「パートのおばさんに、大事な取引先なんて任せられるわけないだろう」新部長の河は、大勢の前でそう言い放った。私はただ「わかりました」とだけ答えた。あの日、父の遺品の手帳を「落書き」と笑われても、私は何も言い返せなかった。でも、部長はまだ知らない。明日の朝、28億円の取引がこの手帳と共に消えることを。そして、日山会長が法城商事に現れた時、部長は自分が誰を見下したのかを思い知る。でも、本当の逆転は…

「パートのおばさんに、大事な取引先なんて任せられるわけないだろう」新部長の河は、大勢の前でそう言い放った。私はただ「わかりました」とだけ答えた。あの日、父の遺品の手帳を「落書き」と笑われても、私は何も言い返せなかった。でも、部長はまだ知らない。明日の朝、28億円の取引がこの手帳と共に消えることを。そして、日山会長が法城商事に現れた時、部長は自分が誰を見下したのかを思い知る。でも、本当の逆転は...

「パートのおばさんに、大事な取引先なんて任せられるわけないだろう」

河部長は大勢の前でそう言い放った。私はただ「わかりました」とだけ答えた。もう期待するだけ無駄だと分かっていたからだ。隣にいた専務の顔だけが、なぜか真っ赤になっていた。部長はまだ知らない。明日の朝、28億円の取引がこの手帳と共に消えることを。

私は法城商事で働く契約社員、宮下さや。ここに席を置いてもう12年になる。かつては誰よりも早く数字を残す営業だった。でも3年前、母の容態が急変して、正社員を続けることは難しくなった。自分から契約社員への転換を申し出た。給料は下がったが、後悔はしていない。

半年前、河が新部長として着任した。中途採用のエリートで、数字しか見ない人だった。着任早々、担当の割り振りを次々と変えていく。私が長年守ってきた日山物産との取引も、その対象になった。そして調礼の場で、あの言葉を浴びせられた。

周りの視線が一斉に私へ集まる。河は私が大事にしていた手帳を無造作に取り上げた。「こんな落書き、必要ないよな」父の遺品のこの手帳を、彼はそう呼んだ。私は何も言い返さず、ただ頭を下げた。「わかりました」声は震えなかった。だが机に戻ってから、指先の震えは止まらなかった。

同期だった同僚は誰も目を合わせようとしない。唯一、後輩の田中舞だけが悔しそうに私を見ていた。母は脳梗塞で倒れ、麻痺が残った。介護と仕事を両立できるのは契約社員しかない。それでも会社をやめようとは思わなかった。父がこの会社で長く営業していたからだ。

手帳には父の代からの取引先の記録が残っている。河部長がそれを取り上げた瞬間、体が冷たくなった。それでも表情は変えない。「大丈夫ですか?」昼休み、田中舞がそっと声をかけてきた。「平気だよ」そう答えたが、本当は平気ではなかった。この日から、静かな逆転の歯車が回り始める。

数日後、日山物産の担当は高橋竜太という若手社員に引き継がれた。入社4年目、口が達者で河部長のお気に入りだった。「僕のやり方の方が効率的にやりますよ」高橋は周りに聞こえるよう、わざと大きな声で言った。その言葉に誰も異を唱えなかった。

引き継ぎの資料は、手帳の写しすら渡されていない。私が持っていた情報は頭の中にしかなかったからだ。それでも、聞かれなければ答えないと決めていた。専務の東田だけがふと表情を曇らせる。「日山さんは担当者を軽く扱うことを嫌う方だぞ」東田がそう口にしかけると、河は笑って遮った。「今時そんな時代錯誤な話ないでしょう」

東田はそれ以上何も言わなかった。私はいつも通り資料整理の仕事に戻る。「本当に大丈夫なんですか?」昼休み、田中舞が心配そうに聞いてきた。「大丈夫。心配しないで」そう答える私の顔は、驚くほど穏やかだった。「宮下さん、何か知ってるんじゃないですか?」私は答えず、ただ微笑んだ。

高橋の意気込みとは裏腹に、取引の話は進まない。日山物産からの返答は、日を追うごとに遅くなっていく。河部長は苛立ちを隠せず、高橋を叱責するようになった。「なぜ返事がないんだ」「向こうの担当者が代わったばかりで、様子見なのかもしれません」高橋の言い訳は、河の耳には届かない。

2週間後、河部長が突然私の席にやってきた。「宮下さん、ちょっと相談があるんだが」数日前まで私を「パートのおばさん」と呼んだ口だった。私は手を止め、河の顔をまっすぐ見た。「私にできることがあるでしょうか?」静かにそう返すと、河は言葉に詰まる。田中舞が少し離れた席から様子を見ていた。その日から、フロアの空気は変わっていく。

「日山物産の件なんだが、君に復帰してもらえないか?」河は声を低くして言った。私は手帳を机の引き出しから取り出した。あの日、河が「落書き」と捨てたはずの父の手帳。私がこっそり拾い戻していたのだ。「この手帳には、日山会長との付き合い方が全部書いてあります」私は表紙をそっと撫でた。「父が15年かけて築いた信頼が、ここにあるんです」

河の顔色が変わった。「そんな古い付き合いが、今さら通用すると思っているのか?」私は手帳を開き、あるページを見せた。「日山会長は、担当者が変わるたびに必ず確認するそうです。前の担当者が新人に引き継ぐ際、一発で信用してもらえるかどうかをね」河は何も言えなかった。

翌朝、日山物産の日山会長が法城商事に現れると報せが入った。河は慌てて応接室に向かう。「私が対応します」私は立ち上がった。河は歯を食いしばったが、止められない。日山会長は、私が応接室に入った瞬間、立ち上がって微笑んだ。「宮下さん、お元気でしたか。お父さんから聞いていますよ」

会長との話は、驚くほどスムーズに進んだ。父が遺した手帳には、会長の好みや取引の際の留意点が細かく記されていた。私はその知識を活かし、新しい提案書をまとめた。河部長は応接室の外で、ただ待つことしかできなかった。契約書にサインが交わされた時、28億円の取引は私の手で成立した。

河部長は、その場で何も言えなかった。後日、彼は私の席に来て、こう言った。「宮下さん、これまでのことは…」私は手を挙げて遮った。「部長、私はただ仕事をしただけです。これからも契約社員として、精一杯やらせていただきます」河は何も言えず、その場を離れた。

私の契約社員としての立場は変わらない。でも、それでいい。私はこの会社で、父が築いた信頼を守り続ける。それが私の仕事だから。後日、田中舞が私に尋ねた。「宮下さん、河部長のこと、恨んでないんですか?」私は手帳を閉じて、微笑んだ。「恨む必要なんてないよ。私が守りたかったのは、取引先との縁だからね」

父の手帳は、今も私の机の引き出しに眠っている。ときどき開いて、父が書き残した言葉を読む。「信用は、一朝一夕には築けない。でも、一瞬で壊れることはある」私はその言葉を噛みしめながら、今日も席に着く。フロアで河部長の大きな声が響く日も、私は静かに仕事を続ける。

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