただ、自分の中にこの秘密を抱えながら、日常を続けることにした。
それから数日後。彼が仕事から帰ってくる前に、私は彼の部屋の本棚を見ていた。何気なく、古いアルバムを見つけた。開くと、そこには幼い頃の航一郎さんが写っていた。そして、その隣には、あの写真の女性がいた。日向正子。彼の姉。私の実母。
「お前は誰だ」
アルバムのページは、彼女の笑顔で埋め尽くされていた。ピアノを弾いている姿、学校の卒業式の姿、成人式の姿。私はこれが私の母だと知って、何だか泣きたくなった。18年間、私は実母を知らずに育った。施設にいたことも、養子になったことも、何も覚えていない。でも、この笑顔の女性が、私の母なのだ。
その時、玄関の鍵が開く音がした。彼が帰ってきたのだ。私は急いでアルバムを閉じて、本棚に戻した。
「おかえりなさい」
「ただいま。何をしていたんだ?」
「本を読んでました」
彼は何も気づかずに、リビングへ歩いていった。私は後ろから、彼の背中を見つめた。この背中に、私は何度助けられただろう。でも、今は、この背中が誰のものか分からない。
リビングで食事をしながら、私は勇気を振り絞って言おうとした。
「あの…話があるんですけど」
「ん?何だ?」
「実は…」
「明日にしてくれないか。今日は疲れているんだ」
私はその言葉に、また何も言えなくなった。翌日も、その翌日も、私は言い出せなかった。そんな日々が続く中、私はある人物に連絡を取ることにした。執事の山田さんだ。彼は、私が何か知っていることに気づいているようだった。「奥様。お話がありましたらいつでも、山田まで」そう言われたのは、結婚式の時だった。
私は彼に会った。そして、あの書類のことを尋ねた。
「山田さん。私の実母について、何かご存じですか」
山田さんは、一瞬の間をおいて、静かに頷いた。
「存じております。武田家の事情を、よく知る者として」
「教えてください。どうして私が、この家に養子に出されたのか」
山田さんは、深く息を吐いた。それから、淡々と話し始めた。
「日向正子さまは、航一郎様の実の姉でいらっしゃいました。18年前、ある男性との間に、一人の子を授かりました。しかし、その男性は、正子さまとは結婚できませんでした。正子さまは未婚のまま、出産されました。武田家の当主であらせられたお父様は、それを恥とお考えになったのです。そして、その子を武田家の養子として迎えるのではなく、他家に養子に出すことを決められました」
「それが、私…」
「はい。は瀬家は、武田家の遠縁に当たる家でございました。当時、は瀬家には実子がおりませんでしたので、お受け取りいただいたのです。それが、あなたでございます」
「では、航一郎さんは、このことを知っているのですか?」
「…はい。当時、航一郎様は10歳でいらっしゃいましたので、ご存じです。いや、それ以上に、航一郎様は正子さまをとても慕っておられました。正子さまが亡くなられた後も、その面影を追い続けておられたのです。だからこそ、あなたを知った時、あなたが正子さまの娘だとすぐに分かったのです。だから…」
「だから、私と結婚した?」
「いいえ。航一郎様は、あなたを守るために結婚なさったのです。実の姪を一人の女性として愛するという形を取ることで、武田家の記憶を守るために」
私は、言葉を失った。つまり、彼は私のことを愛していたのではなく、私が母の娘だから、守るために結婚した。そういうことなのだ。私は何かの代わりをさせられていたのだ。母の代わりに。私はその場に崩れ落ちそうになった。
「山田さん。私は、何かの代わりですか?」
「…奥様は、誰の代わりでもございません。航一郎様は、あなたという存在自体を大切にしておられます。ですが、その根底にあるものが、姉への思慕であることは、否定できません」
「だったら、私は…私は一体、何のためにここにいるのですか?」
「あなたは、あなたの人生のためにここにおられます。先代が隠した真実を、あなたが知ることで、あなた自身がどう生きるかを選ぶことができます」
私は何も答えられなかった。ただ、目の前が真っ暗になって、その場に蹲った。



