銀行が金を貸す義務なんて、どこにもない。今すぐ全額返せ。若い女がちまちま特許事務所をやって、どうするつもりだ。1000万借りて笑えるわ。お前みたいな無名の事務所とは、来週から一切取引しない。
お願いです。明日の朝までだけ、待っていただけませんか。何でもしますから。
ゆは穏やかな声でそう言った。顔色は変わらなかった。
北大工のオフィス街に、1等の古いビルが建っている。その3階に、小さな看板を掲げた事務所があった。朝倉国際特許事務所。
中に立っていたのは、朝倉ゆ。24歳。弁理士として独立して2年になる。
彼女の前に座っていたのは、後期銀行北大店の新店長、同島順一。44歳。先月着任したばかりだった。
同島は、ゆの実力を完全に侮っていた。
聞いているのか?返済期限は来週だ。それまでに用意しろよ。
ゆは静かにうなずいた。
わかりました。弁護士に相談の上、ご連絡いたします。
その声は穏やかで、まったく揺れていなかった。
しかし、同島は知らなかった。この瞬間から、自分の運命が決まっていたことを。
翌朝、この銀行に何が起きるのか。この時、誰も知らなかった。
全ATMに赤い文字が浮かぶ。
その光景を見る前に、少しでも気になれば、チャンネル登録といいねをお願いします。
北大工のオフィス街に、朝倉国際特許事務所が設立されたのは、今から2年前だった。
間口の狭い雑居ビルの3階。エレベーターのない、古いビルだった。
しかし、そのオフィスの壁には、70万件以上の特許証が、賞状と並んで飾られていた。
そのほとんどが、国際特許だった。
国際特許を70万件以上保有する弁理士が、なぜこんな古いビルにいるのか。
それを知る者は、北大工のオフィスにはほとんどいなかった。
特許とは、発明を守る鎧だ。
祖父にそう教わった。
朝倉ゆは、いつも祖父の言葉を繰り返していた。
祖父、朝倉鉄造。昭和から令和を生きた、伝説の特許弁理士だった。
数百件の特許を手がけ、日本の製造業を影で支え続けた人物だ。
いい特許は、何十年経っても価値を持ち続ける。
それが口癖だった。
ゆが物心ついた頃、鉄造はいつも分厚い書類の前に座っていた。
難しい書類に、細かい文字が並んでいた。
幼いゆが覗き込むと、鉄造はメガネ越しに笑って言った。
ゆう、特許を見てごらん。これが発明者を守る、唯一の武器だ。
幼いゆには、その言葉の意味が分からなかった。
しかし、意味は理解できなくても、その言葉は深く心に刻まれた。
鉄造は毎朝6時に起き、夜は10時まで書類と向き合っていた。
週末も事務所に出かけ、発明者たちと話し込んだ。
ゆが「なんでそんなに働くの?」と聞くと、鉄造は決まってこう答えた。
発明した人が、損をしないために働くんだよ。
その姿を、ゆは毎日見て育った。
そして、ゆが7歳の時。
学校で実施された知能検査の結果が、担任の教師を驚かせた。
検査官が2度測り直したという測定ミスではないかと、上の期間に確認を求めるほどの数値だった。
しかし、結果は変わらなかった。
朝倉ゆは、IQ195だった。
ゆは中学を飛び級し、16歳で高校を卒業した。
大学は、2年で全単位を取り切り、3年時から大学院に進んだ。
大学院では、知的財産法と情報工学を専攻した。
22歳の春、ゆは弁理士試験に合格した。
その年の最年少合格記録だった。
記録を塗り替えた瞬間、ゆは祖父の言葉を思い出した。
特許は、発明者を守る鎧だ。
ゆは独立を決意した。
周囲は反対した。
「若すぎる」「経験が足りない」「いきなり独立は無謀だ」
しかし、ゆは迷わなかった。
そして、北大工のオフィス街に、小さな事務所を構えた。
壁に、祖父から引き継いだ特許証を飾った。
70万件以上の国際特許。
それは、祖父が生涯をかけて築き上げた財産だった。
ゆは、その重みを背負って、日々仕事に向き合っていた。
発明者たちは、ゆを信頼した。
「朝倉先生なら、きちんと守ってくれる」
そう言って、小規模な発明家たちが次々と訪れた。
ゆは、どんな小さな発明でも、丁寧に向き合った。
拒絶理由通知が来れば、徹底的に反論した。
相手の企業が大手でも、決して引かなかった。
そして、ゆは一度も、特許を失わせたことがなかった。
そんなある日、1本の電話が鳴った。
「朝倉国際特許事務所です」
「こちら、後期銀行北大店です。融資の件で、ご相談があります」
ゆは、融資を受けていた。
事務所を設立した際、1000万円を借りていたのだ。
返済は順調だった。
しかし、先月、銀行に新しい店長が着任した。
同島順一。
融資の担当が変わり、突然、返済の繰り上げを請求してきたのだ。
ゆは、書類を整え、銀行へ向かった。
そこで、同島と対面した。
同島は、ゆを一瞥し、軽蔑の笑みを浮かべた。
「特許事務所なんて、儲かるわけないよな。どうせ廃業寸前なんだろう」
同島は、壁の特許証に目を向けたが、その意味を理解しなかった。
ゆは、静かに言った。
「当方の特許は、すべて国際特許です。クライアントの知的財産を、海外でも保護しています」
同島は、鼻で笑った。
「そんなもの、何の価値もない。俺の目には、ただの紙切れだ」
ゆは、何も言わなかった。
「返済期限は来週だ。それまでに、全額用意しろよ。無理なら、事務所の備品を売ってでも、工面しろ」
同島は、立ち上がった。
「若い女が、ちまちま特許事務所をやって、どうするつもりだ」
「こんな小さな事務所、明日つぶれても、誰も困らない」
ゆは、口元をわずかに動かした。
しかし、何も言わなかった。
ただ、静かに立ち上がり、一礼をして、部屋を出た。
その背中を、同島は嘲笑気味に見送った。
ゆは、銀行を出た後、スマートフォンを取り出した。
「もしもし。こちら、朝倉です」
「何件か、お願いしたい案件があります」
その声は、いつもと同じように、穏やかだった。
しかし、その目は、冷たく光っていた。
翌朝。
後期銀行北大店に、異変が起きた。
店の入口に、数十人の報道陣が集まっていた。
店内では、全ATMが停止し、画面に赤い文字が表示されていた。
「お取引を継続できません。詳細は、本店にお問い合わせください」
顧客たちは、ざわめき、混乱した。
同島は、店長室で、電話対応に追われていた。
「何が起きているんだ!」
「店長、本店からです。至急、報告を求められています」
同島は、受話器を取った。
「はい、北大店の同島です」
「同島君。お前の店で、何があったんだ」
本店の役員の声は、低く、重かった。
「は?何のことですか?」
「お前の店の融資先が、一斉に、債務不履行を通告してきたんだ」
「そんな……。なぜですか?」
「なぜだと?それは、お前が聞くことか」
同島は、画面を確認した。
融資先のリストが、画面に表示されていた。
そこには、数十件の企業名が並んでいた。
そのすべてが、「返済不能」を通告していた。
「こ、これ……」
同島の手が、震えていた。
「どうやら、お前の店の融資判断に、問題があったらしいな」
「本店としても、お前の責任を問わざるを得ない」
「し、しかし、私は……」
「明日、本店に来い。弁明の場を設ける」
電話は、一方的に切れた。
同島は、受話器を握ったまま、固まっていた。
その時、部下が部屋に入ってきた。
「店長、あの……」
「何だ!」
「昨日、お会いした朝倉さんから、伝言です」
同島は、部下の手にある封筒を見た。
封筒には、朝倉国際特許事務所の名前があった。
同島は、封筒を開けた。
中には、1枚の紙が入っていた。
そこには、こう書かれていた。
「ご融資、ありがとうございました。おかげさまで、事務所を守ることができました。なお、私の事務所が保有する特許の一部は、貴行の融資判断の妥当性を検証する目的で、監査法人に提出済みです。詳細は、そちらからご連絡ください」
同島の顔が、青ざめた。
特許の一部……。
融資判断の妥当性の検証……。
同島は、理解した。
この女、自分が審査した融資案件の、何かを握っているのか。
同島は、机に突っ伏した。
その時、自分の頭に浮かんだのは、昨日のゆの言葉だった。
「お願いです。明日の朝までだけ、待っていただけませんか」
あの女は、知っていたのだ。
昨日の時点で、自分が何を仕掛けるのかを。
下手を打てば、自分が潰される。
同島は、冷や汗の中、考えた。
このままでは、店長の座どころか、銀行に残ることすら危うい。
何とかしなければ。
しかし、何をすればいいのか、まったく見当がつかなかった。
同行が焦っている一方で、北大工の小さな事務所では、ゆが静かに湯を沸かしていた。
お茶を入れ、カップを手に取る。
壁には、祖父の特許証が、変わらず並んでいた。
ゆは、窓の外を見た。
北大工のオフィス街が、朝の光に包まれていた。
「じいちゃん。やったよ」
ゆは、つぶやいた。
その声は、穏やかで、優しかった。
そして、カップを口に運んだ。
そこに、焦りはなかった。
ただ、静かな決意があった。
翌日、同島は本店に呼び出された。
弁明の場には、役員たちが並んでいた。
同島は、昨日の出来事を説明した。
しかし、役員たちは、冷たい目を向けたままだった。
「同島君、お前の融資判断に、問題があったことは明らかだ」
「いくつかの案件で、担保評価が不当に高く設定されていた」
「さらに、融資先の業績を、正確に把握していなかった」
同島は、反論しようとした。
しかし、言葉が出てこなかった。
「店長の職を、解く」
その一言で、同島の銀行員としての人生は、終わった。
同島は、会議室を出た後、スマートフォンを見た。
そこには、1件のメッセージが届いていた。
「朝倉国際特許事務所」
同島は、開いた。
そこには、こう書かれていた。
「弁理士として、貴行の融資判断に関する書類を提出しました。ご不明な点があれば、いつでもご連絡ください。こちらは、法的に適正な範囲内で対応しています」
同島は、スマートフォンを握りつぶした。
「くそっ……」
その声は、誰にも届かなかった。
一方、ゆの事務所には、新しい依頼が次々と舞い込んでいた。
「朝倉先生、うちの特許を守ってほしい」
「海外で模倣品が出たので、対策を考えてほしい」
ゆは、静かに、でも確実に、仕事をこなしていった。
ある日、ゆの事務所に、1人の男性が訪ねてきた。
「こちら、朝倉国際特許事務所ですか」
男性は、スーツ姿で、落ち着いた印象だった。
「はい、朝倉です。ご用件は?」
「私は、日向商産の者です。ぜひ、先生にお願いしたい案件があります」
ゆは、相手の名刺を受け取り、目を丸くした。
日向商産。
日本を代表する総合商社だった。
「うちのグループが、新しい素材を開発しました。ぜひ、先生に国際特許の取得をお願いしたいのです」
ゆは、静かにうなずいた。
「承知しました。詳しいお話を、お聞かせください」
その日から、ゆの事務所は、さらに忙しくなった。
壁に飾られた特許証は、増え続けた。
祖父の教えは、今も生きていた。
特許は、発明者を守る鎧だ。
ゆは、今日も、その言葉を胸に、机に向かう。
北大工のオフィス街に、小さな看板が掛かる。
朝倉国際特許事務所。
そこに立つ1人の女性が、今日も、発明者たちを守っている。
彼女が何者なのか。
それを知る者は、少しずつ増えていた。
しかし、同島順一は、その意味を、二度と理解することはなかった。



