「由花は来るなって言ったのよ。」
その瞬間、美咲の頭の中に怒りが湧き上がった。幼稚すぎる。あまりにも軽率すぎる。今日は四十九日の法要で、ここは花を送る場なのに、由花の頭の中には嫌がらせをすることしかないらしい。
斎場の前にも美咲の前にも料理が並ばない。他の席には丁寧に並んでいるのに、自分たちの席だけが空っぽだった。由花が勝手にキャンセルしたのだ。彼女は楽しそうに肩を揺らしている。まるでいたずらに成功した子供のように。
美咲は夫のミキを見る。彼も完全に呆気に取られた表情をしていた。
「帰ろう。」
美咲は頷いた。「そうね。」
もう法要自体は終わっている。由香にこうして馬鹿にされているのに、ここへ残っても花は喜ばない気がした。美咲は静かに立ち上がる。義母が慌てて止めようとする。
「待って、美咲さん。大丈夫です。また改めて花ちゃんに会いに行きますから。」
涙を滲ませた由花の意地悪な笑顔を置き去りにするように、その場を後にした。
美咲、34歳。平日は会社員として働きながら、家では家事もこなす、いわゆる兼業主婦だ。とはいえ、世間で言うほどきっちりとした生活を送れているかと聞かれると、正直少し自信がない。元々の性格がのんびりしているせいか、細かいことには結構無頓着だ。多少予定がずれても「まあ、なんとかなるよね」と思ってしまうし、失敗しても深く引きずることはない。よく言えば大らか、悪く言えば適当。自分でもそう思っている。
しかし、不思議と大きなトラブルには巻き込まれずにここまでやってこられた。困っても、なぜか周囲の誰かが手を差し伸べてくれることが多い。自分で言うのもなんだが、美咲はどうやら運がいいらしい。
職場は中規模の商品開発部だ。「こんなものが欲しかった」という声に答えるために、毎日悩みながらアイデアを絞り出している。市場調査のデータを集めたり、プレゼン資料を作ったり、そういう地道な作業をコツコツと続けるのは性に合っていた。同僚からは「一緒にいると落ち着く」とか「話しやすい」と言われることが多く、それが少しだけ誇らしい。人とぶつかることもほとんどない。相手の意見を聞いてから、自分の考えを口にすることが多いからだと思う。そのせいか、自分でも気づかないうちに的核心をつくことがあるようだ。後から「さっきの一言、結構鋭かったよね」とよく言われる。そんなつもりは全然ないのにと、内心で首をかしげることもしばしばだった。
家でも職場でも、美咲は特別な存在ではない。かと言って埋もれるわけでもなく、ただそこにいて、いつも通りに過ごしているだけ。それなりに穏やかで、悪くない日々を送っている。
夫の名前はミキ。大手企業の総務部で働いている、ごく普通の会社員だ。二人の付き合いはそれなりに長い。出会ったのは大学時代だった。学部は違うが同じ講義を取っていて、グループワークで一緒になったのだ。とはいえ、学生時代から恋人同士だったわけではない。課題に共に取り組んだり、学食で顔を合わせたりするうちに、なんとなく話すようになった友達程度の関係で、卒業後もたまに連絡を取るくらいだった。
関係が変わったきっかけは数年前。ミキから頻繁に食事へ誘われるようになった。鈍い美咲でも、さすがに察する。これは恋愛的な意味でアプローチされているのだと。最初は驚いた。学生時代の彼はどちらかと言うと控えめなタイプだったからだ。自分から積極的に距離を詰めてくる印象はなかったのに。
食事を重ねるうちに、美咲も彼の人柄に惹かれていった。誠実で、細やかな気遣いができる人。一緒にいて安心できる。交際を始めてから数年後、ミキからプロポーズされた。特別にロマンチックなシチュエーションではなかったが、その真摯な言葉に心を打たれた。
「ずっと一緒にいたいんだ。」
その言葉が、美咲の心に深く響いた。
結婚してから、義母との関係は良好だった。姑の花恵さんは、美咲を実の娘のように可愛がってくれた。花恵さんには娘が二人いるが、長女の由花は仕事が忙しく、なかなか実家に顔を出せないでいた。次女の花は、三年前に結婚して遠方に住んでいる。そんな中で、美咲は花恵さんの話し相手になり、買い物に付き添い、時には病院にも同行した。花恵さんはよく言っていた。
「美咲さんは、私の本当の娘みたいだよ。」
その言葉が、美咲には何よりもうれしかった。
しかし、由花は違った。美咲が花恵さんと親しくするほど、由花の態度は冷たくなっていった。最初は無視する程度だったが、次第に嫌味を言うようになる。
「あの人、何考えてるのかな。実の娘より姑に取り入ろうとして。」
美咲は聞こえないふりをした。でも、心の中では傷ついていた。自分はただ、花恵さんと良い関係を築きたいだけなのに。
ある日、花恵さんが倒れた。脳梗塞だった。幸い命は取り留めたが、左半身に麻痺が残った。退院後、花恵さんは自宅での療養を選んだ。美咲は仕事の合間を縫って、頻繁に花恵さんの家に通った。食事の世話をし、リハビリに付き添い、話し相手になった。ミキも仕事が忙しい中、休日には一緒に花恵さんの家を訪れた。
由花はほとんど姿を見せなかった。たまに来ても、すぐに帰ってしまう。それどころか、美咲の努力を無駄だと嘲笑うように言った。
「あんなに尽くしても、何ももらえないわよ。姑の遺産なんて、私たち実の娘にしか渡らないんだから。」
美咲は何も言い返さなかった。遺産なんて、どうでもよかった。ただ、花恵さんが少しでも元気になってほしい。それだけだった。
花恵さんの容体は、穏やかに推移していた。しかし、三ヶ月前、突然悪化した。再び脳梗塞を起こしたのだ。今度は重度で、意識が戻らないまま、一週間後に息を引き取った。
葬儀の準備は、大変だった。喪主はミキが務めたが、実際の段取りはほとんど美咲が取り仕切った。由花は口出しばかりして、手伝おうとしなかった。
「あの花屋、高すぎない? もう少し安いところにしたら?」
「香典の金額、こんなに多くしなくてもいいんじゃない?」
美咲は何度も由花の意見に振り回されたが、黙って従った。花恵さんのためだと思えば、耐えられた。
葬儀が終わり、四十九日の法要を迎えることになった。場所は、花恵さんが生前通っていたお寺に決めた。斎場の手配も、美咲が行った。由花はまた、文句を言った。
「なんであのお寺なの? もっと近くにいいところがあるでしょ。」
「花恵さんが、あのお寺が好きだったから。」
美咲の説明に、由花は鼻で笑った。「ふーん、そう。じゃあ、好きにすれば。」
法要当日、美咲とミキは早めに斎場へ向かった。由花は遅れて到着した。無表情で、何も言わずに席に着いた。
読経が始まり、焼香が行われた。美咲は花恵さんの遺影を見つめながら、手を合わせた。「花恵さん、安らかに眠ってください。今までありがとうございました。」
法要が終わり、斎場で会食が始まった。美咲は、由花がいたずらをしでかすとは思っていなかった。まさか、料理をキャンセルするとは。
由花は相変わらず、楽しそうに笑っている。美咲は、怒りを通り越して、悲しくなった。花恵さんが亡くなったばかりなのに、なぜこんなことができるのか。
美咲とミキは、静かに斎場を後にした。車の中では、しばらく言葉が出なかった。やがてミキが口を開いた。
「ごめん、美咲。俺の妹がこんなことをして。」
美咲は首を横に振った。「ミキのせいじゃないよ。」
「でも、由花のことは俺が何とかする。ちゃんと話をしよう。」
「うん。」
その夜、美咲は花恵さんの形見の品を整理していた。花恵さんが大切にしていた日記帳を見つけたのは、その時だった。表紙は、淡いピンク色で花柄が描かれている。やや黄ばんでいて、古いものだと分かった。美咲は何気なくページをめくった。最初のページには、若い頃の花恵さんの写真が貼ってあった。その隣に、丁寧な文字で何かが書かれている。
「今日、太郎さんと初めて会った。」
太郎とは、花恵さんの夫であり、ミキと由花の父親だ。すでに他界している。
美咲は、日記を読み進めた。花恵さんの日常が、鮮やかに綴られていた。子育ての喜びや苦労、夫との思い出、友人との交流。美咲は、花恵さんの人生そのものに触れたような気がした。
読み進めるうちに、ある記述が目に留まった。
「今日、由花が家を出て行った。仕事が忙しいからと言って。でも、本当の理由は違う。私には分かっている。由花は、私のことを嫌っている。この家が嫌いなんだ。」
美咲は、驚いた。由花は花恵さんを嫌っていたのか。なぜ? 花恵さんは、由花を決して邪険にしたことはなかったはずだ。
さらに読み進めると、衝撃の事実が明らかになった。
「由花は、私の実の娘ではないかもしれない。あの日、病院で赤ちゃんを取り違えられたかもしれない。太郎は、そんなはずはないと言うけれど、私はどうしても気になって仕方がない。」
美咲は、手に持っていた日記を落としそうになった。由花は、花恵さんの実の娘ではないかもしれない。だとしたら、由花が花恵さんを嫌っていたのも頷ける。自分はこの家の子供ではないと、無意識に感じていたのかもしれない。
美咲は、日記を最後まで読み終えた。そこには、由花の出生についての確証は書かれていなかった。ただ、花恵さんの長年の不安と疑念が綴られていた。
美咲は、深く息を吐いた。この日記のことをミキに話すべきだろうか。由花に知らせるべきだろうか。いや、今はまだ分からない。もっと確証が必要だ。
翌日、美咲は病院へ行き、花恵さんが出産した当時の記録を調べた。しかし、古い記録は残っていなかった。三十年近く前のことだ。カルテも、出生記録も、すでに破棄されていた。
美咲は、途方に暮れた。これ以上、調べようがない。しかし、花恵さんの日記に書かれていた疑念は、美咲の心の中で大きくなっていった。
そして、もう一つの記述が美咲の記憶に焼き付いていた。
「もし、由花が私の実の娘ではないのなら、遺産は花に譲りたい。花こそ、私の本当の娘なのだから。」
この記述は、花恵さんが亡くなる少し前に書かれたものだった。美咲は、花恵さんが遺産のことを考えていたことを知った。しかし、花恵さんは遺言を残さなかった。急すぎる死だったからだ。
誰が遺産を相続するのか。それは、法律で決められる。ミキと由花、そして花。三人が相続人となる。
しかし、もし由花が本当の娘ではないという証拠があれば、話は変わってくる。美咲は、その証拠を探し始めた。花恵さんの実家を訪れ、古い写真や書類を調べた。しかし、何も見つからなかった。
時は過ぎ、花恵さんの七回忌を迎えることになった。美咲は、その前に事実を知りたいと思っていた。しかし、確証は得られないままだ。
七回忌の日、美咲は再び由花に嫌がらせを受けた。今度は、花恵さんの位牌をわざと倒したのだ。美咲は、由花の行動に怒りを通り越して、呆れてしまった。
「由花さん、いい加減にしてください。」
美咲の言葉に、由花は冷笑した。「何よ、偽物の嫁が偉そうに。」
「偽物?」
「そうよ。あんたは、花恵さんの本当の娘じゃない。ただの他人よ。なのに、あたかも本当の娘みたいに振る舞って。」
美咲は、反論できなかった。由花の言葉は、辛辣だったが、一部事実だった。美咲は、花恵さんの義理の娘にすぎない。
「でも、花恵さんは私を認めてくれていました。」
「認めてた? あの人は、誰にでも優しかっただけよ。あんたに特別な感情なんてなかったわ。」
美咲は、悲しみで胸が締め付けられた。しかし、由花の言葉に屈するわけにはいかない。
「花恵さんが私をどう思っていたか、あなたに決められる権利はありません。」
美咲の言葉に、由花は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐにまた嘲笑を浮かべた。
「ふん、強がって。まあいいわ。どうせあんたに遺産は渡らないから。花恵さんの遺産は、全部私と花のものよ。」
由花は、そう言い残して立ち去った。美咲は、花恵さんの位牌を直し、静かに手を合わせた。
「花恵さん、私はあなたが認めてくれた娘です。それで十分です。」
美咲は、心の中で誓った。由花に負けない。花恵さんが大切にしていたものを、守り抜く。
そして、美咲はある決断をした。花恵さんの日記を、花に見せることにしたのだ。花もまた、花恵さんの娘だ。真実を知る権利がある。
美咲は、花に連絡を取った。花は、遠方に住んでいるため、電話での会話となった。
「もしもし、花さん? 美咲です。」
「ああ、美咲さん。どうしたの?」
「花恵さんの日記を見つけたの。花さんにも読んでほしいと思って。」
「お母さんの日記?」
「ええ。ちょっと、話しておきたいこともあるの。」
美咲は、由花の出生についての疑念を花に打ち明けた。花は、最初は信じられない様子だった。
「そんなことがあるの?」
「花恵さんの日記には、そう書かれていたの。」
「でも、確証はないんでしょ?」
「うん。でも、花恵さんは最後まで気にしていたみたい。」
花は、しばらく沈黙した。やがて、口を開いた。
「美咲さん、私は由花さんが実の姉でも、そうでなくても、関係ないと思う。お母さんは、由花さんを娘として育ててきた。それで十分じゃないかな。」
花の言葉に、美咲は救われた気がした。花は、深く考えずに、そう言えたのだ。それが美咲には、新鮮に感じられた。
「そうだね。花さんの言う通りだね。」
「うん。でも、美咲さんが気にかけてくれて、うれしいよ。お母さんも、喜んでると思う。」
花との電話を終え、美咲は花恵さんの日記を、再び手に取った。そして、あるページを見つめた。
そこには、こう書かれていた。
「美咲さんは、私にとって本当の娘だ。感謝している。」
美咲は、涙が溢れた。花恵さんが、美咲を本当の娘と思っていてくれた。それだけで、十分だった。
美咲は、日記を閉じ、そっと机の引き出しにしまった。花恵さんの記憶を、胸に刻みながら。
由花はその後も、美咲に嫌がらせを続けたが、美咲はもう動じなかった。花恵さんが与えてくれた愛情が、美咲を強くしていた。
そして、数年後。美咲は偶然にも、由花の出生の秘密を完全に解明する手がかりを見つけた。それは、花恵さんの遺品の中にあった、古い母子手帳だった。そこには、花恵さんの出産記録が詳しく記載されていた。そして、その記録と、由花の誕生日、さらに由花の出生地を照合すると、完全に矛盾があった。由花は、花恵さんの出産記録とは別の場所で生まれていたのだ。
美咲は、轟然とした。由花は、やはり花恵さんの実の娘ではなかった。しかし、美咲はこの事実を、誰にも知らせないことを選んだ。花恵さんは、由花を娘として育ててきた。その事実を覆すことは、花恵さんの人生を否定することになる。美咲には、そんなことはできなかった。
美咲は、母子手帳を、花恵さんの他の遺品と一緒に、そっと箱にしまった。この秘密は、自分だけが知っていればいい。そう心に決めた。
花恵さんが亡くなって五年。美咲は、今もミキと穏やかな日々を送っている。時々、花恵さんの思い出を語り合う。美咲は、花恵さんに出会えたことを、心から感謝している。
「花恵さん、私はあなたの娘でいられて、幸せでした。」
美咲は、そう心の中で呟きながら、今日も穏やかに暮らしている。由花の嫌がらせは、もう過去のことだ。美咲は、自分自身の人生を、自分の足で歩いていく。
そして、花恵さんの日記は、美咲の心の中で、永遠に生き続けるのだ。



