「今すぐここを出るのよ。」
いつも穏やかな母が、眉をひそめて何か思い詰めた顔をしている。でも、何の説明もなく帰ったら、義母と義姉に何を言われるかわからない。私はその場を動けなかった。
「よし子さん、娘の体調が悪いみたいだから、今日はお先に失礼するわ。」
私が何も言えないでいると、母は義母にそう伝え、私の腕を引いて強引に車へ乗せたのだ。
「何があったの?」
普段見せない母の様子に戸惑いながら、私は問いかけた。
「え、香奈子は見てないの?」「見てないって、何を?」
「よし子さんのスマホよ。」
一体、母は何を見たというのか。義母から受け取ったスマホの画面は暗くなっていて、私は何も見ていない。
「あの人たち、香奈子のことを泣き寝入りさせようとしているわ。」
その言葉に、私は驚いた。
「え、それ、本当なの?」「本当よ。よし子さんのスマホに証拠があったの。」
母はそう言うと、スマホを取り出して写真を見せてきた。そこには、義母と義姉のメッセージのやり取りが写っていた。
「何、これ……?」
あまりの衝撃に、私は言葉を失った。
私は香奈子、27歳。専業主婦をしながら、同い年の夫・啓介と二人暮らしをしている。啓介とは大学のサークルで知り合い、一緒に活動するうちに自然と意識するようになり、交際を始めた。彼はとても優しく、私の意見を尊重してくれる。一緒にいても穏やかな気持ちで過ごせるのが心地よくて、大学を卒業すると同時に私たちは結婚したのだ。
結婚生活はとても幸せだった。大学卒業後、商社に就職した啓介は仕事に励み、3年ほどで出世を果たした。それでも家庭を大切にしてくれる、まさに理想の夫だった。
ただ一つ、結婚当初からの悩みは義母と義姉のことだ。義母のよし子と義姉のたまみは、結婚の挨拶で実家を訪れた時から、私に冷たい視線を送ってきた。初対面の私を品定めでもするかのように見つめ、不適な笑みを浮かべる二人に、私は不安を抱いた。
それでも啓介の家族だと思い、余計な警戒心は持たないようにしようと最初は仲良くしようと頑張った。だが、結婚式が終わると義母と義姉の嫌がらせが始まったのだ。
結婚して初めての夏、私は実家へのお中元の代わりにと、義実家にもお中元を送った。すると、それが届いたと同時に義母から電話がかかってきた。
「お中元、届いたわ。白いお菓子を送ってくれたのよね。」
私は百貨店で選んだブランド牛肉を送ったのに、義母はそれを安い肉だと決めつけ、ペットの犬用だと言ったのだ。
「あの、皆さんで召し上がってもらおうと思ってたんですが……」「あら、そうなの。私たちは高級専門店のものしか食べないから、気づかなかったわ。」
義母は嫌味に笑いながら電話を切った。
その年の正月に啓介と一緒に義実家へ行った時には、親族に振る舞われた寿司が私の分だけ用意されていなかった。
「母さん、香奈子の食事だけ用意しないなんて、ひどいじゃないか。」
啓介が抗議してくれても、義母は顔色一つ変えない。
「あら、ごめんなさい。同じ数で頼んじゃったみたいね。」
その時だけでは終わらず、義母は雑用の全てを私に押し付けた。「嫁に来たんだから当然」と言われ、私は何も言えず、言われるままに作業をこなした。
数日の辛抱だ、そう思っていた。実際、義実家と私の家は車で2時間ほど離れており、当時は私も仕事をしていたため、普段顔を合わせることはない。私が少し我慢すれば、余計な諍いを避けられると考えていたのだ。
結婚して2年ほどは、年に2回ほどの我慢の日々だった。けれど、私が仕事を辞めて専業主婦になってから、状況は変わった。
週末になると、義母と義姉は何の連絡もなく私たちの家にやって来るようになったのだ。
「せっかく来たんだから、何か出しなさいよ。」
そう言って、勝手に上がり込んでソファに座る。私が淹れたお茶や用意したお菓子を、まるで店のものを確認するかのようにじろじろ見て、感想も言わずに食べる。そして帰り際にはいつも決まってこう言うのだ。
「啓介くん、あなた、こんな家で本当に幸せなの?」
その度に、私は胸が締め付けられる思いだった。啓介は「香奈子といれば幸せだよ」と言ってくれるけれど、義母たちは聞く耳を持たない。私の作った料理を「口に合わない」と残し、家事のやり方をあれこれ指摘する。掃除が行き届いていない、洗濯物の畳み方がなっていない、料理の味が薄い、濃い。
何をやっても否定される日々。私は自分の家なのに、居場所がないような気持ちで過ごしていた。
ある日、義母から電話がかかってきた。
「ねえ、香奈子さん。そろそろ子どもは考えないの? 啓介くんも30歳になるんだから、跡取りを考えないと。」
「いえ、まだ二人の時間を大切にしたいと思っていて……」
「あら、そう。まさか、作れないんじゃないの?」
その言葉に、私はカッとなった。でも、反論する勇気はなかった。ただ黙って電話を切るだけ。涙が止まらなかった。啓介は仕事で遅く、誰にも言えなかった。自分の夫にすら、義母に言われたことを話せなかった。話したら、啓介が困ると思ったからだ。
啓介はいつも私の味方だった。でも、啓介がいない間の義母たちの嫌がらせは、どんどんエスカレートしていった。台所の調味料を勝手に使い、私の私物を「これ、もらうわね」と言って持って帰ることもあった。ある日、母からもらったお気に入りのバッグがなくなっていることに気づいた。探しても見つからない。あの日、義姉が来ていたことを思い出した。
「たまみさん、私のバッグ、見てない?」
翌日、電話で聞いてみた。すると義姉は涼しい顔で言ったのだ。
「あら、あのバッグ? もう捨てたわよ。安物だったから。」
「捨てたって……、私のものなのに勝手に……」
「だって、家に置いておく価値もないでしょ。それに、香奈子さんって身の程知らずなところがあるから、ちゃんとしてあげないとね。」
私は何も言えなかった。ただ、涙がこぼれるのを止められなかった。啓介に言おうと思った。でも、義母たちとの関係がもっと悪くなったらどうしよう。そう思うと言い出せなかった。私はもっと我慢しなければいけないのだと思い込んでいた。
そして、あの日。三連休の初日、母が私たちの家に遊びに来てくれていた。久しぶりに会う母は、いつも通り穏やかで明るかった。午後になり、母が買い物に行こうと言うので、玄関まで見送りに出た。すると、ちょうど義母と義姉が車でやって来たところだった。
「あら、珍しい人が来てるのね。」
義母は嫌味ったらしく笑った。母は義母たちにお茶でもどうですかと聞いたが、義母は「用事があるから」と冷たく断った。そして、なぜか私のスマホを持っていくと言って、勝手に手に取ったのだ。「ちょっと貸して」と言うが早いか、義母はスマホをいじり始めた。私は慌てて取り戻そうとしたが、義母はかわして「あら、新しいスマホ? これ、私が使ってあげるわよ」と言い出した。さすがにそれはおかしいと思ったが、言い返せずにいた。すると、母が口を開いた。
「よし子さん、それ、返してください。」
穏やかだけど、どこか強い口調だった。義母は不満そうだったが、スマホを母に渡した。母はそれを受け取ると、何かを確認するように少し画面を操作して、そのまま私に返してくれた。
「ありがとう。さあ、行きましょう。」
母は何事もなかったかのように私を連れて買い物に行った。その日は、何もなかったかのように過ぎていった。そして今、家に帰ると母が突然、あんなことを言い出したのだ。何から何まで意味がわからない。私は母を見つめた。
「かナ子、あなた、よし子さんたちに何かされたって自覚ある?」
母は車を止めて、真剣な顔で私を見た。
「自覚って……」
「あの人たち、あなたに冷たくしてるでしょ。いや、それだけじゃない。」
母はスマホを取り出し、何かの画像を表示させた。そこには、義母と誰かのメッセージのやり取りが写っていた。
「これ、よし子さんのスマホよ。さっき、彼女があなたのスマホを取った時、私は逆によし子さんのスマホをこっそり撮影したの。」
私は息をのんだ。メッセージの相手は、義姉のたまみだった。
「あの姑息な小娘、いつまで居座るつもりかしらね。」
「ほんと、あんなのがうちの嫁だなんて恥ずかしいわ。早く追い出しましょ。」
「そのためには、啓介に言い含めないとね。離婚させれば、実家からもらえる財産だって分け前が増えるわ。」
「そうね。あの子、父の遺産のことも知らないみたいだし。」
「あら、そうなの? それは好都合ね。」
私はその場に立ち尽くした。体の震えが止まらなかった。私の夫、啓介。その家族が、こんなことを考えていたなんて。私がどれだけ我慢してきたか、どれだけ耐えてきたか。全部、無駄だったんだ。いや、それどころか最初から罠だったのだろう。
「かナ子、あなた、まだこの家にいたいの?」
母は優しく、でもはっきりと聞いた。私は涙をこらえて、強くうなずいた。いや、うなずきながらも、心の中では決めていた。
「……いえ、もう十分です。」
そう言って、私は母と一緒に家を出た。後ろで何か叫ぶ声が聞こえた気がしたが、振り返らなかった。母の車が走り出す。私は震える手でスマホを握りしめ、啓介にメッセージを送った。
「話があるの。帰ってきて。」



